第12話


 時が経つのは早いもので、あの『悪夢』からもう六年の月日が流れていた。

 無事に産まれた子供は男の子で、今ではやんちゃ盛りの五歳児だ。父親がいない現実というものに、そろそろ周りからの視線を意識するかと思ってナナは不安だったが、通っている保育園ではシングルマザーも多いらしく、それ程心配する必要はなかった。

 一応形としては高卒となったナナだが、やはり子持ちの未成年と言う肩書がネックとなり、産後から今も変わらずパートを掛け持ちしてなんとか生活出来る、という状態だった。もちろん母もフォローしてくれているし、出産当初は反対していた祖父母も、可愛いひ孫の顔を見た途端に手のひらを返したように激アマとなっている。

 祖父母に息子である『総(ソウ)』を昼間のうちは見てもらい、その間ナナはパートで生活費を稼ぐ。それでも正直なところ日々の生活に手一杯で、とても貯蓄に回す余裕なんてものはなかった。

 そうは言っても、とにもかくにも働くしかない。

 昨夜、あまりに遅い時間まで家計簿と睨めっこし過ぎたせいで重い身体を引き摺って、ナナはいつものようにパート先へ向かおうとして――スーツ姿の男性に呼び止められた。

「星さん!」

「……? えっと……どちら様、ですか?」

 祖父母の家は東京とは名ばかりの田舎にあって、ご近所の人間はほとんど顔見知りだ。こんなスーツ姿が似合うイケメンなんて、この辺りにはいないと思うのだけれど……

――こんなイケメン……あれ? この顔、もしかして……

「……中島くん?」

「うん。やっと見つけた。迎えに来たよ。星さん」

 恐る恐る呟いた問い掛けに、目の前の男は――中島は大きく頷いた。そしてにっこりと笑みを浮かべて、ナナの手を取ろうとその手を伸ばして来た。

――まさか、そんな……どうして?

 彼は何も知らないはずだった。妊娠も、ナナの引っ越しすらも何もかも、知らないはずだったのだ。だってナナは、誰にも伝えていないのだから。腹の大きくなったナナの姿を見た人間もいないはずだった。

 それなのに……彼がどうして、こんなところに? それに、『やっと見つけた』って? どうして中島がナナを探す道理があるのだろうか?

「いったい……どうして?」

 絞り出すようにしてそう問うナナの手を掴んで、中島は安心したように目を細めてから「ここじゃなんだから……これから仕事かな? それなら仕事が終わってから少しだけ、お茶でもどうかな?」と、あの日にこびりついた悲痛な叫びとは違う、優しく甘い声でそう提案した。




 結局ナナはその日のパートを急遽休ませてもらい、彼の提案通り近くの喫茶店に入った。仕事帰りだと真っ直ぐ家に帰らないと祖父母と総が心配するからだ。

「探し出すのに何年も掛かってごめん。星さん、全然……誰にも何も教えずに引っ越してたから……地元の人でもないみたいだったから、正直……もう会えないかと何度も挫けそうになったよ」

 穏やかな音楽の流れる店内にて窓辺の席に案内されたナナと中島は、とりあえず飲み物だけを注文して、早速本題に入ることになる。そうしないと――目の前に座る彼が眩しく見えたからだ。なんだか向かい合って座る自分達の姿が、周りから不釣り合いに見えているような気がしてソワソワとしてしまう。

「探してたって……どういうこと?」

「星さんが突然学校に来なくなってから、僕へのイジメがピタリと止んだんだ。それからしばらくしてから、星さんが妊娠してるって噂がクラスに流れ出して……結局、確かめようにも星さんの家にはもう誰も住んでいなかったし、それ以上何もわからないから噂だけで終わってしまって、そのまま僕達は卒業する形になったんだけどね」

「そう……噂に、なってたんだ……」

「クラスメートのひとりが星さんが産婦人科に入ったのを見たって言ったんだけど、ヒーロが詰め寄って口止めしたんだ。あいつ……真面目な顔して『クラス内での“騒ぎ”は連帯責任になる可能性がある』とか言いやがった……星さんの家はリュウトくん達に住所を聞いて、僕も実は行ったんだよ」

「え? 私の家に?」

「うん。その時にはもうもぬけの殻だったけど。噂、じゃないとは思ってたし。僕にも責任があるから」

 そう言って机に手をついて、中島は深々と頭を下げてきた。モーニングの時間には少し遅めの時間ではあるが、それでもこの古くからある雰囲気の喫茶店の店内でそんなことをされたら、嫌でも目立ってしまう。

 周囲からの訝し気な視線に耐え兼ねて、ナナは慌てて小声で頭を上げるように伝えた。

「中島くん、もう良いから。私……もう、迷惑だなんて思ってないから」

「でも、そんな……僕が傷つけてしまって……」

「違う!!」

 頭は上げてくれたがそれでも言い淀む中島に、今度はナナが大声を上げてしまった。しんと静まり返った店内に、オルゴール調の音楽がやけに大きく響き渡った。あの日を――決意を固めたあの日を思い出す。

「えっと……本当に、今は無事に産まれてくれた総の……息子のおかげで、毎日が幸せで……」

「っ! 本当に……産んでくれていたんだ……」

 口に手を当てて目を丸くした中島の反応が予想外過ぎて、ナナは思わず彼の顔を凝視してしまう。普通なら『自分に勝手に子供を産みやがって』と罵ったり怒ったりするだろうに、目の前の中島の顔は寧ろ、そんなマイナスの感情とは真逆に見えて……

――っ! なんで笑顔なの?

 彼の顔にどんどん笑顔が溢れてくる。学生の頃には気付きもしなかったが、目の前に座る中島はとてもハンサムな顔立ちをしている。あの当時から目が悪いらしく眼鏡は手放していないようだが、なんとも彼らしい黒縁メガネすらも、その顔立ちの上ではまるでオシャレなアクセサリーに見えるのだから不思議だ。

「僕はあれから大学に進学して猛勉強したんだ。いつか必ず『愛しい妻と子供』を探し出して、二人に安心して生活して貰うためにね」

「……もしかして、それって……」

「うん。星さんのことだよ。今の僕はあの頃のイジメを受けていた僕とは違う。妻子を養えるだけの稼ぎがある。だから、安心して僕と結婚して欲しいんだ」

「そんな……」

 嬉しい、という言葉は感情の波に押されて声にならなかった。

 義務感、という空気は中島の言葉には感じられなかった。彼から伝わるのは、本心からのナナへの気持ちだけで。その想いが本物だというのは、皮肉にも『あの日』に悪魔から聞かされていたことである。

 声を詰まらせてしまったナナに、中島は優しく微笑む。そこにあるのは大人の余裕。あの日――泣いていた人間は、ここにはもういなかった。

「プロポーズはまた、正式にさせてもらうよ。近いうちにご家族に挨拶させて欲しい。これまで助けられなかったんだ。今からでも良かったら、挽回させて欲しい」

「そんなの……その気持ちだけで十分。私もきっと……あなたのことが好きになっていたんだから……」

 最初は歪んだ同族意識だったかもしれない。しかし生まれた息子が育つにつれて、どんどんその顔にはあの日刻まれた彼の面影が現れていたのだ。愛しい我が子を繋いでくれた相手だ。想いが溢れるのは当然だった。

 差し伸べられた手を漸く握って、ナナは涙を流しながら息子の父親へと微笑んだ。

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