1-5・遭遇

「タクシーこそ! タクシーこそは私がお会計を……」

「ついたみたいだ。降りようか」

「い、いえ! お会計を……」

「もう支払ったよ」

「えっ!? そ、そんなはずは……!」

 あれだけ明快に順序立てて事件を推理していた探偵とは思えない狼狽振り。会計はアプリ内で完結するため車内での支払いは実は必要ないということはしばらく黙っていよう。

 時刻は午後六時三十分。日は落ち、空の端から夜が街を覆い始める。

 現場となったアパートは横に長い長方形で、屋上が平らであることがわかる。高さは大体十二メートルほどだろうか。扉の数は目算して九つ。周囲には住宅郡や小さな公園が見受けられるが人通りはまちまちで、賑やかな場所ではない。

 河渡の話だと管理人はアパート一階の角に住んでいるのだったか。

「屋上に入れるかどうか、管理人さんに聞いてみよう」

「あ、あのっ! 私は会計のすべてを黒繰さんに任せるために呼んだわけでも、助手にしているわけでもなくてですねっ!」

「わかってるよ」

 半分怒ったような明崎さんを適当にあしらおうとすると、彼女は、俺の行く手に立ち塞がった。

「わかっていません! 私は……あなたに協力をお願いする立場なんです! 私が対価を支払ってもいいくらいなのに……!」

 どうやら本気で言っているらしい。俺は少しだけ困ったように笑うと、どう言いくるめるか考え始めた。

「明崎さん、これってボランティアだよね?」

「な、なにがですか!」

「探偵のことだよ。君は依頼人に依頼料の請求をしていないし、するつもりもない。それは今やっている探偵があくまでボランティアであることを意味していると思うんだ。仕事ではなく、ね。であれば俺の助手というのもボランティアだ。俺は君に金銭やその他見返りを要求していないし、するつもりもない。ということは……」

 明崎さんは、身構えた。このあと俺がどんな言葉で彼女を説得するのか、必死に推理しているのだろう。それに対する対抗策の用意もだ。もちろん、巧言令色で絡め取り足元を掬って見せてもよかった。しかし俺はそうしなかった。それは、彼女に俺の心を真に理解してもらうためだ。

「両者ともボランティアでやっている探偵と助手では立場の上下が決まらない。そうなると当然、年齢や性別なんかの社会的地位でもって立場の上下が決まるよね。俺は君より七つも年上の男です。学生の君と並んだときに俺がお金を出すのはごく当然……というか、むしろタクシー代ごときで君にお財布を出させていると、俺としてはあまり格好がつかないっていうか」

「!」

 予想だにしていなかった切り口なのだろう。明崎さんは、俺の言葉に咄嗟に反論できなかった。

 明崎さんの善意や好意は嬉しいが、ことこの場面に限っては必要ない。悪いがとどめを刺させてもらう。

 きっと、長い付き合いになるのだから。

「年下の女の子の前でスマートに会計するのって、俺にとっては普通の感覚だったんだけど、明崎さんは、嫌だったんだね。気付けなくてごめん。でも、これは俺が君に対して良い格好が見せたくてやっていることだから、大目に見てほしいんだ。……駄目かな?」

「う、ぐ……、…………」

 どうやら完封したらしいことを確信すると、俺は笑顔で「ありがとう」と言って先に進もうとした。が、明崎さんは「待ってください!」と食い下がる。

「黒繰さんのメンツの問題ということはわかりました! でも!」

 でも? ここで逆接の接続詞だ。俺は続く言葉を待つことにした。ワクワクする。さて、どんな反論をしてくるか。

「でも……やっぱり私だけ何もしないのは納得できません! せめてお礼の機会をください!」

 ふむ。お礼か。

 別にそんなもの必要ないのだが、ここまで食い下がるということはきっと腹案があるのだろう。俺は「なにをしてくれるの?」と聞いてみた。

「え、えっと……!」

 考えてなかったみたいだ。

 明崎さんは口を開けたり閉めたりしながら顔が赤くなるほど何か考えている様子だった。が、どうしてもなにをもってお礼とするのか浮かばないらしい。

「わ、私……その……こんなことがお礼になるのかはわかりませんが……!」

 うんうん。がんばれ~。

「お菓子が作れます!」

 明崎さんは、顔を真っ赤にしながら言った。

「自分で言うのもなんですがクッキーからケーキ、アイスまでなんでも作れます! 休日はいつも、お菓子、作ってます! 趣味です! 甘いものが苦手でなければ、ぜひ、い、いかがですか!」

「………………」

 あまりにも予想を斜めに裏切る展開に、俺は、しばらく言葉を発することができなかった。

 紅茶代やタクシー代のお礼に、趣味で作るお菓子。ご近所さんへのおすそわけか? っていうか、現物支給なんだ。いや違う、これは、自分にできる精一杯をお菓子という対価で支払おうというこの気概は、あれだ、小学生が国語の授業で習うあれ。

 ごんぎつねだ。

 ここらへんで俺は耐えきれなくなりその場にしゃがみこんで両腕で顔を覆った。まことに失敬ながら爆笑を禁じえない。発想があまりに面白い。面白すぎる。常に俺の想定を超えてくる探偵、明崎明。ヤバい。無理だ。笑ってしまう。いやもう笑っている。あまりにも愉快すぎる!

「く、黒繰さん!?」

 突然俺がしゃがみこんでしまったからだろう、明崎さんは、慌てて俺の周囲をうろうろし始めた。

「わ、笑ってます!? 笑ってるんですか!? そんなにおかしかったですか!?」

 もう『お菓子』と『おかしい』がかかっているだけで駄目だ。駄目。俺はもう駄目だ。声を押し殺して震えることしかできない。こんな方法で俺を無力化した人間は初めてだ。あまりに面白い、いや、おかしすぎる。

「お菓子がお礼じゃ駄目でしたか!? こ……紅茶も付けます!」

 そういう問題ではない。そういう問題ではないしこの場面で値上げ交渉などという燃料を投下しないでほしい。立ち上がれない。面白すぎる。駄目だ。どうにもできない。誰か助けて。

「あー……もしもし、いいかなお二人さん?」

 ここで、まさかまさかの第三者の声が響いた。

 俺はなんとかして顔を上げ、立ち上がり、咳払いしながらスーツの襟を正した。助かった。これ以上の追撃があればとどめを刺されていた。

 改めて、第三者である。くたびれた地味な色のスーツを着た、背の高い、体格のいい男だ。年齢は四十代前半から中盤といったところか。白髪交じりの黒髪を短く刈り上げた彼は、スーツの内ポケットから黒革の手帳を取り出しこちらに提示した。

「警察だ。あー……一応確認だが、援助交際の申し出……とかじゃない、ンだよな?」

 援助交際の申し出? 今のがか?

 俺は再び笑い出しそうになって勢いよくむせた。が、なんとか踏みとどまる。

 明崎さんもまた、警察官の言葉に驚いた様子で「ち、違います!」と否定を返した。

「そうか……いや、ならいいんだが、その……人ンの前で誤解を招きかねない会話を大声でするのは……どうかと、思うぞ」

 もっともだ。ぐうの音も出ない。これに関しては笑い出してしまったために明崎さんを止められなかった俺にも責任がある。

「今の会話のどこにも誤解なんてありません! 私は、ただ……!」

「いや、うん、嬢ちゃん、うん……そうか……そうだな……」

 警察官だという男は、明崎さんに今の会話のマズかったポイントを解説しようとして、すぐに諦めた。

 まあ、金銭以外の対価の要求について、女性側が顔を真っ赤にして言及を迷っていたというのが今回の誤解ポイントになるのだろう。つまり俺が言外に性的接触を求めているのかと警察官は思ったわけだ。たしかに一大事だ。話を聞きたくもなる。

 実際には、お菓子のおすそわけ提案だったわけだが。

 またも笑い出しそうになり、俺は咳払いした。そして警察官に向け釈明する。

「俺も別に、援助交際を求めていたわけではないですよ、念のため。そして明崎さん、そのお話、つまりお礼の品としてお菓子を対価にするという件については、それで君の気が済むなら喜んでいただくよ。……これで大丈夫かな?」

 二人に向け確認をとる。明崎さんは「わかりました!」と気合いの入った返事をし、警察官は「うん。まあ。うん。じゃあ、いいんじゃねえか……」とどこか釈然としないながらも了承した。

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