その探偵助手、黒幕につき

１-２・依頼人とストーカー

　日曜午後三時。スーツにネクタイ、黒の鞄を携えて指定された喫茶店を尋ねると明崎さんと依頼人はすでに注文した飲み物に口をつけていた。

　ジャズの流れる静かな店だ。木のテーブルに赤いソファ、オレンジに照らされる観葉植物。席は、四人掛けのボックス席とカウンター席の二種類が存在する。明崎さんはこの店を気に入っているらしく、よく待ち合わせに指定した。

　二人が座っているのは窓際のボックス席だった。明崎さんはいつものホット・ミルクティーに砂糖を２つ入れたものを、対面に座る依頼人の女性――明崎さんと同年代であることから大学の友人繋がりとかそんなところだろう――はアイス・カフェオレを飲んでいた。紅茶がまだかすかに湯気を立てていることからそこまで待っていたわけではなさそうだ。

　俺は微笑みながら「待たせてごめんね」と軽く手を挙げ明崎さんの隣に歩み寄った。今日の明崎さんは白のタートルネックにブラウンニットのカーディガンという出で立ちだった。ワインレッドのロングスカートが眼鏡の色とよく合っている。足元は……座っているためよく見えないがショートブーツだろうか？　アクセサリーの類いは付けていないように見える。もしかしてあまり普段使いするタイプではないのかもしれない。もちろん装飾品などなくともそのままの彼女で十分なのだが、イヤリングや指輪といった貴金属類を贈りたいときには注意が必要だろう。

　明崎さんは席に置いていた小さな白いショルダーバッグを膝の上に移動させながら「この人がさっき説明した、私の補助をしてくれる黒繰さんです」と俺を紹介する。俺は席に座る前に依頼人に向け「黒繰（くろくる）朔夜（さくや）です。明崎さんの助手、のようなものだと思っていただければ」と会釈した。

「よ、よろしくお願いします……河渡（かわたり）蛍（ほたる）、です……」

　河渡と名乗った依頼人は、たどたどしく頭を下げた。暗い青のセーターに、ジーンズ。かたわらにはグレーのコートが畳まれている。気の弱そうな女性、というのが第一印象である。地味でぱっとしない。必要以上におどおど萎縮している。いかにも被害者気質といった風貌はテストに出れば模範解答だろう。

「何があったか、もう一度、今度は落ち着いて話せそうですか？」

　明崎さんが優しく声をかけると、河渡は視線を何度か彷徨わせ、俯いてぽつぽつ語り始めた。ロクに会話もしていないのに俺という存在そのものに怯えているようにも見える。が、話を聞いて納得した。彼女はここ数ヶ月ストーカー被害に遭っており、半分男性恐怖のような状態であるらしい。この前提条件を穏当に聞き出すためだけに俺は注文したコーヒーに口をつけながら殊勝げに大人しく頷いたり目を伏せ悲しそうにしたりしていたのだった。

「それで……相談したいっていうのが一週間くらい前のことなんです」

　ようやく本題である。

　もちろん俺は『ストーカー男が襲ってきたときの万が一の備え』として呼ばれたことをきちんと理解はしていたが、いくらか退屈を覚えていた。いや、わかっている。女性陣だけで推定男のストーカーを相手にするのはあまりに危険だし、不安だ。信頼できる男手が必要な状況であることにも共感できる。むしろ選ばれて光栄ですらあった。それでも初対面かつ興味の出ない、優先順位の低い人間の話を、相手に不安を感じさせないよう気遣って聞くというのは骨が折れた。会社の人間相手にミーティングをしていたほうがマシかもしれない。それでも俺が大人しくいられたのは、隣に明崎さんがいたからだ。

　彼女が望むなら俺は番犬にも盾にもなろう。

「朝、大学に行こうとしたら、アパートの屋上からコンクリートブロックが降ってきたんです」

　訂正、物理で盾にはなりたくない。暴力沙汰は苦手だ。

「すぐに管理人さんに警察を呼んでもらいました。近くにいた通行人の方も、私も、破片で軽い怪我をしました。でも、怪我で済んでよかった。だって、一歩間違えてたら死んでたんです！　私、殺されかけたんです！」

　語気を荒らげた河渡はここで一度言葉を切り、数度深呼吸した。それから最初に明崎さんに言われた通り、落ち着くよう気を付けながら続きを話し始める。

「……警察はすぐ、屋上に誰かいたんじゃないかって調べ始めました。屋上に通じる階段を上って、鍵の壊されていた扉を開けたそうです。……写真を見せられました。屋上の写真です。この光景に心当たりはあるか、って。もちろんそんなものありません！　気味が悪かった。でも……でも友達から明崎さんの噂を聞いて……親身になって相談に乗ってくれる、って。だから……警察の人が目を離した隙に、写真の写真を撮ったんです」

　そう言って、河渡はスマホをこちらにかざして見せた。

　灰色にくすむコンクリートの地面に読み取ることのできない奇怪な文字列と幾何学模様とが白いチョークで描かれていた。いくつもの円を重ねた中心には五芒星の意匠が読み取れる。そばには大量の溶けた蝋と串刺しになった虫の死骸。それから、人の侵入を拒むように落下防止用のフェンスを伝って白い紐のようなものが張り巡らされていた。

「……警察の人が言ってました。屋上がこんな状態だと、普通の人はまず入らないし、入ったらチョークを踏むから足跡が残るはずなんだ、って。でもそんな足跡はなかった……って……」

「……屋上のこの状態は、いつから？」

「警察の人と管理人さんは、たぶん、事件の昨晩に侵入と工作があったんじゃないか、って。でも……だから、つまり……事件の前日、屋上に魔法陣が描かれたあと、朝の事件直後、警察が踏み入るまでの間に誰かが屋上にいたことはありえないんです」

　俺は、しばし言葉を失い隣の明崎さんを見た。明崎さんは真剣な表情でスマホに映る写真の写真を見つめている。

「黒繰さんは、呪いとか魔法って信じますか？」

　その言葉にハッとして河渡へ視線を戻す。

　河渡は、どこか焦点の合っていない虚ろな目で言った。

「ストーカーの犯人、本当に人間なのかな……って。直接姿を見たことなんてもちろんなくて。でも、なんとなく男の人って気がしてて。でも、でも！　今回のこともストーカーの仕業だったとしたら、どうやって……って。だから、私、なにか、もっと恐ろしくて得体の知れないものに追い回されてるんじゃないか、って……」

　俺はかける言葉が見つからず、ただ「河渡さん……」と同情するように力なく項垂れた。

　そこに明崎さんの声が凛として響いた。

「いいえ、河渡さん。今回の事件、呪いとか魔法とかじゃないと思います」

「え……？」

　河渡が目を開く。その瞳を真っ直ぐ見つめながら、言い聞かせるように明崎さんは言った。

「気を悪くしたならごめんなさい。でも、私、オカルトってあんまり信じてなくて。むしろ、私はこの写真から悪意みたいなものを感じるんです。他者を積極的に害そうとする、人間特有の負の感情です。だから……うまく言えないんですけど、相手は河渡さんを困らせて喜ぶような卑劣な人間だと、思います。……そういった方向で調査しても、大丈夫ですか？」

　明崎さんの言葉に河渡はしばらく放心したように口を開けていた。が、やがてその両目からぽろぽろと涙を流し始めた。

「……じゃあ……犯人が人間なら……捕まえてもらえますか……？　その人が捕まれば……私……もうこんな怖い思いしなくていいんですか……？」

「もちろんです」

　明崎さんは断言した。そして、涙を拭う河渡に白いハンカチを手渡す。

「大丈夫です。私と黒繰さんで協力して、河渡さんが安心できる時間を取り戻します。そのために、努力します」

　河渡はハンカチを受け取りながら頷き、しばらく泣いていた。俺もまた、もらい泣きしそうになりながらその光景を眺めていた。

　なんて感動的なワンシーン、なんて鋭い着眼点。

　明崎さんの言う通り、この事件の犯人は人間だ。呪いとか魔法とかオカルトとか幽霊とか悪魔とか黒魔術とかそういう類いでは断じてない。

　なぜなら、このトリックを考え犯人に売ったのが俺だからだ。屋上の惨状を見てやっと思い出した。そして魔法なんて不確かなものを商品とするほど俺も耄碌していない。

　要するに方法があるのだ。屋上に立ち入ることなくアパートの屋上から河渡に向けコンクリートブロックを落とす、とっておきのトリックが。

　もちろん、俺の口から直接答えを言うようなことは避けなければならない。どころか、初回のようにヒントを与えることすら望ましくないだろう。

　なにせ俺は、この事件を解き明かす明崎さんの活躍こそを期待するのだから。