1-3・針と糸
河渡から当時の状況を聞けるだけ聞いたあと、一時的に解散のようなかたちとなった。解散のような、と形容したのは依頼人である河渡が自分の分の会計伝票とともに喫茶店を出たあとも明崎さんが席を動く様子がなかったから、そして俺もそんな明崎さんを置いてさっさと帰りたくなかったからである。
ここからは探偵と助手、二人きりの時間ということだ。
いつまでも隣に座っていては窮屈だろうと、明崎さんの向かいに席を移動する。ああ、これで思い悩む明崎さんの顔を正面から見ることができる。隣に座っているのもなかなか悪くなかったが、やはり、瞳を眺めるには正面に座らなくては。
俺が帰ることなく席を移動したのを受け、明崎さんが口を開いた。
「今回のこと、どう思います? さっきは『犯人は人間だ』なんて言いはしましたけど、でも、証拠はまだなくて」
明崎さんは河渡から受け取った屋上の画像データを見つめながら言った。画像データを映すのは手帳型ケース入りのスマートフォンだ。シンプルさと可愛らしさの同居するキャメルのケースには少々痛みが目立つ。今度、新しい手帳型ケースをサプライズでプレゼントしてみてもいいかもしれない。俺からのプレゼントを毎日手にする明崎さん……想像するだけで征服欲が掻き立てられる。気に入ってもらえるようなデザインのケース探しは急務だろう。いや、まずはスマホの型番を調べるところからか。
「……黒繰さん?」
返答がないことを不審に思ったのか、明崎さんがスマホから顔を上げた。ヤバい。ぼんやりしすぎた。いや頭は常にフル回転なのだが、いかんせん、たしかに返事は怠った。俺は右手を口元にやりながら「ああ、ごめんね、その……いや、でも」と何か言い淀むフリをした。
「気付いたことがあれば、なんでも言ってみてください。それとも、黒繰さんは今回の事件を人間の仕業じゃないと思ってる……とか?」
緊張を解すためだろう、明崎さんは軽く微笑みながら俺にいい感じのパスを出した。
「呪いとか魔法みたいなオカルトを信じたいわけじゃないんだけど……今回の事件は流石に説明ができないんじゃないか、って……。助手の俺が明崎さんの方針を否定するのもおこがましいんだけどね」
そう言い訳して弱々しく微笑み返せば、明崎さんは「大丈夫ですよ。ちょっと、状況を整理していきましょうか」と優しげに笑んだ。
「一週間ほど前――正確に言うなら今週月曜、朝八時頃。河渡さんが住んでいる三階建てアパートから出て大学に行こうとしたところ、その屋上からコンクリートブロックが落ちてきました。幸いにも死者はなく、破片で河渡さんと、近くにいた通行人の男性とが軽い怪我をしました。……この男性についてはあとで言及しますね。直後、アパートの管理人さんと、通報によって駆けつけた警察が屋上へ上がります。屋上への扉には普段は鍵がかけられていますが、このとき、鍵は壊されていました。扉を開け、中を確認すると……」
ここで明崎さんは一度言葉を切り、手元のスマホ画面を俺に向かって見せた。
「……屋上には、チョークで魔法陣が描かれていました。いたるところに、足の踏み場もないほどです。フェンスには白い紐が張り巡らされています。魔法陣のそばには蝋燭の溶け残りや、串刺しになった虫の死骸も落ちていました。その後の捜査で、このチョークで描かれた魔方陣の上には警察関係者と大家さん以外の足跡がないことがわかっています。おそらく、昨晩以前のうちに誰かが描いたものでしょう。警察の見解はわかりませんが、河渡さんは、単なるイタズラとは思っていない様子でしたね」
「そうだね。犯人が……つまりストーカーが河渡さんを呪うために描いたんじゃないか……そんな様子だったね」
「私も魔法陣を描いた犯人はストーカーだと思います。河渡さん自身、他には心当たりがないと言っていました。逆上したストーカーが被害者を殺そうとする……なんて動機も、ありえそうな感じがします」
納得はしたくないですけどね、と言って明崎さんは二杯目のミルクティーを注文した。状況の整理にはまだ時間がかかる、という判断だろう。俺もまた二杯目のコーヒーを注文すると、明崎さんのスマホを借り、改めて画像をじっくり見るフリをしてスマホの型番を確認した。
「……コンクリートブロックを落としてから、この魔方陣を描いて、屋上から逃げる……とか」
スマホを眺める時間を引き伸ばすための呟きに、明崎さんは「マッハで動けば、アリかもですね」と小さく苦笑した。
「あるいは、そういうことが可能なトリックがあれば説明できるのかも、ですね。まだ方法はわかりませんが……」
「トリック?」
型番を確認し終わった俺はスマホを彼女へ返しながら言った。
「はい。たとえば推理小説なんかで、被害者を部屋で殺害したあと、自殺に見せかけるため、あるいは自身の犯行ではないと誤魔化すために、しばしば密室という状況が設定されますよね。そういった特殊な状況を作り出すための仕掛けを俗に『トリック』と呼ぶんです。密室トリックで一番有名なのは、針と糸のトリックでしょうか。被害者を殺して部屋を出る際、糸を通した針を鍵のつまみに設置し、糸を引くことで部屋の外にいながら扉に鍵をかけるんです」
俺は「なるほど」と言って頷いた。もちろん既知のトリック、というか古典的すぎていまどき誰も使わないような実用性に欠ける例示ではあったが、初心者に説明することを思うとこのくらい簡単で広く知られるトリックのほうがいいだろう。一種の基礎というやつだ。
そして、実は今回の事件においても『針と糸のトリック』というのはなかなかに良いフックなのだが……知ってか知らずか、明崎さんは「今のはあくまでフィクションですけどね」と注釈した。
「でも、今回もなんらかのトリックを使えば、遠隔地からコンクリートブロックを落とすことができるかもしれません。それこそ、そうですね……糸を切る、とか」
「切る? さっきの例だと、糸を引いてたよね」
「そうですね。あれはあくまで鍵をかけることを目的とした場合の糸の使い方ですから。今回はブロックを落とすことが目的です。なので糸……というか、紐状のもので屋上の端にコンクリートブロックを吊るしておくんです。そうして屋上の扉の前で紐を切れば、屋上に踏み入ることなくブロックを落とせます」
俺は感心したように「じゃあ、やっぱり今回の事件はオカルトじゃなくて……!」と言った。それに対し明崎さんは「そうです。だから、犯人は人間だと思うんです」と念押しするように微笑み、運ばれてきたあたたかい紅茶に口をつけた。
感心したように、なんて持って回った言い方をしたが実際俺は感心していた。彼女の推理が合っていたからだ。的を射ている。今回は糸を用いたトリックだ。もちろん、まだ完璧とは言えないが……。
「もちろん、今の推理は完璧ではありません。第一に、落下したブロックに紐が結わえてあったら目立ちます。河渡さんが『紐がついていた』なんて説明をしなかったことから、ブロックは紐で吊られていたわけではなかったのでしょう。第二に、屋上の扉の前で糸を切ったとすると、トリックそのものとしての意味がわかりません。屋上に入ることなくブロックを落とせるとしても、屋上扉の前にいては落下点を目測できないからです。もし犯人の狙いが河渡さんの殺害であれば、致命的ですよね。……脅しにはなるかもしれませんが」
いい線だ。さらに言うなら、つまり第三の問題点があるとするならタイミング良く糸を切るためにはずっと屋上付近で待機しておかなければならない。これでは第三者に目撃される可能性があるし、最悪、屋上から降りる際に警察とバッティングする事故が起こりかねない。
「でも、糸を使ったトリックであることは間違いないと思うんです。ほら、これ。屋上には人の侵入を拒むように、白い紐のようなものがフェンスを使って張り巡らされています。これが黒魔術のための飾り付けではなく、本命の紐を欺くためのミスリードだとしたら……」
俺は思わず生唾を飲んだ。合っている。そのものずばり、この装飾はミスリードでありミスディレクションだ。まさかここまで彼女が進歩、いや上達しているとは思いもよらなかった。俺からのヒントなどなくとも、案外、彼女一人で探偵ができてしまうのかもしれない。なんと喜ばしいのだろう! もはや助言も誘導も必要ない。俺という助手はただ、彼女の隣で、特等席で、その鮮やかな推理を堪能するのみだ!
「すごいな……」
思わず呟けば、明崎さんと目が合った。彼女はテーブルの中心に置かれたスマホを至近距離で覗き込んでおり、そして俺がそんな明崎さんを同じくかなり近い距離で観察していたために、俺たちは喫茶店のテーブルを挟んで互いに顔を寄せ合っているかたちとなった。そんなに大きなテーブルではない。相手にだけ届けたい秘密の言葉を囁くほどの距離と言えた。
一瞬だけ静寂が訪れた。が、明崎さんは突然、勢いよく椅子の背もたれ方向へその身体を押し付けた。
「いえ! いいえ! ちょっと考えれば、わかること、なのかも……! そんなに大したことじゃないのかも! しれません! 全然すごくないです! 私なんかまだまだ未熟者で……!」
今の一言の、何が彼女の琴線に触れたのかはわからないがとにかくものすごい勢いで赤面し始める明崎さん。もしかして推理を褒められることに慣れていないのだろうか? ……まあ、そうか。推理を披露したとして、それを褒められる環境というのも逆に想像が難しい。今までの彼女はもしかして、明快な推理を口にした途端あまりの切れ味に友人から引かれるみたいな経験をしてきたのかもしれない。それは俺にも配慮が足りなかった。であれば、彼女のために一肌脱ごう。そう、君の推理はすごいんだよ、ということをもっと実感してもらうためには……。
ここはやはりストレートに、そして強めに褒めるべきだろう。
俺は、明崎さんの右手を取ってこちらに引き寄せた。
「そんなことないよ」
「はえっ!?」
声の裏返る明崎さんを無視するように俺は言葉を続ける。
「明崎さんの推理、すごいと思う。誰もがそこまで冷静に状況を分析できるわけじゃないよ。普通、こんな現場を見たら驚くし、怖いし、混乱すると思う。でも、君はそうじゃなかった。あくまでクールに、落ち着いて、犯人やトリックを探そうと努力してる。誰にでもできることじゃない。どうかもっと自信を持ってほしい。……君という探偵を、俺が、いつでも支えるから」
「く、く、く――黒繰、さん――……」
明崎さんは、俺が掴んで離さない右手からなんとか距離を取ろうと真っ赤な顔を背けながら蚊の鳴くような声で言った。
「近い……!」
「うん?」
「距離が……距離が、近いです……!」
「? うん、それが?」
「はな、は、はなれて……! 離れて……ください……!」
離れろ? 今、彼女は俺に離れろと言ったのか?
俺は、まず両手で捕まえていた明崎さんの右手を解放した。それから、前のめりになって半分浮かせていた腰を今一度席に落ち着けた。要するに座り直した。そして、所在なく両手を膝の上に置いた。
「……離れました」
「少し時間をください」
言うが早いが、明崎さんは席を立ち喫茶店のトイレへ逃げ込んだ。
「………………。え?」
もしかして、対応を間違えた? この俺が? 何か、重大な読み違いを……?
コーヒーに口をつけることもできずしばし茫然としていると、喫茶店の店員が――短く整えられた金髪にピアスの、二十代中盤と思しき若い男だ――小さく声をかけてきた。
「お兄さん、何の話かはよくわかんないけど、なかなかおアツいッスね。でも、そこまでショック受けなくていいってオレは思うんで。だって見てるこっちまでなんかちょっとハズかったですもん」
「? というと?」
店員の男はへらりと笑った。
「だって、告白かなんかだったんでしょ? そりゃ、彼女さんも時間欲しいって。オレだってそう思うんで」
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