4-10・探偵勝負-デザート-

 この発言に明崎さんはびっくりしたように寅絵を見て、次に俺を見た。のち、固まった。マズいと顔に書いてある。外島も同じような反応をした。が、外島の場合は両手を彷徨わせながら何か言おうと口を開け閉めしている。釘木野は、意外なことに動揺はなかった。ただ主人の隣に座って真剣な眼差しを俺に向けている。しかし、その表情は徐々に不安に曇っていくことになる。

 発言主である寅絵も最初こそ『言ってやった』の笑みを浮かべていたが、その口角は徐々に下がり、釘木野と同じく不安を眉間に寄せていく。

 というのも発言を受けた俺が――黒繰朔夜が寅絵の真意をまったく汲み取れず、場にいる全員に対してポカンとした間抜け面を晒していたからだ。

 誰も、何も言わなかった。全員が俺のリアクションを待っていることは理解していた。が、俺には場に相応しい語彙がひとつも浮かんでいないのだった。

 何言ってるんだ、この女。

「え……っと、その、寅絵さん。私と黒繰さんはお付き合いをしているわけではなくて」

 固い笑みを浮かべ、明崎さんが寅絵へ声をかけた。

「その……探偵と助手、です。それだけです」

 明崎さんの言葉で我に返り、咳払いして間抜け面を引っ込める。それから言った。

「そのとおり、俺はただの助手です。どういうつもりも何も、探偵と助手以外にありません」

 自信満々で宣言したにも関わらず、全員、俺を眺めながらより一層微妙な表情を浮かべた。間違ったことは言っていないはずだったが、場に満ちる空気はまるで『そうじゃない』と言いたげでもあった。

 なにか、決定的なズレが生じている気がする。なんだ?

「……失礼、朔夜さん。聞き方を変えるわ」

 なぜか寅絵が折れた。そして言った。

「アナタは、明ちゃんのこと好きなのかしら?」

「……」

 俺はもう一度、ポカンという間抜け面を全員に晒した。

 アナタは明ちゃんのこと好きなのかしら? 俺に聞いたのか? 俺、黒繰朔夜に対して明崎明が好きなのかと問うたのか?

 何度か瞬きをして、片手を顎に当てる。考えたこともなかった。俺は明崎さんのことが好きなのか?

「寅絵様!」

 外島が叫んだ。

「もう帰ったほうがよろしいかと! 差し出がましくてすみません! でも一度退席されたほうが――」

「どうして!? だって、アタシ、何か変なことを聞いたかしら? 実はみんなずっと気になっていたんじゃない? いい機会よ、この際ハッキリさせましょう? 朔夜さんは答えるつもりなんじゃない? 考えているようですけれど?」

「やめましょう! そうだ、明崎探偵! 帰るならこの外島がお送りしますよ! 釘木野さんも席を立って! なんなら朔夜様のことは放っておいてみんなでカラオケにでも行きましょう! 私、ハーレムを作ることにかけては誰にも負けない情熱が――」

「外島さんは黙っていてください! いま寅絵様が朔夜様に聞いている途中です!」

「そうよ! そうよ、釘木野。よく言ったわ。外島さん、朔夜さんの使用人なのに朔夜さんの意に反するようなことばかり言うのね? 信頼関係が築けているのかちょっと疑問なくらいよ?」

「……っ! わ、私は……っ!」

 ここで、唐突に明崎さんが席を立った。全員が発言を取りやめる。

 注目を浴びながら、明崎さんはショルダーバッグを肩にかけた。

「帰りましょう、寅絵さん」

「え……?」

「たぶん、今が最後のチャンスです。戦略的撤退です。黒繰さんのことは外島さんに任せましょう。今は、退きましょう。嫌な予感がします」

「か……帰りたいならお一人でどうぞ? アタシは朔夜さんの答えを待ちます。アナタだって、本当は朔夜さんの答えを聞きたいんじゃない?」

 明崎さんは一瞬だけ動きを止めた。が、やがて入口方向へ振り向いた。

「帰ります」

 いてもたってもいられなくなり、俺も席を立った。

「待って、明崎さん!」

 俺の声に明崎さんは再度動きを止めた。外島を避けながら、明崎さんのもとへ足早に歩み寄る。

 そうだ、どうして気付かなかったんだろう。。好きか嫌いか選べと言われたら嫌いには絶対に傾かない。濡鴉の黒髪を肩より長く伸ばした、赤縁眼鏡の女子大学生。白い肌、飾り気のない爪、薄く色づく唇。なにより――星を封じ込めたように輝くあの大きな瞳が好ましい!

「明崎さん! 俺、もしかして君のこと――」

 好きなんだと思う、と続けようとした。が、遮られた。ほかならぬ明崎さんによって。

 明崎さんは右手の人差し指を立てた状態で俺の唇に当てた。たったそれだけで、俺は言葉を封じられてしまう。

 目の前に立つ明崎さんは無表情だった。感情を押し殺した大きな瞳が下から俺を覗き込む。星の輝きなんてどこにもない。何を考えているのか、わからない。読み取れない。きっと意図的にそういう表情をしているのだ。引き結んだ口をそっと開くと、明崎さんは言った。

「黒繰さん。いま、あなたが掴んだ結論は間違っています」

「え?」

「あなたは安易な選択肢を提示され、それに飛び付いた。その選択肢は簡単で、わかりやすく、万人受けし、非常に甘い。しかしそれは根本的な解決策ではありません。言わば、誘惑に負けたんです」

 俺は目を瞬いた。

 いま俺が掴んだ結論が間違っている?

 じゃあ、俺は別に明崎さんを好きじゃない?

「もっとよく考えてください。いまこの瞬間、あなたは思考を止め誘惑に負けました。でも、それで終わっては駄目なんです。本当にそうなのか、もう一度ちゃんと考えてください。ちゃんと自分で見つけてください。黒繰さんの気持ちは、黒繰さんにしかわからないんです」

 彼女が何を言いたいのかわからない。

 視線が泳ぐ。明崎さんを直視できない。俺は、何か、間違えたのだろうか? でも、何を? 俺は間違いなく明崎さんを嫌いじゃないのに、好きでもないはずだと言われている。ほかでもない明崎さん本人に。どうして? どんな意図がある?

「黒繰さん」

 明崎さんは俺の唇から指を離すと、俺の両手を取った。あたたかい彼女の手が触れたことで、自分の指先が冷えていることに気が付いた。

「教えてください。いま、何を考えていますか?」

「……」

 口を開く。何も浮かばない。何を言われているのかわからない。俺がいま何を考えているか?

 それは、明崎さんにとってそんなに重要なのか?

「ご、ごめん……」

 明崎さんの手に軽く力が籠もる。

「ごめん……ごめんなさい……君が何を言いたいのか……わからない」

 明崎さんは一呼吸置いて、優しく言った。

「少しずつで、大丈夫ですから」

 俺の両手を握り、俺を見上げながら、明崎さんはそっと微笑む。

「それに、怒ってもいません。大丈夫ですよ。間違えないことは誰にもできません。間違えても、また、やり直せばいいんです」

 明崎さんの言いたいことはとうとう理解できなかった。それでも彼女の両手はあたたかかったし、手を握られていると、安心した。

 手を引かれるまま先程の位置に座り直す。その隣に腰を落ち着けた明崎さんは、今度は寅絵と正面から相対した。

「寅絵さん」

 静かな声だった。寅絵はハッとしたように目の前の明崎さんを見た。

「黒繰さんの気持ちは黒繰さんのものです。黒繰さんが私をどう思っていようと、それは黒繰さんの自由であるはずです」

「え、ええ、でも」

「お見合い相手の気持ちがどこを向いているのか探りたい気持ちには共感します。でも、今の発言は悪意をもった揺さぶりでした。あなたは私や黒繰さんを試した――挑発したんです」

 焦ったように寅絵が叫ぶ。

「そうよ! 何がいけないの! これはアタシと朔夜さんのお見合いなのよ! 駆け引きもできないで紅邑になんかいられないわ!」

 明崎さんはあくまで静かな声色のまま言う。

「寅絵さん。悪意は連鎖します。自分に向かってきたそれは、強い心で断ち切らなくてはいけません」

「アナタが何を言いたいのか、アタシにもよくわからないのだけど!」

「あなた誘惑に負けたんです。悪意の誘惑に負け、挑発という方法で黒繰さんの気を惹こうとした。あなたは黒繰さんを怒らせたかったんですか? 違うはずです。あなたは黒繰さんに好意を寄せられたい。なのに、やっていることはまるで逆です」

「……っ!」

 声を詰まらせる寅絵の様子をぼんやり眺めながら、俺はつい口を滑らせる。

「寅絵さんも大変ですね。俺と政略結婚してまで何をそんなに欲しがるんです?」

 しかし、ここで寅絵は意外な反応を見せた。

 まるで思いがけず信じられない言葉を聞いたように目を見開いて、ポカンと口を開けたのだ。

「……あの、朔夜さん。もしかしてアナタ、今回のお見合いは政略結婚が目的だと思ってるの?」

「違う……んですか?」

 俺もまた相応に驚いた表情を浮かべていたと思う。御三家が一角・紅邑が黒繰本家直系血族の俺と食事の席を設けようなどと、政略結婚以外の何が目的なのか――正直、まったく見当もつかないからだ。

 寅絵は放心したまま数度瞬きした。やがてその瞳は潤み、目のふちから一粒が零れ落ちた。

「……帰ります」

 寅絵は席を立った。釘木野が慌てた様子で主人に続く。と思っていると俺の隣の明崎さんまでもが「今日はこれで失礼します」と軽く一礼して席を立った。

 そうして、女性陣三人は退室した。

 帰っていった。

 ポカンとしている俺に向け、外島――否、白兎が言った。

「あのさ、朔夜。もしかして寅絵嬢とは今回が初対面じゃない……のか?」

 俺は「そうらしい」と答えると、机に肘をつき額を押さえた。

「いつなのか覚えてない。でも、寅絵は確かに『お久しぶりです』と言ったんだ。だから、たぶん、どこかで会ってるんだろ」

 白兎が苦々しく「恋愛結婚のつもりだったんだな」と呟いた。

「俺が使用人になってから、朔夜と寅絵嬢が同席するような予定は入ったことがない。これは保証する。今回のお見合いに合わせてお前の予定を調べ直したんだ。もし二度目ましてなら、その話題が出たときマズいからな。けど、もし本当に会ったことがあるならもっとずっと前だ。俺じゃなくて、俺の父さんがお前の使用人をやってた頃だ」

 俺は目を閉じる。考える。どのくらい前だ? 先代の外島が使用人をやってた頃?

 ふと記憶が蘇る。牛ヒレ肉の和風ステーキ・わさび醤油添え。以前、食べたことがある。いや、マナーを問われたことがある。いいや違う、あれは、たしか……。

 目を開ける。ようやく寅絵に思い当たる。

「食事会だ。十四のとき、屋敷に紅邑を招いてる。俺の目の前に同い年くらいの少女が座っていた。着物だった。こっちは洋装、向こうは和装、それで、コース料理も和洋折衷だった」

 徐々に思い出す。あの少女はいかにも自信がなさそうで、目の前に並ぶナイフ、フォーク、そして箸、どれを使えばいいのかまったくわかっていなかった。

 しかし大人たちに聞くこともできない。大人たちは社交の真っ最中。テーブルの端に座るだけの俺たちは、刺身でいうとツマだ。そのツマが社交の邪魔をすることなど許されない。言葉を発するだけでも烏滸おこがましい。しかし家の名に泥を塗ることも許されない。

「マナーを教えた」

 俺は目の前の少女に向け、小さく咳払いした。少女が俺に気付く。俺は自分の手元にある食器を指さし、それを取った。少し待ってから、正しいマナーで食事した。少女が同じように真似するのを見ていた。一品ずつ運ばれてくるたび、俺と少女はそれを繰り返した。見事にツマであり続けた。大人たちの手を煩わせなかった。

 しかし、牛ヒレ肉の和風ステーキ・わさび醤油添え。これが出てきたとき、少女は一度にすべての肉を切ろうとした。俺は慌てた。最初にすべて切り分けるのは、フレンチではマナー違反だったからだ。どうやって少女を止めるべきか、考えた。時間的猶予はほとんどない。席を立たず、声も発さず、音のしない方法が必要だった。

 手元の小さなデザートスプーンを床に落とした。音は毛足の長い絨毯に吸い込まれ、ほとんど気にならなかった。俺の行動に気付いた先代の外島がスプーンを拾い、新しいものを持ってくる。目の前の少女は驚いて手を止めていたが、大人たちはさして気にも留めていなかった。ただ一人、外島の動きを目敏く見ていた俺の母親を除いては。

 俺は少女にアイコンタクトしながら両の人差し指でバッテンを作った。そしてステーキを示す。その後、右人差し指を一本だけ立てた。一つだけ。声を出さずに口を動かす。失敗を悟った少女は一瞬だけ顔を真っ赤にしたが、すぐ、頭を振って切り替えるとこちらに向け頷いた。

 食事会はつつがなく終了した。迎えの車に乗り込む直前、少女は俺に視線を向けながら数瞬だけ動きを止めた。結局、一言も交わしていない。ツマは見栄えさえよければいいのだ。中身など誰も必要としない。

 それでも少女は俺を見つめていた。きっと別れの言葉が欲しかったのだろう。しかし俺は何も言わなかった。代わりに、少女に微笑み小さく手を振った。少女は顔を真っ赤にしたあと、同じく小さく手を振り返し、車に乗り込んだ。

「たぶん、あれが紅邑寅絵だったんだな」

 概要をかいつまんで説明すると、白兎は頭を抱えた。

「あのさあ……そのエピソードを聞いたあとだと、寅絵嬢の初恋相手が実は朔夜だったって言われても、驚かないんだけど……」

 あまりの気まずさに俺は沈黙した。

「で、初恋キラープロデューサー。会ったのはそのときだけ?」

「やめろ。お前の初恋相手を探し出して告白するぞ」

「ごめんなさい」

 とはいえ、俺が覚えていないだけでその後も寅絵と接触していておかしくないのか。

 再び目を閉じ、考えを巡らせる。初対面はおそらくこの食事会だ。だからこそ寅絵は今回のコース料理を和洋折衷に仕立てたのだ。しかしその食事会以降、紅邑が屋敷を訪ねたり、何かの場で同席する機会はあっただろうか? いや、ない。ありえない。だって十五の冬に――……

「あ」

 俺は目を開けた。そういえば、そうか。あの機会、俺は御三家どころか黒繰本家に関係するほとんどの出席者と顔を合わせている。

「何か思い出したか?」

 白兎が身を乗り出した。俺は「ああ」と返すと白兎から視線を外しながら立ち上がった。

黒繰くろくる月読つくよの葬儀で俺は受付係だった。紅邑寅絵とも社交辞令のお悔やみを交わしたよ」

 一瞬、白兎は息を呑んだ。

「帰るぞ」

 俺は鞄を掴んで座敷を出た。

 黒繰月読の葬儀は俺が十五のとき行われている。それ以降、しばらく黒繰の家の行事には出ていない。喪中というわけではなく、黒繰の家で俺の処遇が決まらなかったからだ。

 十五歳から高校を卒業するまでの三年ちょっと、俺は外島の家で過ごした。白兎と、先代の外島と、外島妻の住まう小さな家だ。この『小さな』という形容詞はこれまでの屋敷と比較した際の相対的なもので、一般的には外島の家は裕福だ。

 結論だけ言うと、俺は黒繰の家に戻ってきた。月読が手を回していたからだ。あの女は、黒繰の力が欲しかった。富が、名声が、繁栄が。だからその楔であり象徴であった俺から黒繰の名が剥奪されることのないよう生前に万全を尽くしていた。そうして今、俺は黒繰本家の人間として生きている。望むと望まざるとに関わらず。

 黒繰月読というのは、俺の血縁上の母親の名前だ。

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