4-11・反省会

 五月第四週、土曜日、昼一時。俺は明崎さんに呼び出されいつもの喫茶店に向かっていた。明崎さんからは最初、日曜日を提案されていた。二人で集合するのはいつも日曜日だからだ。しかし日曜の昼はタイミング悪く仕事の予定が入っていた。大して重要な予定ではない。リスケしてもよかったが、俺としては珍しく『その日は仕事があって行けそうにない』と伝えてみた。すると明崎さんは土曜ならどうかと聞いてきた。スケジュールを確認した。土曜の昼なら問題ない。が、夕方から夜にかけては駄目だ。伝えると、明崎さんは土曜の昼間一時間でも構わないから時間が欲しいと言ってきた。俺は応じた。

 喫茶店へ入ると、俺を迎えた店員は珍しく今朝方ではなかった。シフトの関係だろうか。名前も知らない今朝方の同僚に待ち合わせだと伝えると、いつもの席に案内される。

 今日の明崎さんはデコルテと袖部分に透け感のある爽やかな白のブラウスを着ていた。足元はレース素材の黒いロングスカートに、ワインレッドのローファーだ。髪の毛は珍しく高い位置に一つ結びにされており(少なくとも出会って以来初めて見るヘアアレンジだ)首元が涼しげだ。季節はもう初夏なのだ。

 そして明崎さんの隣、窓側席にもう一人。

 赤いインナーカラーの入った髪を肩口で切り揃えた釣り目の美人だ。今日も赤い着物を黒のコルセットで着付けている。が、袴は紺だ。お見合いのときより幾分か大人しい印象を受けた。袖口と襟には白のレースがあしらわれ、指先には紺のマニキュア。頭にはベレー帽に似た小さな髪飾りを付けている。

 紅邑寅絵。しかし今日の彼女はお見合いのときのような自信家ではなく、どちらかというと記憶の中のマナーがわからずうろたえる着物の少女の面影を残していた。

 無言のまま、明崎さんたちの向かいに座る。と、明崎さんが席を立ち、俺に奥へ詰めるよう手で合図した。指示されるまま窓側にズレると、空きスペースに明崎さんが座り直した。驚いていると、目が合った拍子に明崎さんがいたずらっぽく笑う。視線を外すように正面を向いて狙いに気付いた。今度は寅絵とバッチリ目が合っていた。

「今日は集まっていただきありがとうございます。僭越ながら、先日のお見合いの反省会をしたいと思います」

 注文した飲み物が届くと、明崎さんはそう宣言した。先日のお見合いの反省会。なにか反省すべき点があっただろうか? 特に、俺に。

 ……いや、まあ、あるが……。

 正面に座る寅絵が、意を決したように「ごめんなさい」と頭を下げた。

「言い過ぎたし、やりすぎたわ。アタシ、その……、アナタを怒らせたいわけでは、本当はなかったの。でも、結果的に言うと失敗だったわ。アナタたちを傷付けた。ごめんなさい」

 俺は気まずくて寅絵を直視できなかった。

「いえ……俺も、すみませんでした。その……思い出しました」

 この言葉に、寅絵ははっとしたように顔を上げた。

「十四のときの食事会ですね。当時十五歳だったあなたにマナーを教えました。忘れていました」

「……忘れてしまって当然のごく些細なことです」

「そしてあなたの予言したとおり、お見合いから帰るまでには思い出していました。お見事です」

 寅絵は、力が抜けたように少しだけ笑った。

「明ちゃんも、無理を言って来てもらってたのにごめんね。アタシ……本当はとても自信がなかったの。明ちゃんに負けてるんだって思ってた。探偵としても、女としても。だから……」

 言葉を切って、俯く。横目で様子を伺うと、明崎さんは寅絵を待つつもりのようだ。だから、俺も待った。俺は明崎さんの助手なのだ。邪魔をするなどとんでもない。

「本当のアタシは、虎の威を借る狐なの」

 今にも泣き出してしまいそうな、弱い声だった。

「でも、そうね、強く振舞ってきたわ。バレちゃいけなかったの。たぶん、朔夜さんならわかってくれるんじゃないかな。弱音を吐いちゃいけないのよ。アタシはアナタたちより強いんだって、ずっとアピールしなきゃいけないの」

 食うか食われるかなのだ。

 誇示し続けなければならない。己の実力を、身の丈を、プライドを。

 自分はお前たちより上なのだと。

 だからお見合いのとき、寅絵はあんなにも挑発的だったのだ。あの態度こそ、紅邑寅絵のいつもの装備。武器であり防具。心構え。弱みを見せることはすなわち敗北を意味する。

「でも……あんな態度でいるべきじゃなかったわ」

 寅絵は顔を上げると、いかにも気弱そうな笑顔を浮かべた。

「好きな人の前だったんだもの。本当にごめんなさい」

 ああ、俺、いまどんな顔してるんだろう。

 気まずい。知ったこっちゃない。帰りたい。待つんじゃなかった。聞きたくない。お見合いのときのほうがずっとマシだ。今の寅絵には覇気がない。やりにくい。そうじゃない。謝罪なんか、欲しくない。

 俺は違う。

 俺はこの女とは違う。

 俺はこの女みたいに弱くない。

「大丈夫ですよ」

 コーヒーを一口啜って切り替えると、外向きの笑顔を浮かべて寅絵に言った。

「あなたから謝罪されるようなことはなかったと認識しています。しかし、そこまで言うなら貸しを作ったと考えていてもいいですか? 俺としても、紅邑さんとの繋がりがあると今後動きやすい」

 寅絵はハッとした様子で身構えた。しかし表情にはまだ気弱さが残っている。チャンスだ。今のうちに言いくるめてしまおう。寅絵だけでなく紅邑側の弱みなんか握れると最高だ。それに、紅邑寅絵は探偵だ。ほかの御三家や黒繰本家について諜報させてもいい。本当に俺に好意があるなら、裏切らないよう管理もしやすい。

 あるいは、これ以上の接触は断固として拒否または拒絶されてしまうかもしれない。それならそれで構わない。もう寅絵の顔を見なくてもいいのだと思うと清々する。

 マナーを教えたから、なんだ。ちょっと優しくしたからなんだというのだ。勝手に美談にするな。あのときのことを俺は欠片も思い出したくなどなかった。

 寅絵を助けるため、俺は手元の小さなデザートスプーンを床に落とした。あれは、間違いだった。

 紅邑が帰ったあと、当時の俺はわざとスプーンを落としたことについて母親に酷く咎められた。なぜあんなことをした。紅邑の前でわざとヘマをして、何を考えている。あの娘の気でも惹きたかったのか。勝手な行動をとるな。私に恥をかかせて楽しいか――……。

 そう、あのとき俺は寅絵を助けるべきではなかったのだ。強い叱責を受けるほど母親の機嫌を損ねるとわかっていれば、あるいは十年以上も経過してから見合いを組まされるとわかっていれば、あのまま見捨てて、母親と一緒に寅絵の失敗を嗤っていればよかったのだ!

「待ってください、黒繰さん」

 隣に座る明崎さんが焦ったように俺を止める。

「私は、そんな話をしてもらうためにあなたと寅絵さんを呼び出したのではありません」

 彼女は今回の集まりを反省会と称した。どう考えても家の権力争いをさせるための集まりではない。

「……じゃあどんな話がしたいの?」

 俺は苛立ち混じりに言った。

「お見合いのときはお互いに悪いところがありましたね。ごめんなさい。でも、許し合いましょう。そういう仲良しごっこがしたいのかな?」

 明崎さんの返事を待たず続ける。

「君の優しさは美徳だけれど、現実的じゃない。前にも言ったが理想論だ。君の理想を真に受けると一体どうなるのか、奇しくも寅絵さんが実演してくれたよ。いいかい、『弱音を吐いちゃいけない』んだ。聞いてただろ?」

 明崎さんはキッと俺を睨みつけた。

「寅絵さんが弱音を吐いたのは、あなたを信頼しようとしたからです。あなたはそれを裏切り、あまつさえ利用しようとすらしている」

「何が悪いの?」

 俺も明崎さんを睨み返した。

「相手からの信頼を裏切って、利用しようとして何が悪いの?」

「やがてあなたも同じ目に遭います。誰も信頼できなくなる」

 明崎さんは真剣だった。鋭く研がれた瞳には赫々と正義の星が燃える。俺は冷めた眼差しで「君の言う通りだ」と一度その主張を認めた。

「だから、最初から誰も信頼しなければいい」

 明崎さんは目を見開いた。

「最初から誰も信頼しなければ裏切られることも利用されることもない。寅絵さんはそれに負けた。よりにもよって俺なんかを信頼しようとした。節穴もいいところだ。そそのかしたのは、君だ。これはチキンレースなんだ。誰も信頼しないまま誰かから信頼されるためにニコニコニコニコし続ける耐久レース。負けた奴から勝者に食い物にされていく。寅絵さんは負けた。俺は勝った。利用して何が悪いの?」

 言葉を続けるうち、明崎さんの瞳の燃えるような正義は徐々にかげった。いつもなら煌々と輝くはずの星は、逆境にさえ負けない貴さは、何重もの薄闇に覆われ、弱弱しく消えていく。

 堕ちる。

 やがて明崎さんは俯いた。俺から目を逸らした。膝の上に両手を握りしめ、身をこわばらせる。耐えるように、堪えるように。

 俺は明崎さんから視線を外すと、正面の寅絵を見た。

「なにか反論があればどうぞ」

 寅絵は答えなかった。ただ俯いて唇を噛んでいる。怯えているようにも見えた。当然の帰結だ。寅絵は俺に負けたのだから。

「あなたも運がない。俺以外の男を好きになればよかったのに」

 紅邑寅絵には華がある。美人で、家柄もよく、頭が切れる。なのに今回はよりにもよって俺なんかを好きになった。俺が相手でさえなければ、彼女はもっとうまく立ち回ったはずだ。手に入れたはずだ。好きな男を。俺でさえなければ。

「俺なんか、あなたが好きになるほどの価値もないのに」

 可哀想な紅邑寅絵。一度生じた敗北感は簡単には消えやしない。彼女はもう手のひらの上だ。踊らせるも、握り潰すも、すべては俺の気分次第。

「そんなの駄目です……」

 絞り出すように、明崎さんが小さく言った。その声は涙に濡れている。

「誰も信頼しないなんて、間違ってます……」

「だからなに? 改めろって言ってるの? これをやめると生きていけないのに?」

「私は……ただ」

 少しだけ待ってみたが、明崎さんが続きを言うことはなかった。

 腕時計を確認した。午後一時三十分。明崎さんは一時間でも構わないと言って俺を呼び出した。『一時間でも』とは比喩表現だ。十分な時間はすでに割いた。

「明崎さん、もう帰ったら? タクシーを呼ぼうか?」

「私はっ!」

 明崎さんが顔をあげた。眼鏡のレンズに涙が落ちてぐにゃぐにゃに歪んでいる。まともに見えていないに違いない。眼鏡の下は怒り?やら悲しみ?やらで真っ赤だった。酷い顔だ。思わずハンカチを取り出して差し出すが、明崎さんが受け取ることはなかった。

「私が言いたいのは……あなたが、間違っている……そんな」

「わかってる、でも」

「そんなことではありません!」

 一瞬、混乱した。明崎さんが言いたいのは、俺が間違っている、そんなことではありません? じゃあ、何が言いたい? 今の彼女に普段の明晰さは欠片もなく、ただ泣きじゃくる十九歳の少女でしかなかった。

「私は……っ」

 明崎さんは眼鏡を外し、目元を拭った。

「あなたに、信頼してもらっていると思ってました。でも、あなたは……誰のことも、そうじゃない。誰のことも信頼しない! 私は……っ、あなたを信頼して助手を任せているのに! なのに……あなたは」

 ようやく失敗を悟る。俺は寅絵からの信頼を裏切ると同時に、明崎さんからの信頼をも裏切ったのだ。

「待って、違うんだ明崎さん」

 咄嗟に言い訳が口を突いて出る。

「君だけ例外、君だけ特別、君のことだけは信頼してる」

「そういう問題ではありません!」

 錯乱しているのだろうか、まともに会話できそうにない。どうしていいかわからず、おろおろする。こんな明崎さんは今まで見たことがない。

「私は……」

 明崎さんは眼鏡をテーブルに置いて、両手で顔を覆った。

「黒繰さんの助けになりたいのに、全然、足りなくて、力不足で、私……」

 すすり泣く声には、どこか、悔しさが滲んでいるようにも思えた。

「……俺にどうしてほしいの?」

 落ち着かせようと、明崎さんの背中をさする。

「どうすれば泣き止んでくれる?」

 明崎さんは顔を上げる。泣き腫らした赤い目に星の輝きはない。大きな瞳は俺を睨みつけている――いや、俺の顔をハッキリ見ようと目を凝らしているだけかもしれない。明崎さんの視力がどの程度悪いのかは、調査不足で知らなかった。

「私の手をとって」

 明崎さんは俺に向け右手を差し出した。

「私の手をとって離さないで!」

「わかった、わかったから」

 俺は明崎さんの右手を両手でとった。体温の高い小さな手を祈るように握りしめる。彼女も俺の手を握り返す。明崎さんはさらに左手を添えると、拘束するように自分の胸元に引き寄せ、そのまま俯いた。

「あ、明崎さん……?」

 彼女は乱れる呼吸を整えようと懸命に努力していた。強い意志の力だ。錯乱なんかしていない。

 しばらくして明崎さんは眼鏡のないまま、焦点の合わない目で俺の顔を見た。

「……大丈夫?」

 おそるおそる聞いてみたが、明崎さんは答えない。

 そして唐突に言った。

「これからも私の助手でいてくれますか?」

「え?」

「これからも私のそばにいてくれますか?」

 驚いた。幻滅されたとばかり思っていた。まったく逆の内容――つまり、もう助手なんてやめてほしい――を切り出されると、思っていた。そんな事態に備え説得内容を考えている最中でもあった。しかし、そうはならなかった。

「もちろん」

 俺は、ロクに見えていないだろう大きな瞳を覗き込んだ。少しでも、俺が真剣なのだと伝えたかった。

「俺はいつでも、君の助手だよ」

 額が触れ合うほどの距離だった。が、以前のように明崎さんが注意することはなかった。ようやく彼女の瞳の焦点が俺に合う。彼女には、きっと俺が見えている。

 明崎さんはまだ目に涙の浮かぶ中、精一杯に微笑んだ。

「約束ですよ」

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