1-6・助手契約の再確認
「しかし、警察の方が偶然通りかかるとは」
俺の言葉に、警察官より先に明崎さんが言った。
「それなんですけど、今、アパートの中から出てきませんでした? ええと……」
「
警察官の士道は言葉を濁したが、そのちょっとした事件に思い当たった俺と明崎さんは互いに顔を見合わせた。
「えっと……実は私たち、その事件について調べていて」
「ん?」
「屋上からコンクリートブロックが落下して怪我人が出た事件について、ですよね? 私たち、その、被害に遭った河渡さんから依頼を受けて、探偵、のようなことを……つまり、調査をしていて……」
「探偵? 嬢ちゃんがか?」
士道は意外そうな顔で明崎さんを見た。たしかに、一見しただけではただの女子大学生だ。被害者の河渡と同年代であることから大学関係の友達ということまでは信じてもらえるだろうが、それ以上は、つまり探偵としての調査を手伝ってほしいという部分にまで要求が及べば拒絶されてしまうだろう。
「あー、駄目だ駄目だ! 探偵だかなンだか知らねえが、捜査状況は一般人にゃ話せねえンだ! 来たばっかりかもしれねえが、帰ンな! 今回は怪我人も出てる! 子どものお遊びじゃねえンだ!」
想像通り、士道はこれ以上の対話を拒否した。言い方は粗雑だったが、言い分は至極真っ当だ。俺は黙ったまま明崎さんの様子を伺った。
「いえ、士道さん。私は別に遊びに来たわけではありません。たしかに、今回は怪我人が出ています。でも、次は怪我じゃ済まないかもしれません。捜査状況が話せないのなら、無理に聞きません。ただ、現場を見たいんです」
「現場だァ?」
「アパートの屋上です。状況は聞いています。現場の保存はされていますか? 立ち入れるかどうか、今から管理人さんに聞きに行こうとしていたところだったんです。でも、警察の方が……士道さんがいるなら、今、ここで許可をください。現場を見て回る許可です」
理路整然とした明崎さんの様子に、士道は額に青筋を浮かべんばかりに顔を険しくして怒鳴った。
「駄目に決まってンだろ! とにかく帰れ! お前らが帰るまで俺も帰らねえからな!」
「お願いします。私、約束したんです」
「何言っても駄目なモンは駄目なンだ!」
怒鳴り散らす士道を真っ直ぐ見つめながら、声を荒らげることもなく、明崎さんは凛として言った。
「河渡さんが安心できる時間を取り戻すために調査をすること。そのためには努力を惜しまないという約束です。だから、ここまで来たうえで何もせず帰ることはありません。どうか、現場を見るだけでも。許可をください」
それから明崎さんは「お願いします」と言ってその頭を下げた。
「ぐ、う……」
どうやら喚いていても明崎さんが折れないらしいことがわかった士道は、バツが悪そうに声を詰まらせ、頭を掻いた。
「……さっきも言ったろ。怪我人が出てる。これは事件で、素人の嬢ちゃんが関わるには危ないンだ」
「被害者の河渡さんはもっと危ない目に遭っています。もっと、怖い目に遭っています」
明崎さんは頭を下げたままそう言った。
「……っ、わかった! わかったから! とりあえず顔を上げろ! あーやりづれえ!」
「許可、いただけますか?」
「見るだけな! 見るだけならな! 立ち入るのは駄目だ! わかったな!」
明崎さんは、ようやく顔を上げた。
「はい! ありがとうございます!」
そう言って、また下げた。
「あ~~~も~~~……」
仕事が増えた、といった表情の士道に俺もまた「ありがとうございます」と言って軽く頭を下げる。
「女子供は苦手なンだ。兄ちゃんが交渉相手だったら、折れねえ自信があったンだがな」
「俺は彼女の助手なので。……まあ、あなたをなんとかしてほしいと明崎さんからお願いされれば、やぶさかではないですけど」
「言ってろ」
士道はアパートの入り口に向け歩き出した。どうやら先導してくれるらしい。
「私は明崎です。
と、明崎さんが言った途端、士道は勢いよく俺に向け振り返った。
「黒繰!? 黒繰って、あの!?」
「? えっと……?」
士道につられて、明崎さんも俺を見る。
俺は小さく苦笑すると、恭しく一礼しながら言った。
「どうも、あの黒繰グループが末席を汚させていただいています、
「はァア!? 探偵助手ゥ!? アンタが!? 探偵じゃなくてか!? 助手!? この嬢ちゃんの!?」
「はい、助手です」
俺たちのやりとりを見ながら、明崎さんが「ど、どういう意味ですか?」と少々戸惑いながら聞いた。それに対し士道は
「ちょっ……と待て! 嬢ちゃん、知らずにこの兄ちゃんを助手にしてンのか!?」
と大声を上げた。半分、悲鳴に近い。
「黒繰グループだよ、黒繰グループ! 馬鹿みてえにデカい会社と金と権力握ってる面倒な連中だよ! ほら、駅前に
「隣の
「うわーーーッ! 本物だーーーッ!」
本物の悲鳴をあげる士道を無視して、俺は明崎さんの反応を伺った。今まで別に隠していたわけではなかったが、あえて言わなかったのも事実だ。それでもいつかは気付くだろうとも、思っていた。自分の出自や立場に対し、強いコンプレックス――たとえば誰に対しても絶対に知られたくないというような拒絶感――があるわけではない。しかし、今までフラットに接してくれていた明崎さんの対応も嫌ではなかった。もしそれが変化するなら……、…………。
どうしよう、全然考えていなかった。とりあえず様子を見よう。
俺からの視線を受け、明崎さんは狼狽しているようだった。士道の様子を見れば俺が黒繰とかいうなんか滅茶苦茶すごそうな企業グループの人間だということが嫌でも伝わってくるのだろう。あるいは「会計のすべてを任せてもいいのでは?」なんて思っていてもおかしくない。先程、彼女自身の言葉でそうではないと否定したものの、手のひらを返す可能性だってある。実際、喫茶店代やタクシー代などの細々とした会計のすべてを任されても、別に、俺の財布は痛まない。
そして誰かに財布扱いされたとしても、俺の心も別に、痛まなかった。少なくともこれまではそうだった。今回は――わからない。少なくとも俺を金ヅルだと思っているような連中は俺にとってはどうでもいい人間ばかりだった。でも、彼女はそうじゃない。
明崎明は俺にとって、どうでもいい人間ではもはやないのだ。
手のひらに汗が滲む。手のひらに汗? どうして? 緊張している? 俺が? 明崎さんではなく、この俺本人がということか? まさか、そんなはずない。彼女がここで手のひらを返すわけがない。そんなことをされたら俺は明崎さんを軽蔑してしまう。そんなの嫌だ。
俺という個人を見てほしい。黒繰の人間としてではなく、黒繰朔夜として、俺を君の、明崎さんのそばに置いていてほしい。
明崎さんは不安そうに俺を見上げている。何も言わない。早く、何か言ってほしい。俺を安心させるような言葉を、何か、……? 安心させるような?
俺は、今、不安なのか?
沈黙に耐えきれずなにか言おうとして、遮られた。
「あの! えっと……大丈夫、ですか?」
「……、何が?」
「だから、その……」
明崎さんは視線をうろうろさせたあと、若干頬を赤く染めながら言った。
「黒繰さんが私の助手をしてくれることの、対価。変わらずお菓子で大丈夫そう……ですか?」
俺は、何度か目を瞬いた。
「つ、つまり! 私が黒繰さんに助手をお願いしている立場に……なる、ので……その、お給料とかっていうかたちでは、難しいんですけど……」
この俺――黒繰朔夜が黒繰の人間だとわかってなお、彼女は対価として手作りのお菓子を提案した。そうとわかる以前と同じく、恥ずかしそうに。
「……確認なんだけど」
俺の言葉に明崎さんは「は、はい!」と少し改まって返事した。
「対価のお菓子って、たしか、紅茶もついてくるんだよね?」
彼女は一瞬キョトンとしてから、顔を真っ赤にして「そ……そうです!」と開き直るように宣言した。
「手作りのお菓子に紅茶もつけます! これが精一杯です!」
俺はようやく、強張っていた頬がゆるんでいくのを感じた。
「わかった。その条件で、これからも俺のこと助手として、君のそばに置いてほしい」
「こちらこそ、改めてよろしくお願いします!」
明崎さんは俺に向け頭を下げた。
俺が黒繰の人間でも、彼女はやっぱり、俺という個人を見てくれる。手のひらを返して対応を変えたりなんかしない。きっとこの事件が終わったら、助手のお礼にと手作りのお菓子を持ってきてくれるのだろう。紅茶付きで。
「よろしくお願いしますじゃねーよ、嬢ちゃん! やめとけやめとけ! 黒繰なんかロクなモンじゃねえぞ! 警察でさえ手に余る厄介な連中なんだ! 断るには絶好の機会だったと俺ァ思うね!」
蚊帳の外の羽虫がなんか言ってるな。
「で、でも士道さん、その、助手というのは私がお願いしている立場で……」
「黒繰の人間に対して『お願い』なんて絶ッ対やめたほうがいい! ロクな結果にならないね! 嬢ちゃん、まだ学生さんなンだろ!? 今のうちに縁を切っちまったほうが――」
俺は、士道と明崎さんの間に割って入ると真正面から士道を見た。
「うおッ!?」
たじろぐ士道。
「お……俺ァ権力には屈しねえぞ!」
「公権力側の人間からそのセリフを聞くのは久しぶりです」
「初めてじゃねえのかよ!」
「ちなみに、もう日が落ちてしまいましたが案内はどうなったんです?」
「あァ!?」
俺は話を本筋に戻すため、右手で頭上を指さした。
「屋上、立ち入らなければ見ても大丈夫なんでしたよね?」
「そ、それは……」
「おや、士道刑事には二言があると?」
そう言って不敵に笑ってみせれば、士道は不愉快そうに舌打ちしたあと「こっちだ、嬢ちゃん」とあくまで俺ではなく探偵である明崎さんを案内する姿勢をとった。
賢明な判断、大変結構だ。
少々寄り道が過ぎてしまったが、とにかく、俺は当初の目的通り明崎さんを現場にエスコートすることに成功したのだった。
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