第12話 毒入りホットケーキと檻の中の未来

お正月休みに凌は、鎌倉にある実家へ帰ると私に告げた。


実家には父親と義理の母、そして義弟が暮らしているとのことだった。


凌は自分の実家のことをあまり話したがらなかった。


妾の子として引き取られた凌が、実家でどんな扱いを受けていたのかは容易に想像できた。


きっと実家での凌はどこにも居場所がなく、淋しい思いをしていたに違いない。


だから凌が実家に帰ると聞いて、私は心配になった。


「大丈夫?凌、虐められたりしない?」


スポーツバックに着替えを詰め込む凌が私の方を振り向いて小さく笑った。


「伊織、俺、もう子供じゃないんだぜ?」


「でも・・・。」


「たまには顔見せないと、親父がうるさいんだよ。一応、実の父親だし、たまには親孝行しないとな。」


「凌の家族ってどんな人達なの?」


私はいままで聞けなかったことを、初めて口に出した。


凌はためらいもせずに、明るく答えた。


「うーん。父親は無口で何考えてるかよくわからない人。まあ仕事熱心であることは確かかな。義母は典型的な教育ママだな。学校のPTA会長になったりしてさ。愛情はくれなかったけど、教育の場は惜しみなく与えてくれたよ。俺の成績が下がると自分の体裁が悪かったんだろうな。高校の頃は家庭教師を付けてくれたっけ。」


「義弟さんは?」


「俺より2つ下で賢くて勉強がよく出来るヤツだよ。そして・・・俺を憎んでる。」


「・・・・・・。」


「そりゃそうだよな。俺はアイツの大切な母親を苦しめた女の息子だ。だからアイツは俺のものを何でも欲しがった。俺は惜しみなくアイツにくれてやったよ。大事にしていたプラモデルも好きな作家のサイン入り小説も、付き合っていた女も・・・。」


「凌・・・。」


「でももうそれも昔の話。今は互いに大人だし、普通に会話できるような関係になった。だからそんなに心配しないで。」


「うん。」


それでももの言いたげにする私の頭に、凌は軽く手を置いた。


「お土産、沢山買ってくるから。何がいい?鎌倉には美味しいお菓子が色々あるんだ。そうだ、鎌倉ビールも買ってくるよ。楽しみにしてて。」


「・・・うん。」


「そんな不安そうな顔しないで。鎌倉はいいところだよ。今度一緒に行こう。」


「うん。・・・気を付けてね。」


荷物を片手に持って玄関を出て行く凌に、私は手を振って見送った。


凌が私の知らない世界へ旅立っていく。


そのことが取り残された子供のように、少しだけ淋しかった。





私の実家は練馬区の端っこにある、都営住宅にあった。


高校を卒業すると、ママは二人きりで若い恋人と一緒に暮らす為に、私を家から追い出した。


高校まで育ててやったのだから、あとは自分でなんとかしなさい、というのがママの言い分だった。


私は家を出ると、住み込みで働ける寮付きの小さなクリーニング工場に就職した。


工場の仕事はとにかく暑くて、顔や体中が汗でベトベトになった。


立ちっぱなしの単調な作業は、思っていたよりかなりきつい仕事だったけれど、不満はなかった。


3食ご飯が食べられ、寝られる場所があるだけで有難かった。


工場で働くのはパートの中高年女性が多かった。


おしゃべりなおばさん達の中で、口数が少なく暗い私は浮いていた。


昼休憩はひとり音楽を聴きながら、黙々とお弁当を食べ、また仕事へ戻るという毎日が続いた。


そんな日々が半年過ぎた頃、東南アジアから出稼ぎに来たモニカという名の若い女の子が入ってきた。


歳が近い私達はすぐに仲良くなった。


家を出て初めて出来た友達だった。


モニカとは休みの日に街へ遊びに行ったり、夜たわいもないおしゃべりをして過ごした。


けれど彼女はしばらくすると家の事情で国へ帰ってしまい、私はまたひとりぼっちになってしまった。


ひとりでいることの多い私を付け入りやすいと思ったのか、ある男性社員がセクハラをしてくるようになった。


初めは卑猥な言葉を投げかけられ、次に身体を軽く触られるようになった。


セクハラは次第にエスカレートし、それは他のパートや社員にも知られるようになった。


けれど誰も私を助けようとはしてくれなかった。


我慢も限界の域を超え、私は転職しようと決心した。


求人情報誌で新しい仕事を探している時に、目に飛び込んできたのがリラクゼーションサロンのスタッフの求人だった。


元々は、人を癒せる仕事がしたいと思っていた。


その求人広告には「年齢・性別・経験不問!!高収入も目指せます!!」とあった。


未経験でも大丈夫なら、やってみたい・・・そう思った。


そのリラクゼーションサロンはオープニングスタッフを募っていた。


全てが新しいところでなら、私でも他のスタッフと打ち解けることが出来るかもしれない・・・とも思った。


私は求人広告に書かれているそのリラクゼーションサロン「リリー」へ電話をかけ、面接を受けると仮採用されることになった。


すぐに勤めていたクリーニング工場を辞め、働いている間に貯めたお金でアパートを借り、一人暮らしを始めた。


本採用されなければ、無職になってしまい生活が立ち行かなくなる。


私は背水の陣で必死に研修を受けてマッサージの施術を覚え、一か月が過ぎた頃、無事本採用された。





凌が実家に帰ってしまい、私も凌を見習って、実家に顔を出すことにした。


「こんにちは。」


ただいま、とは言いたくなかった。


もうここは私が帰る場所ではないのだから。


「ああ。伊織か。」


ママは出掛ける前だったらしく、鏡台の前で丁寧に口紅を塗っているところだった。


久しぶりに帰る実家の部屋はママが買った洋服やバッグ、健康器具などで溢れかえっていた。


部屋の中はママが吸う煙草の匂いが充満していて、私は思わず窓を開けて空気を入れ替えた。


私は冷蔵庫から麦茶を出すとコップに注ぎ、キッチンのテーブルでそれを飲み干した。


この家に来るといつも喉が渇き、水分を欲してしまう。


「ママ、相変わらずだね。」


「なに?馬鹿にしてんの?」


ママはそう言うと、薄ら笑いを浮かべた。


「丁度電話しようと思ってたの。ねえ伊織。もうそろそろここに戻って来ない?家の事するの面倒なのよ。」


「嫌だよ。ママの恋人がいるところで、一緒に暮らすなんて死んでも嫌。」


「それなら大丈夫よ。私、アイツとはもう切れたから。」


アイツとはママの何人目かの恋人で、ケイタというホスト崩れの若い男だった。


ママは最初の恋人と別れたあとも男をとっかえひっかえし、フラれたと言っては泣き喚き、新しい男が出来ると惚気た。


その話を電話越しで聞くのは、いつも私の役割だった。


「ママ、ちゃんと病院へ通ってる?」


ママは昔から精神のバランスを崩しやすく、気が向いた時だけメンタルクリニックへ行って、精神安定剤を処方してもらっていた。


本当は定期的に通わなければ症状は良くならないのだけれど、ママは調子が良くなると、さっぱりメンタルクリニックに行かなくなってしまうのだ。


「うるさい。アンタには関係ない。」


ママはぴしゃりと私の言葉を撥ねつけた。


そして今度は媚びる様に話し出した。


「ほら、深沢さんの所の息子、アンタの婚約者の貴士さんだって、あと1年もすれば日本に帰ってくるっていうしさ。」


ママはそう言って、メンソールに火を付け、口に咥えた。


「貴士さんと結婚すれば、今までみたいに生活の為にあくせく働かなくったってよくなるんだよ?嬉しいでしょ?良い嫁ぎ先をみつけてきたことを感謝して欲しいくらいだよ。」


「・・・ママは私の気持ちなんてどうだっていいんだよね。」


私はママを睨みつけた。


「だってアンタなんか、どうせ男の一人だって見つけられないでしょ?」


ママは馬鹿にするように私の顔を見て笑った。


「そんなことない!」


私は凌の優しい笑顔を思い出しながら、泣きそうな声で叫んだ。


「なに、アンタ好きな男でもいるの?」


「・・・・・・。」


「その男、金持ってんの?」


「・・・・・・。」


「やめときな。男なんてみんな同じだって。好きだ嫌いだなんてのは最初だけ。結局男の価値なんて金だよ。財力と生活力。貴士さんほどの金持ちの男が、アンタみたいな辛気臭い女を貰ってくれるって仰ってるんだよ?それの何が不満なの?出来ることなら私が代わってもらいたいくらいだわ。」


「私には恋をする自由もないの?」


「貴士さんが日本へ帰ってくるまでは何したって自由だけど、ちゃんと結婚はしてよね。そうしないと私はソープへ沈められちゃうんだから。アンタだって母親が風俗で働いてるなんて嫌でしょ?」


「・・・・・・。」


「相変わらず陰気な子だね。まあいいや。せっかく来たんだから、掃除と洗濯お願い。それじゃね。」


それだけ言うと、ママはグッチのバッグを抱えて、家を出て行った。


大方買い物か整形クリニックにでも行くのだろう。


私が凌と暮らしていることは、もちろんママには内緒だった。


でも引っ越ししたことは伝えなければならないから、架空の女友達とルームシェアすることにしたとメールを打っておいた。


ママが私の新しい住居を訪ねてくるなどという心配は必要なかった。


ママはたまに電話をかけてはくるけれど、ひとり暮らしを始めてからの2年の間、一回も私の元を訪ねて来ることはなかった。


ママが大事なのは、自分の若さや美貌を保つためのあれこれ、そして数年おきに変わる若い恋人の存在だけ。


そして自分の為に、娘の人生を、未来を売ったのだ。





ママは私が物心つく前に私の父親である男性と離婚した。


理由は知らない。


多分性格の不一致だとか、巷でよく聞くようなことが原因なのだろう。


その当時ママはまだ20代で、私にも優しかった。


ママは幼い私に丸くて茶色の焦げ目がついたホットケーキをよく作ってくれた。


ホットケーキの上には四角いバターがトロリと溶けていた。


甘くてフワフワなホットケーキは私の大好物で幸せの味だった。


けれど今は、ホットケーキは私にとって世界で一番嫌いな食べ物になった。


ママは私が小学生になると、外で仕事を始めた。


生命保険のセールスレディだ。


ママは営業成績を上げる為に、仕事を頑張った。


私は学校から帰ると、誰もいない家でひとり留守番をするようになった。


少し淋しかったけれど、ママは私にご飯を食べさせてくれるために働いているのだからと思って我慢した。


ひとりぼっちの部屋でウサギのぬいぐるみと一緒に絵本を読んだり、おままごとをして遊んだ。


そしてママは1年後にその支社で1番の成績をあげる、トップセールスレディになった。


その頃から、ママの化粧は濃くなり、身なりは派手になっていった。


ママは営業で沢山の会社へ出入りしているうちに、ある男性と関係を持つようになった。


その男性はお金持ちの既婚者で、ママにお金を貢いでいた。


ママはそのお金でブランド品を買い漁り、自分の顔を整形し始めた。


そして生命保険会社を辞め、水商売を始めた。


銀座のホステスから新宿、そして今は錦糸町の熟女専門キャバクラで働いている。


その既婚男性と別れたあとも、ママの浪費が止まることはなかった。


ママは自分の財力以上の散財を繰り返し、消費者金融に手を出し、借金は嵩むいっぽうだった。


その借金を肩代わりしたのが、深沢良一郎というママの知り合いの資産家だった。


深沢良一郎はママがセールスレディ時代の客で、一時期はママといい仲だったらしい。





私が家を出て1年後の夏のある午後、ママに連れられて、深沢良一郎の家へ行った。


広い庭がある、白い壁に赤い屋根の、大きな洋風邸宅だった。


蝉の声が鳴り響くその庭で私は深沢貴士と初めて出会った。


それは実質、深沢貴士と私のお見合いだった。


深沢貴士は陶器のような白い肌の端正な顔立ちをした男だった。


けれど、その目に光はなかった。


鼻筋が通っていて、その薄い唇は口紅を塗ったように赤かった。


深沢貴士は私の前に立ち、なんの感情も読み取れない声で言った。


「僕は深沢貴士という。」


「私は」


「ああ、名乗らなくてもいい。お前のことは大体調査済みだ。」


ねっとりと絡みつくようなその視線に、私は生理的な嫌悪感を催した。


「お前は可哀想な女だな。あんな自己中心的な母親を持って。」


「ママを悪く言わないで下さい。」


深沢貴士は乾いた笑い声を立てた。


「これから聞く事実を聞いても、まだそんなこと言えるかな。」


「・・・・・・。」


「僕の父親はお前の母親の多額の借金の肩代わりをしている。お前はその借金のカタとして母親に売られたんだよ。」


突然の事に、私の頭の中は真っ白になった。


「僕は奴隷のように従順な妻を探していた。お前はその条件にピッタリな女だ。お前は僕に金で買われるんだ。それを今後心しておけ。」


「・・・・・・。」


その時の私は逆らう気力も無く、ママの為にただその運命を受け入れざるを得なかった。


「いうことを聞いてさえいれば、生活に不自由はさせない。お前はただ僕の子を産み、家のことをやってくれればそれでいい。」


その蛇のような目に心底怯えながら、それでも私は一縷の希望をかけて聞いてみた。


愛されて選ばれたのなら、まだ納得がいくと思った。


「貴方は私を好きなのですか?」


深沢貴士はフッと冷笑した。


「ああ、好きだよ。お前のその綺麗な顔だけはね。きっと美しい遺伝子を残してくれるだろう。わかってはいるだろうが、結婚したからってお前を愛することなんて一生ないと思え。僕には懇意にしている女が何人もいる。ああ、心配するな。子供が産まれるまではお前もちゃんと可愛がってやる。」


「・・・・・っ。」


「そう。その顔だよ。絶望に打ちひしがれる女の顔を見るのが、僕はなによりも好きなんだ。この結婚はいわば僕のお遊びみたいなものだ。道具になった妻がどれだけ従順になるかを見届けるためのね。」


それだけ言うと、深沢貴士は私の前から立ち去った。


私はあの氷のような男のただの玩具として、一生を終えるのだろうか。


それとも身体と魂を散々汚され、打ちのめされたあとで、ゴミを捨てるがごとくお払い箱にされるのかもしれない。


あの男が海外から日本へ帰ってくるのは、今年の年末。


私の自由な時間は、凌と過ごす日々は、あと1年もないのだった。

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