第17話 砂糖菓子のように甘い夜

家に着くと私と凌は部屋着に着替え、キッチンのテーブルを挟み、向かい合って座った。


凌のただならぬ様子に、雰囲気を変えようと、私はつとめて明るい声をだした。


「ビールでも飲む?」


私が椅子から立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを出そうとすると、凌はそれを止めた。


「いまはアルコール抜きで話がしたい。」


「じゃあお茶にする?」


「ああ。」


私は冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出すと、二人分のコップに注いだ。


コップを凌の前に置き、自分の分のコップを持って、私は再び椅子に座った。


凌はコップに口をつけ、一口だけお茶を飲むと、静かに話し始めた。


「俺、就職したじゃん。伊織にはちゃんと言ってなかったけど・・・それって親父の会社なんだ。俺の親父は不動産を手広く扱ってる影山エステートっていう会社を経営している。地元では名前を知らない人はいないくらいにはデカい会社。」


「え?じゃあ凌は、影山エステートの・・・・・・御曹司?」


私は初めて聞く凌の身の上話に驚愕していた。


「元々、親父は自分の会社に俺を入れたがっていたんだけど、俺は妾の子だろ?義弟と後継者争いをする羽目になったら面倒だし、やりたいこともあったから親父の意向を無視して東京へ出て来たんだ。」


「やりたいことって脚本を書くってことだよね?」


「うん。まあね。」


凌は軽く頷くと、頬を指で掻いた。


「でも、俺にはそんなに脚本の才能がないってわかったし、やりたいこともやり切った。だから親父の会社に入社した。最初は修行ということで都内の小さな支社でお茶くみから始まり、次に営業の仕事を任されるようになった。取引先との夜の接待も進んでやった。」


だから凌の帰りが遅くなったんだ・・・。


私は凌の生活スタイルの変化の理由をこのとき初めて知った。


そして、これから何を話されるんだろうという不安な気持ちを隠したまま、凌の話に耳を傾けた。


「俺には案外、この仕事が向いていたみたいでさ、たった3ヶ月で親父が望んだ営業成績を軽くクリアすることが出来た。義弟は学校の成績は良かったけど、仕事の才能はさっぱりらしい。だから親父は俺を次期社長候補として育てたいと言ってくれた。」


「・・・・・・。」


「結論から言うと、親父は俺に出世払いで1000万をポンと出してくれたよ。」


「・・・凌?」


「その金で、伊織を自由にした。」


「自由に・・・した?」


「伊織の母親が金を借りていた深沢良一郎にはもう話をつけてある。元値に色をつけると言ったら深沢は、喜んでこちらの要求を受け入れたよ。伊織の婚約者だという深沢貴士という男にも、ハニートラップを仕掛けて弱みを握った。もう伊織に手を出せないように手を講じてある。伊織、もう君は自由なんだ。」


何が起こっているのか、わからなかった。


凌の言っている言葉が、まるでおとぎ話のように聞こえた。


「私・・・もう自由なの?」


「ああ。」


「あの深沢貴士と結婚しなくてもいいの?」


「そうだよ。」


「凌のこと・・・好きになってもいいの?」


「もうとっくに好きだっただろ?俺のこと。」


凌は右の口角を上げた。


「信じられない。そんな夢みたいなこと、信じられない!」


「信じてよ。」


そう言って凌はにっこりと笑った。


「こういう時はハグでしょ?」


椅子から立ち上がって両手を差し出した凌の胸に、私は飛び込み抱きついた。


「凌・・・好き。大好き。」


「俺も伊織が好き。初めから好きだった。」


凌も私の背中に腕を回した。


「ごめん・・・ごめんね。脚本家を諦めたの、私のせいだよね。」


「違うって。俺、ずっと迷ってた。俺には脚本家になる才能なんてないんだって心のどこかでわかってたんだ。でもズルズルと止めるきっかけを失ってて。でも親父の世話にはなりたくないって意地張って、そのくせ親父の金でこの部屋を借りて・・・。だから今回のことは渡りに船だったんだ。」


「凌・・・。」


「それに俺、今の仕事が楽しいんだ。やっと自分の才能を活かせる仕事を見つけたような気がしてる。親父とのわだかまりも仕事を通じて和らいだ。だから伊織はなにも気にしなくていいんだよ。」


・・・凌は私を救う為に、何を捨て、何を背負ったのだろう。


でも今、それを問いただすことは、凌のしたことを水の泡にしてしまう気がした。


「凌・・・。ありがとう。」


「お礼は愛情で返してくれる?」


凌はそう言うと、照れ臭そうに微笑んだ。


その夜、私と凌はベッドの上で初めてキスをした。


凌は私の顔を両手で包み、軽く自分の唇を私の唇に押し当てた。


私達は唇を離すと、はにかみながら見つめ合い、微笑みあった。


「なんだか恥ずかしいね。」


「伊織、もう黙って。」


凌は私の唇に人差し指を押し当ててそう言うと、今度は私の唇を舌でこじ開け、深く長いキスをした。


私のパジャマのボタンを外しながら、凌は切ない顔を向けた。


「ずっと、伊織とこうしたかった・・・。」


凌の唇が首筋から胸へと這い、私の口から思わず吐息が漏れた。


シーツの中で私達は、唇を重ね、肌を合わせ、二人の身体がひとつに溶けるくらいにきつく抱きしめ合った。


凌が私の名を何度も呼び、私もそれに応えるように凌の名を呼んだ。


凌の愛撫は優しくて、でもその行為は激しくて、私の身体は壊れてしまいそうだった。


ふたりで超えた夜は、永遠と思えるくらい長く、砂糖菓子のように甘かった。


そうして迎えた朝は、蕩けそうに幸せだった。

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