第26話 「イオリ アイシテル」
私は退院してからすぐに今まで通り、スナック「ゆり」で働き始めていた。
ぼおっと休んでいるより、仕事をしている方が気が紛れた。
私はゆりさんに頼まれて、お客様にだす料理の材料を買いに店の外へ出た。
急いで買い物を終え、店へと帰る道を早足で歩いた。
冷えるな、と思っていたら、曇天の空からは粉雪が舞っていた。
粉雪は天使の落とし物。
私の心も真っ白に染まっていくようだった。
凌と初めて出会ったあの寒い冬の朝を思い出していた。
私は凌から貰ったマフラーを巻いた首をすくめ、肩にバックをかけて、傘をさした。
ふと気づくと、店の前に傘をさした誰かが、私の方を向いて立っていた。
私の傘の中から、よく磨かれた黒い革靴を履いた足元が見えた。
その人は、仕立ての良いチャコールグレーのスーツを着ていた。
傘を上げて、背の高いその人の顔を見た。
そこには凌が佇んでいた。
私は息を飲んだ。
また夢をみているのかと思った。
恐る恐る名前を呼んでみた。
「・・・・・・凌?」
凌は怒っているような、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
瞳が充血し、潤んでいる。
頬がこけ、少し痩せたようだった。
凌は私をじっとみつめ、震えた声を発した。
「伊織・・・生きてた。」
私の鼓膜に心地よく響く、懐かしい凌の声だった。
凌は傘を放り投げ、私を抱きしめた。
私も傘を投げ捨て、凌の背中に手を回した。
「伊織・・・ごめん・・・遅くなってごめん。出張でずっと会社に戻れなくて、手紙を受け取ったのは今日の朝だった。」
「本当に凌だよね?まぼろしじゃないよね?」
「ああ。本物だよ。ほら、触れるだろ?」
「凌・・・会いたかったよ・・・すごくすごく会いたかった。」
「俺も会いたかった。」
私と凌はそのまましばらく、お互いを固く抱きしめ合った。
凌の身体は温かくて、私の凍っていた今日までの悲しみを溶かしてくれた。
言葉にならない想いで、胸が張り裂けそうだった。
「伊織がいなくなったこの1年間、俺の毎日は地獄だった。君を忘れようと無我夢中で仕事して、君を忘れる為に酒を浴びるほど飲んで、酔って、気絶するように寝て、また君の夢を見て泣いた。」
「凌・・・・・・。」
「君を恨んで憎んで、でも恋しくて、どうしても忘れられなくて。」
絞り出すような凌の言葉に、私の胸は苦しくなった。
「ある日、コユキがこう喋ったんだ。『リョウ、スキダヨ、ダイスキダヨ』って。それは伊織から俺への本当のメッセージだと思った。それを支えに俺は今日まで生きてきたんだ。」
私はさらに凌を強く抱きしめた。
これからは私が凌の全てを温めてあげたい、そう思った。
「凌を悲しませてごめん。苦しませてごめんね。」
「俺の方こそ、伊織をまたひとりぼっちにさせてごめん。もう二度と俺から離れないで。」
「うん。ずっと凌のそばにいる。」
もう凌のいない世界なんて生きていけない。
この1年間の日々の中で、私はそのことを嫌というほど思い知った。
これからは誰に何を言われても、凌だけをみつめて生きていく。
私と凌の肩に粉雪が降り積もっていった。
二人でスナック「ゆり」の店内に入り、ゆりさんに凌を紹介した。
ゆりさんは泣きながら、熱いお茶を入れてくれた。
私達はカウンターに座ってお茶を飲んだ。
「俺と伊織が再び出会えたのはゆりさんのお陰です。本当にどうもありがとうございました。」
凌がゆりさんに向かい、頭を下げた。
「私のことなんてどうでもいいからさ。でも本当に良かった。私は生きてきてこんなに嬉しいことはないよ。」
それだけ言うと、ゆりさんは店の奥へ引っ込んでしまった。
「凌・・・ママからは何もされなかった?」
私はそれだけが心配だった。
「うん。・・・伊織のお母さんは、亡くなったよ。」
「え・・・?」
「俺は伊織のことを何か知っているんじゃないかと、まず君の母親の居場所をつきとめた。簡単だったよ。深沢良一郎に聞いたんだ。」
深沢良一郎。ママの借金の相手。
「君の母親は君の居場所など知らないの一点張りだった。俺は強引に自分の名刺を渡して、なにか伊織のことが判ったら、すぐに連絡して欲しいと頼み込んだ。そして半年前、君の母親が交通事故で死んだと、俺の名刺を見た警察官が連絡してきたんだ。酒と薬の飲み過ぎで身体がフラフラな状態だったらしい。」
すでにママを捨てた私に、ママの死を悼む資格などない。
けれど結局私とママは、実の親子なのに何一つ通じ合えなかった。
そのことが哀しかった。
凌はお茶を一口飲むと、私を優しくみつめた。
「伊織・・・俺を守ってくれてありがとう。」
「ううん。私が凌に相談しなかったのが悪かったの。」
凌は私の頭にポンと手を置いた。
「いいさ。いま、伊織とこうしてまた出会えたことで、苦しかった1年間の全てが吹っ飛んだから。・・・伊織はどんな1年を過ごしていたの?」
「私も凌のことを一時も忘れたことはなかったよ。凌と会いたい、ただそればかりを考えてた。私も凌の夢を見ては泣いてた。」
「俺達、離れていても同じ気持ちでいたんだな。」
「うん。」
「これからは俺になんでも話して。辛いことも悲しいことも困っていることも嬉しいことも全部。約束だよ。」
「うん。約束。」
私と凌は小指を絡めると、微笑みあった。
1ヶ月後、私は凌と一緒に、東京へ戻ることを決めた。
ゆりさんの事だけが気がかりだったけれど、ゆりさんはあっけらかんと私の背中を押してくれた。
「私も大鶴さんと結婚するかもしれないし、丁度良かったわ。」
「ゆりさん。今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました。」
「こちらこそ。りおに会えて嬉しかった。ううん。過去形はナシ。また遊びにおいで。元気でね。うんと幸せになるんだよ。」
「はい!またすぐに会いに来ます。ゆりさんも元気でいてください。大鶴さんと仲良くね。」
私は来た時と同じスポーツバッグを持って、凌と宇都宮駅へ向かった。
東京行きの東北新幹線の座席に、凌と並んで座った。
ひとりで心細く新幹線に乗った一年前の夜を思い出し、凌が隣にいることがまだ信じられなかった。
「凌のスーツ姿、恰好いいね。見惚れちゃうよ。」
身体にピッタリあった三つ揃えのスーツに紺とグレーのストライプのネクタイで決めている仕事モードの凌が眩しかった。
「ありがと。でも仕事に必要だから着てるだけ。伊織こそ・・・綺麗になった。うん。色っぽくなった。」
薄化粧をしている私の顔を見て凌が目を細めたので、私は耳まで真っ赤になった。
凌の横顔をじっとみつめる私の視線に気づいた凌が、優しく微笑んだ。
「そんなにみつめられると、なんか照れるな。」
「だって・・・また夢だったら、今度こそ私、死んじゃうと思って。」
「それは俺の台詞。・・・事故の後遺症はどう?まだどこか痛む?」
「ううん。大丈夫。」
「もし伊織が死んでたら、天国まで追いかけていこうと思ってた。」
「それは駄目!」
「じゃあ、俺の為に、伊織も二度と危ないことしないで。」
「わかった。絶対しない。」
凌の真剣な瞳に、私は大きく頷いた。
東京駅へ着くと大勢の人波が目に飛び込んできた。
その光景を見て、東京へ帰って来たんだ、という実感か沸いた。
家までの道のりを凌と手を繋いで歩いた。
私は凌と住んでいた部屋の扉を開けて、その空気を深く吸い込んだ。
懐かしさで胸がいっぱいになった。
テーブルの上のコユキが、ケージの中で私を不思議そうに見ていた。
「コユキ。忘れちゃった?伊織だよ。」
私がそう話しかけると、コユキが思い出したように喋り出した。
「イオリ アイシテル」
「おかえり。伊織。」
「ただいま。凌。」
凌は私を抱き上げると、ベッドの上にそっと横たわらせた。
私と凌は深い口づけを交わし、お互いの肌の温かさを確かめながら、激しく求め合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます