後序
わたしは最後のコーヒーを作る。これを飲んで、仕事をして、帰る前に捨てて。それを終えればもう、ここに来ることもない。
サトシとサキは、今頃どうしているだろうか。わたしの書いた物語通りになっただろうか。
そんなことが起こるはずはない、とわかっている。あれはわたしの書いた妄想で、計画書。それ以上のものではない。
ただ、真二を失踪させて終わりにしたことは、これも雪子の悪あがきだと言ってしまえばそれまでだが、結局はわたし自身の希望だったのだろう。
わたしはあの二人を、それぞれに愛していた。
そう言葉にしても、胸には何も落ちてこない。ただ空っぽな穴がひゅうひゅう鳴るばかりだ。
わたしの底には、咲の言葉がいつも沈んでいる。
だいじょうぶだよ。
誰でもよかった。ただ、「だいじょうぶだよ」と、もう一度誰かに言って欲しかった。この世界に参加できる資格を、誰かに与えて欲しかった。
ただわたしは、求めるばかりで与えることをしなかった。与えようと考えることさえしなかった。
与えることは、求められることに繋がるのかもしれない。咲が、わたしにしたように。
一度、実家のある町で咲に会ったことがある。
咲は結婚して山崎という姓になっていた。母の予言が裏目に出た。山崎咲という名前は、おかしくもなんともなかった。
里帰りをしているのだという咲の腹の中には、命が宿っていた。水色のワンピースの下で大きくふくらんだ腹を、咲は撫でてと言った。
「よく動くの。ほら」
咲は、産む前から母親の顔になっていた。わたしは手のひらの下でワンピース越しにゆっくりと腕か脚の動きを伝えてくる胎児に、直に触れたくなった。
「かわいいだろうね」
思わず口に出ていた。咲は「そうねえ」と言って微笑んだ。
「性別は?」
「まだはっきりわからないの。実はね、双子なんだ」
言われてわたしは思わず手を離した。言われてみれば、腹の膨らみは前にも横にも、ずいぶん大きいように感じる。
「もう、つらくって。早く産んじゃいたいよ」
「産んだら、もっと大変だよ」
あら、と咲は言った。
「なんだか先輩ママみたい」
咲はわたしが未だに独身で働いているという情報をわたしの口から得たばかりだったから、おかしそうに笑った。
「お母さんにも同じこと言われたよ。お腹の中にいるほうがずっと楽だって。でも横向きでしか寝れないし、足の爪も切れないし、もうほんとに限界なのよね」
「予定日はいつ?」
「来月の頭。でももう明日にでも産みたいよ」
わたしは咲の股から顔を出す二人の赤ん坊の顔を想像した。出産の痛みはとうに忘れてしまったが、二人も産むというのはきっと苦しいことだろう。
「がんばってね」
「ありがとう」
そう言って、咲はまじまじとわたしの顔を見た。
「なんだか不思議なんだけど、知ってるのに、初めて見る顔みたい」
わたしは毎朝鏡に映る自分の顔を思った。そこにいるのはいつでも自分であり、他の誰でもなかった。十四歳のときに鏡に一瞬だけ映ったあの目の持ち主は、ずっとこの体の中にいたのだろうか。
「大人の顔だね、よっちゃん」
「咲もだよ。お母さんの顔」
「それ言われる。妊娠しただけで顔が変わるなんて、面白いよね」
「そういうものなんだよ、きっと」
咲は、微笑みながら大きくうなずいた。
それ以来、咲には会っていない。
あの双子も成長して、今は中学生くらいだろうか。
いつまでも変わらないわたしの上を、普通のみんながすいすいと進んでいく。その錯覚は、鏡に映る自分への認識と同じく、ずっと変わることはなかった。
鏡像。もうひとりのわたし。わたしであり、わたしでないわたし。
他人の中に生まれたわたしも、鏡像だ。鏡という媒介がなければ、自身の目を覗き込むことはできない。そこに映った像は像でしかない。自分の名前を持った他人だ。
他人の中にいるその鏡像をどれだけこの自分自身に近づけられるかということ、きっとそれが肝要だった。わたしはずっと、その逆をしていた。
わたしはいつしか、からだの中ではなく外側にすべてを求めるようになってしまった。それは鏡に映る自分に向かって愛撫を求めるのに似ていた。わたしは、わたし自身の手で、自分を抱きしめなければいけなかった。
わたしはまた、こんなことを思う。
あの月夜を境に、わたしの肉体に宿ったのは影なのだと。そのときまで豊泉雪子として肉体を生きていた魂は、ハチに刺されたことで月へ旅立ったのだと。
今のわたしは求め続けることに疲れ、ただ待っている。終わりを待っている。誰かが終わりを告げてくれるのを、待っている。
ただ、それも疲れてしまった。
天井に向かってすべてを任せるように仰向けに寝る。指先に、はっきりとした脈を感じる。その拍は、いつの間にか人並みになっていた。
わたしは、夢で私自身を夢見ることを決め、目を閉じる。
あの天使はわたしであり、一生をかけてもう一度探し出したい咲であり、誰かの片割れでもある。
わたしは夢見る誰かの、夢の女になる。
遠くで誰かの声が聞こえる。それも薄れていく。
「来る」
夢の彼女が言う。何が来るのか、今のわたしにはもうわかっている。わたしが長らく、待っていたものだ。
思考が、ゆっくりと色を失っていく。わたしは長い夢を見るために、深く深く意識を沈めていく。
次に目覚めたら、そのときこそわたしはきっと、満ちているはずだ。
エヴリシングス・ゴナ・ビー・オールライト 七海 まち @nanami_machi
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