ノート7:【真二】

  【真二】


 真二は、この日のために用意した三冊のノートを持って新一のもとへ向かった。自分のものはといえば、いつも身に着けている腕時計とハンカチ、財布だけだった。

 口実は必要なかった。母親に呼ばれたからだ。すべて片付いたから、改めて甥の顔を見に来いと。

 真二の甥、つまり新一の息子は、聡(さとし)と名づけられた。名付け親は母だった。母の切なる願いが込められているようで、胸が痛んだ。

「行きたい場所があるんだよ。兄さんとちょっと出てきていい?」

 真二はそう言った。母親はすぐにうなずいた。

「行っておいで。聡はこの私がちゃあんと見てるから」

 母親は新一にそう言った。新一は訝るように真二を見た。

「兄さんにそっくりだな、聡は」

「そうでしょ? 真二にも似てるよ。あの女に似なくてよかったよ」

 聡はその顔で、母の元恋人ではなく新一の息子であるということを存分に証明した。それは彼にとって、そして母にとって、幸運なことだった。

 真二は、新一に車を出すように言った。新一は、久しく乗っていない車を出すことを最初は躊躇った。

「嫌ならおれ、運転するから」

 真二はそう言った。そこまでして行きたい場所ってどこなんだ、と新一が問うと、真二は乾いた笑みを浮かべるだけだった。

「赤ん坊というのは、いいものだね。いるだけで空気を明るくする」

 車の中で真二は言った。新一は首を振った。

「かわいそうな子だよ。母親に捨てられて、母親を知らずに育つ」

「母さんがいるだろう」

「聡にとっては祖母だ。母親じゃない」

「大丈夫だ。兄さんがいれば」

「おれがいるからだめなんだよ。おれは聡を、愛せそうにない」

 真二は笑った。随分と大きな声で、長い時間笑った。新一は、ハンドルを握ったまま前を見つめて笑い続ける弟の横顔を不満げに見た。運転席の向こうで、山に沈んでいく夕日が弱々しい最後の光を放っているのが見えた。

「そんなこと言うなんて、兄さんらしくないな」

「笑いごとじゃない。切実なんだ。おれはあの子が、全然かわいいと思えない」

「最初はそんなもんだよ、特に男は」

「わかったふうな口を利いて。おまえはいいよ。自由だもんな」

「本当にそう思う?」

 真二はそう言って新一をちらりと見た。新一は、真二との間に横たわっていた時間と隔絶とを思った。真二のことは知らない。仕事のことも、どんな生活を送っているのかも、休日はどこで何をしているのかも、付き合っている女がいるのかも、結婚願望があるのかも。何もかも、新一は知らない。

「少なくとも、おれよりは恵まれてるだろう」

 新一はそう言うしかなかった。真二は再び笑った。

「そうか。そう思うんなら、よかった」

「なんで笑う」

 真二は新一の責める視線を受け流して言った。

「おれの計画がスムーズに進むだろうからさ」

 新一は、そのとき初めて真二の少ない持ち物の中に、色も厚さもバラバラのノートが三冊あることに気づいた。それは後部座席に無造作に置かれ、真二が荒いブレーキをかけるたび、黒革のシートの上で静かに滑った。

「何を考えている」

 新一の詰問する口調に、真二は反応しなかった。逆に質問を返してきた。

「ずっと聞きたいと思ってたんだ。あの女の名前がもしユキコじゃなかったとしたら、果たして兄さんはあの女と結婚して子どもまで作ったかなって。どうなの?」

 離婚した妻の名前は幸子。読みは同じでも漢字が違う。

「それは何の関係もない。字が違うだろう。そもそもおれと雪子は何もない。おまえと違ってな」

「まあ、兄さんは何も知らないからな。おれのほうこそ何もなかったよ」

「おまえは何が言いたいんだ」

「逆にだよ、もし漢字も同じ雪子だったとしたら、結婚したの? そもそも付き合うことすら考えなかったんじゃないの?」

「関係ないと言っているだろう」

「不思議だなあ。どういう気持ちで名前を呼んでたの? あ、おれの前では頑なに奥さんの名前呼ばなかったよね。恥ずかしいのかと思ってたけど、別の理由があるの?」

「いい加減にしろ。何が言いたい」

「わかってるだろう」

 真二はそこでウィンカーを出した。海辺の公園の駐車場だった。

「懐かしいなあ。ここでよく部活の練習したよね。そういや澤田先輩は今どうしてるのかな。第一志望落ちたことまでは聞いたけど」

「その後浪人してそこに入ったよ」

「へえ。今も県内にいるの?」

「知らないのか。澤田の大学は東京だ。そのまま都内で就職したとは聞いた」

「豊泉先輩もまずったね。澤田先輩と続いてれば、人並みの幸せは手に入れられたかもしれないのに。ちょっと貪欲過ぎたんだ、あの人は」

 真二は車を止め、後部座席に手を伸ばした。ノートを手に取ると、「降りて」と新一に言って自らもドアを開けた。その声は、太陽が沈んだばかりの空と同じように夜の重い気配をはらんでいた。

「少し、散歩をしよう」

 真二はノート三冊を脇に抱えたまま公園の管理事務所の方へ向かった。その横に小さな柵で仕切られた入り口がある。

「自転車で来てたときは、反対側から入ってたから、なんか変な感じがするね」

 真二は饒舌だった。新一は無口だった。園内の小道を先に立って歩き、何かしら思い当たるものがあるとそれについての記憶を確認するように新一にぶつけた。新一はあいまいにうなずきながら、ノートから目を離せずにいた。真二の企みはまったくわからなかったが、それがあまり気持ちのいいものではなさそうだということだけは、一冊のノートのくたびれ具合とふくらみを見ただけでわかった。

 海沿いの小道まで出ると、真二はふと無言になり、左手に伸びた岬の先にある灯台を見た。小さい頃は、ここを「灯台の公園」と呼んで母と三人でよく来たものだ。

 新一も灯台を見た。夕闇を纏う灯台は己の役目を忘れたかのようにぼうっと佇んでいる。部活でここに来ていたときもあの灯台は確かにあったはずなのに、ほとんど記憶にない。思い出すのはひとりの女子生徒の自信に満ちたふるまいと声。引力を持った、茶色い大きな瞳。

「行こう。あっちだ」

 そう言うと、真二は小道を引き返した。新一も後を追った。公園内に人影はなかった。やがて真二は小道から逸れ、芝生の上を躊躇なく歩み、木が茂り濃い闇を抱えている場所へ向かって歩いた。新一はやにわに怖れを感じた。

「手短に説明するよ」

 一本の広葉樹の傍で立ち止まった真二はそう言い、体のパーツと化していたノートを引き剥がし、その内の一冊を新一に見せた。

「まずこの黒いノートは、兄さんへのミッションだよ。記憶したらすぐに廃棄してほしい。他人に見られると、あんまりよくないんだ。それからこのピンクのノート。これはおれの書いた……日記みたいなものだよ。兄さんの知らないことが、多少書いてある。最後の方が余ったから、兄さんが続きを書いてくれるとうまい具合に完成すると思う。それからこの青いのが」

「待ってくれ」

 まるでセリフを読むように言葉を生み続ける真二を新一は慌てて制した。

「意味がわからない。おまえはおれに、何をしろと言うんだ?」

「だから、簡単だよ。これを読んでくれればいいんだ。その後のことは、後で説明するから」

 新一は真二の言葉に黙った。とりあえずは弟の言葉をすべて聞いてから判断すればいいと思ったのだ。時間はまだある。

「この青いのが、豊泉雪子の手記だ。先月末、何故かおれ宛に、送られてきたんだ。読んでくれればわかるけどね、雪子はもうこの町にはいないんだよ」

「……何だ、それは。遺書、じゃ、ないだろうな」

「なんでそうなる? 雪子は死なないよ。少なくとも、今は」

 真二はそう言って小さく笑った。新一は自身の中で恐怖が膨れ上がるのを感じた。

「なぜおれが読まないといけないんだ? 何が書いてある?」

「兄さんが読まなければいけないんだ、これは」

「内容を教えてくれ」

「だめだよ。残念だけど、そんな時間はないんだ。おれはこれから、兄さんに成り代わって死ななきゃいけない」

 新一は、その言葉の意味を、いや、その言葉の裏にある弟の真意を測りかね、沈黙に沈んだ。沈みながら、闇に包まれて容易には全貌を掴めない真二の顔を見た。

「何を言ってるんだ」

「生まれたばかりの赤ん坊を置いて不倫に逃げた妻。兄さんは、完全な被害者だよ。海に突っ込んで自殺したところで、誰もその理由を疑ったりしない。絶好のタイミングなんだよ」

「だから、何を言っているんだ」

「ついさっきまで会っていた兄が帰りがけの事故で死ぬというのは、相当なショックだと思うんだ。態度、表情、動作、口調……そんなものが多少変わったところで、事故が原因だと思わない人間がどこにいる? みんな腫物に触るような扱いをしてくるに違いないんだから……特に職場の連中は……不安に思うことはない。兄さんならやれる。大丈夫だ」

「やめろ。正気なのか? 成り代わるって、本気で言っているのか?」

「そうだよ。おれは影だから。兄さんにとって、いないほうがいい存在だ」

 影、という言葉がざくりと新一の胸を抉った。

「勝手に決めるな。おまえは昔から、わけのわからないことをしておれを困らせる」

「だから縄をつけて引っ張りまわすような真似をしたの? 違うだろ? 本質的に、おれたちは一心同体だって理解していたからなんじゃないの?」

「頼むから、普通にしゃべってくれ」

「十分普通だよ。おれは、十分すぎるくらい普通なんだよ」

 新一は大きく息を吐いた。この茶番を早急に終わらせなければいけない。

「なぜおまえは、おれを月子ではなく、雪子と結びつけようとする?」

「その答えは、兄さん自身がよくわかっているはずだ」

 真二の言葉に、新一は視線を落とした。過去の中に落としてきたさまざまなものに思い至って、今という時間を嘆いた。

「やっぱりおまえは、最初から気づいていたんだ。月子などいないと」

 真二は答えなかった。新一は感情が沸き上がるに任せて言葉を吐いた。

「わかってたんだろ。おれは……最初は信じてた。期待した。いや、最初から、そうかもしれないと予感してはいたんだ。おれは、あいつを試してた。おれに見せられなかった一面をこういう形で現して、それがおれを求めるための手段だったのなら……それに応えた上で、真の理解者になりたかった。でも無理だった。おれは、あいつと一緒にいればいるほど、あいつのことがわからなくなっていった。だからおれはあの夜、おまえと入れ替わることで、おまえ自身で決着をつけてほしかったんだよ。おまえは最初から月子を雪子だと言い張った。おまえのほうが、あいつをより理解し、愛してたんだ」

「やめてくれ、そんな言葉は」

「あいつと繋がったのは、おまえだけだ。おれは何もしていない。できなかった。あいつは、朝まで泣いていた」

「そう。そうだ。あの夜からおかしくなった。おれが行かなければ、すべて平和に続いたのかもしれない。雪子のついた嘘も本当になって、いつか兄さんの相手としての月子になれたのかもしれない」

「そんなわけがない。架空の姉をでっちあげて周りに信じ込ませて……何になるんだ。おれはあいつが、怖いんだよ」

「だめだよ。おれたち二人が、雪子の上を踏み荒らしていってしまった後始末を、今しなきゃいけない。そうすれば救われるんだ。雪子も、おれも」

「今更何がどう変わるって言うんだ。おまえは一体何を望んでいるんだ」

「雪子の救済だよ。おれたちが二人いたことがそもそも間違いなんだ。どちらか片方ならきっと、何も問題はなかった。だから死ぬんだよ。消える必要があるんだ。ねえ、頼むよ。おれはずっと、兄さんになりたかったんだ。その願いを叶えさせてくれよ」

「おまえ、正気じゃない」

「ずっと、なりたかった。兄さんに。素直で、自分の欲に忠実で、生きることを楽しむ才能を持った兄さんに」

「やめてくれ」

 新一は、弟の言葉をはねのけるように首を振った。

「おれは、おまえをうらやんでいた。おれよりずっと頭がよくて、冷静で器用な……無駄のない、完璧なおまえをな。おれの書いた台本の矛盾点をついてきたときも、おれの好きなタイプを分析したときも、いつもおれにはない視点で……おまえは、もうひとりのおれだったんだ。おれを観察して助言してくれる、客観の目だった。大事な存在だった。おれのなりたいおれでもあった。いつか言ったよな、確かにおまえがいなくなると困るのはおれだよ。認める。だから、考え直してくれ。消える必要があるのなら、おれがそうするから。もうこの町を出て一生戻らない。それならいいだろう」

「何も、わかってないな」

 真二は静かに息をついた。

「兄さんは、消えちゃだめな側なんだよ。ユキコさんと結婚すると聞いて、実際にユキコさんと顔を合わせて、おれは確信したんだ。兄さんは、やはり雪子を捨てきれていなかったんだと」

「勝手なことを」

 動揺を見せまいと、声がセリフじみた色を帯びる。

「たまたま名前が一緒なだけだろう。それだけで、どうして」

「本気で言ってるの? 雪子をちょっと老けさせて肉を足したら、まったく同一人物だったじゃないか。兄さんは忘れてないんだ、雪子を……夢の女を」

「もうやめろ」

 怒号に似た声が、木々に突き刺さった。新一は、絞り出すように言った。

「頼むからおれの過去を、そっとしておいてくれ」

 すると真二は笑った。

「過去なんて、とんでもない。今現在、兄さんの中には雪子が棲んでるじゃないか」

 兄の返答を待つように、真二はいったんそこで言葉を止めた。

「おれにはわかるよ。兄さんは、月子の存在を未だに消さずに、おれとの間だけでも生かそうとした。それは、兄さんがまだすべてを終わりにできていない証拠だ。そもそも妻と母親の恋人の不倫なんて、兄さんの台本通りだったんじゃないか? 子どもさえ産んでくれれば、ユキコさんは用済みだったんだ。ついでに義父なんて存在も、邪魔でしかなかったんだろう?」

「黙れ」

「本当は女の子が欲しかったんだろう。ユキコさんに――豊泉雪子に似た女の子が。持って行き場のない思いを、身代わりに捧げるつもりだったんだろう。愚かだね。おれ勘違いしたよ、あいつに似てくれればって、母さんの男のことじゃなくて、ユキコさんのほうだったんだね」

 真二はそこでまたくっくと笑った。

「そうだ、おれに咲を引き取ることを打診しながら、どうして自分で実行しなかったんだ? そのほうが、ずっと確実で手っ取り早かったじゃないか」

「咲?」

「ああ、知らないのか。雪子の産んだ女の子の名前だよ。今頃どこの施設にいるんだか知らないが、かわいそうな子だね。雪子と同じ孤独を生まれたときから抱えてる」

 さき、という名前を、新一は口の中で小さく唱えた。さき。さき。

 真二は続けた。

「それとも、その勇気がなかったから自分で作ろうと思ったの? そうならすごい、脱帽だ。兄さんはいつだって、自分の理想について一切妥協しない。なりふり構わず、傍若無人に……おれはそういうところが、好きだった。我慢せず、自分のよいと思うものを信じ、まっすぐに突き進んでいくその姿勢が……周囲の目ばかり気にしているおれとは違うんだって、憧れだったよ。そういうふうに、おれはなりたかったんだ」

 新一は夢の中にいるような気持ちでぼんやりとした真二の顔を見た。これは自分の知っている真二だろうか。それとも真二を騙った別人だろうか。その発する言葉ひとつひとつに打ちのめされながらも、気持ちがいいほどにすべてを理解できてしまうこの自分は一体何だろう。この黒に覆われた人物は、自分自身の影なのかもしれない。新一がずっと抑えつけ、目を背けて来た、自分の一部。

 そう思うと真二の言葉は乾いた土に注がれる水のように思われた。新一は真二の言葉を待った。真二はノートを持った手をもう一度新一に突きつけてから言った。

「この青いノートは、雪子の真実だ。兄さんがこれを読むことで、きっとすべてが埋まるんだ。そうして雪子は救われる」

 埋まる。新一は青い表紙の大学ノートをじっと見た。今目の前にいる真二にこんな言葉を騙らせ、こんな行動をさせているのは、この青いノートの力に違いない。

「『人生は、淡々としたできごとの連続』」

 真二が呪文のようにつぶやく。

「雪子がよく言っていた言葉だよ。それ自体に意味はない、あるとしたらすべて後付けなんだって。でも、たぶん雪子は怖かったんだ。自分がその意味を見出せないまますべてが終わることも、後から他人に勝手に意味を与えられることも」

 そこで言葉を止めると、ふっと灯台のほうへと顔を向けた。闇を照らす光は、ここには届かない。

「だから、書くしかなかったんだ。できごとに意味を持たせるには、台本のようなテキストにするしかなかったんだよ。雪子はきっと、死ぬまで書き続けるだろうね」

 新一の手に、ノートが押しつけられる。ごわごわした紙の感触。この紙束が雪子の字で埋め尽くされているのかと思うと、肌がぶつりと粟立った。

「ここにあるのは雪子のこれまでの記録と、そしてこれからの記録だ」

「これからの?」

 声に不審がにじみ出る。真二はそれには反応せず、淡々と続けた。

「ここには未来が書かれている。兄さんの、まだ物も言わない赤ん坊が成長して、雪子の娘と出会う未来が」

 吐き出そうとした言葉が、喉でつかえた。代わりに、ひゅっと空虚な息が漏れる。

「何……だと?」

「雪子の母親がやってる店、知ってるだろう」

 真二の声に、嘲笑に似た色が交じった。

「あそこで、兄さんの近況を話したんだよ。彼女はおれたちのことなど全然知らなかったらしいけど、それでも高校で同じ部活だったと言ったら興味を持って聞いてくれたよ。くれぐれも雪子によろしく、と言ったし、彼女は役目を果たしてくれた。雪子はおれの話したことを聞いた上でこれを書いたんだ。兄さんの赤ん坊に希望を託して」

 新一は口の渇きに気づき、唇を結んだ。

 雪子の母親がスナックを経営していることは知っていたが、真二がその店に行こうとは夢にも思わなかった。新一にとって、そこは足を踏み入れてはいけない禁域だった。行けば雪子の現実に繋がってしまう、危険な場所。

「未来の記録の大部分を占めるのは、細かいくどくどとしたモノローグだ。これは、何を意味していると思う?」

 子どものような無邪気さとともに、真二は言った。

「すごいよ。雪子は、あらかじめ書くことで人格を……赤ん坊の、まだ形成されてない人格を、導いてるんだよ。雪子自身を反映させた夢の男。その男と、自分の分身である娘の咲が惹かれ合う。そうすることで雪子は自分自身が完成すると思っているんだ。満たされると信じているんだ」

「嘘、だろう」

 言いながら、新一は目眩を覚えた。

 なんということだろう。雪子の中にある空洞の巨大さと青いノートに込められた深さを前に、新一は頭を抱えた。

 そうして、今ここに立つ兄弟――真二と自分との間にある差異が、この青いノート一冊分の「意味」なのだとはっきり理解した。目の前にいる弟は、これを読んだ未来の自分の姿なのだ。

「読むんだ。これを読むことは兄さんの義務だ。続きを読みたくなるはずだ。続きは雪子しか書けない。雪子の中にある。兄さんは雪子の中にある筋書きを読むために、雪子を迎えなければいけない」

 新一は、いつの間にか目に溜まった涙が落ちることに構わず、首を振った。

「おれは……できない」

「できるよ。おれの人生を、兄さんにあげるよ。おれは兄さんに代わって死ぬ。そうして雪子が来たら、真二として迎えてあげてくれ。そうして今度は、『おれはもはや兄であり弟であり、どちらでもない』と言ってやってほしいんだ」

「何だよ、それ」

 震える声で首を振る。

「そんなこと、おれにはできない」

「兄さんならできる。いつか言っただろ。おれは、兄さんの理想だって。理想になれよ。理想の人生を書き上げろよ。兄さんの言う、美しい愛とやらを体現してさ。おれにはもう、できそうにない」

「無理だ。おれにはできない。やるならおまえがやってくれ」

「だめだよ。いつだって台本を書くのは兄さんの役目だろう。そうだ。この、できごとの一連の流れ……単なるできごとの積み重ねに、登場人物それぞれの抱える痛みや苦しみ。まるで兄さんの書いた台本にそっくりじゃないか。どうしても完成させたいって言ってたね。完成させればいい、この人生という劇場で。兄さんそういうの好きだろ。いつだって舞台の上にいるように振る舞って、隙を見せずにさ」

「おまえの前では、隙だらけだった」

「もしそうなら、隙のある美しい演技だったよ」

 冷たい風が吹き、沈黙が流れた。夕闇は、いつの間にか夜の黒さに変わっていた。色濃い闇はいつの間にか公園中に広がり、遠くの公園灯がそれに抗うように小さく光っているのが見えた。ここからは見えない灯台も、今頃は光っているはずだ。

 新一は真二に背を向け、手で濡れた頬を拭った。そうして空を見上げ、無意識に月を探した。葉の茂る枝の隙間から、闇夜を照らす光を求めた。すかさず真二が「今日は新月だよ」と言った。

 振り返ると、ほとんど見えない腕時計を顔に近づけている真二がいた。新一は改めてその姿を自分の生き写しだと感じていた。いつのことだったろう、弟に対し、ほとんど畏怖と言ってもいい感情が生まれたのは。

「時間だよ。最後の仕上げに、遺書を書いてもらう。筆跡まで似てなくてよかったよ。さあ、このノートの一枚を破って……書くんだ」

 真二は黒いノートから何も書いていないページを破り取って差し出した。

「それが終わったら、服と持ち物の交換だ。兄さんは電車で帰るんだ。帰りがてら、同僚の家によって本を借りることになっている。黒いノートにも書いてあるから、よく読んで。おれはその時間まで、この公園で過ごすよ。そうだな……母親に最後の電話でもしてね。兄さんが同僚の家を出た後に、車で海に飛び込む。怖くないんだ、不思議と。わくわくすら、する」

「おまえは、どうなんだ」

「どうって?」

 今日初めて聞く、弟の揺らいだ声だった。新一はすべてを記憶しようと、目を見張って弟を見つめた。

「意味だよ。おまえに起こったすべてのできごとに、意味は見い出せたのか」

 一瞬の静寂の後に、真二のはずんだ声が響いた。

「それは、兄さんの仕事だよ。僕がこれまでに体験したことのすべては、兄さんがいなければ起こり得なかったんだ。僕は兄さんの人生の一部になれて、幸せだよ。これからは、兄さんが僕の人生の続きを演じるんだ。想像してみただけで、胸が震えるよ。大満足だ」

 そう言うと、真二は天を仰いだ。月のない、穴のような暗い夜空を。

 新一は、観念した。弟を抱きしめ、その髪を撫でた。

 この弟の肉体に宿った魂が、外部からやってきた女の、たとえば雪子の中に根付いていたとしたら、惹かれ合ったのだろうか。それとも憎しみ合ったのだろうか。


 同僚はすべてを知っていた。数分のやり取りの中で、私の顔から目を離さなかった。私を「真二」と呼びながらも、その唇は白く震えていた。同僚に渡された本は当時のベストセラー本だった。

 母親から電話があったのは十一時過ぎだった。新一が死んでしまったとだけ力なく言った。

 新一の葬式を終えた後、私は黒いノートに従って一日だけ出社した。台本のようにセリフが指示されていた。私はそれを卒なくこなした。だが一日が限界だった。

 私は退職した。母と聡を連れて、知り合いのいない土地へと引っ越した。

 新一の遺児を引き取って新たな生活を始めるには十分な貯蓄があった。母が受け取った新一の死亡保険金もそれを助けた。

 母親は聡のことを「かわいそうな子」と言って気づけば涙を流していた。

「この子は父親も母親も知らないまま育つんだ」

「おれが父親になるよ」

 それはノートの指示だった。なるも何も、実際私は聡の父親だった。

「そんなことして、あんたが結婚できなくなるよ」

「結婚は、するつもりはない」

「犠牲になるつもりなの?」

「犠牲なんてとんでもない。おれは、兄さんの代わりにこいつを育てるって決めたんだ」

 母親は泣いた。私が兄への愛により使命感に突き動かされているとでも思ったのだろう。

「この子はきっと、母親がいないことをいろいろ言ってくるようになるよ。そうしたら、事故で死んだとでも言えばいいかね」

「そうだな。ハチに刺されて死んだと言えばいい」

「ハチって、どうして」

「そんな事例はいくらでもある。不自然じゃない」

 母は口を結んだ。何かを考えているようだったが、やがて息を吐いて首を振った。

「それじゃあ、真二のことはどうするの。本当の父親じゃないってこと」

「ある程度成長すれば、わかる機会はいくらでもあるだろう。敢えてこちらから言うつもりはない」

「でも……それじゃあ、成人したときにでも」

「任せるよ」


 十八年前、私はそこで筆を置いた。

 私は、世界に嘘をついて生きている。

 私の名前は、真二だ。だが十八年前までは、違う名前だった。

 読んでしまえば、いくら忘れようと思っても、意識下に刷り込まれた筋書きは力を持って私たちを引き寄せる。その通りになってしまう。私は言葉の力を知っている。書かれた文字の、運命をも軽くつまむように捻じ曲げてしまうとてつもない力を、よく知っている。

 だから、ずっと避けていたのに。

 私は今日、あの青いノートを、読んでしまった。

 それは予言書などではなかった。そこに書かれていたのは、ほとんどが現実に起きたことの記録だった。

 この現実を作り出したのは、雪子の生きた思いに他ならない。

 続きを知ることは、確かに弟の言った通り私の義務なのだろう。

 ただ、青いノートの中には、一つだけ嘘があった。いや、一つとは限らないのかもしれない。咲の父親が弟であるということを、どうして雪子は書かなかったのだろうか。弟の方にしたってそうだ。黒いノートに真実を記載しながらも、ピンクのノートではその部分だけまるごと創作にしてしまった。弟が初詣に行ったことなど、高校生以来一度もないはずだ。弟は、雪子の創作に合わせてありもしない会話を作り出した。

 ただ、青いノートの中でやり取りされたサトシとヒナの会話の一部には、私が知らないうちになされた弟と雪子の会話が組み込まれているのだろう。弟が恐れたのは、雪子に執着し、依存し、雪子無しでは生きられなくなった己の精神の脆さなのだろうか。

 あの新月の夜に浮かび上がった弟の輪郭を思い出す。今の私は、あのときの弟と一体何がどれだけ違うと言えるだろう。

 私は今こそ、弟の望みを果たしに行こうと思う。

 私はもはや兄であり、弟であり、どちらでもないのだと、雪子に言いに行こうと思う。

 そのとき雪子はどんな表情をするだろうか。あの美しい瞳で、柔らかな笑顔で、鈴のような声を聞かせてくれるだろうか。もはや演じる必要はないのだと、安堵してくれるだろうか。

 しかし、驚いた。弟のかつての筆跡と、今の私の筆跡が、これほどまでに似ているとは。

 私の中には、やはりずっと以前から、弟が棲んでいる。

 私と一体となり、雪子を愛すること。きっとそれが、弟の望みだったのだろう。

 このピンクのノートは、このページで終いだ。「予備室」――弟の高校時代の手記から始まり、私の告白で終わるこのノートに、学生時代の私ならどんな題をつけただろうか。また英語を使った、青くさいものにしただろうか。

 ふと、昔ラジオで聞いた洋楽のサビが頭に浮かんだ。カタカナに直したそのタイトルを、誇らしげに表紙に書き入れる姿を想像する。

 また英語? わかりにくいよ、と苦笑する弟の顔。

 いいじゃない、かっこいいよ、と笑う彼女の顔。

 あの日の予備室の空気とともに、かつての友たちの顔が悲しみとともに心を掠める。

 彼女はまだ、待っていてくれるだろうか。待っていてほしい。

 そうして、このタイトルを見せてやるのだ。

 彼女はまた、笑ってくれるだろうか。

 私を、求めてくれるだろうか。


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