ノート6:【さき】
【さき】
雪子が子どもを産んだと聞く。父親はわからないらしい。
兄の元に、月子から連絡があったのだそうだ。兄と月子がまだ繋がっていたとは、知らなかった。あれから五年以上経つのに。
「どうしても父親の名を言わないらしい。施設に預ける方向で話が進んでるらしいけど、雪子は嫌がってる」
「雪子と話したのか?」
「いや。月子としか話してない。元気なかったよ」
兄は大学を卒業後、地元のメーカーに就職していた。そこで出会った事務員の年上の女性と付き合っているのを、母親づてに聞いた。
「あの後月子とは、どうなったの」
月子や雪子の話をするのは、あの夜以来初めてだった。私は年末の帰省ということもあり、久しぶりに会う家族を前にいくらか大胆になっていた。
「ああ……あの後な」
私たち兄弟の二人目の父になる予定の男は出かけていて、母親は風呂に入っていた。歌番組の流れるテレビは年寄所帯のせいか音量が大きめで、兄の低い声は私にしか届く心配はなかった。
「おまえが出て行った後、しばらくしてまたドアが開いた音がした。雪子が階段を下りて、入れ替わりに月子が上がって来た。となりの部屋に入ったから、おれも追って、全部聞いたんだ。おまえと、雪子のこと」
「結果的にそちらに損害がなくてよかったよ」酒を飲みながら私は言った。「雪子は喚かなかったの? 二人でちゃんと、邪魔もなく朝まで過ごせた?」
兄は渋い顔をした。
「雪子はその後、どうもおまえを追って出てったのか、朝になっても帰ってこなかったんだよ。おれと月子は……おれたちにとっては初めてだったわけだけど、月子は、初めてじゃなかった」
「どういうこと?」
「処女じゃなかったんだよ。そしたら、あっという間に冷めちゃって……月子が、まるで違う女に見えてさ。結局おれは、月子を偶像みたいに思ってたんだ。おれたちは、あの双子に悪いことをしたよ。だからおれは、罪滅ぼしじゃないが、何かしてやりたいと思ってる。偽善だってわかってるけど」
家に着いたときから感じていたが、兄は一回りも二回りも小さくなっていた。
「お互いに若くて、馬鹿だったね」
私は心から言った。
「それで月子とはすぐに別れたの?」
「別れたというか、自然消滅というか。もうなんか、全部、嫌になって。おまえにも悪かったと思ってる。でもおまえは雪子と付き合ってたんだろ?」
「ああ、まあ」
「どうだった? 少しは楽しめたか?」
「惰性だよ。もう、よく覚えてない」
「そうか。それだけは、よかったと思ってたんだけどな」
「どういう意味?」
「雪子のこと、好きだったろう」
「別に、好きじゃないよ」
「いや、好きだったんだよ。初めて雪子を見たときのおまえの顔、まだ覚えてる」
「勝手に話を作るな」
「今からでも遅くないんじゃないか。知らない男の子どもでも、おまえが自分の子として迎えるって言ったら雪子、喜ぶんじゃないか」
「冗談言わないでくれよ。この歳で子持ちとか……雪子とだってもう、終わった話だ」
雪子も月子も、私たちの上を通り過ぎていっただけの存在に過ぎない。
「月子がそう言ってたんだよ。雪子はシンジのことをまだ忘れられないでいるって」
「そんなのは月子が勝手に言ってるだけだ。そういう人だろう」
「月子がどういう人間かわかるだけの回数会ってるか?」
「悪いけど、月子のことをわかってたかどうかってのは、兄さんのほうに聞きたいね」
「ふん。今更。当時のことはもう、わからんよ。覚えてない」
「頭の中にある、魅力的な筋書きに従っただけなんだろ? ドラマチックな展開、好きだったもんな。偽物と、本物とか。兄さんは月子こそ本物だと思ったんだろ?」
「おまえ、最初からわかってたんじゃないのか?」
「何を」
「おれが、わかっていなかったことを」
「何が言いたいんだ?」
「もう、いい」
兄はそう言ってしばらく自分の胡坐の足を見つめていた。私は兄の言いたいことがわかっていた。だが、すぐに流した。知らない方がいい真実もある。
帰省中、私はまったく思いがけなく雪子と再会した。クリスマス前に産んだばかりだと聞いていたから、なんとなくまだ病院にいるのだろうと勝手に思っていた。一月二日の午後、元日よりは人の減った神社の境内で、黒いダウンジャケットを羽織ってスカートから細い脚を出している女性は、後姿だけで雪子だとすぐにわかった。髪型が、頭の形が、首の長さが、肩幅が、腕の長さが、脚の形が、当時より変わっていなかった。私はその女性をしばらく見つめた。ゆっくりと近づいた。だんだんと見えてくる横顔に、懐かしさがこみ上げて泣きそうになった。雪子は手の中にあるおみくじをじっと見つめていた。
「雪子」
自然と声が出ていた。雪子はおみくじから目を上げて、私を見た。顔は、肉が削げて細くなっていた。化粧をしていないらしい顔で眉毛は太く、唇は乾燥で少し皮が剝けていた。目は、変わっていなかった。私の好きだった雪子の目。それでも全体の印象が、月子のようにどこか頼りなく、神性すら感じさせる妖しさと儚さを湛えていた。
「シンジくん」
兄と間違えられるだろうと思った私は驚いた。
「会えると思わなかった。元気?」
「元気だよ。よく間違えなかったね、おれのこと」
「そりゃ、わかるよ。顔は似てるけど、中身は全然似てないもん」
「おれは最初、月子かと思った」
「そう?」
雪子はそうして力なく笑い、手元のおみくじをポケットに入れた。
「結ばないの?」
「うん。いい内容だったから」
「おれはなんでもかんでも結んでたよ」
「いいんじゃない。持って帰っても、捨てられないし、保管もしづらいしね」
私たちは神社を出、となりの公園のベンチに自然と足を向けた。
「子どもは、どうしたの」
「母といる。情が移ったらいけないからって、ほとんど抱かせてもらえないの。でもね、不思議とあんまり抱きたいとも思わない。どんな顔をしてるかさえ、覚えられないの。冷酷だと思うでしょう」
「いや、わかる気がするよ」
「そりゃ、男の人はね。みんなそうでしょう。でも、女なのに。産んだ本人なのに。母親、なのに。母親に、なれなかった」
「なりたかった?」
「うん。そういう、新しい名前が欲しかった。名前さえあれば、安心して生きていける気がした」
「名前は、あるだろう。雪子っていう、いい名前が」
「ありがとう。優しいね。でも、違うんだ。それ、私の名前じゃない」
私はその言葉に戸惑った。
「本当は、月子なの?」
「違うよ。それも……違う。私はね、よっちゃん」
「よっちゃん?」
「そう。よっちゃん。すごく好きだった人に、そう呼ばれてた」
「それ、彼氏?」
「違うよ。女の子。お友達」
「小さいときの?」
「そう。とよいずみのよ、で、よっちゃん」
「また、そう呼ばれたい?」
「どうかな。わからない」
「どうして子どもを産んだの」
「もう、中絶できなかったから。時期もだけど、母親がね、反対して。殺人なんてって。でも、私も親も、育てることはできないから、施設が一番いいって。最初は本当に嫌だった。どんな思いをしてでも絶対に育てるって思ってた。でも、私が欲しかったのは、子どもじゃなくて、母親っていう名前だけだったんだなって、産んでから気づいたの。ひどい話だよね」
私はここで、雪子がかつて言った「自分のことがよくわからない」という言葉を思い出していた。私たちがよく似ている、という言葉も。
「私、産むとき、あのプラネタリウムのこと、思い出してたんだよ」
心の内を読んだように雪子が言った。
「あのとき見た星空。偽物の空。シンジ君のあったかい手。私、泣いてたの、気づいた? うれしかったんだよ。シンジ君とわかり合えた気がして、すごくうれしかった。でも、一緒に生きてく人じゃないってことも、よくわかっちゃったんだ」
それは私も同じだった。雪子からその言葉を聞くことで、数年越しの答え合わせを果たしたような気持ちになった私は、ある種の珍しい感情と共に雪子を見た。忘れていた執着心が沸き上がってくるのを必死でこらえた。違う。それは、間違っている。それは本物じゃない。
「私ずっと探してるの。待ってるの。でも、だめなんだ。どうしてみんな、二人組になれるんだろうね? どうしてお互いにお互いを思い合える関係に、なれるんだろうね?」
「雪子には、月子がいるだろう」
「違う。違うよ。シンジ君だって、シンイチ君を選ばないでしょ。異性じゃなくちゃ。結婚をしないと、一緒にいていいって認められないんだよ。私、二人組になって、認められたいの。だから妊娠したの。妊娠すれば結婚してくれるって思ったから」
「相手は誰なの」
「どうでもいい人だよ。もう、どうでも」
私は、ベンチに置かれた雪子の手に、そっと自分の手を重ねた。あの日とは逆だ。雪子の手は、冷え切っていて石のようだった。私はやや力をこめてその手を覆った。私の手も、血の巡りがあまりよくないせいで、温かくはなかった。雪子は一度だけぴくりと指をけいれんさせた。私はけいれんをも包み込んだ。沈黙が流れた。
私は何かを期待して雪子の顔を覗き込んだ。雪子の表情は、それも固まった石のようだった。
「雪子」
私は呼んだ。
「よっちゃん」
呼んだ。
雪子はゆっくりと顔をこちらに向けた。そうして私の顔を通して、何か別のものを見ているような、遠い視線をよこした。
「私ね」
何かを思い出したように雪子は言った。
「子どもの名前、決めたの。女の子なの」
「なんて名前」
「さき」
雪子はそうして私の手の下から自分の手を引っこ抜いて、もう片方の手でさすった。
「ね、いい名前でしょ」
その日初めて、歯を見せて笑った。きれいに並んだ小さい歯は、昔と変わらず白かった。
四月になり、兄が結婚するという連絡をよこした。相手は例の事務員で、妊娠しているらしい。失敗したのかと問うと素直にそうだと答えた。
「でもまあいずれはしようと思ってたし、ちょっと予定が早まっただけで」
「母さんは何て?」
「喜んでるよ、初孫だって。そうだ、今度の連休は帰ってくるんだろ?」
雪子の顔が浮かんだ。あの後、雪子に関する情報は何も得ていなかった。おそらく子どもは施設に預けられただろう。まだ実家にいるのだろうか。
私は、雪子のいる町に帰ることを、避けなければならないような気がしていた。あの執着心がまた沸き起こってしまったら、今度こそ抗えないかもしれない。そう感じていた。
「ちょっとまだ、仕事がどうなるかわからないから」
「休みだろ、でかい会社なんだし」
「それが今ちょっとごたごたしてて、出になるかもしれないんだ」
「ふうん、大変だな。まあ、帰れたら帰ってこいよ。彼女含めてうちで食事会する予定なんだ」
私はこのときから何か不穏なものを感じていた。母親の再婚が決まらぬうちから兄が結婚を決めたこと。兄が結婚するからと言って母親が再婚を急がなかったこと。あの男が、母親より十も年下であること。
兄は、これだけの要素が揃っていながら、あの筋書きを予想できなかったのだろうか。
兄の妻になった女は男の子を産むと、母親の恋人と不倫関係であることを明かした。二人とも魂を失ったかのように放心し、彼らを追わなかった。これは私に新鮮な驚きを与えた。これ以上ない屈辱に対し怒りではなく諦めで以て対処し、追わないことで僅かばかりの自尊心を守ったのだろう。母親に関しては、赤ん坊の存在がそれを助けた。
「泣いてすがってきても渡すもんか」
母はそう言った。
「この子は私が育てる」
だが心配は無用だった。兄の妻は離婚に応じる際、親権についていっさいの執着を見せなかった。彼女は言った。「本当の愛を見つけた」と。母親の元恋人は、母親に汚物を見られるような目で見られたことで何かが吹っ切れたようで、驚くほど真摯に謝罪し、逆に兄の方が恐縮する始末だった。
だが兄にとっては逆だった。赤ん坊は、この一連のできごとの生き証人でしかなかった。日に日に自分に似てくるこの子どもが、兄にとっては疎ましい存在だった。どうしてあいつに似なかったんだろう、と何度も言った。あの男に似てくれさえすれば、躊躇なくどこへだって追い出せるのに。そういう意味だったのだろう。
兄はこの一度の「失敗」を機に、死人になった。
仕事に行って、帰って食事をし、寝るだけで、口数が減った。母親が熱心に孫を育てるのを、他人事のように見ていた。
私は、愛という言葉が大嫌いになった。見るのも嫌だ。そんなものはまやかしだ。筋書きの上にしか存在しない、単なる道具だ。
そんな折、大きな茶封筒が私の寮に届いた。寮の住所と私のフルネームが、サインペンによる丁寧な字で記されていた。私はある予感を持ってそれを開けた。予感は当たっていた。中身は一冊のノートだった。
それを一晩かけて読み終えた私は、近所の文房具店で表紙が黒いノートを買った。それに今現在の自分の生活についてすべてを詳細に記した。寮に住む人間たちのこと、仕事のこと、仕事の人間関係、買い物をする店やよく買う商品のリスト、休日に出かける先やその頻度、ビデオ鑑賞などの趣味について、詳細に記した。これらは入念な確認のため、終えるまでに二か月を要した。
準備は、整った。
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