ノート5:【似た者同士】

  【似た者同士】


 あの日以来、私はほとんど兄と口を利かなくなった。

 それまで半身のように感じていた兄の存在が、急に小さく取るに足らないものになった。その原因が月子なのか雪子なのか、はたまた私の中に生まれた醜い何かか、はっきりとはわからなかった。

 私は泣く雪子をそのままにし、そっと部屋を出、階段を下り、外に出た。となりの部屋は見るべくもなかった。寝静まった町を見下ろす月が、割れたピーナッツのような形をしていた。私は雪子の肌の熱とそこに注がれた青白い光を思い出した。

 演劇部の活動はなくなった。兄の申し出により大会出場を取りやめることは、顧問の口から私に伝わった。予備室はいつ行っても無人だった。澤田の姿も見ることがなくなった。澤田は所属していた新聞委員会の根城に入り浸っている、と後で雪子から聞いた。

 雪子は、あの夜の翌々日の月曜日、授業が終わると当然のように私を迎えに来た。教室のすぐ前の廊下で、まったく人目をはばかることなく私の手を掴んで言った。

「ねえ、私たち、大丈夫かな」

 私は何も言えなかった。大丈夫とはどういう意味なのか、わからなかった。教室から廊下に出て行く級友の何人かが、私の手を掴む雪子の白い手を見た。

「とりあえず行こう」

 私は雪子に背を向けて歩き出した。雪子の掴む手が一緒についてくるだろうと思ったが、その手は簡単に外れた。

 私は振り返った。空になった手をそのままの形で宙に浮かせている雪子の姿が、廊下から浮き上がっているように見えた。その目は、私の靴あたりに向けられていた。その体が、とても頼りなく思えた。

「大丈夫?」

 図らずもそう言ってしまった私の顔を、雪子はゆっくりと見上げた。そうして目元と唇であいまいな笑みを浮かべた。頬がどこまでも白かった。改めて、雪子という名はふさわしいと私は思った。

 並んで帰りながら、私たちは無言だった。何を言えばいいのかわからなかった。それでもお互いのことはよく理解できているような気がした。不思議な気持ちだった。共犯者のような、仕事の相棒のような、それまでに知ることのなかった連帯感をともに感じていた。

 私たちは、それからほとんど毎日を、一緒に過ごした。普通の高校生の恋人同士のような、たわいもない会話をして笑い合った。雪子の言った「大丈夫」の意味は、私には結局わからなかった。ただそうして形だけの日常をなぞることだけが、このときの私たちを支えていた。私たちは互いに何かを期待していたが、それを押し込めることで意味のない関係を続けた。

 私には、雪子にずっと聞きたくて、最後まで聞けなかったことがある。

 似ているから、おれでもいいと思ったのか。

 それを聞いてしまったら、終わってしまうと思った。だから私たちは、お互いにあの夜については何も触れなかった。代わりに、何かを確かめるように、塗り重ねるように、さまざまな布団や床の上で、寝た。そうしていると、気持ちが楽になった。

 雪子は、一度だけ、月子の名を口にしたことがある。

「月子みたいな女の方がいい?」

「どうして」

「シンジがそう思うなら、私はそうなれる。月子になれる」

 私は言えなかった。もはや、どうでもよかったのだと。月子でも雪子でも。空いた穴を埋めてくれる存在があれば、どうでもよかったのだと。

「雪子がいいよ。もうそんなことは言わないでくれ」

 私はそう言った。雪子はきれいに揃った歯を見せて笑った。雪子に初めて会った日のことを思い出した。若く、健康的な美。兄の中を通してしか知らなかった肖像画のような雪子が、額を突き破って触れるところまで下りてきた瞬間。初めてその体に、私の印を刻んだ女。私の所有物。

「私たち、似てるよね」

 その日、私たちは少し高い電車賃を出し、プラネタリウムに来ていた。雪子が行きたいとせがんだのだ。

「どうして?」

「自分のことが、よくわからないもの同士」

 雪子がそう言って上を仰ぐと、場内が暗くなった。どこかで子どものぐずる声がした。暗闇の中で、雪子の冷たい手が私の手を探った。その手は私の手を覆うように重なり、私の手の湿った熱でゆっくりと温められていった。

 天面に映し出される人工的な星空を眺めながら、きっと私たちは同じことを考えていた。こうして傾いた椅子に背中と頭を預け、真昼のうちから夜空を見上げていると、その慣れない感覚に、吸い込まれ、落ちそうになる。どちらが上だか下だかわからなくなる。すべてのものごとの境界が、あいまいになる。重なった手の温度はやがて等しくなり、一つになる。

 雪子の指先から、小さな脈拍が伝わった。私はそこに自分の脈のリズムが重なるのを認めた。そうして、限りなく甘い悲しみを感じた。重なった脈は、すべてを覆いつくすように広がっている顔の見えぬ時間の存在を感じさせた。私は、雪子と私の体が絡み合いながら夜空へ落ちていくさまを想像し、体験した。私たちは、確かに仲間だった。同じものを求めている、決して交わらない平行線のような仲間だった。

 場内に明かりがつき、ぱたんぱたんと寝ていた椅子の背が起き上がり始めると、雪子は目を細めて、ゆっくり閉じた。小さな雫が目尻に生まれた。ちょっと眠くなっちゃった、と雪子は言った。

 私の中の執着心は、偽物だった。本物だったとしても、それはとてつもなく脆く、頼りないものだった。その日以降、私と雪子は二人で会うことをしなくなった。兄と雪子、澤田はそれぞれ違う大学へ進学した。私は部活を引退し、進級した。演劇部は新しく入った一年生と二年生で活動を継続することになった。

 私はやがて高校を卒業し、県外の大学に入った。その間、雪子とも月子とも、いっさい会わなかった。

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