青ノート8
大学に入学して二年後、わたしは中退した。母に罵られた。今までの努力がすべて無に帰したと泣き喚いた。
それだけの感情があるのなら、何故それを少しでもわたしに傾けてくれなかったのだろうか。
彼女の「娘を大学まで出す」という目標は、彼女のためのものだ。彼女自身が達成することで満足するだけの目標だ。わたしとは、何の関係もない。
わたしは学費を返すことを約束し、家を出た。中学生のときと同じようなことをして、報酬を得た。同じ店に、香奈子という名の嬢がいた。彼女はAV女優になると言って店を辞めた。彼女が求めていたのは金でも名声でもなかった。ただ、自分を満たしてくれる何か。それを幼子のように求める黒い目が、真二とだぶった。わたしはあの黒さに惹かれていた。彼女は黒さをわたしの心に刻んで、飛び立っていった。
求めることで何かが変わるだろうか。わたしは求めてきた。自分への関心を。賞嘆を。異質なものには向けられない笑顔を。
一度だけ、香奈子から連絡が来た。電話番号を教えてくれと言われて、持ったばかりの携帯電話の番号を教えたのだった。それは専ら店か母との連絡用で、友人が登録されたことはなかった。香奈子、という名前が小さな液晶に表示されたとき、わたしは早朝のファストフード店にいた。
香奈子はAV女優として何作かに出演したらしかった。そのタイトルを続けざまに言われると、睡眠不足のところに目眩がきた。そうして今度一緒に出てみないかと言う。
「知ってる子のほうがやりやすいし」
「悪いけど、そういうのは嫌。前言ったよね」
「わかってるけど、プロデューサーにあんたの写真見せたら気に入ったって」
「勝手なことしないで」
「ねえ、会うだけ会ってよ。いい人だから」
「いや」
わたしは自分の意志の弱さを十分わかっていた。だからこのとき、こうしてはっきり断れたことを、今でも不思議に思う。あのときの投げやりな生き方を考えれば、流されていてもおかしくはなかったはずなのに。
「あっそう。相変わらず、頑固ね」
「頑固? わたしが?」
思いがけない言葉に、目をぱちくりとさせる。
「自覚ないの? あんたはさ、いろんなものを見もしないでゴミって決めつけるでしょ。私のこともさ」
「ゴミだなんて、思ってない」
香奈子は笑った。
「思ってないって、あんたが思ってるだけだよ。あんたはゴミに囲まれてたじゃん。今もなんでしょ? 顔に出てるんだよ、不満が」
「うそぉ」
わたしの言い方がおかしかったのか、香奈子は噴き出した。
「あんた面白いね。子どもみたい」
そう言われて、わたしは香奈子の声に思いがけない安堵を感じていた。こんなふうに人と会話するのが久しぶりだったからかもしれない。
「待機所で、いつも本読んでたじゃん。あれ何?」
「いろいろ」
「文学でしょ」
「いろいろ」
香奈子はまた笑った。その軽やかな笑い声は、疲れた体に浴びるシャワーのようにわたしの内面を滑った。
「本読んでるときのあんたの顔、きれいだったよ。好きだった。でもあんたが満足した顔、結局見れなかった」
香奈子の明朗な声は聞くたびに深みを増し、わたしに迫ってきていた。そうして初めて香奈子に興味を覚えていた。
「あなたはどうなの? 今満足してる?」
「まさか」
香奈子は素直に言葉を返した。
「私はね、絶対に満足しないの。満足しないことで高みを目指すのよ」
「高みって、AV女優としての地位?」
「そんな話じゃないの。人としての高みよ。生まれたからには一番高いところまで上ってみたいじゃない」
「宇宙とか?」
「ちょっと、本気で言ってるの? ばかね」
そこまで言うと香奈子は、もう行かなきゃだから切るね、気が変わったら連絡してねと言い置いて電話を切った。
わたしはレンタルビデオ店に行って香奈子の出演作を探した。芸名を聞き忘れたことに気が付いたが、すぐに見つかった。新作のところに、パッケージがこちらを向いて陳列されていたからだ。彼女の黒い瞳、尖った鼻、小さく開いた口。確かにそこには「満足していない」香奈子の顔があった。
わたしは昔見た「子猫物語」をレンタルして家に帰った。映画は見ずに鏡を見た。自分の顔が、他人の顔に見えた。その疲れた顔からは、香奈子の目よりも、真二の目が思い出された。
次の日、通帳を記帳しに銀行に行った。残高の桁を数えながら、これからどういう人間になるのかを考えていた。
わたしは、「よっちゃん」を呼び出し、心の真ん中に据えた。そうすることで、すべてがうまくいくような気がした。
確かに、うまくいったといえば、うまくいったのかもしれない。
わたしは客のひとりにより正社員の職を斡旋され、店を辞めた。その客は就職先の人事課長であり、既婚者だった。わたしは彼の「知人の娘さん」という役を演じなければならなかった。そうしたことから、彼との関係はなかなか終わらなかった。
わたしは彼にお願いし、わたしのことを「よっちゃん」と呼ぶように言った。彼は素直に聞き入れた。よっちゃんと呼ばれる時間は心地よかった。それが理由なのかどうかはわからなかったけれど、ほどなくしてわたしは妊娠した。
彼は驚くほど憔悴し、子どもを殺すようわたしに懇願した。それを退けたことにより、わたしは「一身上の都合」により辞めざるを得なくなった。彼はあっさりとわたしから離れていった。わたしは、わたしに与えられたものやことを見返すにつれ、まさしく正しい道を歩いているのだと思うようになっていた。
わたしは自宅のアパートで、ひっそりと子どもを産んだ。クリスマスが近い夜だった。もう子どもを産むことに決まっていたから、まったく不安はなかった。
予定通り、女の子が産まれた。赤かった顔は、幾日かするとつるりとした白いものになった。まつげのない瞳の上には、控えめな二重の線が引かれていた。小さなつぼみのような唇は、指も乳首も同じように懸命に吸った。
「わたしに似てる?」
わたしは何度も話しかけた。
「似てるよ。似てるよね。ママにそっくりだね、咲ちゃんは」
赤ん坊はわかったのかわからないのか、じっとわたしの顔を見た。新生児はほとんど見えていないなんて言うが、あれは嘘だ。咲はしっかりとわたしの顔を見て、覚えようとしていた。顔を左右に動かすと、目でそれを追った。
赤ん坊を連れて帰って来た娘を見て、母は泣いた。施設に預けるつもりだと言ったら、うなずいてまた泣いた。わたしは赤ん坊とともに、大学の学費に足りるだろう額の現金を持って来ていた。母はそれをしっかりと受け取って、また泣いた。
母はわたしに正社員の職歴があるということを喜んだ。それさえあればなんとかなる、と言ってまた泣いた。
年が明けて、わたしは初詣に行った。人の少ない時間帯を選んだつもりだった。境内は思っていた以上に人で賑わっていた。マスクをしたわたしはお参りを済ませると、おみくじを買った。期せずして、大吉だった。「待人 来る」という文字に目が引きつけられた。その文字を何度かなぞった。すると声をかけられた。
真二だった。わたしの肉体は自動的に雪子になり、何がしかの期待を真二に投げかけようとした。わたしはそれを制しながら、二人の会話をじっと聞いた。雪子はいくつかの嘘を組み合わせながら、冗談めいた言葉を真二にぶつけた。真二がそれを真剣に受け止めて、自分の求めているものをよこしてくれるかもしれないという希望がそこには隠れていた。わたしはそれを嘲るように、真二に向こうとする体を押さえつけた。真二は別れ際に連絡先だと言って携帯による赤外線の送信を申し出た。受け取ったデータには電話番号だけでなく、住所の文字情報もあった。わたしもお返しに赤外線を送った。その儀式がつつがなく終わると、真二は微かに唇の端を持ち上げて笑った。初めて見るような顔だった。
真二が去って行くと、雪子は最後の悪あがきを提案してきた。
わたしは、それを実行することにした。
この瞬間までに、わたしが書いたもの。わたしが生きた記録であるこのノート。そこに、下らない作り話を添えて。
これを、真二に送るのだ。
愚かなことに、雪子はまだ真二のことを信じている。
そして、わたし自身も。
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