青ノート7

 あの夜わたしは、月の光の中で、わたしではなくなっていた。わたしであるはずなのにわたしでない、そのくせ独立した、雪子でも月子でもない人格。その人格に肉体を乗っ取られ、わたしは影としてその光景を見ていた。

 わたしの肉体は、布団の中にいるのが真二だとわかった。驚いたが、好都合だった。そのまま新一だと誤認し、新一を得て満足した振りをした。実際肉体は満足していたようだった。真二がたまらずに真実を告白したときも、驚き哀しむ演技をした。その中で、初めて澤田を罵倒する言葉が口から出た。真二は真っ黒に塗られた目で肉体を見ていた。肉体は見られていることを存分に肌で感じながら泣き続けた。

 何故そんなことをしたのか、いまだにわからない。あの月の光の下で、わたしは昇りかけていた。いや、ほとんど昇っていた。そのとき肉体で確かに得たはずの痛みも、もはや思い出せないことが証拠だ。

 ハチに刺された、という言葉が飛び出したのもまったく意外だった。真二を貶めるつもりはなかった。だが雪子はそうする必要があった。わたしの肉体はハチの尻に光る針を思い浮かべながら、じっとりと涙を流し続けた。

「やっぱり、そうだったのか。どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ」

 真二が帰った後、新一はそう言った。彼はもはやわたしの嘘に気づいていた。いながら、甘い感情のみでそれを否定し続けてきたのだと言う。

「そういう、症状、があるなら協力する。なんでもっと、相談してくれなかったんだ? 自分は普通じゃないって言うのが、怖かったのか」

 新一の口調はあくまで優しかった。年若い妹に対するような……自分よりもずっと少ない力しか持たない、庇護するべき対象として見ているように。肉体の中に沸き起こった感情はとても熱く、わたし自身をも傷つけた。月子は力なく息を吐いたのを最後に、もう消え去っていた。それが望みだったはずなのに、肉体はその喪失にちぎれたような痛みを感じていた。いつの間にか自分のものとして疼き出した股間の痛みよりももっとずっと大きく、それは長く長く尾を引いた。溶岩のように溢れ出た感情は、わたしに枕を投げさせた。枕はその感情を完全に乗せることはできず、鈍い軌跡で頼りなく飛んだ。新一はそれをあっさりと胸で受け止めて、黙ってわたしを見た。月の光に半分照らされた彼の顔は、青白く美しかった。わたしはエンデュミオンを見つけたセレネーの気持ちを思った。たとえ語り合えなくとも、わかりあえなくとも、相手を永遠の眠りにつかせることで満たせる恋情など、若さ故に陥りやすい愚かな思い込みに過ぎない。

 新一も、わたしも、ただその思い込みに夢を重ねることで、自分を満たそうとした。

 わたしの涙は、頬に貼りついて乾いていた。新一は、枕を持ったまま哀れみを含んだ目でわたしを見た。

 帰り際、彼は言った。

「もう後は、どうしようと勝手だけど。真二と付き合ってもいいし、澤田に慰めてもらってもいい。真二はたぶん、君を受け入れないけどね。おれには、わかるんだ」

「分身だから?」

 新一はそれには答えない代わりに、大きく息を吐いた。

「おれは、君のせいで真二を失ったよ」

 失ったもなにも、とわたしは思った。初めからわたしは何も手にできていなかった。それはあなたたちにしたって、きっと同じこと。

 新一は、去って行った。

 その後、残った雪子は真二に希望を見出して足掻こうとした。でも、すでにわたしは彼に期待していなかったし、彼もわたしに期待などしていなかった。わたしは彼に手を重ねることで、そっとそれを終わりにした。雪子が古い紙のようにぼろぼろと崩れて、風に散っていく光景が頭をよぎった。

 結局わたしの中には、雪子と月子の残骸が残った。彼女らが追い求めた二人の男は、彼女ら二人を受け入れるにはあまりに脆かった。

 普通じゃない、という、最初からわかりきっていたことを、改めて投げかけられる。それがこの一連の茶番の結末だった。

 ただ今になって、こうも思う。あのとき、肉体はわかりきった演技をすることで、きっとそれを最後にすべてを壊そうとしたのではないのだろうか。手ごたえのあるものなど何一つ掴むことのできなかった高校生活の中で、すべてのまやかしと思い込みとをぶん投げることで、それを支えていた人間関係や場を粉々に破壊し、新たに一から作り直したかったのではないだろうか。

 今となっては、新一の著した台本を最後まで読むこともやぶさかではない。もう二度と、叶えられないだろうけれど。

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