青ノート6

 あの日以来、月子は徐々に膨らんでわたしを圧迫した。

 その矢先のできごとだった。彼の影が現れたのは。

 わたしは最初、ついに幻覚を……自分だけでなく他人の影までを現実に生み出してしまったのだと、その姿を見ても敢えて見えない振りをしたのだ。

「ビラ配りしてて遅れました、ごめんなさい」

 そう言って彼に頭を下げた。わたしは副部長として部活に身を入れることで月子を追い払おうとしていた。

「ビラか。どうだった?」

「けっこう手応えあったよ」

「そうか。すごいな」

 彼は黒板に向かって立っていたが、そう言って笑った。そうして視線をちらりと背中側に流した。その先に影がいた。だからわたしも、その視線を追うほかなかった。

 そこにいたのは彼と同じ顔をしながら、彼とはまったく別の顔を持った男だった。ぴかぴかの、まだ硬い制服。彼の体を包むその制服と、わたしに向けられた鋭い目だけが、新一とは違う人間であるということを主張していた。ただその瞳の中に、懐かしく、それを思うだけで狂おしいものを見た。それは、新一の目に宿る悲しみや期待よりももっともっと濃い、諦めと痛みを伴う孤独だった。

「あなた、……弟君?」

 影の視線を真っ向から受け止めながら言った。影は彼とは違い、わたしを見るという行為を自ら意識し、他人行儀に頭を下げた。

「そう。真二」

 彼はわたしの反応を楽しむように唇を軽く持ち上げた。わたしは心の内に渦巻いた不安と恐れを悟られないように早口に言った。

「えー、びっくり! 双子じゃないの? なんか、こっちがかたなしだよ。私双子で姉いるんだけど、そんなに似てないもん」

「目印必要か?」

 彼にそう言われてわたしはうなずいた。

「うん、必要。帽子とか、ハチマキとか、そういうの」

「じゃ、用意しとく」

 彼は弟とわたしを交互に見た。楽しそうな顔だった。

「演劇に興味あるの?」

「特にこれといって興味のあるものがないから」

 真二はそう言った。驚いた。声まで同じだ。わたしはいよいよ、足に力が入らず、いつ崩れ落ちてもおかしくないことを感じていた。ビラの束や鞄を置くことを口実に、手近な机に手をつく。

「よろしくね、真二君」


 十四歳という自分の年齢に、正体不明の危うさを感じていたあの頃、洗面台の鏡の中で他人のようにわたしを見据えたあの目。

 真二の目は、あのときの目と同じだった。

 新一が初めてわたしを見たあの目に宿っていたのは、初めから真二の孤独だった。真二は新一の一部だった。わたしは新一の中の真二を求め、欲していたのだ。

 わたしが本当の鍵だと信じていた新一の輪郭は、どんどんぼやけていった。その代わりに、真二のしっとりと濡れたどこまでも黒い目と、その静かな物言いは、彼こそが本当の鍵であるという証に思えるかのように、わたしを惹きつけた。

 だが、新一と真二という二人の男を前に、わたしの中の月子はますます大きく、強くなった。彼らと接し、視線を交わし、言葉を交わすたびに、わたしの中の月子は大きな声でわたしを笑った。新一に抱いていた感情はまがい物だったのかと、似ているというだけで見誤るその目の節穴ぶりを、月子は笑った。

 わからなくなっていった。どんな人間にも合わせて自在に姿を変えられるはずだった鍵穴は、喜多原新一と真二という兄弟の前に砕け散った。

 わたしは澤田の望む女子生徒でいることで、なんとか自分を保っていた。澤田はそれを都合よく解釈した。わたしのとなりの空間を指定席にすることをはばからなくなった。兄弟の前でもそれは変わらず、やがて兄弟はわたしと澤田が交際しているのだと思い込むようになった。わたしはそれを否定することもできなかった。否定した後でどのようにふるまえばいいのか、演じればいいのか、まったくわからなかった。

 その結果、月子が光を得、命を得ることになった。

 夏休みに入ったある日、澤田に誘われて二人で映画を見に行った。澤田の崇拝する劇団主催者による脚本の映画が、都合よく公開されたのだった。誘い方も、当日の運びも、すべて自然だった。澤田が「どこかで遊んでいこう」と言い出すまでは。

 わたしたちはしばらく駅ビルの中の書店やホビーショップなどで時間を過ごした。そのうち澤田は「カラオケでも行かないか」と言い出した。わたしはすぐに断った。澤田はめげずにゲームセンターを提案した。わたしは少し考えた挙句、そこへ行ったら帰ることを条件に承諾した。澤田はクレーンゲームで猫のぬいぐるみを取ってわたしにくれた。それほど欲しいと思っていなかったが、クレーンゲームで景品を獲得する場面を見たのが初めてだったから、わたしは興奮した。澤田はそれで満足したようだった。ボールチェーンのついたそれを、夏休み中だけでも鞄につけてほしいと懇願された。わたしはそれも承諾した。

 結果として、この鞄につけた猫のぬいぐるみと、わたしたち二人を駅ビル内で目撃していたらしい新一の自己判断により、わたしと澤田は交際している、という事実が部内で出来上がった。真二に言われるまで、わたしはそれに気づかなかった。澤田は目的を達成したらしく満足していた。澤田を利用したようで、逆に利用されていた。わたしを嘲笑う月子の声はますます大きくなり、頭の中でがんがんと響いた。そんな折だった。新一が彼女を要求したのは。

 月子を劇に出すことはできない、とわたし以上に主張したのは澤田だった。澤田はわたしのことを知りたがり、二人でいるときは質問ばかりした。その中に月子のことも入っていた。わたしは澤田の思う理想通りの月子像を作り上げて語ってやった。思いがけないことに、澤田の中の月子像は、わたしが思う以上に大きなものになっていたらしかった。

 新一が家にやって来たのは、まったくの予想外のできごとだった。わたしはどうすれば月子を消すことができるのか、ベッドに横たわって一日中考えていた。母が買い物に出てすぐにベルが鳴ったのは、偶然だと思いたい。ドアスコープのむこうで、彼はうつむいていた。一瞬真二かと思ったが、もうこの頃には目印がなくとも十分見分けがつくようになっていたので、すぐに兄のほうだとわかった。

 わたしは驚いてすぐにドアを開けた。平木や、母や、もしかしたら咲に……見られてしまったら、と思うと、気が気ではなかった。

 すると不思議なことが起こった。彼は、初めてわたしを見たときのように、はっきりとした興味を持ってわたしの顔を見回した。ただ、あのときの、遥かなものへの羨望や憧れのようなまなざしではなかった。彼は確かな熱を持って私を欲していた。そうしてこう言った。

「もしかして、お姉さん、ですか」

 このとき彼の顔に宿っていた期待を、どう言い表したらいいのだろう。そしてわたしがその期待を裏切るようなことを、どうしてできただろう。

「はい」

 わたしは月子になった。月子として彼を迎え入れ、不在の雪子の代わりに彼の話を聞いた。そうして月子の身の上話をした。澤田にしたのと同じ話を、さらに分厚くして彼に聞かせた。彼は同情的だった。雪子に悪いことをしたから謝りに来た、ということだったが、この様子では最初から月子が目的だったのかもしれない、と言うほどに危うげな表情でわたしを見た。

 新一が帰った後、なんてことをと思いながら、わたしはまた一方で喜びを感じていた。わたしは新一の失望を経験していた。その新一に、同じ体でまた求められるようになったことが、そもそもが嘘のはずなのに、うれしかった。何故だか安心していた。

 それに、月子だ。月子という影が自分の肉体という実体を得ることで支配し、管理できるようになったではないか。

 月子を消す方法が手に入った。新一を利用して、月子として失望を経験すればいいのだ。

 その後は簡単だった。澤田にしたように、わたしは新一の期待に応え続けた。

 こうして演劇部は、月子により決裂した。

 月子は、別人のようにしおらしくなった。愛を得ることで女がこれほどまでに変わるのだとわたしは自分のことながら驚きを持って彼らを観察した。新一が月子に注ぐ愛はとても熱情的で、澤田のものとはまったく別物だった。まるで薫と匂の宮だとわたしは笑った。浮舟も体が二つあればよかったものをと思ったのだろうか。

 月子は危なげなく新一の理想を演じた。わたしは月子を演じながら、わたしのせわしない脈を好ましいリズムとして受け入れてくれる存在が目の前にいることを不思議に思った。そうして憎らしくなった。飾らず、何も身に着けずにふるまうことをただありのままで受け入れ愛してくれる男がいる月子のことが。

 わたしは月子に何度か、新一を試すような言動をさせた。新一はどこまでも月子を許し、月子のどんな言葉にも興味と愛情を持って応えた。多少のことでは動揺しないほどに、新一の腕は月子に食い込んでいた。

 新一は、月子を真二に引き合わせた。真二はわたしを雪子だと主張した。それでも新一の妄信は解けなかった。わたしは真二に期待した。真二が月子の正体を暴いてくれることで、改めて真二を求めることができるようになるのではないかと考えた。

 しかし真二は期待したような働きをしてはくれなかった。

 親が不在の日、月子は新一を家に泊まるよう誘った。新一は喜んで快諾した。まだ二人の間に男女らしいことは何も起きていなかった。新一の月子を見るまなざしに熱情が込められているのは確かだったが、彼は二人の現状を最良と捉えているのか、それ以上先へ進もうとはしなかった。無知や無経験から来る怖れだけでは説明がつかなかった。それほど新一の表情には幸福が溢れていた。月子はその幸福を全身で受け止めた。そうして月子自身が女の体を持っていることを新一に思い出させ、その関係をどちらかに転がすために……月子は一計を案じた。新一は、途中で帰らせるからという言葉を添えて真二を伴うことを月子に承諾させた。

 わたし自身が月子でもあるということを、演じ通す気はもはやなかった。

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