青ノート5

 演劇部に入部したわたしは、早速役を与えられた。活動日は水曜以外で、土日はなかった。ほとんど毎日、澤田と一緒に部活に行った。澤田はその短い時間を大事にしているようだったが、彼の言う言葉はほとんどわたしに届いていなかった。わたしはただ新一を心に描き、新一のあのまなざしを獲得することを目的に動いていた。確信していた。彼こそが、本当の鍵なのだと。

 高校に入って以来、周りの人々は鍵で、わたし自身は自在に形を変える鍵穴だった。

 それでも固く固く閉ざされた本当のわたしの鍵は、形を変えず、ただ待っていた。咲がそれだと信じながら、女では無理なのだと気づきながら、その鍵を持っている人が、この世界のどこかにひとりだけ――ひとりだけいるはずだと。

 確かめたかった。彼がその人だと。わたしは彼の前でさまざまに演じた。確実に彼がわたしを女として意識し、やや気後れさえしている様子が手に取るようにわかった。彼はよくわたしを褒めた。

「豊泉がいるからなんとかやってこれてる」

「うまいこと澤田を躾けてくれて助かるよ」

「この黒髪は昨今では貴重だな」

 そんな言葉で私を喜ばせた。彼は私に触れようとしなかったし、二人になろうと努力するようなこともしなかった。そこが好ましかった。

 夏の大会が終わり、秋の文化祭が終わるまでは、彼は二年生に対し従順だった。一月の引退を前に次期部長に指名された彼は、それをまったく当然のことのように受け入れた。澤田だけが苦い顔をしていた。実際彼は優秀だった。既存の台本に対し角度の違った解釈をし、それを照明による演出に取り入れたりもした。大会は結局例年のように賞には入れず、文化祭の公演も去年と同じく客が少なく、ぱっとしなかった。彼は言った。

「ヒロインを豊泉がやればこの倍は客が入る」

 冗談でしょう、とわたしは笑った。澤田は「いや、シンイチの言う通りだ」と言った。彼は澤田を見てふんと鼻で笑った。

 年が明けると、三月の追いコンでやる劇を途中まで書いてみた、と彼は一冊のノートを掲げた。ピンク色の大学ノートだった。例年追いコンでは一年生だけで劇を行い、その後全員で飲み食いをする。彼は本領発揮とばかりにはりきっていた。

 それ以前にも、彼が書いたものはたくさん読んできた。その中には、有名な小説や漫画の設定やモチーフを、舞台や表現だけ変えて自分なりに再現しているようなものもままあった。ネタ元をマイナーだと判断していたのかはわからないが、かなり露骨なものもあった。わたしはそんな作品群を読むにつれ、彼の弱さを思い、愛おしくなっていった。澤田はさまざまな細かい部分を批判しながらも、彼の才能とやらを認めてはいるようだった。

 この人も、演じることなしでは生きられない人なのだ。わたしは嬉しくなった。「才能のある自分」を演出する才に長けた結果が、今の部長という地位だ。ただそれには、「喜多原君はほんとにすごいね、才能あるよ、書き続けなよ」と先輩たちの前で言い続けたわたしも貢献していることだろう。

「前に豊泉がいいって言ってくれたやつ、あったろ。あれをきちんと仕上げようと思ってな」

「途中なんだろ?」

 澤田が言った。

「最後まで書き上げてから見せてくれよ。じゃないと判断なんかできない」

「いや、もう頭の中ではできてるんだけど、とりあえずここまでの部分の感想が欲しくてさ。とにかく、豊泉に見てほしくて」

 そう言って彼はノートをわたしに差し出した。わたしは、一体どれのことだろうと思いながらノートを開いた。彼の書くものはほぼすべてに「いい」と言ってきたのだ。澤田もとなりから覗いた。

 ノートの一ぺージ目に、大きくタイトルが記されていた。「フライング・トゥ・ザ・ムーン(仮)」。彼の作る物語のタイトルは、英語を使ったものが多かった。わかりにくいし無駄に長くなってしまうから、わたしは彼のつけるタイトルがあまり好きではなかった。

 高校生のB子には、A子という双子の姉がいた。A子は遺書を残して海に身を投げる。A子の遺書には、失恋をしたことと両親やB子への謝罪、そして最後に「愛は毒。私は月へ昇る」という不可解な言葉が書かれていた。

 B子と同じ科学部に所属するC太とD男は、B子から見せられたA子の遺書を読むうちに頭痛を起こし、異世界へ飛ばされる。そこにはB子もいた。そこは、A子の遺した残留思念の作り出した世界だった。かつてA子が見聞きした言葉やシーンが三人の頭の中に次々と流れ込んでくる。

 そのうちに、A子は生前ある男と親しくなったが、恋人となる前にある女に奪われたという事実がわかった。

 終盤、それまで頭を抱えていたB子がはっと顔を上げる。


 B子 違うわ。これは、私の記憶よ。

 D男 (B子のほうへ向き直る)何だって?

 B子 (舞台中央に進みながら)私はA子。死んだのはB子なの。あの憎いB子。

 C太 まさか。嘘だろう。

 B子 嘘じゃない。私はA子。その遺書も、私が書いたもの。


 わたしはそこでノートを閉じた。澤田が「え」と言った。

「どうした?」

 わたしと澤田がページを繰る様子を黙って見ていた彼は、静かにそう言った。

「ごめん」

 うまく言えなかった。手が震えた。

「わたし、これ、なんか怖い」

 それは、本物の言葉だった。

 女性ひとり、男性二人の三人で行われる演劇。わたしは当然、B子の言葉を自分のものとして読んでいた。そのうちに、自分自身がB子と同化しているような、もっと言ってしまえば浸食されているような、落ち着かない気持ちになった。

 不気味だった。書かれただけのテキストが現実に影を落とし、そのうち実体を持って動き回るんじゃないだろうか。

 わたしには、その台本が、何か緻密な予言書のようなものに感じられた。

「怖い?」

 彼は無理に笑顔を作ろうとしたようだった。だがすぐにそれをやめて言った。

「どうして?」

 となりにいる澤田も、わたしの顔をじっと見ていた。わたしは二人の視線から逃げるように、きゅっと目を瞑った。そうして絞り出すように言った。

「わたしにも、双子の姉がいるの」


 そうして、月子は生まれた。

 架空の姉。このときからずっと途切れずに、どこまでもわたしに付きまとう影。

 結局追いコンでは「高校生のための演劇台本集」から選んだ三人用の劇をやることになった。澤田の熱意のこもったセリフ回しに対し、彼は魂をどこかに置いてきたような演技をした。二年生たちの拍手を浴びながらも、わたしは月子の影を恐れ、脅えていた。わたしをどこかからじっと見ている月子。もうひとりの自分。

 わたしは何度も「フライング・トゥ・ザ・ムーン」を頭の中で演じた。一度読んだセリフたちは頭にこびりつき、日を追うごとに根を張っていくようだった。そうして彼が何故あんな台本を書いたのかを考えるようになっていた。

 A子とB子。双子という名の、ドッペルゲンガー。

 ドイツの詩人・ハイネの詩では、ドッペルゲンガーは月の光に浮かび上がる。過去の自分の感情という、自分の分身。月光があって初めて姿を現す、影。

 影を見つめていると、そのうち影が自分として生き始め、こちらの自分は月に昇る。自分自身が月光となる。そうしてかつての自分である影に降り注ぎ続ける。

 美しい文章を紡ぎ、若くして亡くなった小説家のある作品。彼の書いた台本は、きっとそこから得た着想による。「月へ昇る」というのはつまり、肉体的な死を表している。

 あの台本のB子は果たしてB子の振りをしたA子なのか、それともA子の降り注いだ結果としての影のB子なのか。

 その結末を、わたしは知りたくない。

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