青ノート4

 わたしはK高に、咲はM高に進学した。

 入学式の日が同じだった。一緒に咲がK駅まで来て、帰りも待ち合わせて二人で帰る約束をした。駅地下の店で、色違いの猫のマスコット人形を買った。それぞれが真新しい鞄につけた。ボールチェーンのそれを、わたしはひと月でなくした。その人形と同じように、咲はわたしの人生から消えていった。互いの近況報告や新しくできた友達、入った部活、そこにいる先輩、気になる男子、そんな話は、二人の間に広がる距離と時間に呼応するように、密度を保てなくなっていった。五月の連休に会ったのを最後に、咲という存在はわたしの中から消えた。

 わたしは、咲が言ったことを、自分自身で実行した。知らない人がたくさんいる場所で、新しくやり直したのだ。同じ中学から来た人間が誰もいなかったことが幸いした。それはスムーズに実行された。わたしは自分に新たな人格を与えた。その頃よく読まれていた漫画を数冊参考にした。少女漫画の主人公はやや性格が極端な面が多かったから、その親友やクラスメイトとして出てくる人物に目をつけた。せりふを何度も読んだ。言葉遣いまで変えた。自分のことをしゃべり過ぎるのはよくないと学んだ。そうしてわたしは、人に合わせて自分を作り変えることに長けていった。労せずとも、友達がたくさんできた。そうして、初めて名前で呼ばれるようになっていた。

「ユキコちゃんってもうひとりいるから、苗字であだ名作っていい?」

 そう言われたのは、小学校に上がってすぐのことだった。前の席に座った子が、わたしの知らないユキコを引き合いに出してそう言った。

 なんでもいいよ、とわたしは言う。

「じゃあ、とよちゃんとか」

「んーなんかいまいち」

 いつの間にか加わっていたもうひとりの女子が言った。

「じゃあとっちゃん」

「それは、父ちゃんみたい」

「それじゃあ、よっちゃんは?」

「ああ、それがいいね」

 そうしてわたしは「よっちゃん」になった。高校生になった今、わたしをこの名で呼ぶ人間は、もういない。

「豊泉って、珍しい苗字だな」

 ある日そう言って話しかけてきたのは、澤田という同じクラスの男子だった。わたしは笑顔で答えた。

「そうかな」

「初めて聞いた。どこに住んでるの?」

 短い前髪が額の上のほうで柔らかく散っているのがかわいく見えた。白い肌にはにきび一つなく、清潔感があった。小さな瞳とその声に、知性が感じられた。

 そうしてたわいのない会話を続けた後、澤田は言った。

「豊泉さん部活入ってないよね」

 これが本題だったか、とわたしは思った。入っていないと答えると、澤田は続けた。

「演劇部なんだけど、一年生の女子部員がまだいないんだ。見学だけでも来ない?」

 演劇部、というのは、まったく未知の世界だった。去年の文化祭の公演であまり上手じゃない劇をしているのをちらりと見た程度だ。

「演劇かあ」

 わたしの消極的な態度を見て取った澤田はすぐさま続けた。

「何も必ず役者にならなきゃいけないわけじゃない。裏方でもいいんだよ。音響とか、照明とか。シナリオ書くことだってできる」

 正直に言ってしまえば、まったく興味がなかったわけではない。日常的に演じ続けていたわたしは、演劇、という言葉に多少なりとも反応はしていた。だが澤田はまったくそれに気づかなかった。

「見学だけでもいいの?」

 わたしがそう言うと、澤田はうれしそうに笑顔を作った。その顔もまた、少しかわいかった。

「もちろん。来てくれる?」

 そうしてその日、わたしは演劇部の部室である予備室へと行くことになった。

 そこで、彼に出会った。

 彼、喜多原新一は、澤田以外のただひとりの一年生の部員だった。入部早々見学に来ていた他の一年生男子と喧嘩をして、先輩たちも持て余し気味だということだった。

「脚本家志望で、確かに才能はあると思うんだけど」

 予備室への道中、澤田はそう言った。彼の書いたものを読んだことがあるのかと聞くと、遠慮がちに「少しだけ」と答えた。彼の態度にはっきりとしないものを感じたわたしは、後にその理由を知ることになる。

 澤田も、脚本を書きたくて演劇部に入ったのだった。

「演じることは嫌いじゃない」

 翌年、わたしの彼氏になって早々、澤田は言った。

「でも、おれは本当は、書きたかった」

 書けばいいじゃない、とわたしは言った。澤田は繋いだ手に力を入れてわたしを見た。

「そう思う?」

 わたしはその目に、不安と微かな憎悪を見た。

「あいつの書くものを、超えられると思う? おれが」

 わたしはうなずいた。超えるとか超えないとか、どちらが優れているとか、そんなことはどうでもよかった。わたしが判断することではない。世界というのはどうして一部の主観を取り上げて、それを正しいものとして掲げるような真似をするのだろう。

「嘘だよ」

 澤田は目を逸らした。わたしは軽く失望した。

「無理なんだ、おれは」

「そうかしら」

「なあ、雪子は?」

 唐突だった。

「雪子だって、書こうと思えば書けるだろ。雪子の目は本物だ。雪子がいいと思うものは、本当にいいものなんだ。おれはそう信じてる。なあ、書かないの?」

 おれの代わりに、という言葉が付け加えられるのをわたしは待った。だが澤田は口を小さく開けたままわたしを見るだけだった。その小さな瞳は少年のように危なげな純粋さを放っていた。

「わたしは、書くよりも、演じる方が、好き」

 そう言ったわたしを、澤田は同じ瞳で見続けた。そうしてうなずいた。安心したように。

「その方が、雪子には合ってるかもな」

 こんなやり取りを事前に予想できていたなら、わたしはきっと入部もしなかったし、澤田を道具のように使わずとも済んだのだ。

 予備室の扉を開けると、二年生数人が大げさな歓迎をしてくれた。女の子だ、しかもかわいい、とお世辞まで言ってくれた。わたしはファンデーションを塗るようなメイクはもうしなかった。その代わり、眉を抜き、描き、マスカラでまつ毛を伸ばした。ピンクベージュの口紅をつけた。そうして伸ばした髪にストレートパーマをかけた。どうにかしてまとめないとイライラしてろくに生活できなかったごわごわの髪が、梳かすだけでそれなりに見えるようになった。

 入学して、ひとつ気づいたことがある。かわいいかどうかは顔のパーツではなく、どれだけ場にふさわしいおしゃれをしているかどうか、その意識があるかどうかの判断で決まるのだと。ストレートパーマにポイントメイク、流行り始めたルーズソックス。それだけで私は「かわいい」女子なのだ。単純な世界だ。

 さまざまな質問を浴びせる先輩たちを適当にかわしながら、わたしは勧められるがままに椅子に座った。そのとき、黒板のすぐ横にひとりの男子生徒が立っているのを見つけた。それが喜多原新一だった。

 新一は、わたしをじっと見ていた。その表情は、すべてを忘れていた。自分が今、わたしにどのような目で見られているのか、わたしや澤田、先輩たちがその顔を見て果たしてどんな感想を抱くのか、そんなことには考えも及ばないと言わんばかりの、ただただわたしを見るだけの顔だった。わたしはその顔に見とれた。その顔の中に、はっきりとわたしへの興味を見た。わたしはその興味をすくい取りながら、彼の顔を観察した。彼の目は、どこか懐かしかった。全然似ていないのに、エドワード・ファーロングを思い起こさせた。咲の持ってきた切り抜きで見たあの目、二重まぶたの下で、どこか斜めに向けられたその目、遠い何かを求めながらどこか虚ろで、不満と孤独を抱えながらも何かを待っている、その目。

 いや、やはり違う。似てはいるけれども、わたしが思い出したかったのはそれじゃない。

「同じクラスの豊泉さんだ」

 澤田が彼に向かって誇らしげにそう言ったときようやく、わたしは思い出していた。それは、いつか洗面台の鏡で見た、あの目だった。

 わたしたちはその日、お互いを見つけた。

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