青ノート3

 ある日の朝、いつも通りトイレに行き、洗面所で顔を洗った。濡れた顔を上げて鏡を見ると、そこに知らない顔があった。正確には、知らない人間の目が私をじっと見つめていた。

 それは誰かの目だった。わたしであり、わたしでない誰かの顔に乗っかっているだろう目だった。その目は声を発せられないことを嘆くように、風船が破裂するその瞬間の直前に見られるような最大限の緊張を持ちながら、細かく震えていた。

 驚いて、思わずタオルで顔を押さえた。それはたとえば風呂場でシャンプーの容器のとなりに生首を見つけたような感覚だった。あってはならないものが、そこにはあった。

 恐る恐るタオルを剥がして再び鏡を見ると、いつも見る自分の顔がただただ白く映っていた。

 鏡に顔を近づけて、何度も確かめた。角度を変えても、照明をつけても消しても、見飽きた顔に変わりはなかった。

 あれは誰だったのだろう、と制服に着替えながら考えた。咲ではない。自分の目なのだから自分以外にありえないのだが、それではあの驚きと違和感の説明がどうにもつかない。

 わたしはその印象を思い起こすたび、その目の持ち主を抱きしめたくなった。そんなにひとりで打ち震えているのなら、どうして助けを求めないのだと詰りたくなった。それほどの、自分の中にあるとは思えない激しい渇望を湛えた目だった。

 だがその日以降、同じ経験をすることはもうなかった。鏡を覗き込む前に、そのできごとを意識するようになってしまったからかもしれない。

 タンスの上のメイク道具は、いつの間にか埃を被っていた。


 平木の両親が留守になる日は簡単にわかった。彼らは夫婦で自治会長をしていて、会合の日は長時間いなくなる。日時は回覧板で知った。金曜の夜だった。母親もいなくなる。父親は元々仕事でいない。わたしはその時間に家を抜け出す。平木の家に行く。直前まで、誰も出てこないことを期待した。それは確かだった。だが平木はいた。玄関まで出てくると、無表情で「何」とだけ言った。

 わたしは咲のことで話があると言って家の中に入った。その後は簡単だった。平木はあっさりとわたしの罠に落ちた。十代の男の性欲というのは押さえつけるたびに大きくなるものなのだ。今となっては成功するのが道理だというほどに、あのときの作戦の秀逸さがよくわかる。

 わたしは本や漫画で得た知識だけで平木を満足させた。わたしの体は、傷つけずに。

「ねえ」

 平木は言った。甘くかわいらしい声だった。

「おまえと付き合えば、こういうこと毎回してくれるの?」

 わたしは笑った。

「咲と別れてくれるだけでいいよ」

 平木はその言葉を実行に移した。やがて咲の沈んだ顔が日々見られるようになった。そのうち咲は、わたしのところに戻って来た。わたしが何をしたかも知らないで。

 わたしは安心していた。平木とは、カラオケ屋や神社の裏でたびたび待ち合わせた。そのうち平木だけでなく、他の男子も同じことをわたしに求めるようになった。断る理由がなかったから、受け入れた。それでもわたしは体を開かなかった。見られ、触られ、吸われようとも、決して開かなかった。

 わたしは咲の体を想像するようになっていた。咲とこういうことはできないし、したくない。なにげなく発した言葉を受け止めて、ただ返してほしい。それが常にできるだけの距離に、いてほしい。


 同じ高校に行こう、と言ったとき、咲はしばらく丸い目でわたしを見つめた。冗談だと思ったらしい。

「何言ってるの。無理に決まってるじゃない」

「どうして?」

「わたし、K高なんて無理だよ。M高にしようと思ってる」

「だから、わたしがM高へ行くの」

「は?」

 咲はそう言ってから笑った。

「冗談でしょ。K高行ける人がM高なんて。先生もお母さんも、K高行けって前から言ってたんでしょう」

「行くのはわたし、受けるのもわたし。わたしが決めること」

「そうだけど」

 咲は、その頃よくするようになった顔でわたしを見た。困ったような、戸惑うような、消極的な薄暗い顔。

「どうしてM高なの」

「咲と一緒がいいの」

 咲はまた丸い目でわたしを見た。そうしてゆっくりと視線をそらし、唇だけで薄く笑った。かすかに震えていた。

「それは、うれしいけど」

 そうしてちらりとわたしを見た。

「もったいない。やめてほしい」

 そう言うと、もうわたしと目を合わせようとしなかった。

「わたしと一緒は嫌?」

「そうじゃないよ。卒業しても会って遊ぼうって、約束したばっかりじゃない」

 その約束がきっかけだった。咲がそんなことを言い出すまで、同じ高校に進まない限りはこうして毎日会って話すことができなくなるのだということに、気づかなかった。

「でも、今みたいじゃなくなるでしょ」

 わたしが言うと、咲は小さくうなずいた。

「そうだけど」

「咲は嫌じゃないの? 変わってしまうことが」

「怖いよ。でも、楽しみでもある」

「楽しみなの」

「うん。なんていうか、新作映画を見る前の時間みたいな感じ」

「宣伝の時間ってこと」

「そう。どきどきする。きっと面白いって期待する。そういう感じ」

 咲は映画が好きだった。エドワード・ファーロングが大好きで、雑誌の切り抜きをわざわざ学校にまで持って来ていた。

「でも、怖いんでしょう」

 わたしはすがるように言った。咲はあいまいに首を振った。

「それ以上に、楽しみなの。ねえ、お願い。K高に行って。去年はひとりも行けなかったんだよ。K高合格して、よっちゃんのこといろいろ言ってるやつら、見返そうよ。ねえお願い。行って。私もう、みんなが嫌なの。馬鹿で、下品で、くだらなくって。知らない人がたくさんいる場所で、新しくやり直したいの。あ、でも、もちろんよっちゃんとはこれからも会いたいと思ってるよ。大事な友達だもん」

 大事な友達。

 空虚な響きだった。

「彼氏や坂井さんのほうが大事だった時期も、あるんじゃないの?」

 平木と付き合っている事実を広めた女子の名を出し、わたしは咲を責めるように言った。こんなことは言いたくなかった。けれども、咲の態度に対する不満と不安がそろそろ限界に達するということを、痛いほどわかっていたからこその言葉だったのだろう。

 咲は、体のどこかに痛みを感じたかのように顔を歪めた。

「それは、本当に、ごめん。私、どうかしてた。浮かれちゃったの」

「見返したいのはわたしのためじゃないでしょう。咲のためでしょう」

「違うよ」

 どうしてそんなこと言うの、と咲は言った。目に涙が滲んでいた。

「本当に悪かったと思ってる。よっちゃん、やっぱりまだ許してくれてないんだね。仕方ないよね。それだけのこと、したもんね。どうしたら許してくれるの」

 本当に許してほしいと思っているのだろうか。

 許しを請わなければいけないのは、このわたしのほうではないのか。

 咲の涙は頬をまっすぐに伝って膝に落ちた。咲はそれをすぐに手の甲で拭った。

 どれだけ一緒にいたくても、この世界はそうさせてはくれない。将来一緒の家に住もうねと約束したことを、咲は覚えているだろうか。

 咲が男だったらよかったのだろうか。何度も考えたそんなことを、このときも咲の赤い鼻を見ながら考えていた。もし咲が男だったとしても、わたしが平木やその他の男子にしたような行為、さらにもっと先の行為なしには、世界に承認されないのだろう。そういう制度なのだ。

 ただ一緒にいたいという気持ちは、世界を前に、あまりにも脆すぎた。

「K高に行くよ」

 最後にわたしはそう言った。咲は、うんうんと声を出さずにうなずいて、笑った。

「お互い、がんばろうね」

 わたしの大好きな笑顔で、咲はそう言った。

 今思えば、それが、訣別の合図だった。わたしの中での。

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