青ノート2

 学年が上がり、クラス替えがあっても、咲とは離れなかった。その日わたしはいつものように咲と一緒に帰ろうとした。咲のところには知らない女子が三人いて、わたしを細い目で見てくるのがわかった。

「咲、帰ろう」

「うん」

 咲はいつものようにそう言ったが、そこからがいつもと違った。

「ねえこの子も一緒に帰っていい?」

 咲はわたしではなく、知らない三人の女子に向かって言った。「えー」「どうする」「でも」という声がほとんど同時に上がった。

「いいでしょ」

 咲は半ば強引にそう言ってランドセルを背負い直し、廊下に出て行った。わたしたちは咲の後を追った。数人の女子は咲を取り囲むようにして歩いた。後でわかったことだが、そのうちのひとりが咲と幼稚園が一緒だった子で、他のひとりは「咲と一緒に帰りたいから取り次いでくれ」とその子にお願いしたらしかった。あとのひとりはついでだった。

 咲はその二番目の女子に質問攻めにあっていて、それにいちいち丁寧に答えていた。わたしはその答えをすべて知っていた。先に答えてやろうかとも思った。でも、それはしなかった。咲と三人の女子の後ろにひとりで立ち、おしゃべりが終わることを惜しむようにゆっくりと歩く彼女たちの歩調に合わせて、ゆっくり歩くしかなかった。

 次の日もそれは同じだった。一度だけ、咲はちらりとわたしの方を振り返ったことだけが違った。次の日は、それももうなくなった。

「ねえサキっちょ、この子何なの」

 帰りの時間だけでなく、休み時間の間も咲につきまとうようになった二番目の女子がそう言った。

「何って、よっちゃんは友達だよ」

 咲は当然のようにそう言った。わたしもそれが当然の答えだと思った。

「ふうーん」

 二番目の女子は鉄棒に片足をかけながら、わたしの顔を遠慮なくじろじろと見た。わたしはその顔はなんだか汚いと思った。

「なんか合わないね」

 吐き捨てるようにそう言うと、片足をかけたままぐるりと前に回った。着地をするときに、めくれたスカートがふわりと空気に乗り、ゆっくりと太ももの上に落ちた。黒っぽい膝からまっすぐに白い太ももが伸びていたその女子の脚を、わたしは今でもふとしたときに思い出す。

「ごめんね」

 咲は、わたしと二人になると、まずそう言うようになった。わたしは言われるたびに自分がみじめになっていく気がして、もうやめてと毎回言った。それでも咲はやめなかった。そして何回目かに、こう言った。

「あの子たち、よっちゃんが勉強できるからって、シットしてるんだよ」

 思いがけない言葉だった。

「勉強できるかな、わたし」

「できるよ。たくさん本読んでるし、いろんなこと知ってるじゃない」

 言われてわたしはそうかと思った。咲の思うわたしになりたいと思った。自宅に届くたびに漫画だけ読んで捨てていた通信教育のダイレクトメールを、わたしはその日は熱心に読んだ。そうして母親に懇願した。彼女はあっさりとそれを受け入れた。

 中学に入っても、咲は同じクラスだった。一年生の最初のテストで、わたしは五科目とも学年最高点を取った。咲は誰よりも喜んだ。

「ほらやっぱり! よっちゃんは、すごいんだよ」

 それがきっかけだったのか、小学生のときのような子どもじみたいじめはなくなった。ただ、掃除の後で教室に戻ったとき、ノートの切れ端のような紙が自分の机のすぐそばに落ちているのを見つけた。捨てようとして拾い上げると、「嫌いな人ランキング」と書かれていて、一位以下五位までわたしの名前で埋め尽くされていた。わたしは視線を感じながら、それを丸めずにゴミ箱に捨てた。

 二年生になると、咲は折りたたみ式の四角い鏡を持ち歩くようになった。外国アニメのキャラクターがついたそれは、咲の顔の下で黙って咲を映していた。咲が鏡を見るときの顔を、わたしは好きではなかった。目を大きく見開いて、唇を半開きにし、自分の顔以外のものに一切意識を向けていない。咲の中にあるべき咲の理想の顔は、わたしの好きな咲の本当の顔ではなかった。

 咲は鏡の向こうから言った。

「よっちゃん前髪切りなよ。ていうか全体的に、もっと軽くしたら? メイクもしようよ。今度いろいろ買いに行こう」

 断る理由はなかった。咲の思う、理想の自分になりたかった。そうなることで、あの鏡にも映してもらえるような気がした。

 咲の近所にある美容室で、髪を切った。染めることも試したかったが、咲が反対した。高校生になったら好きなだけおしゃれすればいいわよ、と美容室のおばさんは言った。中学のうちからそんなことして変な目で見られることないわよ、と。

 咲は雑誌を持って来て、メイクにどんな道具が必要なのかをわたしに説いた。中学生でもお小遣いの範囲で買えるブランドがある、ということで、そのブランドを取り扱う店に行くため、安くはない電車賃を払った。色とりどりのパレットの前で、咲は動物園に来た子どものようにはしゃいだ。

「よっちゃんはピンクよりオレンジ系が合うよ」

 いかにもメイクしてるって感じより、自然で健康的なほうが男の子受けするよ、と咲は言った。わたしは驚いた。

「男子のためにメイクするの?」

 そう聞くと、咲は少し恥ずかしそうに笑って、それを取りつくろうように少し大きな声で言った。

「そういうわけじゃないよ」

 もしかしたら、好きな人ができたのかもしれない。

 買った化粧品を、タンスの上に一つずつ並べた。咲が選んでくれたという事実だけで、それらは輝いて見えた。それでも、不安は消えなかったし、それらを試してみようという気にもなれなかった。

 次の休みの日、咲が家に来た。またこの間の雑誌を持っていた。わたしたちはそれを見ながら不器用なメイクをした。出来上がった顔を改めて手鏡に映すと、色鮮やかなマンドリルの顔が浮かんだ。

「なんか、発情してるみたい」

「そんな言い方ないでしょ」

 咲は楽しそうに笑った。

「かわいいよ、よっちゃん。すっごく」

 やっぱり元がいいからねえ、私の目に狂いはなかった! とおどけて言った。

 わたしは鏡の中の自分をしげしげと見た。かわいい。そう言われてみれば、そうなのかもしれない。「普通」である咲の感覚でこれがかわいいのなら、もっと咲の言う「かわいい」を追求することで、咲を……咲への感情を、越えられるかもしれない。

 わたしたちは、休日だけメイクをして出かけた。出かける先なんて限られていたけれど、いつも同じ店でも、いつも同じルートでも、咲と二人でいられればわたしは満足だった。何度か、男の人に声をかけられた。声をかけられるのは、いつも咲のほうだった。咲のミニスカートやショートパンツから出た肉感のある脚が男を呼び寄せるのだとわたしは思った。実際は、おそらく違った。咲の醸し出す雰囲気に、男たちは惹かれていたのだ。わたしと同じように。

 咲はいつも断った。そうして、気持ち悪かったねと必ず男の悪口を言った。それはわたしに対する気遣いなのかもしれなかった。そうではなかった。咲の中にはもう長いこと、ひとりの男子が住み着いていたのだ。

 わたしがそれを知ったのは、始まってから半年近く経ってからのことだ。

「咲ちゃん彼氏いる?」

 突然だった。テスト前、わたしの席の前にしゃがんだ咲とノートの見直しをしているときだ。その女子は、わたしの存在など見えないように咲に向かって言った。

「こないだカラオケで見たんだけど、二人だけに見えたから。あれ平木だよね?」

 咲は困ったように眉根を寄せた。わたしは思わず振り返り、教室の左後方を見た。そこが平木の席だったからだ。

 咲は黙ったまま、ちょっとわたしを見て、動かなくなった。その沈黙を肯定だと受けた女子は、「付き合ってるんだ!」と大きな声で言った。

「やめてよ」

 ようやく咲が言った。

「誤解しないで。そういうんじゃないから」

 女子の声を聞きつけた数人が、何何と集まって来る。

「違うから。付き合ってないから」

「照れちゃって。もうとっくにバレてるよ」

 女子はにやにやしながら言った。

「なんで隠すの? 応援するのに」

 誰と? 平木? ほんとに? そんな言葉が咲を囲んだ。男子のひとりが平木に確認すると言って離れた。その男子が「まじだった」と叫ぶまで、わたしはあくまで傍観者だった。

 テストが終わった後で、咲はわたしに「ごめん」と言った。その日は一緒には帰らなかった。わたしが咲を置いてひとりで帰ったからだ。

「カラオケの部屋で、二人で何したの」

 テストの返却が終わり、合唱コンクールの練習が始まった週にわたしは聞いた。

「歌ったよ」

 咲はわたしの質問の意味がよくわからないといった顔で首をかしげた。わたしは、いらいらした。

「咲は女で、平木は男でしょ」

 そう言うと、咲は笑い出した。

「何、それ。変なこと考えてるんじゃないでしょうね?」

 咲はあくまでもおどけて言った。

「ああ見えて紳士だし、私もそういうの無しって言ってあるから。大丈夫」

 咲が「そういうの」と言ったとき、わたしは咲の中に自分の知らない芽が伸びて花を咲かせようとしているのを感じた。わたしはそれを摘み取ってしまいたかった。

「咲は女で、平木は男」

 わたしは自分に聞かせるように繰り返した。咲はそれが聞こえたのか、「ああ」と慌てたように言った。

「なんか、遊びみたいなものだよ。友達の延長っていうかさ。ちょっと、試してみてるだけっていうか」

 咲はわたしの様子を見て変に焦ったようだった。聞いてもいないのに平木とどんな場所に行って何をしているのかを語った。そのほとんどが、かつて休日にわたしとしていたことだった。

「最近遊べてないもんね。今度の日曜、久しぶりにお買い物行こうか」

「いい」

 わたしはにべもなく言った。

「彼氏と仲良くしなよ。わたしはわたしで、色々忙しいから」

 咲は、口を結んでわたしの顔をじっと見つめた。何かを探っているようだった。わたしは目を背けた。

 その日以来、咲は、先の女子や平木といる時間が増えた。朝、教室に入ったわたしにあいさつはしてくれる。その後、二言三言、意味のない会話をしてくれる。それが終わると、まるで今日の義務は果たしたとでも言うかのように、放課後までわたしのところへは来ない。わたしの休み時間は長くなった。トイレや図書室で過ごす時間が増えた。教室にいないといけないときは、本を読んでやり過ごした。それでも内容はあまり入ってこなかった。咲の声が、咲の楽しそうな笑い声が、わたしの哀れな意識を引きつける。

 咲は女で、平木は男。

 わたしは、女。

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