青ノート1
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咲という女の子がいた。
わたしはその名前をクラスの名簿に見つけて、かわいい名前だとうらやましく思った。
「よっちゃん」
二度目の席替えで、咲はわたしの前の席になった。移動させた机の位置をまだ調整しているわたしを振り向き、言った。
「よっちゃんって呼んでいい? そのほうが呼びやすいの」
早口で言うと、咲は笑った。敵意の無い、きれいな笑顔だった。わたしは見とれた。咲のとなりの席になった男子は、自分の机で咲の机をぐいぐいと押していた。
「もっとそっち行けよ」
「はあ? ここでいいんだよ。印見てよ」
「こっちがわが狭くて通れないんだよ」
わたしは咲と男子のやりとりを黙って見ていた。わたしに話しかけてくる男子はいなかった。女子も、いなかった。
「よっちゃんと同じ班になりたいって思ってたんだ。よかった」
咲はそう言って笑った。わたしはおそらく、何も言わずにあいまいに笑った。
次の日も、その次の日も、咲は同じようにわたしに接した。真っ先にあいさつをしてくれたし、給食のときも積極的に話しかけてくれた。黙って食べているだけの時間が、少し楽しいものに変わった。それだけで、とてもうれしかった。咲は、神様がわたしに贈ってくれたプレゼントだと思った。願った記憶はなかったが、待っていればいいこともあるのだと悟った。その悟りがいけなかったのかもしれない。
その頃、理科の授業で自分の脈拍を計ったことがあった。手首の裏側、親指の下あたりにもう一方の親指を当て、先生が一分間を計る間に生徒たちは自分の脈を数える。
「スタート」
先生の声とともに、教室は静寂に支配される。校庭で体育の授業をしている下級生の小さなざわめきや、地面を蹴るような音だけが響く。そのうちそれも聞こえなくなる。
「ここまで」
その声と同時に水風船が割れるように数字を報告する声が飛び交う。
「よっちゃん、いくつだった? 私六十八」
用意していた数字を、わたしは言えなかった。「七十四」「八十」などという数字が聞こえてくる中で、わたしは「八十二」と言った。
「へえ、よっちゃん脈早いんだね」
わたしはうなずいた。咲のとなりの男子が「おれ七十! おれ七十!」と繰り返し叫んでいた。
数え間違えたのだと思った。幸い先生は、二回目の計測をスタートさせた。結果は、前より悪かった。わたしはもう嘘をつく勇気がなく、「百回超えちゃった」と言った。誰も言葉で反応しなかった。
わたしは机に突っ伏した。「よっちゃん」という咲の優しい声が、頭の中でしぼられて涙になって落ちた。
「どうしたの」
四十代後半の女の先生の声に、咲のとなりの男子の声が被さる。
「百回超えたんだって」
「あら、まあ」
先生はそれ以上何も言わず、わたしの背中をぽんぽんと投げやりに叩いた。そうして、数字をノートに記録することを教室中に指示し、次回は校庭で走った後に計測するということを告げた。告げながら、先生は離れていった。声が遠ざかっていくのと、咲のとなりの男子が前を向き直って他の男子と話し始めたことが、突っ伏しながらわかった。やがてチャイムが鳴った。
百十八。ずっとおかしいと思っていたことが、数字になって突き付けられた瞬間だった。わたしだけ、みんなと違う。みんな、わたしだけに話しかけない。みんな、わたしの前ではいつもと違う顔を見せる。いつもの顔は、見せてくれない。声も違う。変わる。
クラスメイトたちは、継続した時間の中に帯のように存在していた。わたしは毎晩、寝るとリセットされたようにまっさらだった。まっさらの状態で学校に行き、さまざまな帯を遠目にし、常に新しい一日を迎えていた。だからいつも新しい環境にいるように緊張していて、脈が落ち着かなかったのだと思う。時間も、人も、すべてがぶつ切りで、昨日のコピーのような今日も、今日のコピーだろう明日も、ずっとまっさらのままだ。そこに何の継続性も描くことなく、ただただ時間だけが過ぎていく。
落ち着いた脈を持つ人たちは、継続性の中に生きていた。そんな中、いつの間にかクラスの女の子たちはグループを作っていて、特定の子としか話すことも遊ぶこともしなくなっていた。わたしはどこにも属していなかった。その必要がないと思っていた。それなのにある日突然、休み時間にひとりで席に座っていることが恥ずかしくなった。
わたしだけ、普通じゃない。でもそれは、特別だということでもない。わたしは普通の下にいる。頑張れば上れるのかもしれない。でも、頑張り方がわからない。
次の理科の授業の日、わたしはおなかが痛いという理由で学校を休んだ。母親は、わたしに無関心だった。それが救いだった。
その日、初めてのことが起こった。夕方、居間でおやつを食べながらテレビの子ども番組を見ていると、玄関のチャイムが鳴った。居間のドアは閉まっていた。となりの和室で洗濯物を畳んでいた母親がどたどたと廊下を走って玄関に向かう音は、テレビの音よりもずっと遠くに聞こえた。玄関から小さく聞こえてくる母親の声の中から「お友達」という単語を拾ったとき、歌のお姉さんの声は消え去った。
「これ、渡してください」
咲の声だった。
咲が来たのだ。
わたしは立ち上がろうとしたが、足が固まって動かなかった。動かそうとしている足が、何かにがっちりと捕らえられて、まったく意志が無駄になるような感覚だった。それは夢の中で走ろうとしたときに似ていた。わたしは手を使って絨毯の上を這った。ドアのところまで辿り着いたときには、玄関の重い扉が閉じる音がした。
「鷹村さんだって。同じクラスの子?」
ドアを開けた母親は、手のひらサイズに折りたたまれた紙をわたしに差し出して、返事を待たずに和室に戻って行った。
紙は、自由帳の一ページを切り取ったものだとすぐにわかった。一辺に、綴じ糸の間隔でぎざぎざが入っていた。
よっちゃんへ
ぐあいどうですか?
今日、理科でこの前のつづきをしたよ。
走った後でみゃくを計ったら、みんな100回こえたよ。
だから、だいじょうぶだよ。
早くよくなって学校に来てね。
咲より
「鷹村さんって、下の名前なんて言うの」
二人だけの夕食時、母がそれだけ聞いてきた。
咲だと答えると、「それじゃあ岩崎さんとか高崎さんとは結婚できないわねえ」と言った。
「あ、先崎さんって人もいるわね。なお無理ね」
そう付け加えた。わたしは黙って白米を口に運んだ。
翌日、わたしは咲に聞いた。
「どうして家わかったの」
「平木がいつか、家がとなりだって言ってたから」
平木とは咲のとなりの席の男子の名だった。そう言われてみれば、そうだった。わたしは納得して、安心した。すぐに「ブランコ空いてるよ、行こう」と言われてしまったから、手紙の言葉については、話せなかった。
それから毎日、わたしは咲と一緒に過ごすようになった。いつも咲のとなりに、わたしがいた。休み時間。下校時。トイレ。図書室。自転車で、おやつや雑貨の買い物。遠足の自由時間。社会科見学のバスの座席。
「ねえよっちゃん」
数か月してから、咲は言った。
「大人になったら、一緒に住もうよ。かわいい家買ってさ。犬も飼って」
わたしは驚いた。そんな未来を思い描きもしなかった。この咲の言葉は、そもそも大人になって家を買うという人生が果たして訪れ得るのかということを、わたしに深く考えさせた。もやがかかったような未来は、夢のように無秩序なファンタジーに思えた。
「猫も飼おう。鳥もいいな」
咲は、言ってしまいさえすれば当然それらが叶うという確信に満ちたように言った。その目は空に向けられて、光っていた。
「うん」
わたしはそう言って、机の鍵のかかる引き出しにしまってあるあの手紙のことを思った。
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