六月二十二日

  六月二十二日


 勤め先の支店は、朝八時十分前に、初老の営業課長が鍵を開けることから一日が始まる。わたしは支店の駐車場のチェーンの前で自転車を止めて彼を待つ。

 彼はいつもきっかり同じ時間に来る。バスに乗って来るのだから当然だ。わたしと目を合わせずに「おはよう」ととぼけた声で言う。彼の目は眼鏡の奥で、とても小さい。わたしはその小さい目だけ、ちょっと好きだった。昔図鑑で見たもぐらを連想させた。本物のもぐらと思しきものを見たのは、一度きりだ。

 子どもの頃住んでいた家の庭の砂利のところで、ある日何かが死んでいた。楕円形の体には茶色とも灰色ともつかない細く薄い毛がふわふわと乗っかっていた。すっかり色の抜けたピンク色の足のようなものが二つ見えた。ねずみかと思ったが、長い尻尾がなかった。耳もなかった。足が下のほうに生えていたから、この生き物は腹ばいだと考えれば、やはりもぐらだとしか考えられなかった。もぐらの特徴的な長い鼻や大きな手は、何かに持って行かれたのか、その生き物に認めることはできなかった。目も、見つけられなかった。わたしはその柔らかそうな毛にひかれて、ちょっと持ち上げてみることにした。すぐに手を離した。腹の下には無数の蛆虫が蠢いていた。

 死ぬとはこういうことなのか、と思った。だからわたしは毎朝この営業課長を見ると、幼い頃に感じた死の現実的な側面を思い出してしまう。彼は死ぬときに、毎朝自転車から降りて彼を待っていたわたしのことを、思い出すだろうか。おそらく、ないだろう。

 支店が開くと、更衣室で制服に着替える。狭い廊下を挟んだ向かい側にある休憩室で、コーヒーを沸かす。電気ポットに水を入れ、沸かす。給茶機の水を入れ替える。応接室の観葉植物や花の鉢に水をやる。全員の机をぞうきんで拭き上げる。季節の変わり目には窓口に飾る造花をふさわしいものに変え、冬には加湿器に水を入れる作業が加わる。

 そうしてポストを開け、新聞を取り、ロビーの新聞挟みから前日の新聞を抜き、新しいものに替える。抜いた新聞は、休憩室のとなりの和室――かつての宿直室――に置かれた紙袋に放り込むのだが、わたしは決まった曜日だけ、それを読む。休憩室で、自分の入れたコーヒーを飲みながら、手早く読む。そのうちに他の職員がぞくぞくと出勤してくる。休憩室にわたしがいることを知っているのか、わたしが事務室に入るまで、誰ひとりそこにやって来ることはない。

 わたしは週一回掲載されている、新聞の人生相談コーナーを読む。そこにはさまざまな年代の相談者のさまざまな種類の悩みが書かれている。それに対する回答は見ない。わたしは、そこに書かれた悩みを自分のものにしようと試みる。それを書いた人間になったつもりで、実際その状況に置かれたと考え、心がどれだけ痛むのか実験する。

 結果はいつも同じだ。何も訪れない。

 休憩室から出ようとすると、向かいの更衣室から小さく声が聞こえてくる。

「……さんって何年目なんですか?」

「もう十年はいるよ」

「うそ。十年? ありえなくないですか?」

「人事部に忘れられてるんだよ」

「どうしてですか?」

「さあ。もう動かすことすら、面倒なんじゃないの」

 そこで笑い声が聞こえた。


 仕事を終え、六時に休憩室へ行く。警備員のおじいさんが昼時や休憩時に飲む緑茶の急須が、そのままシンク横の調理台に置かれている。茶葉を捨て、急須を洗う。排水口のネットを取り換える。電気ポットに入ったお湯を捨てる。

 朝わたしが作ったコーヒーは、少しも減っていない。


 支店を出る頃に遠慮がちに振り出した雨は、アパートに着く頃には激しく傘を打ち鳴らしていた。

 こんな夜は、あの言葉を思い出す。

 寝ているときと、泣いているときと。

 あの子は、本を読んでいるとき、と言った。わたしは違う。

 寝ているときと、泣いているときと。

 書いているとき。

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