五月一日

  五月一日


 最近、わたしは夢の中で走る訓練をしている。飛ぶのは、ずいぶん上達した。両手のひらを卵を持つように丸め、その中の空気を思い切り地面にたたきつけるように二三度勢いよく動かすだけで、足はふんわりと浮く。すぐに重力が体を落としにかかるので、その前にまた勢いよく手を動かす。だんだんと、手のひらだけではなく腕全体で空気を地面にたたきつける。そうすると、あっという間に雲の高さまで上がることができる。初めは電柱のてっぺんをかすめるくらいが限界だった。わたしは電線をなぞるようにしてなじみの小学校まで通ったものだ。

 山に囲まれた町を覆う薄い雲は、外国映画の初めに出る映画会社のロゴのように月明りを受けて幻想的に流れる。その下の町でちらちらと光る家々の明かりは、頼りなくも美しい。ぼうっとしていると、手前の山の頂から流れるロープウェイの支柱がすぐ目の前に迫って来る。もうじき日付が変わる時刻だというのに、キャラメルの箱のような色をしたゴンドラは連なって動いている。

 わたしは、夢の中で、自分の他に飛んでいる誰かを見つけることがある。その誰かはわたしよりもずっと飛ぶのが上手で、よく見れば背中には翼が生えていた。その翼を認識した途端、わたしの背中にも同じ翼が生えていることに気づくのだった。誰かはわたしを導くように、わたしの目の前を飛んだ。わたしはその誰かの背中を、背中に生えた美しい白い翼を追うように飛ぶ。そのうちわたしの力が尽きて、地上に落ちていく。いつの間にか地上はアマゾンになっていて、くねった大きな川を熱帯の雑多な植物たちが囲んでいる。わたしは川辺の草地に落ちる。わたしはその川にワニがいることを知っている。手近な木によじ登る。お尻が重くて、うまくいかない。誰かが上空からわたしに「気をつけて」と叫ぶ。「来る。後ろから、もうすぐそこに」

「なにが?」

 わたしは聞く。

「なにが来るの? どうして来るの?」

「来る」

 誰かはそれ以上言わない。つるのようにくねった太い枝を持つわたしの木は、その股の部分に小学生の男子を抱えていた。小学生の男子は「しっしっ」とわたしを追い払おうとした。わたしはお尻の重さで、そこに足をかけられないと落ちてしまうことを必死にわかってもらおうとする。その刹那に誰かが「去りなさい」と大声で言う。小学生男子は消えている。

 どうにかして木の股によじ登ったわたしを、向こう岸のもっと大きな木のてっぺんに座った誰かが見下ろしている。

「来る。飛んで」

「待って。行かないで」

 誰かは飛び立つ。

「あなたは、天使でしょう」

「うん」

 そんなわかりきったことを何故今更、という顔で天使は言った。わたしはまだ、飛び立つことができない。

「待って。お願い。置いて行かないで」

「来る」

 天使はそれだけ言って姿を消した。わたしは、後ろを振り返ることができない。

 走る訓練をするのは、次にその天使が出て来たときに、手早く追いかけるためだった。わたしが飛び立てなかったのはお尻が重かったからだ。わたしは地上では、重いお尻のおかげでまともに歩くことすらできない。だから飛んでいたのだ。まずはお尻の重さを克服し、地上ですばやく動き、立ち上がれるようにしないことには、天使を追うのに飛び立つことすらできない。夢が始まったときのお尻は重くないのに、夢の中に不安や焦りのかけらが少しでも見え隠れすると、途端にお尻は鉄の玉が入ったように重くなってわたしを地上に縛りつけようとする。目が覚めたとき、わたしはいつもお尻に手をやる。ぐてっとしたお尻がそこにはある。鉄の玉が入っていたことはない。

 同じ町で何度も何度も飛ぶ夢を見る。落ちるとアマゾンなのもいつも一緒だ。ロープウェイはいつも運行中だし、優しい月明りも変わらない。

 でも男か女かわからない天使が再びわたしの夢に現れてくれることは、今のところ、ない。

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