11

 父親がいなくなったという祖母の知らせを聞いたのは、ヒナに脚本を返した次の日のことだった。おれは三限からの講義に行く気が出ず、昼を過ぎても布団の中で携帯を見つめていた。返信できなかったサキへのメールの文面を書いては消し、消しては書きしているうちに、その携帯がけたたましく鳴ったのだ。

「昔も、こんなことがあったんだよ」

 祖母はがさがさとした低い声でそう言った。

「二三日すれば戻ってくると思ったのに、これは、ほんとにいけないかもしれない」

 いけない、という言葉が脳の枝にひっかかってぶらぶら揺れた。おれは「とりあえずこれから帰るから」とだけ言って電話を切った。そうしてサキのことを思った。父不在の二人だけの家はさぞ気詰まりに違いない。

 玄関先でおれを迎えた祖母は、そのまま経緯を説明し始めた。たいした話ではなかった。先週の金曜日、いつまで経っても起きてこない父親の部屋を見に行くと、見事なまでに空だったということだった。祖母が以前父の部屋に入ったのは十年以上前だったから、父の部屋に寝具以外に何があるのかはほとんど把握していなかったが、それでも記憶の上には確かにあった小さな文机や桐箪笥まできれいになくなっていたというから不思議だった。そうして祖母は、何か書き置きでもないかと他の部屋をくまなく調べた結果、父のいた痕跡がこの家からまったくなくなっていることに気づいた。

「サキの部屋も調べたの?」

 おれはその流れで聞いた。祖母はしばらくおれの顔を見た。そうしてゆっくりと言った。

「あのハムスター、そんな名前だったかね」

 おれは祖母の言葉の意味がわからなかった。確かに小学生の頃ハムスターを飼っていたことがある。メスのハムスターだったが、飼い始めて二年めの冬に死んだ。朝、灯油の切れたことを示す赤いランプを点けたストーブのそばで、冷たく固くなっていたのだ。あのハムスターの名前はもはや憶えていない。だがサキではない。

 おれはそれを、祖母のサキへの悪意と取った。今思えば、痴呆の症状と見るほうが自然だっただろう。けれどもおれは、そんなことに考えが至らないほど、サキの存在をなかったものにするかのような祖母の言葉に対し、強い怒りを感じていた。

「そんなにあの子が嫌いなのか」

 感情を隠そうとしないおれの声にも、祖母は表情を変えようとしなかった。おれは下駄箱の天面を拳で叩いた。土産物の竹人形がかすかに揺れた。

「今この状況で、一番不安なのはあの子なんじゃないのか。ひどいことを言ったり、してないだろうな」

 祖母はそれを聞き、何かを言いかけ、またゆっくりと口を閉じた。老人特有のひだのようなしわが、唇の上につつましく並んでいた。祖母は、少し見ないうちに急に老け込んだ。こんなに痩せて小さかっただろうか。これほどまでに髪の毛は白かっただろうか。冷たくなったハムスターの硬い感触が、指先によみがえった。

「入りなさい」

 がさがさとした声で祖母は言った。おれは靴を脱ぎ、無言で家に上がった。

 廊下を歩く祖母の後を追いながら、おれはサキに関する質問をその背中にぶつけ続けた。今どこにいるのか。この件について何と言っているのか。二人だけになった今、家族として優しく接してやれているのか。恋人はできたのか。ヨウジはまだこの家に出入りしているのか。そうならもう農協に電話してヨウジをうちの担当から外してもらう、サキの周りには同年代の男を近づけてはならない、おれ以外は。というようなことを言った。

 すっかり物がなくなった居間は、何故か小さく狭く感じられた。父や祖母が予定を書き込んでいた六曜付きカレンダーも、祖母の小さな字だけで、父親の書くがさつな大きい字はどこにも見当たらなかった。そのカレンダーの釘にひもで吊り下げられていた父の老眼鏡も、果物籠のとなりにいつも置いてある父の名前の入った薬局の薬袋もなくなっていた。

 荷物を全部まとめるならそれなりの時間がかかるはずだ。夜やったって、物音の一つや二つ立つだろう。前兆すらなかったのか、どうして何も気づかずにいられたんだ、ということをおれは祖母に言った。祖母はサイドボードの引き出しから薄いピンク色のノートを取り出した。ページが湿気で膨らみ、一度紙をのりで貼って剥がしたような白い跡のある表紙は、その膨らみのせいで歪んでいた。

 祖母はおれの質問にいっさい答えずそのノートを差し出した。これは何だと問うと、ようやくしわで閉じられた唇を開いた。

「真二の残していったものは、それだけなの」

 祖母は息子を名前で言った。

「ずいぶん前に書かれたものみたいなの。怖かったけどね、読んだのよ。でも、怖くて最後まで読めないの。代わりにあなたが、読んでちょうだい」

 おれは表紙をめくった。一ページめに「予備室」とタイトルがあり、びっしりと細かい文字が並んでいる。

 これは父の字だろうか。おれは父の筆跡が思い出せない。父の字だと言われればそんな気もするし、違うと言われれば確かに違うような気もする。

「どこまで読んだの」

「三分の二くらい。もう、それ以上は、私は」

 祖母はそこまで言ってまた口を閉じた。

「何が書いてあるの」

「真二の、昔話」

 言われながらおれは、ノートの中に「雪子」の文字を認めた。

「これは、父さんと母さんの話か」

「そうね。そうかもしれないし、違うかもしれない」

「どういうこと」

「怖いんだよ。とにかく、怖いんだよ」

「なにが」

「怖い。知りたくない。認めたくないこと、サトシにも、あるでしょう」

「そんなものはないよ」

「あるよ。ないわけがないよ。秘密とか謎っていうものはね、そのままにしておくのが一番美しいんだよ。少なくとも、作り話に関してはね。作者の顔なんか知らないほうが、絶対にいいんだよ」

「なにが言いたいの?」

「私はもうやめだ、降りる」

「なんだって」

「もうたくさんだよ。これ以上書き続けるのは、もう、限界だ」

「なにを書くって」

 祖母はゆっくりと立ち上がった。そして、今まで聞いたことがないくらいの大きな声で言った。

「この下らない作り話をだよ!」


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