10
ベッドの脇に座り、天井を見上げながら、「私たちは雑草なのかしら」とヒナは言った。
「小さい頃、コスモスを庭で育てたの。すぐに芽が出てうれしかった。でも、ある日、数が減ってることに気づいた。お母さんが雑草といっしょに間引きしたんだって。私、それ以来、間引きという言葉が怖い。私自身が、咲いたかもしれないコスモスだったような気がして。でも今は、雑草な気がする。雑草って、人の判断基準でまとめてそう呼ばれているんでしょ。きれいな花、鑑賞に値する花、そこに存在してもいい花『以外』っていうことでしょ。なんて勝手なの! きれいに咲きそろっている花壇の後ろ側でそんな残酷なことが繰り広げられていたなんて、怖くて、テレビとか、新聞を通してみる世間っていうのは、つまりそれと同じなんじゃないかって思って、怖くて、眠れなかったな。
そういえば、私ちょっと気になって、夢のこと調べてみたの。そうしたら、性的な欲望が現れることが多いんだって。刺されたって言ったよね? 君、女になって犯されたいんじゃないの?
そう考えると、ショウグンっていう妙な名前のハチは、父親的存在を表してるのかな? ハチの頂点に君臨するのは普通女王じゃない。それがどうしてショウグンだったのか。太くて長い針を持つんなら、それは女王じゃだめだったんじゃないのかな。ということは、君は父親に恐れを抱いている。
それよりも、となりにいる誰かって誰なの? 男? 女? 実在の人物? 夢にしか存在しない人物?」
ヒナの矢継ぎ早の言葉に、おれは考える振りをしながらピーナッツを口に入れた。夢の話はもうどうでもよくなっていた。ヒナが言った通り、夢に意味などない。そんなふうに解釈を試みたところで何にもならない。
「昔仲良かった友達のような気もするけど、あてはまる人間が現実にいない気がする」
「じゃあきっと夢の中だけの存在なのね。私の、例の男の子と同じ。うん、きっと、守護霊か何かなんじゃないかな。夢の中だけで存在を匂わせてくれるのよ」
「そうすると、おれは君の守護霊ってことになるの?」
「ニアリーイコールなのよ、きっと」
「迷惑だな」
「ちょっと。守護霊が恋人なんて、最高じゃないの」
「おれのことは守ってくれないの?」
「君があれを全部読んだら、考えるよ」
相変わらずヒナの優先事項は例の脚本だ。おれは三分の二ほどまで読んだことを報告し、素直に感想を述べた。
「これ、悪趣味だよ。入れ替わるなんて」
双子のようにそっくりな兄弟がその片方の恋人と交代で寝るという描写は、何かで読んだような気もするし、気持ちのいいものではなかった。ヒナの描いた脚本を一本刺しているように感じられる空気が、太陽光に満ちた乾いた空気だったら、それはきっとヒナの狙った「単なるできごと」として無言でそこに馴染んでくれただろう。それがまったく逆の、湿気に満ちた暗い空気の中で語られるから始末が悪い。梅雨の時期に執筆したせいなのだろうか。脚本というのは簡潔な説明とせりふで進んでいく。ヒナの言う「できごとの連続」に相違なかったが、そのせりふやト書きから連想される登場人物たちがあまりにも生々しい感情を持ちすぎていて、おれには食傷気味だった。
ヒナは途端に唇を尖らせた。
「入れ替わりなんて、古今東西さまざまなストーリーの使い古された要素の一つでしょ。王子と乞食、とりかえばや、中島敦の南島譚・幸福……」
感想を言われてすぐに弁解したり機嫌が悪くなるのは、まだまだ子どもだと思う。おれは言う。
「そういうことじゃなくて、これは、なんというか、倫理的に」
「倫理的! 倫理的な文学って、それだけで矛盾してると思わない」
おれは、ヒナが前回ここに来てから一週間ちょうどが経過していることを改めて頭の中で確認した。もう生理は終わっているはずだ。この感情的な反応はどういうことだろう。
おれは、この状況を少し、うっとうしく思う。
「文学じゃなくて、映画の脚本だろう」
「何が違うの。言ってみて」
「形式、わかりやすさとか、重さも違う」
「文学のほうが尊いと言いたいの?」
ヒナはそこで呆れたと言わんばかりに大きく息を吸った。
「文学なんて! 文字を使った自己満足のオナニーじゃないの。芸術ってこれだから嫌いよ。なんかよくわからないけど偉い先生がすごいって言ってるからすごいんだろう、って、家畜以下よ。心の動きを誘発しない芸術なんて、そんなもんは檸檬みたいに美術館を爆破してしまえばいいんだわ」
「何を言ってるんだよ」
「便器にサインして美術館に置けば芸術なのよ、知ってる?」
「知らない」
「人間ってなんて勝手なんだろう! 意味も価値も全部後付け、あれはすごいこれはダメって、爪先で弾かれる人の気持ちを考えたことある? 人が人を評価するなんておかしいじゃない。芸術なんてもの、基準なんてもの、まやかしだって、どうしてみんな気づかないのかしら。この夢の世界に生きていて!」
「落ち着けよ」
「私に彼らの気持ちなんかわかりっこないわ。彼らが勝手にそうしたんだもの。入れ替わりたかったから入れ替わったのよ。弟は気が進まない振りをしながらも、内心ノリノリだったに違いないわ。そうでしょう。男なんてそんなものでしょう。下半身で生きてるケダモノが」
「いい加減にしろよ。声が大きいぞ」
「わかってるの? あなたやってること、宮中文学と一緒よ。紫の上がいとこになっただけじゃない。現実的な分、よっぽど汚らわしいわ。知らなかった分、オイディプスのほうがよっぽど健全よ! 母親そっくりのいとこを犯して自分のものにしたいんでしょう? それで父親に勝ちたいんでしょう? 醜悪の極致よ。おぞましいわ。欲情したまま果てずに死ねばいいのよ」
ヒナはそこで呼吸を整えるように肩を揺らして息をした。おれは、おれの反応を待つヒナの顔を見た。何の感情も湧かなかった。言われた言葉の内容を理解するよりも先に、自分の精神領域にずかずかと侵入してきて図々しくその領土を広げにかかるこの女がわずらわしく、憎かった。
「もう、帰れよ」
「邪魔になったのね。私が邪魔になったのね。邪魔なものはそうやって排除してればあなたはすっきりぽんよね。そうやってなんでもゴミみたいに捨てることで生きてきたんでしょう。そうなんでしょう。だから友達も少ないのよね。人間関係リセットし続けてここまで来たんでしょう。私のこともリセットするつもりね」
「帰ってくれ」
「とりあえず童貞を捨てられて満足? それとも愛しいいとこのために取っておきたかった? 初めて同士のほうが思い出深いものになるって君言ったよね。私が処女じゃなかったことへのあてつけ? 初めてだったら何なの? 死ぬの?」
「ああ死ぬよ」
「もうまともに会話することすら面倒なの? 君は世界が自分の中で完結すると思ってるんでしょ。それ大間違いだから。私、それを教えたくて君に読んでもらいたかったのに。君は私の鏡。私も君の鏡。お互いに不可欠な存在なのに、今更面倒な女扱いして捨てにかかって、ひどいわ」
「なんでもかんでも決めつけないでくれ。おれのことをなんでも知ってると思ったら、それこそ大間違いだ」
「知ってるわ」
「知らない。おまえは何も知らない」
「君は私の夢の産物よ。創造主は、被造物の構造をすべて知り尽くしている。試したり、えこひいきしたり、そんなのは本当の創造主じゃないけどね。私は違うわ。私はただ、君を導くの」
「さっきから、はぐらかすようにわけのわからないことを……。おまえの書いたものみたいだな。無意味なせりふの応酬。ただだらだらと続いて、わずらわしい。全部無意味だ」
「会話は無意味じゃないわ。一番人間らしい活動じゃない」
「おれは人間らしくなくていいよ」
「馬鹿!」
ヒナは、ピーナッツの袋を掴んでおれに投げつけた。ぶつかったときの重い感触で、それが半分以上中身を残していたことをおれは悟った。持ち主の意図に反して楽しそうな音を立てて転がっていく無数のピーナッツのうちの一つが、この部屋を出て行くまで動かす予定のない小さな本棚の下のわずかな隙間に入ったのを、おれは見逃さなかった。そのピーナッツのことだけを考えて、おれはヒナを部屋から追い出した。抵抗はなかった。ヒナは泣いていた。
「返して」
ドアを出る段階で、ヒナは振り向いて叫んだ。
「私の本、返して。君にはもう、必要ないでしょう」
おれはそれを聞いて躊躇した自分に驚いた。最後まで読みたいという気持ちがあったことに驚いた。ヒナの濡れた顔を前に、その言葉に従うことしかできなかった。
不揃いの紙の束は、重かった。ヒナはそれを両手で抱えるようにして、前かがみでアパートの階段を下りて行った。小雨が降り始めていた。
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