ノート 4:【雪子・後】
【雪子・後】
兄のその言葉のせいにしてしまえれば、いくらか簡単だった。バスルームに入る月子をつかまえて密約を交わした雪子が何食わぬ顔で暗い部屋に侵入してきたとき、私は月子を抱くつもりでいた。兄への反抗のつもりだった。そんなことで自分の小さな意地を守り通して、その行為がすべてを壊してしまうことに考えが及びもしなかった。
布団に入って来た月子の体は冷たかった。おやと思いはしたが、私は気にせずに抱いた。兄が女の耳やうなじを舐めるのを好むことは以前の経験より知っていたから、このときも私はそうした。月子は気持ちよさそうに息を吐いた。成功したと感じた。それは向こうも同じだった。
すべてが性急だった。恐れと、焦りがあった。気づかれないうちにすべてを終わらせてしまえば、そうしてぐちゃぐちゃになった現場を後にしてさっさとこの家から出て行ってしまえば、もう後は関係ないのだと無責任な思考を選んでいた。頭が、若かった。
私たち二人は欲に支配されていたから、カーテン越しの月明りの中にぼんやりと浮かんだお互いの顔をすぐそばで見つめ合っても、すぐには気づくことができなかった。私たちの交わりは、途中で違和感を覚えながらも、それを必死に打ち消してただぶつけ合うというだけの行為だった。
最初に気づいたのは私のほうだった。月子の表情は緩みきっていて、利用価値のないゴムのようだった。それでも顔いっぱいに表現された満足感と幸福感は、私のそれを少しばかり刺激した。上気した頬が艶めき、白い肌に流れる波のような黒髪が美しかった。それでも、私の内に沸いたあの執着心は、ちっとも揺れ動くことがなかった。違う、と思った。
「これでもうあなたは私のものよ、シンイチ君」
雪子がそう言ってしがみついてきたとき、私は一瞬迷った。兄の振りをすることで、兄と月子の仲はもはや磐石ではなくなることを思った。徐々に冷めていく体温よりも頭はもっと冷静だった。私は耳を澄ませた。となりの部屋からは、何も聞こえない。月子は今どこにいるのだろう。月子が兄の言うように「なんでもお見通し」であるなら、兄のいたずらをすぐ見抜くはずだし、そもそも雪子に打診されたところでこんな入れ替わりをするだろうか。月子も兄を試そうとしたのではないか。そこに兄への信頼があるなら、月子は私を、まさしく人形のように考えているということになる。
怒りよりも、悲しみが湧いた。「おれは弟のほうだよ」と言いながら、目が潤むのを必死で制した。しがみついた手はすぐに離れなかった。
「嘘でしょ」
かすれた声だった。雪子はゆっくりと両手で私の肩を押し戻し、月明りの下でじっと私の顔を見つめた。私はその震える顔を見ながら、予備室で初めて会ったときのことを思い出していた。
「何、してるの」
「兄さんの提案だ」
「あなた、いつ来たの」
私はこのとき、自分の考えがどれだけ浅かったかに気づいた。雪子が入れ替わりを打診したところで、月子はこの部屋に兄弟がいることを知っていたから、何も心配することはなかったのだ。私がいることを雪子が知らない、ということを、知っていたとしても。
「最初からいたけど。あいさつもしに来ないから、気づかなかったわけ?」
私は動揺から自棄になってそう言った。雪子はまだ震えていた。
「嘘よ。だって、そんなこと」
月子は言わなかったのだ。
「ねえ、気づいてたの」
雪子は胸を隠すように腕を交差させた。
「私だって、気づいてたの。それとも、月子だと思ってやったの」
それに正直に答えることは、危険だった。月子への思いを悟られてはなるまいと思った。だから私は、「どっちでもよかった」と言った。
「何なのよ」
雪子は泣いた。声を立てずに、しみしみと泣いた。
「あいつは、全部邪魔する。いつも私の前で、全部私より先に取ってく。ようやく私の人生から出てったと思ったのに。図々しく出て来て、また、取ってくなんて」
私は何と言えばいいかわからなかった。謝ればよかったが、そんな気にはなれなかった。雪子を責めたい気持ちがあった。
「澤田先輩がいながら、なんで」
そこまで言うと、雪子は顔を手で覆ったまま「付き合ってない」と唸るように言った。
「付き合ってない、あんな奴。あっちはそう思ってるかもしれないけど。何もさせてない」
「じゃあ、今の、初めてだったの」
驚いて思わず出た言葉に、雪子は指の隙間から鋭い目を私に向けて言った。
「今のはね、ハチに刺されたようなもの。単なる事故よ。関係ないの。私には、関係ないの。何もなかったの」
そうして濡れたままの両手で私の体を押した。強い力で、何度も何度も押した。私は月子のベッドから片足をはみ出した形で、雪子のかすれた言葉を聞いた。
そのときの雪子の声は、今でもたまに飛び出してきては、その都度私を苦しめている。
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