ノート 4:【雪子・前】

  【雪子・前】


 豊泉雪子が、澤田と交際しながらも私に体を預けたのは、まったくの偶然からだった。それは事故だった。悲しい事故だった。

 豊泉姉妹の父方の大叔母が危篤とのことで、両親が揃って飛行機の距離へと旅立った。三日程で帰ってくる予定だと言う。

 兄は月子の部屋に泊まると言う。私も誘われた。私自身は、当然終電の前に帰るつもりだった。兄と月子の邪魔をしたくなかったし、特に長居もしたくなかった。となりの部屋でひっそりしているかと思えば、リビングでバラエティ番組の笑い声を響かせる雪子の存在も、わずらわしかった。兄は私が雪子に憧れていただろうと言ったが、それは事実ではなかった。確かに雪子の容貌は大多数の男にとって好ましいものだっただろうが、月子のそれに比べたら子どものようなものだった。

 兄が月子を見たときの経験談を、私はまったく自分のものとして聞いた。自分が月子を雪子であると誤認したこと以外は、兄と同じだった。耐えがたい執着心が湧いた。自分でも驚くほどの執着だった。それまでは何事にも距離を置き、執着しないことをモットーに掲げるように生きてきた自分が、兄と交際しているという事実をこのときまでどうにも素直に理解できなかったことが、その執着心の強さを表していた。自分が自分でなくなったように感じた。自分の知らない自分を体現している兄という存在が、気持ち悪くて仕方がなかった。今思えばそれは憎しみだったのだろうが、私は兄が好きだった。兄の生き様を、言葉を、自分のものとして捉え感じることで、欲求を満たしていた。それはゲームに似ていた。プレイヤーである自分は、画面の中のキャラクターに没入すればするほど、その世界を自分のものとして肌で感じ、味わうことができた。兄の言動をそばで見ることは、ゲームをプレイすることと同じだった。

 月子が画面の中のキャラクターであることを、私はどうしても認めたくなかったのだろうと思う。

 そんな気持ちがあったからこそ、私はあのとき、何も言うことができなかった。兄が、「もう無しだ」と言った入れ替わりを、酒で気が大きくなったせいか、楽しくてたまらないといった表情で私に打診してきたとき、バスルームに向かった月子とリビングにいた雪子が何らかの接触を持っていただろうということを、私たちはまったく想像できなかった。兄は、月子を驚かせる程度のいたずらのつもりでそれを提案した。月子をまったく信じていた。私は兄の月子への信頼と、雪子を人形のように扱ってはばからない無神経さにいら立った。兄は私に、弟はもう帰ったと月子に告げ、ただ抱き寄せろと言った。部屋が暗くともそれだけで月子はおれとおまえを嗅ぎ分ける、と笑いながら言った。

「兄さんはどうするんだ、雪子先輩のところで」

「クローゼットに隠れて驚かすよ。それ以上のことは、する気がない」

 私はため息をついた。兄の気持ちの変化を不快に思いながらも、理解できてしまう自分に、いや、期待を感じ始めてしまっている自分に、心底嫌気がさす。

「やっぱりやめよう。こんなの、悪趣味だ」

「相変わらず自分だけ高尚ぶって。素直になれば、楽になるのに」

「違う。巻き込んでほしくないんだ」

「おれとおまえは一心同体、表裏一体、切っても切れぬ」

「いくら似ていようが、違う人間だろう。もうおれは、部活もやめる。あの劇は、やりたいなら兄さんひとりでやってくれ」

「反抗期かい」

「おれがいなくなったら、困るのは兄さんのほうだろう」

 兄は黙って私を見つめていた。真っ赤な顔にくっついた三白眼が、不思議なほどの冷たさを持って私を捉えた。兄と相対するとたまに起こる、鏡を見ているような錯覚は、いっさい訪れなかった。

「本気で言ってるか?」

 まるで幼い子どもを諭すような、茶化した口調だった。私はその空間に留まるのが耐えられなくなった。怒りではなく、恥からだった。

「待てよ」

 兄は立ち上がった私に言った。

「おれがとなりに行くから。おまえは自分の、好きにすればいいよ」

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