ノート3:【月子】

  【月子】


 松谷の判断により、大会には兄の台本を使うことが決まった。豊泉も澤田も、それを予想していたのか、思ったほどの反応は示さなかった。

 豊泉、澤田、そして私というキャストに、兄が監督という形で練習がスタートした。豊泉の声に力がなく、終始沈んだ顔であることは、だんだんと気にならなくなっていった。豊泉を気遣うそぶりを見せる澤田、ただひたすらに自分の台本の世界を再現させることに努める兄、すべてにおいてぎこちない私という、傍から見たらあまり幸せそうに見えない光景は、夏休みまでたいした変化なく続いた。

 夏休みに、はっきりと澤田と豊泉が交際を始めたとわかる事件があり、それ以来兄の飛ばす檄には力が入った。澤田と豊泉は、我々兄弟の目をはばかることなく触れ合い、見つめ合った。兄はそれを自分へのあてつけと取った。公園で練習を行った際も、二人はセットで現れ、セットで消えた。部活の間じゅう、部活の間だけでもなく、離れないことを固く約束しているかのようなくっつきぶりだった。だんだんと、私は彼らが兄を試しているのではないかと考え始めた。兄の豊泉への思いは、二人ももちろん知っているはずだった。こうなった今、それが続いているのかどうかわからなかったが、日に日に増していく兄のいらだちがそれの証明とも取れた。

 夏休みも終わりに近づいたある日、澤田の汗を拭いている豊泉の元へ向かった兄が、その状況を打破しにかかった。

「回想シーン追加した。スライドで映す。豊泉の双子のお姉さん、出てもらえないか交渉してよ」

 豊泉は驚いたように目を見開き、しばらく声を出すことができないようだった。澤田が何か言いかけるのを制止するように、その顔を目で刺してから言った。

「だめよ」

 力強い声だった。

「そもそも、スタッフ及びキャストは在校生のみって、規定にあるでしょう」

「だから、文化祭用だよ。大会には使わない」

「ちょっと待て。文化祭は、別の台本でやるって決まったよな?」豊泉が言葉に詰まったのを見て、澤田が体を前に出した。「いくらなんでも、横暴じゃないか」

「利用できるものは、するまでだ」

「利用だと? ふざけるな。大体なんて言って頼むんだ。死人の役をやってくれとでも言うのか? 雪子、お姉さんのこと、ちゃんと話したほうがいい」

 豊泉は途端に顔を曇らせた。

「お姉ちゃんは……」

「何だ。きちんとした理由があるのか」

 兄の言葉は終始重く冷たく、真夏の空気の底に落ちるようだった。

「月子さんは、中学時代のいじめが原因で学校に行けなくなったんだ。外にも出ない。ずっと、部屋にこもってる」

 雪子が顔をまっすぐに地面に向けるほどに項垂れ、そのまま両手を顔に当てた。

「雪子」

 澤田が雪子の顔を覗き込むように体を屈めた。肩をゆっくりとさすった。兄を見ると、まばたきもせずに、二人ではないどこかを見て口を結んでいた。知らない自分の顔を見るようで気持ちが悪かった。

「もう、我慢ならない。おまえの横暴にはついていけないよ。兄弟仲良く勝手にやってくれ」

 澤田は項垂れたままの豊泉の肩を抱き、二人分の鞄を背負って公園の階段を上がっていった。噴水の脇に二人残された私たちは、しばらく何も言わずにそこに立っていた。

 その日より、澤田と豊泉は部活動に来なくなった。私は溜まっていた宿題をやるいい機会だと、冷房の効いた自宅で数学の問題集を片づけにかかった。兄がせわしなくどこかへ出かけるのは気にしていなかった。

「練習再開するぞ」

 二学期が始まってすぐにそう言われたときは、兄が奔走していたのは澤田と豊泉と和解するためだったのか、と思った。放課後、私の教室まで迎えに来た兄は、予備室ではなく下駄箱に向かった。この熱い中また外か、とうんざりしていた私を公園で迎えたのは、私服姿の豊泉雪子だった。

「澤田先輩は」

「おまえ、これ見てわかんないの? 豊泉じゃないぞ、姉のほうだぞ。おれの彼女だ」

 意味がわからなかった。確かにそこに立っているのは、豊泉雪子に相違なかった。表情が若干固いが、髪型、顔、体型、やや猫背の姿勢、すべてが豊泉雪子であることを示していた。何よりわからなかったのが、彼女という言葉だった。

「初めまして。本当に似てるんだね、びっくりした」

「よく言われる。月子も最初見たときは予想以上で驚いたけどな」

 月子と呼ばれた雪子は柔らかく笑った。

「子どものときよりは、だんだん違いが出てきてるんだよ。今ではさすがに親も間違えないし」

「昔はよく間違えられたって言ってたよな。おれたちは体格差があったからそういうことなかったけど、最近こいつが追いついてきたせいで、やたら似てるって言われて正直鬱陶しいんだよ」

「シンイチ君の成長が止まったってことだよね」

「言うね」

 そうして笑い合う二人を、私は阿呆のようにただただ見ていた。雪子にしか見えない月子という美しい女性。兄を受け止め包むことができるだけの柔軟性と大きさは、確かに雪子にはなかったかもしれない。だからこれは兄の言うように、月子という名の別人なのだ。私は何度も自分に言い聞かせた。雪子とは別人の、美しい月子という女性。兄の彼女。自分に瓜二つの兄と、雪子の双子の姉という男女。

「とりあえず、三人でこれを完成させることになった」

 兄は最初から手にしていたらしい台本を掲げて言った。私はこのときまで、それに気づいていなかった。

「最初は、月子を雪子として出しちまえばいいと思ったけど、やっぱりやめた。演劇部は瓦解した。大会も、文化祭ももう無理だ。でも、これは劇として生かしたい。残したいんだ。本番はここでやって、ビデオに撮る。協力してくれるか」

 言われて私は、固まってしまった。劇は、やはり私にとって道具に過ぎなかったのだとこのとき思った。兄は月子のほうを見て言った。

「月子、演劇の才能あるぞ」

「嘘だよ」

「ほんと。雪子はな、あいつはだめだ。澤田なんかと付き合うような女、ろくなもんじゃない」

「澤田君、優しいよ」

「雪子に気に入られるための演技だ。あいつは、そういう演技だけは上手いんだ。厄介な奴だ」

「厳しいね」

「ねえ」

 私は我慢できずに口を挟んだ。

「二人は、その、どうして、付き合うようになったわけ?」

 月子は兄を見て微笑んだ。兄は口を開かなかった。

「お兄さんが、見つけてくれたから」

「見つける?」

「別に、ほんとに隠れてたわけじゃないぞ」

 兄がそう言うと、月子は笑った。いつか、耳に心地よくて何度も鳴らした、お守りの鈴。月子の優しい笑い声は、その音に似ていた。

 その夜兄から聞いた話によると、兄は雪子に謝罪するために家を訪れたということだった。あいにく雪子は不在で、代わりに月子が出て来た。月子を見た瞬間、兄は私と違って、すぐにそれが雪子の姉だとわかったと言う。そうして、「ぞわぞわした」のだと。

「雪子と同じ顔だけど、違う。雪子に感じてた違和感がすっぽり抜けた、完璧な女。それが月子だ。おれは、こいつを逃しちゃだめだと思った。とにかく、逃したくないと思った」

 蒸し上がるような暑い夜だったからかもしれない。兄は私が驚くほど饒舌に月子との出会いを語った。その言葉に私は気圧された。私の知らない兄の顔がそこにあった。それは自分の顔でもあった。自分が、愛というものを手にしたときの顔を、触れられるほど間近で眺めているのが不思議だった。そうして、気持ち悪かった。

 澤田が言った話は半分嘘で、半分本当だった。中学時代にいじめを受けて不登校になり、高校にも進学できなかったのは本当だった。だが部屋にこもりきりで外に出られないというのは嘘だった。私服ではほとんどスカートしか履かない雪子を装い、数少ない手持ちのスカートを履いて雪子のつもりでたびたび外出していたという。雪子もそれを知っており、それをやめさせたいがために、雪子が家にいるときは半強制的に家に閉じ込められているのだということだった。

 私は、公平ではないと感じた。兄の話では、雪子が悪者になっていた。兄の雪子への感情は、とっくに憎悪へと変わっていたようだった。

「自分の振りをしてほうぼう出歩かれるなんて、いい気分しないよ」

 そう言った私を兄は一笑に付した。正月に買ったラジカセが、部屋の隅で洋楽を奏でている。

「何が問題なんだよ。そんな意図がなくったって、おれたちはとっくに同じような事態になってるだろうが」

「そういう問題じゃない」

「いじめの原因だって雪子なんだ。月子が受けた傷を考えてみろ。それくらいのこと、許されないでどうする」

「いじめの原因だって」

「間接的な、だけどな。まあそのへんはどうでもいいとして、おまえは雪子のこと好きだったろ? でも月子が雪子に見えたんじゃ、付き合う資格ないな。二人が並んで寝てたらどっちを襲えばいいのかわからないんじゃな」

「どういう話だよ。そもそも好きじゃないし」

「ちょっと憧れてはいただろ? おれに遠慮してたんなら馬鹿だったな、澤田なんかに取られちまって」

「ないから。ていうか、月子さんって今までの子とタイプ違うじゃん。雪子先輩のほうが近いんじゃないの。そこが謎」

「うん。おれが思う、理想のおれが好きなタイプが、雪子タイプだったんだろうな。つまりはおまえの好きなタイプが」

「はあ?」

「素でいられるんだよ、月子の前だと。あいつは何でもお見通し。取りつくろったほうが馬鹿を見る。だから、おれと同じようなことしてる雪子が哀れに思えたのかもしれん」

 兄はそこで私のほうに向き直って言った。同時に、ラジオから男性シンガーの裏声が響く。

「またやるか。入れ替わり」

「……もう懲りたよ。ていうか、いいわけ」

「何が」

「おれと月子さんが、寝ても」

「うん」

 小さな声だった。

「だって、おまえはおれでもあるし……いや……月子を、試したいのかもしれない」

「それ、さらに、ひどい」

「わかってるよ。入れ替わりは、もう無しだ。おれから月子を、取らないでくれ」

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