第9話

 秋の太陽が早々はやばやと暮れたきのうの夜、下校途中にある大きな川にかった橋の歩道で、自転車を止めて私はサユと会話をしていた。右耳だけにイアフォンを付けて画面越しに彼女と顔を合わせていた。近くに誰もいない時でないと会えないと私が言うと、登校と下校の途中の数分、数十分間まで強要するようになった。いつも二人一緒に登下校していたから同じことだよね、が彼女の言い分だった。


 私はうんざりとした顔を毛ほども見せずに、きょうの出来事をサユに報告する。彼女のほうから伝えることは何一つないので、私から話題を出すしかなかった。でもあまりに楽しかった出来事や、友達の笑い話などは紹介できない。同じ体験のできない彼女が不機嫌になってしまうからだ。


 いつもなら、もう諦めきっているので気にならなかった。サユが求めている私の態度もこの半年間で分かっている。死者の魂である事実を忘れて、まるで今も同じ学校に通う親友のような態度で接すること。そうしていれば彼女は満足でいてくれた。


 しかし、きのうの私は普通ではなかった。サユの機嫌を取ることに抵抗感を抱いていた。それは先日の中間テストで期待していた結果が得られなかったせいか。新たに仲良くなった友達との関係がうまく築けていないせいか。部活で捻挫ねんざした足首がなかなか治らないせいか。この頃は何をやってもうまくいかず、その理由が全てサユに繋がっている気がしていた。彼女と付き合い続けているせいで勉強不足になり、友達と疎遠そえんになり、寝不足で体力が落ちている。そう思い込むと彼女に尽くそうという気持ちもえかけていた。


 何よりの不満は、この半年間、本の一冊もまともに読めていないことだった。小説や漫画を読むことは、私にとって唯一の、誰にも邪魔されずに没頭できる趣味だった。読めないでいると心がせ細り、気力を失い、理由のない焦りや不安や苛立いらだちが募っていく。当然、その理由もサユに時間を奪われ続けているせいだった。


 私はスマートフォンを強く握り締めたまま、荒れる呼吸をおさえてサユと会話をしていた。自分の中で何か破滅的な感情が込み上げてくる気がして、衝動的に何かしてしまうことを恐れていた。落ち着け、怒るな、サユは何も悪くない。成績が落ちたのも、部活で怪我をしたのも私の責任だ。サユは何もしていない。こいつには何もできない。他の友達と仲が悪くなったのも私の問題だ。読書の時間が取れないのも私のわがままだ。サユはかわいそうな親友だ。あと5分もすれば解放してくれる。帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、宿題をして、そのあとはまた……


 さいわいにも、その時はサユに話せる出来事があった。私のクラスの女子生徒が一人、親の都合で来月に転校することとなった。私は女子生徒のことは知っているが、特に仲が良いわけでもなかった。サユは生きている時から女子生徒のことは知らなかった。だから話をしてもねられる心配はなかった。


 クラスでは女子生徒のために寄せ書きを作ろうとしているが、私はあまり乗り気になれない。正直言って、そこまで親交のなかった人たちから別れの言葉をもらっても嬉しいとは思わないからだ。これまで仲の良かった人たちはそんなことをしなくても交流を持ち続け、そうでもなかった私のような人たちは恐らくもう二度と会うことはないだろう。だから寄せ書きなんて、やりたい人たちだけでやればいい。本人もそのほうが嬉しいに決まっている。私がそう主張するとサユも、そうだよねと笑ってこたえてくれた。そして、あの言葉をつぶやいた。


 私たちは、これからもずっと一緒だね、リッちゃん。


 その瞬間、私は胸の奥で抑え込んでいた感情が破裂するのを感じた。これからもずっと一緒。いつまでもこんな関係が続く。何年も、何十年も、サユの話し相手を続ける毎日。破裂した感情は血が流れるように全身に広がり、強烈な拒否反応を起こして総毛立そうけだった。もうえられない。もうこれ以上、この厚かましい女には付き合えない。私はまばたきすらも忘れてスマートフォンの画面を凝視ぎょうしした。もう二度と、この死顔しにがおを見たくなかった。


 サユはやや驚いたような顔になると、まるで静止画像に戻ったかのように動きを止めた。多分、私の顔色が変わったことに彼女も気づいたのだろう。しかし理由までは分からない。私の気持ちを理解しているなら、あんな言葉は吐かないはずだ。だから彼女はわずかに赤い唇を動かして、イアフォンにぎりぎり届く声で、どうしたの? と無頓着むとんちゃくに尋ねた。それで私は心を決めた。


 すっと息を止めると震える人差し指を伸ばして、画面に映るサユの鼻を押し潰すようにタップする。即座に展開したメニューから【削除】の項目を見つけると、ぎゅっと強く目を閉じて再度タップした。私は何も見ていない。スマートフォンに軽く指が触れただけ、そう自分に言い聞かせた。


 しかし数秒後に目を開けると、画面上にはまだサユが映っていた。そしてその顔にかぶさるように【画像を削除しますか?】と再確認するメッセージが表示されていた。先走さきばしった。削除するにはもう一回タップする必要があった。メッセージの裏でサユがおびえた目を向けている。私の表情と指先を見て何をしようとしているのか気づいたのだろう。もう言い訳もできない。もう親友同士には戻れない。やめてリッちゃん! お願い! という叫び声が右耳に響く中、私はもう一度画面をタップした。


 パッと強い光が目に刺さり、同時にけたたましい音が耳にこだました。


 私は弾かれたように体を震わせて顔を上げた。だが次の瞬間にはもう、今までと変わらない夜の景色が見えていた。なんだ? 今、まるで車道からヘッドライトを点けた車が飛び込んできたような衝撃を感じた。しかし辺りは何も変わらず、すぐ隣の車道でも平然と車が行き交っている。私も怪我をしていない。クラクションを鳴らしながら通り過ぎた車があったのだろうか。何か妙な感覚だった。


 スマートフォンに目を落とすと写真フォルダ内の画像が一覧で表示されている。そこにはもうサユの死顔は保存されていなかった。肩の力が抜けるとともに、溜め込んでいたものを吐き出すように大きな息が自然と漏れた。やってしまった。でもこれで全て終わった。これで本当にサユは死んで私の前からいなくなった。


 体の芯から温かさが広がり、途切れ途切れの吐息といきとともに涙がこぼれた。それは悲しみではなく安堵あんどによるもの、うれし涙に違いなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る