不老不死の窓口(Ⅳ)

 ある日の就業後のことである。他に誰もいなくなった薄暗いフロアでデータ整理をしていると、僕の背後から優しい声がした。

「タスケ君、まだ仕事してるの? 遅くまでありがとう」

 これから退庁するところなのだろう。薄青色のコートを着たミキさんは、通勤バッグの中からチョコレート菓子の小袋を取り出すと、僕の手を取ってその上に乗せた。僕は一度チョコレートに視線を落としてから、ミキさんへと顔を向ける。

「僕には配らなくていいですよ。前にもお伝えしましたけど」

「いいの、気持ちだから。それにタスケ君、貰ったものはいつも、他の誰かのデスクに無作為に置いてくれるでしょう? タスケ君からお裾分けがあった日はラッキーだって、みんなの中ではちょっとした運試しになってるみたい」

「僕はおみくじですか」

 呆れと嬉しさが半々のような心持ちになった僕は、そう無愛想に切り返しながらも、貰ったチョコレートを手の中にそっと握りこんだ。

 てっきり、僕を労うためだけに寄ってくれたのだと思っていたのだが、用を済ませたはずのミキさんが立ち去る気配は無い。僕が首を傾げて見せると、明朗快活なミキさんには珍しく、おずおずと言いにくそうに口を開いた。

「タスケ君に一つ、お願いをしてもいいかな。業務時間外だけど、受理してほしい届出書があるの」

 僕は拍子抜けしてしまった。そんなことならばお安いご用だ。ミキさんたってのお願いであれば、尚更。

「いいですよ。やっておきます」

「ありがとう」

 安堵したように微笑しつつ、ミキさんはバッグからクリアファイルを取り出して、中に挟まっていた書類のうちの数枚を僕へと手渡す。それは予想に違わず、毎日飽きるほど目にしている、弦瓶市の不在世期間届出書だった。

 だが、その最上段の「届出者」欄に目を留めた瞬間、僕の思考は停止する。


 そこには、見慣れた綺麗な筆跡で、ミキさんのフルネームが記されていた。


 言葉を失った。反面、頭の中には大量の疑問の文句が湧き出して、ぐるぐると渦を巻いていた。しかし表に出ることは無く、僕は口を噤んだまま書類を検める。

 不在世事実発生予定日は一ヶ月半後。期間は上限の丸一年。期間更新予定、有。

 一部の隙もなく記入された届出書は、添付書類も完璧に整っており、受理を拒む理由など何一つ無い。それでも何度も繰り返し、執拗なまでに書類を点検してから、僕はようやく顔を持ち上げて首を回し、黙したままでミキさんに視線を注いだ。

 立ったまま僕を見下ろすミキさんは、自嘲のようにも見える、寂しげな苦笑を浮かべていた。

「私、ちょっと厄介な病気なんだ。今はまだ、見た目には分からないだろうけど。このまま放っておけば、もう長くないみたい」

 続けて彼女が小声で告げた病名を検索すると、国内では症例も希な血液系の難病にヒットした。若年層が発症した場合は特に病気の進行が早いらしく、有効的な治療法は、まだ確立されていないようだ。

 僕が何も言えないままでいると、ミキさんは大仰な仕草で肩をすくめた。

「最近になって海外で治療薬が開発されたんだけど、日本での承認には、まだ数年はかかるみたい。それを待つだけの時間は、もう、私には残されていないの」

「それで冷凍睡眠を?」 

「そう。数年なら、費用面でもどうにかなりそうだったしね」

 ミキさんは努めて軽い口調で話しながら、クリアファイル内に残っていた別の書類を引っ張り出して、その表側の上半分だけを、気恥ずかしそうにチラリと見せた。

「彼もね。私が起きるときまで、これを出すのを待ってくれるって言ったから」

 それは、僕には馴染みの無い、だが、この市役所で取得できる届出書。

 「婚姻届」と印字された書類の氏名欄には、「藤間とうま悠久ゆきひさ」「美木みき遙奈はるな」という名前が、やはり見覚えのある、それも二人分の筆跡で、仲睦まじく書き並べられていた。


「どうして」


 気付けば、僕は口に出していた。自分でも呆れるくらい漠然とした問いを紡ぎ出した僕の声には、動揺の色も、責めるような響きも無かったはずである。

 けれどミキさんは、意外そうに目を丸くして、僕の顔をまじまじと眺めた。

 やがて彼女は、困ったように微笑んで言う。

「タスケくんには、分からないかもしれないね」




 夜のフロアから人影が消える。

 僕は、手の中にずっと握っていたチョコレート菓子の小袋を、ミキさんのデスクの上にそっと置いた。




 年内いっぱいでミキさんが退職して、年が明け、代わりの職員が配属されても、僕が窓口に立ち続ける毎日は変わらない。

 昨日も今日も、恐らく明日もその先も、この窓口には各々の事情を抱えた人々が、絶え間なく来訪し続けるのだ。




 とある日の午後。いつものように窓口に立っている僕の元を訪れたのは、物腰穏やかで優しそうな高齢の女性だった。

 老眼鏡を時折上下にずらしながら届出書を記入する顔に浮かんでいる、飾らない素朴な微笑が、どこか、ミキさんを思い出させて。

 気付けば、僕は口に出していた。

 配属されたばかりの頃、来庁者に投げかけて酷く叱責されて以来、固く禁じていた質問を。


「どうしてそこまで、生きたいと思うんですか」


 ペンを握ったまま面を上げた女性は、意外そうに目を丸くして、僕の顔をまじまじと眺めた。

 そのまま視線を移動させ、僕の胸元あたりをじっと見つめたあと、再び届出書に目を落として記入を再開しながら、彼女は困ったように微笑んで言う。


「あなたには、分からないかもしれないわねぇ」


 彼女の視線を追いかけて、僕はゆっくりと、自分の胸元を見下ろした。

 そこには、「業務補助ロボット TASUKE」と記された、簡素なストラップ名札が一枚ぶらさがっているだけだった。




 手続きを終えた女性が立ち去るのを見送ってから、相変わらずの抑揚の無い機械音声で、僕はフロアに呼びかける。

「二十四番でお待ちの方、一番の窓口までお越しください――」






 Fin.

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不老不死の窓口 秋待諷月 @akimachi_f

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