五章 ふたつの未来

 五年の時が過ぎた。

 メインクーンは一五歳になっていた。もともと、美しかった少女はこの五年間でますます美貌に磨きをかけ、すれ違う誰もが振り返るような美少女へと成長していた。しかも、ただ美しいだけではない。何者にも媚びることのない強さと凜々しさとを兼ね添えた美しさ。〝知恵ある獣ライカンスロープ〟ならではの野性的な美少女だった。

 あと一ヶ月。

 あと一ヶ月ほどでメインクーンは公子ラージリーフの正式な婚約者として発表され、認知されることになっていた。およそ一ヶ月後のラージリーフの一七歳の誕生日。誕生会を兼ねた舞踏会が開かれ、ラージリーフは正式に大公の後継者として指名される。それと同時に、メインクーンとの婚約も発表されるのだ。

 この五年間、メインクーンは『公子の婚約者』という役職を忠実に務めてきた。常にラージリーフの側にあり、忠言し、補佐をし、支えてきた。そして、まさにそのためにラージリーフからもその仲間たちから浮き上がっていた。

 ラージリーフは決して愚鈍とか悪辣とか言うような人間ではなかったが、いかんせん生まれついてのボンボンであり、無邪気すぎた。生まれた頃から母とふたり、辛酸に次ぐ辛酸をなめ、『誰?』のもとでこの世のありとあらゆる事象について学んできたメインクーンとは経験においても、精神年齢においても差がありすぎた。必然的にメインクーンは『控えめな乳母』のように振る舞わなければならず、ラージリーフ率いる少年たちからはすっかり煙たがられていた。そのためか、あるいは父親譲りの性格か、ラージリーフは近頃とみに色事に手を出すようになっていた。同年代の少女たちのみならず、年上の貴婦人たちに至るまで。

 それは全然、かまわない。子供は多い方がいいし、そのためには多くの側室、愛妾をもった方がいいに決まっている。そもそも、〝知恵ある獣〟に『結婚』という習慣はない。〝知恵ある獣〟は徹底した個人主義者であり、『特定の誰かと一生を共に過ごす』などと言う発想がそもそもない。〝知恵ある獣〟にとって恋愛とはあくまでも子供を作るための儀式であり、子供さえ出来ればそれで終わり。男はすぐに新しい相手を探すし、女も数年間、子供を育てたあとでやはり、新しい相手を探す。同じ相手と二度、つがうことはない。何しろ、〝知恵ある獣〟の言語には『父親』に相当する言葉さえ存在しないのだ。そんな〝知恵ある獣〟の身であれば、ラージリーフがほかに何人の愛妾をもったところで知ったことではない。

 非公式ながら婚約して以来、生命も何度か狙われた。しかし、実害があったわけでもないので気にしていない。毒を盛られることもよくあったが、その辺で手に入るような毒で〝知恵ある獣〟の鋭敏な感覚をごまかせるはずもない。すべて、食べる前に察知した。そもそも、人間用の毒など〝知恵ある獣〟の体力の前では『ちょっとキツい薬』でしかない。〝知恵ある獣〟を薬物でどうこうしようと思えば『調合するだけでも死の危険がある』というやっかい極まりない代物を手に入れるしかないのだ。そんなものがこの辺境の地で手に入るはずもなかった。

 刺客が送り込まれたことも何度かある。しかし、メインクーンは『人間の技を身につけた〝知恵ある獣〟』。人間の暗殺者などが――それがどんなに凄腕であれ――太刀打ちできるわけがなかった。送り込まれてくる刺客すべて、指先ひとつで返り討ちにした。

 メインクーン自身の暗殺が不可能と悟ると、病弱な母、カオマニーを狙って脅しをかける手段に出た。それは面倒だったが――。

 やはり、すべて阻止してきた。それも、そんな計画を立てたことを後悔するような方法で。

 おかげで、いまでは国内の有力貴族たちもメインクーン(及び、その母親)に対して手を出そうとはしなくなっていた。出すだけ無駄。それどころか、手を出せば出すほど自分が危険になる。そのことを思い知ったのだ。その意味において息子の嫁にメインクーンを選んだナローリーフの思惑は見事に当たったと言える。このままラージリーフと結婚すれば『史上最強の大公妃』として光輝に満ちた暮らしを手に入れられることは間違いない。だが――。

 ――これから先、ずっとあのボンボンのお守りをして過ごすの?

 そう思うとどっと疲れが襲ってくる。全身の細胞という細胞すべてが石にかわったかのような思いに駆られる。これが年上のおとなの女性であれば、

 ――公子さまはまだ一七歳。これから先、精進していけば立派な大公に成長できるはず。

 そう思って乳母役に徹することもできるだろう。しかし、まだ一五歳、それも、ラージリーフより年下の少女にそこまで思うなど無理な話だった。

 「お~い、メインクーン」

 ラージリーフの声がした。小走りに駆けてきた。相変わらずの無邪気な笑顔を浮かべている。

 ――五年前とまるでかわっていない。

 一二歳の頃ならまだしも、一七歳にもなってこれとは……。

 さすがに頭の痛くなるメインクーンだった。

 未来の妻のそんな思いなど知らずに、ラージリーフはお世辞でくるめば純真と言える笑顔で尋ねた。

 「なあ、メインクーン。お前、国一番の戦士なんだって?」

 「ええ」

 メインクーンは短く答えた。謙遜や恭謙など〝知恵ある獣〟には無縁のもの。事実としてトリトン公国の兵士の誰よりも強いからうなずいた。ただ、それだけのこと。五年前、まだ一〇歳の時点でさえ、国一番の勇士であるアコルスより強かったのだ。一五歳となったいまでは兵士たちが束になっても敵わないほどの強さを手に入れていた。

 「じゃあさ。おれと手合わせしろよ」

 「手合わせ? 公子さまと?」

 「そうそう。実は明日、魔物討伐に行くことになってさ」

 「魔物討伐?」

 「そうさ。おれももう一七歳。誕生日を迎えれば正式に親父の後継者として指名されるんだ。となれば、国民を守るための魔物討伐ぐらいできるようになっておかなきゃな」

 「……それは確かに」

 「だろ? だから、手合わせしてくれよ。国一番の戦士の腕を知っておきたいんだ」

 「分かりました。お相手します」

 「よっしゃ。じゃあ、頼んだぜ。宮廷の訓練場でな」

 ラージリーフはいかにも『男の子』という感じの笑顔でそう言うと、訓練場目がけて駆け出した。その態度は一二歳の頃とまったくかわらない無邪気なものだった。

 ――まあ、少しは痛い目に遭ってもらうのもいいか。

 メインクーンはそう思った。さすがに、あまりに簡単にやっつけて恥をかかせるわけにはいかないが、『惜敗』という形で負かすぐらいならかまわないだろう。それで、身の程を知って剣の修行に励むようになれば結構なことだ。ところが――。

 ――強い⁉

 試合をはじめてすぐ、メインクーンは驚かされた。ラージリーフの剣の一撃いちげきは思っていたよりもずっと鋭く、力強いものだった。仲間内での腕試しや、魔物討伐の真似事などでそれなりに鍛練は積んでいたらしい。力強い踏み込みからの一撃はメインクーンでさえ驚くほどの威力をもっていた。しかし――。

 ――何これ⁉ 防御、完全無視じゃない。

 守りが下手とか、苦手とか、そんな次元の話ではない。守りは完全無視、攻撃一辺倒。相手が反撃してくると言うことを考えに入れていないとしか思えない戦い方だった。

 何でこんな極端な戦闘スタイルになったのか。その理由はすぐに見当が付いた。ラージリーフのことだ。今回、メインクーンに対してしたように、何かと言うと手合わせを申し込み、相手を困らせてきたのだろう。相手する方とすれば次期大公殿下たるお方を傷つけるわけには行かない。そこで、攻撃せずに適当に負ける。どうせ、次期大公たるお方が戦場に出ることなどないのだし、わざと負けて見せたところで困ることはない……。

 そんな手合わせを繰り返してきたためにラージリーフは『自分の攻撃が鋭くて強力だから、誰も反撃してこられないんだ』と、思い込んだにちがいない。無邪気なラージリーブであればありそうなことだ。その結果、出来上がったのが、この防御完全無視、攻撃一辺倒の戦闘スタイルというわけだ。

 ――さあ、困った。どうしよう。

 さすがにメインクーンも思案に暮れた。もちろん、メインクーンにとって勝つなど簡単だ。いくらラージリーフの攻撃が鋭く、力強いと言っても、それはあくまで『思っていたよりは』と言うことに過ぎない。先入観なしに評価すれば中堅所の兵士にも及ばない。攻撃だけで相手を圧倒し、勝つことができるような域には遠い。まして、メインクーンである。ラージリーフの攻撃を受け流し、反撃を打ち込むなど、よそ見しながらでもできる。しかし――。

 ――こんなに防御完全無視で突っ込んでこられては、すべての反撃がカウンターとしてもろに入ってしまう。下手したら死なせてしまうわ。

 アコルスをはじめ、まわりの兵士たちがハラハラした表情で見守っている。さすがに、かの人たちはプロとしてその当たりの事情がよく分かっている。ラージリーフの剣技の危なっかしさに気が気でないのだ。

 ――負けるしかないか。

 予定は狂うが仕方がない。さすがに、相手を死なせかねない危険を冒すわけには行かない。格好を付けるためにその後、何度か打ち合ったあと、メインクーンはわざと武器を飛ばされた。ラージリーフの無邪気な声が響いた。

 「よっしゃあ、おれの勝ちだ!」

 「……お見事です、公子さま」

 「見たか、おれの剣の冴え! 国一番の戦士もおれの敵じゃなかったな。これなら明日のクエストも楽勝だな」

 そう言って右手に持った剣を振りまわしながら、鼻歌交じりに意気揚々と去って行く。その後ろ姿を見てメインクーンは――。

 溜め息をついた。

 「……メインクーン」

 あこるすが気遣わしげに近づいた。メインクーンはアコルスに言った。

 「アコルス。今夜、付き合って」

 そして、その日の夜遅く。メインクーンとアコルスは湿地帯を歩いていた。ラージリーフの引き受けた討伐対象の魔物を事前に弱らせておくために。

 「悪いわね、アコルス。こんなことに付き合わせちゃって。倒すだけならわたしひとりでもできるけど、弱らせておくとなると手間だから」

 「いいさ。そもそも、こんな羽目になったのも、おれたち兵士が遠慮しすぎたせいだからな。最初の頃に本気で戦って身の程を思い知らせておくべきだったんだ。それをせずに図に乗せちまった。おかげで、気付いたときにはあの調子で手を出そうにも出せなくなっていた。謝るのはこっちだ」

 「それこそ仕方ないわよ。あなたたちは宮仕えなんだもの。雇い主の息子に手を出せるはずがないわ。それに、ラージリーフのことだもの。最初の頃からあの調子で突っ込むばかり。そのせいで、危なくて手が出せなかったんでしょう?」

 「……まあ、な」

 アコルスは気まずげにうなずいた。

 ふたりはしばらく黙って歩いていたが、やがて、アコルスが意を決したように言った。

 「なあ、メインクーン。お前、本当にあの公子と結婚するのか?」

 「………」

 「あの公子が悪い人間じゃないことはおれも知っている。だが、あまりにもボンボンすぎる。無邪気すぎる。お前と釣り合うような人間じゃない。お前だったらこんな辺境でくすぶっていないで、中央に行っていくらでも出世できる」

 「この国の未来を頼む。昔、そう言ったのはあなたでしょう」

 「たしかに言ったが……あの頃はまだ、お前がこれほどの逸材だとは知らなかったからな。どんどん成長していくお前を見て、こんな辺境の小国で終わらせるのは惜しくなったんだよ。まして、お前はトリトンの出じゃない。トリトン公国に義理立てする必要はないんだ。中央に行って、存分に能力を発揮して見ろよ」

 「……義理はあるわ。流浪の身だった、わたしたち母娘にはじめて人並みの暮らしを与えてくれたのはトリトン公国だもの。

 受けた恩を返さないものは人間にも劣る。

 大公妃としてトリトン公国の発展に尽力するのは、〝知恵ある獣〟として当たり前のことよ」

 「その恩義ならもう充分に返したじゃないか。お前はこれまでに何度も魔物討伐に参加して被害を未然に防いできた。大公殿下を説き伏せて税制改革も実現させた。湿地帯の大規模な治水に防壁の修復、大規模交易のための武装隊商の編成。どれも、誰もがやらなきゃいけないと思っていたのに手を付けられずにきたことばかりだ。それをお前が――どうやったのかは知らないが――反王家の有力貴族たちを従わせて実現させた。国中のみんなが、お前に感謝している。おれたちこそお前に恩があるんだ。これ以上、トリトンに縛られる必要はない」

 「………」

 「何でなんだ?」

 「………」

 「……お袋さんのことなら、おれに任せておけよ」

 「……いたわ」

 アコルスが決意を語ったそのときだ。メインクーンは標的の魔物を見つけ出した。湿地帯の泥のなかに半ば埋まるようにしてたゆたっている。

 「……あれか。大型のアコローン種。危険度Cの魔物だな。なるほど。あんなのを相手にしたら、あの公子さまじゃひとたまりもないな」

 「夜明けまでに適当に弱らせておきましょう」

 「ああ。おれが正面から打ち合う。お前はその隙を突いて急所を狙ってくれ」

 「了解」

 メインクーンは言うなり姿を消した。

 ――いつ見ても、見事なもんだ。

 国一番の勇士であるアコルスがそう感嘆せずにはいられないほど、それは見事な忍術だった。連携をミスする心配はなかった。これまでにもう何度も同じやり方で魔物討伐に挑み、そのすべてを成功させてきた。お互いに相手がいつ、何をするか、自分はいつ、何をすべきか、知り尽くしている。不安があるとすればただひとつ。ついついやり過ぎてしまい、相手を死なせてしまうことだけだった。

 結局、夜明けまで延々と戦いつづけ、うまい具合に弱らせることができた。あとはラージリーフがやってきてとどめを刺せばいい。攻撃手段らしい攻撃手段はすべて奪ったから、防御完全無視のラージリーフでも危険はないはずだった。

 本来ならこんなことはすべきではないのだろう。あえて、危険な目に遭わせ、身の程をわきまえさせ、精進する気にさせる。それが『本人のため』というものなのだろう。しかし――。

 ――わたしはラージリーフの母親じゃないわ。ラージリーフを鍛える義務も責任もない。

 「さて。こんなもんだろう」

 愛用の大剣を肩に担ぎながらアコルスが言った。

 「おれはこのまま見張っているから、お前は早く帰って公子を迎えてやんな」

 「ええ。ありがとう、アコルス。感謝するわ」

 「なあに、気にすんなって」

 メインクーンはぬかるんだ湿地帯の上を、まるで固く舗装された石畳の上でも走るかのように軽快に、素早く走っていく。そんなメインクーンの後ろ姿をアコルスは、娘を気遣う父親の目で見守っているのだった。

 

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