三章 公子と婚約?
「参った!」
訓練場に野太い兵士の声が響いた。革鎧を身にまとった三〇代の大柄な兵士が手にした武器を飛ばされ、尻餅をついた格好で、大きく開いた左手を前に伸ばして自分の負けを認めていた。
敗北を認める兵士に長刀を突きつけて見下ろしているのはより大柄な、クマのように屈強な兵士……かと言うと、そんなことはまったくない。そこにいたのは獣の耳と尻尾をはやした体を忍び装束に包んだ〝
「そこまで! この勝負、メインクーンの勝ちだ」
審判役の指導教官が右手を挙げて、メインクーンの勝利を宣言した。
メインクーンは右手の短刀と左手の長刀を同時に鞘に収め、一礼した。尻餅をついていた大柄な兵士が立ちあがり、尻を払いながらメインクーンに近づいた。年端もいかない少女相手に言い訳しようのない完敗を喫したというのに、それを根にもつ様子ひとつない。相手の強さを讃える朗らかな笑顔を浮かべてる。
「いや、参った。完敗だ。これでも一応、この国じゃあ『国士無双』なんて呼ばれてる身なんだがな」
兵士が言うと指導教官も重々しくうなずいた。
「まったくだ。さすがに〝知恵ある獣〟と言うべきか。もう、この国の兵士のなかでお前の疾さに付いていけるものはいないな」
指導教官は重ねて言った。
「実際、大したものだ。わずか一〇歳の身でそれほどの強さを身につけていようとは。どんな修行をしたか知らんが誇りに思うぞ」
「ありがとう」
メインクーンは答えた。表情こそ『素っ気ない』と言えるぐらいかわることはないが、口調としては礼儀を保っている。
「まったくだ。お前の一〇年後が楽しみだよ。お前ほどの戦士がいればどんな魔物が襲ってこようが安心だな。この国の未来を頼んだぞ」
国士無双の兵士――アコルスは、そう言いながらメインクーンの肩をバンバン叩き、ほがらかに笑った。アコルスの無邪気な信頼に対し、メインクーンは答えることが出来なかった。信頼されるのはうれしいし、国の未来を託されたとなれば誇りにも思う。でも、だけど……。
「……時間だわ。もう行かないと」
メインクーンのその言葉に、抜けるようにほがらかだったアコルスの表情がはじめて曇った。
「……ああ、今度は宿での仕事か。お前も大変だよな」
「母上の体調はどうだ?」
指導教官の問いにメインクーンは静かに答えた。
「最近は安定しているわ。気分もいいみたい」
「そうか。それは何より。お前も無理はするなよ。親にとって、子供の苦労ほど健康に悪いものはないからな。母上に健康でいてもらいたいなら、まずはお前自身が楽しく暮らすことだ。幼い身で働かなくとも年金は充分に支給されているのだろう?」
「ええ。それに、大公殿下はいまも時々、会いに来るし」
「あの大公も好き者ではあるが、情に篤いところもあるからな。けど、大公が来なくなっても心配はいらないぞ。いつでもおれを頼ってくれていいんだからな」
と、アコルスは革鎧に包まれた分厚い胸を叩いて見せた。実はこのアコルス、メインクーンの母、カオマニーに惚れており、以前にカオマニーにプロポーズしたこともある。そのことをメインクーンは知っていた。そのときはあっさりフラれたのだが、この口ぶりからするとまだ諦めていないらしい。
「ええ、ありがとう。それじゃ、もう行くわ」
「おう。無理すんなよ」
アコルスの言葉に見送られてメインクーンは歩きだした。
メインクーンはそのまま宿屋に向かった。はじめてこの国にやってきたとき母と一緒に泊まった宿屋、カオマニーがしばらくの間、住み込みで働いていたあの宿屋だ。
メインクーンは最近、この宿屋でウエイトレスとして働いていた。もともと病弱であったカオマニーが――おそらくは生来のものではなく、扱いやすい愛玩用奴隷とするために薬を盛られた結果であろう――体調を崩して働けなくなった、と言う理由もある。しかし、それだけなら幼いメインクーンがわざわざ働く必要はない。指導教官にも言ったとおり、年金は充分に支給されているのだ。わざわざ働かなくても母娘ふたり、人並みに暮らしてしていくのは簡単だった。それでもわざわざ働くのはもちろん、将来のためだった。
――戦争を殺す。
――そのために世界一の金持ちになる。
その目的のために商売を習うためだった。
ウエイトレスの仕事をしながら商品の仕入れ、金銭管理、帳簿の付け方から客の好みの見抜き方に至るまで、ありとあらゆることをメインクーンは貪欲に学んでいった。植物が水と大気と光を吸収してグングン育つように、それらすべてを自分のなかに吸い込んでいった。もともとが知性でも、身体能力でも人間をはるかに凌ぐ〝知恵ある獣〟。その〝知恵ある獣〟が人間が数千年、数万年の時を懸けて洗練させてきた知識と技術を吸収していったのだ。規格外の怪物に育つのも当然だった。
メインクーンのウエイトレスとしての仕事ぶりは完璧だった。手際はいいし、注文をまちがえることもない。笑顔を浮かべることは決してないが、その素っ気ない態度が〝知恵ある獣〟特有の『媚びることのない野生の美しさ』を際立たせ、大勢のファンを作っていた。おかげで、メインクーンの働く時間にはかの人目当ての客が殺到する。宿の女将としては笑いが止まらない展開だった。
「ほい、ありがとう。今日もよく働いてくれたねえ。もうあがっていいよ」
「ありがとう」
「だけど、あんたも大変だねえ。その歳で病気のお袋さんを支えて働くなんてさ。お袋さんの様子はどうなんだい? 少しはよくなっているのかい?」
「ええ。最近は体調も安定しているわ」
「そうかい。そいつはなによりだね。ふたり暮らしで不便があったらいつでもうちにおいでよ。なあに、遠慮なんかいりやしないさ。あんたにも、あんたのお袋さんのカオマニーにも、うちはずいぶん稼がせてもらってるんだ。それぐらいさせてもらわなきゃバチが当たるからね」
「ええ、ありがとう」
「それとこれ、お袋さんに食べさせてやりな。あたし特製の栄養たっぷりシチューだよ。精を付けて早く元気になってもらわなきゃね」
「ありがとう」
半ば押しつけられるようにして渡された大鍋一杯分のシチューを抱えながら、メインクーンは礼を言った。
家への帰り道、メインクーンが歩いていると通りすがりの町の人たちがヒソヒソ声を交わし、噂しあう。別に聞く気などないのだが〝知恵ある獣〟の鋭敏な聴覚はどんなヒソヒソ話も拾ってしまう。
「ほら見て、メインクーンだよ」
「いつ見てもきれいな子ねえ。小さい頃はちょっとおてんばが過ぎるところもあったけど、最近はすっかりお嬢さんらしくなっちゃって」
「本当にねえ。〝知恵ある獣〟は原始的で野蛮な種族だって聞いていたけど、どこが野蛮なのよ。物静かで、礼儀正しくて、とっても良い子じゃない」
「おまけに親孝行だしねえ。うちの娘にも見習って欲しいもんだわ」
この国にきてから五年。メインクーンの存在はすっかり人々の評判となっていた。町に住む〝知恵ある獣〟と言うだけでも充分、目立つ――普通、〝知恵ある獣〟は森や草原でひとりで暮らし、人間の社会と関わることはないのだ――。その上、とびきり美しく、親孝行で働き者、と来るのだから評判にならない方がおかしい。誰も彼もがメインクーンを褒めていた。
この五年間でメインクーンの暮らしはすっかりかわっていた。母のカオマニーは少しの間、宿屋で住み込みの仕事をした後、大公ナローリーフに見初められ、宮廷付きのメイド――と言う名の愛人――として働いていた。しかし、おそらくはあきらめたのだろう。三年ほどで解雇された。『解雇された』と言っても、身ひとつで放り出された、と言うわけではない。生活に困らないよう家も用意してくれたし、充分な額の年金も支給してくれている。カオマニーにしてもナローリーフを愛していたわけではまったくなく、あくまでも仕事として愛人の座に就いていたのだから『捨てられた』などと恨みに思う筋もない。むしろ、充分に手厚く扱ってもらっているとして感謝すべきところだろう。それに、体調を崩したと聞いてからは月に一、二度は会いに来て医者を手配したり、薬を届けたりと気遣ってくれている。カオマニーはナローリーフのそんな気遣いに感謝していたし、メインクーンにしても嫌っているわけではない。
だから、家に帰ったとき、ナローリーフかまるで我が家にいるかのような態度でくつろいでいるのを見たときも驚かなかった。いつも通り、食事を用意して、もてなして、気分よく帰ってもらおう。そう思った。ところが――。
その日はいつもとは様子がちがった。メインクーンが帰ってきたのを見るとナローリーフはやけに嬉しそうな表情で立ちあがり、まるで父親が愛しい娘にするように両腕を広げて迎えたのだ。そして、ニコニコと言った。
「おお、帰ったか、メインクーン。今日はお前にいい話をもってきたのだ」
「いい話?」
「お前もきっと気に入るぞ。何しろ、とびきりの幸運話だからな」
メインクーンを抱くように両腕を広げたまま、ナローリーフはそう言った。ナローリーフの表情は『自分にとっていいことは相手にとってもいいことだ』と信じて疑わない無邪気さに満ちていた。
ナローリーフは決して暴君とか、暗君とか言われるような人物ではなかった。取り立てて功績があるわけではないが、過不足なく大公としての役職をこなしていたし、こうして気軽に城下に出て市井の人々と関わる気さくさでけっこう好かれていた。漁色家としての一面もあるにはあったが、一度に愛人にするのはせいぜい三、四人と、一国の主としてはむしろささやかな方だったし、権力にものをいわせたり、人妻を強引に奪ったり、などという真似をするわけでもない。その意味では節度を保っていた。
要するに、ナローリーフは一国の主として決して糾弾されるような人物ではなかった、と言うことである。別段、才気にあふれているわけではないが、国政をないがしろにすることはなかったし、大公としての義務と責任も充分にわきまえていた。ただ、やはり、と言うべきか、生まれついての支配者の血統と言うこともあって『自分が好意を示せば相手は喜び、感謝する』と無邪気に信じて疑わない一面も持ち合わせていた。今回の件はナローリーフのそんな面がもろに出た一件だと言えた。
「……メインクーン」
ここしばらくの闘病生活のせいでより一層青白く、透明度を増した肌を見せながら、カオマニーは気遣わしげな視線を娘に向けた。
「大公殿下はお前を公子さまのお妃にとお望みなのよ」
日頃、表情を崩すことのないメインクーンが、このときばかりはさすがに目を大きく見開いた。
「公子さまのお妃に? わたしを?」
「そうだ、メインクーン。お前は我が息子ラージリーフとは顔見知りだし、歳も近い。お前の美しさと気品とは大公の妃として充分にふさわしいものだし、評判も聞いている。最近では我が国一の勇者であるアコルスでさえ、まるで歯が立たないそうではないか。アコルスのやつ、お前のことを散々に褒めていたぞ。『わずか一〇歳にしてあの剣の冴え。将来は天下に並ぶものなき達人になりましょう。あれほどの戦士がいればどのような魔物に襲われようと我が国は安泰です』とな。それほどの使い手が我が息子の妻として、我が国の柱石となってくれればこれほど頼もしいことはない。どうかな? 悪い話ではないと思うが?」
『どうかな?』と尋ねてはいるが、相手が断ることなど想像もしていないのは表情を見れば明らかだ。三歳の幼児でもそうと察したろう。何しろ、顔中を期待に輝かせて見つめているのだから。
メインクーンはすぐには答えなかった。
ナローリーフがメインクーンの容姿と能力とを高く評価しているというのは本当だろう。しかし、それだけではない。この話には極めて政略的な一面がある。重要なのはメインクーンがこの国のなかに一切の立場をもたない、と言う点だ。
有力な貴族が一族の娘を王の妻として送り込み、国政を壟断する。
それは、古今東西、あらゆる王家にとっての悪夢であり、悩みの種である。ナローリーフ自身、国内を安定させるための政略結婚として有力貴族の娘を娶らざるを得なかった。そのために、何かにつけて妻の実家からの干渉を受け、散々に苦労させられたのだ。そして、その王妃が亡くなったいま、今度は公子ラージリーフの妻として一族の娘を送り込み、影響力を維持しようとしている……。
ナローリーフとしてはそれは何としても避けたい。これ以上、外戚によって王家の権勢を侵害されたくはない。だからこそ、この話を持ち込んだのだ。とにもかくにも婚約者を立ててしまえば、少なくとも露骨に迫ることは出来なくなる。国内に何の立場もないメインクーンであれば外戚に悩まされることもない。
もちろん、単に『国内に立場をもたない』と言うだけなら、平民のなかにいくらでもいる。しかし、婚姻の道を絶たれたとなれば一部の貴族は『暗殺』という挙に出るかも知れない。
だから、メインクーンなのだ。
鋭敏な感覚と強靱な体力を持つ〝知恵ある獣〟であり、『国士無双』アコルスでさえ敵わないほどの剣技まで身につけているメインクーン。そのメインクーンを暗殺するなどどうしてできる?
できるわけがない!
公子ラージリーフの護衛役としても適任。ナローリーフにしてみればまさに願ってもない理想の相手なのだ。
あるいは、あえてメインクーンを害させることで、それを口実に一気に反王家の貴族たちを取りつぶし、その後、改めて人間の娘を妃に選ぶ……と言うことも考えているかも知れない。いくら、小国であれ、カオマニーとメインクーン母娘に好意的であれ、その程度の権謀術数と非常さとを持ち合わせないようで一国の王が務まるはずもない。
まだ一〇歳の少女とは言え、『誰?』のもとでこの世のありとあらゆる事象について徹底的に学んだ身。その程度のことは意識しなくても自然と読める。とは言え――。
たしかに、悪い話ではない。ほんの数年前まで、食べ物にも事欠く流浪の身であった自分が、辺境の小国とは言え、一国の妃として迎えられるというのだ。承知すればもう生活に困ることはない。腹を空かせて泣く必要もなければ、寒さに震えて眠れない夜を過ごすこともない。安定した、堅実な生活を営める。
それに何より、大公妃という立場が手に入ればトリトン公国発展のために寄与できる。
これは重大な点だった。
――トリトン公国はわたしたち母娘にはじめて安住の地を与えてくれた。人並みの暮らしをさせてくれた。宮廷の兵士たちも、町の人たちも、みんな、よくしてくれた。
トリトン公国にはまちがいなく恩がある。
受けた恩を返さないものは人間にも劣る。
それが、〝知恵ある獣〟の信条であり、誇り。
――トリトン公国に恩返しする機会が手に入るというなら、それは確かに魅力的だわ。
掛け値なしにそう思う。ただ――。
――そうすれば戦争を殺すことは出来なくなる。かつてのわたしを殺し、いまのわたしと母さんを苦しめた戦争を。
最も近い国に行くまででも歩いて一ヶ月はかかるトリトン公国。この地にいる限り、戦争に巻き込まれることはない。それでは、戦争と戦うことはできない。戦争と戦うためには戦争が行われている場所まで行かなくてはならない。そう。戦乱渦巻く大陸中央へと。
――どうする?
初志を貫徹し、そのために磨いた能力をもって戦争に挑むのか。それとも、戦争とは無縁の平穏な暮らしを選び、トリトン公国に恩返しするべきか。
ふたつの視線がメインクーンを見つめている。良い返事が返ってくると信じて疑わない無邪気な視線と、娘を気遣う母の視線とが。
メインクーンは母の手を見た。抜けるほどに白い、透明な肌。しかし、メインクーンの目に映る母の手は決して白くはない。いつだって真っ赤に焼けただれたものだった。
メインクーンは静かに目を閉じた。再び、目を開いたとき、メインクーンの顔には一〇歳の少女のものとは思えない静かな決意の色が合った。
メインクーンはナローリーフに臣下の例を取ると、厳かな口調で言った。
「婚礼の話、つつしんで受けさせていただきます。お義父さま」
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