四章 公国のボンボン

 「よおし、次は西の水中洞窟の探検に行くぞ!」

 元気いっぱいの少年の声が響いた。

 トリトン公国大公ナローリーフの息子、次期大公殿下たる少年ラージリーフは、勢いよく腕を振り上げると、仲間の少年たちにそう呼びかけた。

 「おおっー!」

 と、仲間の少年たちも一斉に答える。

 少年たちはラージリーフを先頭に意気揚々、まるで魔王退治に向かう聖騎士のように洞窟探検に向かって歩きだした。だが――。

 「だめです」

 そんな少年たちの威勢をそぐような凜とした声がした。声そのものは決して大きくないが、静かななかにうむを言わせぬ気迫のこもった声だった。

 「もうすぐ授業の時間です。宮殿に戻らないと間に合いません」

 人間の姿に獣の耳と尻尾をもつ二歳年下の少女、未来の妻たるメインクーンにそう言われてラージリーフは思い切り顔をしかめた。

 「そう堅いこと言うなよ、メインクーン。少しぐらいいいじゃないか」

 「だめです」と、メインクーン。短いが断固たる口調で言い切る。

 「そうだよ、メインクーン。お前はいつだって真面目すぎなんだよ」

 「探検して体を鍛えることだって、公子サマの立派な仕事だろ」

 他の少年たちも口々に言う。メインクーンはじろり、と、そんな少年たちを睨み付けた。美しく、野性的な〝知恵ある獣ライカンスロープ〟の少女に睨まれて、少年たちは明らかにたじろいだ。メインクーンはそんな少年たちに向かって言った。

 「公子さまは次期大公。次期大公たる方が規則も守れない人間になったりしたら、困るのはあなたたちよ」

 形としては仲間の少年たちに向かって言っているが、半ば以上、ラージリーブ自身に自覚を促すための言葉だった。ともかく、形としては正論そのままだったので少年たちも押し黙るしかなかった。

 ――仕事を放り出して遊びほうけるような人間が大公になったらえらいことになる。

 その程度のことは遊び盛りの少年たちにもわかったし、ラージリーフにしても次期大公としての自覚がまったくないわけではない。

 「あー、あー、わかったよ、もう。まったく、お前ってやつはくそまじめなんだから。これじゃあ、結婚してからが思いやられるなあ」

 ラージリーフはそういう表現で探検をあきらめ、両手を頭の後ろで組んで宮殿に向かって歩きだした。メインクーンはその後ろについて歩いた。〝知恵ある獣〟と人間ではそもそも歩く速度からしてちがう。うっかりするとすぐに追い抜いてしまうので、前に出ないよう注意を払って歩かなくてはならなかった。

 メインクーンがラージリーフとの婚姻を承諾してからしばらく。メインクーンはラージリーフと同じく、宮廷の個人教師について学ぶようになっていた。いくら未来の婚姻が決まったと言っても、一〇歳と一二歳ではさすがに正式に発表するのは早い。そもそも、ラージリーフはまだ正式な後継者として指名されてはいない。トリトン公国では世継ぎの男子は一七歳の誕生日に正式に後継者として指名される。それと同時に、宮廷の一員として国政に関わりはじめるのが慣例となっている。これは、幼い子供は死亡率が高いというのと、トリトン公国の初代大公が一七歳で初陣を飾ったという伝説にちなむ風習である。

 ラージリーフが一七歳の誕生を迎え、正式に後継者に指名されたとき、それに合わせてメインクーンとの婚約も発表される予定になっていた。そのため、まずは学友という立場で行動を共にすることになったのだ。

 本来、この『学友』という立場は一緒に学んだり、遊んだりするだけではなく、護衛役も兼ねている。そのために寝食を共にし、ほぼ一日中、行動を共にする。その必要上、やや年上の少年が指名されるのが普通である。だが、メインクーンの場合、身体能力に優れた〝知恵ある獣〟であり、実際、すでに国一番の勇士であるアコルスですら敵わないほどの実力を身につけていることから『護衛役としても充分、務まる』という理由で学友を兼ねることになったのだ。

 この日の授業は大陸の歴史についてだった。初老の、やけに大仰な髪型の教師から大陸の主な国々の成り立ちについて講義された。実のところ、『誰?』のもとでこの世のありとあらゆる事象について学んできたメインクーンにとっては『いまさら』感のありすぎる講義である。それでも、メインクーンは真面目に、きちんと講義を受けていた。

 学友は次期大公の模範として、良き手本を示さなくてはならない。

 メインクーンはそのことをよく承知していたし、人間がこの世界についてどんな理解をしているのかを知ることは、かの人本来の目的のためにも有益なことだった。

 だから、メインクーンは真摯に講義を受けていた。よそ見もせず、無駄口ひとつ叩かず、黙々と。よそ見をし、無駄口を叩いていたのはラージリーフの方だった。ラージリーフは決して理解力が低いとか、不真面目とか言う生徒ではなかった。気分次第では真面目に、きちんと講義を受ける。ただ、集中力がつづかない質なのか、講義がはじまるとすぐに騒ぎだす癖があった。

 この日もそうだった。最初こそはおとなしく教師の説明を受けていたが、ものの数分もするとさっそく飽きたのか、椅子の上でそわそわしはじめた。真摯に講義を受けているメインクーンの横で窓の外を眺めたり、あれやこれやと無駄口を叩いたり。教師は最初のうちは口頭で注意していたがラージリーフの態度が一向に改まらない、むしろ、ひどくなっていく一方となるのを見ると、ついに業を煮やした。

 教師はふたりの生徒を眼前に立たせた。一振りの鞭を手にとると言った。真面目に、真摯に講義を受けていた方の生徒に向かって。

 「メインクーン。両手を揃えて前に出しなさい」

 メインクーンはおとなしく両手を差し出した。

 教師が鞭を振り上げた。ピシッ、と、空気を裂く音がして鞭の先端がメインクーンの手の甲を叩いた。鞭で叩かれた跡がミミズ腫れとなって残った。

 もう一回。

 ピシッ、と、音がしてもう一方の手の甲にも鞭が振りおろされた。自らの手の甲に刻まれた二筋のミミズ腫れを、メインクーンはマジマジと見つめた。

 これもまた学友の役目のひとつだった。さすがに次期大公たる身に体罰を加えるわけにはいかないので、学友の側が言わば『見せしめとして』かわりに体罰を受けるのだ。

 「席に戻りなさい」

 教師は何事もなかったかのように言った。

 それからあともかわることのない授業風景がつづいた。メインクーンは真面目に、真摯に講義を受け、ラージリーフは始終そわそわしっぱなし、と言うことだ。

 やがて、授業が終わった。教師が去り、ふたりきりになると、ラージリーフはさっそくメインクーンに近づいた。

 「おい、メインクーン。手を見せろよ」

 メインクーンは言われるがままに両手を差し出した。いまだ生々しく残るミミズ腫れをラージリーフはマジマジと見つめた。

 「うわあっ、見事なミミズ腫れだなあ。痛いか?」

 「……それなりに」

 「そうか。お前も運が悪いなあ」

 その言葉に――。

 メインクーンはさすがに絶句した。

 「よし、まってろよ」

 ラージリーフはそう言うと教室を飛び出していった。ほどなくして戻ってきた。宮廷突きの医師を連れて。

 「さあ、メインクーン。医者を連れてきてやったぞ。傷を見てもらえ。なあに、礼なんていいさ。何しろ、お前はおれの未来の妻なんだからな。気遣うのは当たり前さ」

 ラージリーフはそう言ってカラカラと笑った。そもそも、メインクーンが鞭打たれたのはラージリーフのせいなのだが、そのことには思い至らないらしい。それでも、未来の妻のことを気遣ったことには間違いない。

 ――この人は悪い人間なんじゃない。ただ、無邪気すぎるだけ。

 メインクーンは自分にそう言い聞かせた。

 実際、ラージリーフの評判は悪いものではなかった。集中力に欠ける嫌いはあるがこの年頃の少年としてはめずらしいことではなかったし、立場を笠に着て威張り散らしたり、乱暴を働いたりするわけでもない。平民だからと見下すわけではなく、誰とでも気さくに付き合う質だった。気分次第では気前よく振る舞うこともあるので、同年代の男子たちからはけっこう好かれていた。何かと言うと親分風をふかす癖はあるが皆『公子サマだから仕方がない』と苦笑してすませていた。逆に言えば苦笑してすませることのできる程度の親分風だと言うことだ。おとなの目から見れば『可愛いもんだ』と言うところである。

 メインクーンは家に帰った。普通、学友ともなれば宮廷に住み込み、公子と同じ部屋で寝起きを共にする。だが、メインクーンの場合は女子であるのでそういうわけには行かない。また、病弱な母の側を離れるわけにもいかないという理由もあって、家から宮廷に通っている。

 「ただいま」

 家に入り、声をかける。

 「お帰りなさい」と、近頃では一日の大半をベッドの上で過ごしている母が迎えた。

 ――また痩せてみたい。

 母のカオマニーを一目見て、メインクーンはそう思った。毎日きちんと栄養のある食事を食べてもらっているはずなのに、肉付きはますます落ち、頬はこけたように思える。もともと、青白かった肌はさらにその度合いを増し、肌の下が透けて見えそうなぐらい。

 ――もしかしたら、単なる病弱じゃなくてやっかいな病気なのかも。

 メインクーンがそう思うのも無理のない姿だった。

 もちろん、医者には定期的に診てもらっている。それでも、診察結果は決まって『異常なし』。対処方法もいつも同じで『栄養のあるものを食べさせて、充分に睡眠を取ること』。

 「だから、やってるでしょ! それでも、よくならないんじゃない」と、メインクーンでなくてもそう叫びたくなるようなものだった。

 「まってて。すぐに夕食の支度するから」

 メインクーンは買い物袋を台所に置くと、手慣れた仕種で料理をはじめた。

 フライパンに油を引き、大振りの肉をジュウジュウ焼きはじめる。川と湿地帯に囲まれたトリトン公国。獣の肉は貴重品だ。それでも、〝知恵ある獣〟にとっては獣の肉こそ本来の食性。その欲求を消すことはできない。母のカオマニーに充分な栄養をとってもらわなくてはならないという事情もあって、高価な輸入肉をいつも買い込んでいる。幸い、年金の額は充分にあるのでそのせいで生活が苦しくなる、と言うことはない。

 ――あの頃に比べれば、まちがいなく天国みたいな暮らしよね。

 メインクーンはそう思う。

 レアに焼きあげたステーキと具材たっぷりのシチューとをテーブルの上に並べ、母の手を取ってテーブルに着かせる。母娘ふたりだけの慎ましい食事。カオマニーがいくら病弱とは言え鋭敏な感覚を誇る〝知恵ある獣〟。食事を口に運ぶ娘の手の甲に走るミミズ腫れに気がつかないはずがなかった。

 「……メインクーン。公子さまはどう?」

 「悪い人じゃないわ」

 母の質問にメインクーンは即座に答えた。まるで、その質問をされたときのために何度も練習を重ねてきたように。

 「……本当によかったの? 公子さまとの結婚を承知したりして」

 「いまさら何を言ってるの。わたしが自分で決めたことよ。それに、公子さまと結婚すればわたしは大公妃。国の政策に関わることのできる立場になる。そうなれば、この国に恩返しが出来るわ。行く当てもなかったわたしたちを受け入れ、人並みの暮らしを与えてくれたこの国にね。

 『受けた恩を返さないものは人間にも劣る』

 それが、わたしたち〝知恵ある獣〟の信条でしょう。母さんから教えられたことよ」

 「それはそうだけど……」

 わずか一〇歳の少女が語るにしてはあまりにもおとなびた模範的な回答。カオマニーでなくても心配にならざるを得ないところであったろう。

 メインクーンは無理やり話題をかえようとするかのように母に言った。

 「そんなことより、ちゃんと食べて。母さん、最近ますます痩せてきたわよ。ちゃんと食べて、栄養を付けてくれなくちゃ」

 

 

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