二章 不思議なる『誰?』

 町の近くの細い川、透明な水しぶきを跳ね上げて、人の姿の獣が跳ねた。

 北の大地を走る川のなか、メインクーンは激しい泳ぎを見せていた。尋常な激しさではない。わざと流れに逆らって泳ぎ、潜り、ジャンプし、また潜り、しぶきを上げては跳ね上がり、水面を叩き壊すかのような勢いで着水する。まるで、川に喧嘩を売っているような激しさだった。とても、五歳の幼児の泳ぎとは思えない。おとな顔負け、いや、おとなだってこんな激しい泳ぎ方はしない。強靱な体力を誇る〝知恵ある獣ライカンスロープ〟ならではの激しい泳ぎ方だった。

 本来、〝知恵ある獣〟は水を嫌う。暑さを避けるために水浴びすることはあっても、日常的に水に触れたりはしない。まして、泳ぐなど本来の習性にはない。

 メインクーンは例外だった。水に覆われた北の大地。そのなかを母とふたりで旅するなか、飢えを凌ぐために川に潜り、貝を採った。その経験がメインクーンを水棲の獣のようにかえていた。

 トリトン公国に居着いて以来、メインクーンはほとんどの時間をこうしてひとりで過ごしていた。おとなたちはもちろん、同年代の子供たちと関わることもほとんどない。〝知恵ある獣〟と言うことで差別されている、と言うわけでは特にない。と言うより、〝知恵ある獣〟相手では差別が成立しない。差別とは詰まるところ『特定の社会』から『排斥』することだ。

 「お前には我々の仲間になる資格はない」

 そう蔑んで排除する行為。それが差別。となれば、徹底した個人主義であり、そのためにいかなる社会にも属したいとの思いをもたない〝知恵ある獣〟相手に差別が成立するはずがない。例え、人間の側が差別しようとしても〝知恵ある獣〟の側に『その集団に属したい』という欲求がないのだから気付きもしない。むしろ、『ちょっかいをかけられなくていい』と思うだけだ。それでは、差別の成立しようがない。

 メインクーンがひとりで過ごしているのは〝知恵ある獣〟としての習性であり、何よりもその胸に沸き起こる思いからだった。

 それは、魂の奥底からわき起こる思い。

 ――どうして、わたしは戦争なんかに苦しめられなきゃいけないの?

 最初の生を思い出して以来、ずっと湧きつづける思いだった。

 前の自分はわずか三歳で戦争に巻き込まれ、殺された。いまの自分もやはり、戦争に追われ、母とふたり、苦しい思いをした。どうして、そんな思いしなくちゃならなかったの?

 なぜ?

 どうして?

 その思いが胸のなかでいっときも休むことなく渦を巻く。そう自問を繰り返すうちに疑問は怒りにかわった。そして、怒りは決意にかわった。

 ――戦争を殺す。

 戦争を殺し、仇を取る。自分自身の仇を。

 そう誓った。

 でも――。

 どうすればそんなことが出来るのか。

 それがわからない。いくら自問しても答えが出るはずもない。一〇〇年もの研鑽を積んだ老賢者でさえ答えられるかどうかわからない問い。いくら鋭敏な感覚をもつ〝知恵ある獣〟とは言え、わずか五歳の幼児が答えを出せるはずがなかった。学ぼうにもこんな辺境の片田舎の小国ではまともな書物ひとつありはしない。誰かに教わろうにも碩学ひとりいない。学びたくても学びようがない。

 その欲求不満が苛立ちを募らせる。

 五歳の身ではその不満を認識し、言葉にして現わすことなどできるはずもない。ただ、日々を苛々と過ごすだけ。その苛々を発散するためにこうして激しく泳ぎつづける。〝知恵ある獣〟が他人と関わることをしない個人主義者で幸運だった。もし、人間同様、他人と関わる種族であったなら、その苛立ちを他人にぶつけ、大変なことになっていた。五歳とは言え人間とは比べものにならない身体能力を誇る〝知恵ある獣〟。同世代の人間の子供など簡単に殺せてしまう。

 泳ぐ、

 泳ぐ、

 泳ぎつづける。

 体が疲れはて、欲求不満から来る苛々を感じなくなるまで。

 激しい運動にそれだけの効果があることをメインクーンは本能として知っていた。

 いつの間にか知らない場所にやってきていた。五歳の幼児の身とは言え、〝知恵ある獣〟の強靱な体力を使い果たすのは簡単なことではない。勢いに任せて泳ぎつづけるうちにはじめての場所まで来てしまったらしい。

 周りを見渡してみる。

 見覚えなどまったくない。

 ここがどこだかわからない。

 いわゆる『迷子』になってしまったわけだ。だからと言って、メインクーンは人間の幼児のように不安に駆られ、泣き叫んだりはしなかった。何と言っても鋭敏な感覚に恵まれた〝知恵ある獣〟。いくらはじめての場所に来てしまったからと言って帰り道が分からなくなるはずがない。獣の本能に任せれば必ず帰れる。その自信があった。

 だから、不安に駆られたりはしなかった。むしろ、その場に興味をもった。

 そこは奇妙な場所だった。

 辺り一面、丈の低い水草の生える湿地帯。地面はある。あるにはあるのだが一歩、歩くたびに水がジワジワと染み出してくる。まるで、水をたっぷりと吸ったスポンジの上を歩いているかのよう。そのくせ、湿地帯特有のいやらしい湿気や瘴気はまったく感じない。

 もちろん、水気はある。辺り一面、霧が立ちこめている。軽く手を叩いただけで霧が雨になって落ちてきそうなぐらい、大気のなかに水があふれている。それなのに、ちっともいやな気がしない。むしろ、母の胎内で羊水に包まれているような、そんな安心感が感じられる。霧はほのかに甘い香りがした。舌に当たるとはっきりと甘味が感じられる。まるで、霧のなかに目に見えないほど小さい果実がいっぱい含まれているようだった。

 いったい、ここは何なのか。

 メインクーンはそれを知りたくなった。探検してみることにした。今日中に帰ることは出来なくなってしまうだろうが、別に問題はない。〝知恵ある獣〟の子供にとって、母の元をはなれてひとりで探検に乗り出すのはよくあること。それは、独り立ちのための予行演習であり、習性。〝知恵ある獣〟にとって五歳と言えばすでに独り立ちの準備をはじめる時期なのだ。二日や三日帰らなくても、母は心配ひとつしはしないだろう。〝知恵ある獣〟の母にとって心配なのはむしろ、子供がいつまでも母の元を離れようとせず、探検ひとつしようとしないことなのだ。

 メインクーンは湿地帯の奥深く目指して歩きはじめた。と言っても、この霧ではどちらが奥なのか判断しようがない。それでも、メインクーンは獣の本能に従って歩きつづけた。

 ――ここにきっと何かある。

 獣の本能がメインクーンにそう告げていた。

 メインクーンはその本能に従った。

 歩いた。

 歩きつづけた。

 やがて、霧が晴れ、目の前に大きな丘が現れた。その丘のてっぺんに一軒の屋敷があった。大きな屋敷だ。こんな場所にあるにしては場違いなほど洗練された、優美なデザインの屋敷。こんな屋敷を建てることのできる建築家なら大陸中央に行ってもすぐに人気者になるだろう。そう思わせる屋敷だった。

 ――あそこだ。

 メインクーンはそう直感した。

 ――あそこに何かがある。それはきっと素晴らしいことだ。

 獣の本能がそう告げていた。

 メインクーンは本能に従い、屋敷を目指した。丘を登りはじめてすぐに気付いた。その丘は地面の盛り上がりなどではなかった。町ひとつ分ほどもある恐ろしく大きなカメの甲羅だった。その甲羅の上に塵が積もり、草が生え、丘のように見せていたのだ。大のおとな三人が肩車しても余裕で通れそうなほど大きな穴から、すっかり骨と化した手足が覗いていた。その様子からしてすでに死後数百年は立っているのだろう。あるいは、数千年かも知れない。そんなカメの甲羅の上に屋敷を建てるとは、屋敷の主はよほどかわった性癖の持ち主なのか、それとも、遊び心の極地と言うべきなのか。もちろん、わずか五歳の幼児がそんな感想をもったわけではない。メインクーンはただ獣の本能に導かれるままに屋敷に向かっただけだ。

 屋敷の玄関が見えてきた。その前にひとりの老人が座っていた。人間のようだった。少なくともヒト族であることは間違いない。ヒト族、つまりは『人間と交配できる種族』と言うことだ。

 男だった。男の年寄りに見えた。ヒト族のなかには両性具有や無性の種族、さらには、性別がコロコロかわる種族までいるので、見た目だけで決めつけるわけにも行かない。それでも、見た感じとしては『人間の爺ぃ』だった。歳の頃はと言えば、これがよく分からない。とうに一〇〇歳を過ぎているようにも見えるし、まだ六〇代のようにも感じられる。どうにもあやふやな印象があってつかみ所がない。まあ、それはどうでもいい。一〇〇歳過ぎであれ、六〇代であれ、五歳のメインクーンにしてみれば同じく『途方もない年寄り』と言うだけだ。

 メインクーンは老人に近づいた。怖じけることなく見つめた。

 ――わたしを待っていたんだ。

 理由もなく、そう直感した。獣の本能と言うものだった。老人はメインクーンを見るとかすかに微笑んだ。かの人かのとの発した言葉はメインクーンの直感が正しいことを告げていた。

 「よくきたの。メインクーン」

 「何で、わたしの名前を知ってるの?」と、尋ねることはメインクーンはしなかった。この老人ならそれぐらい知っていて当たり前。理由もなくそう感じていた。だから、メインクーンはそんなことは尋ねなかった。尋ねたのは別のことだ。老人の目をまっすぐに見返すとメインクーンは短く尋ねた。

 「誰?」

 ほっほっ、と、老人は笑った。

 「誰? か。いい響きの言葉じゃな。謎があり、それでいてつながりを感じさせる。わしのことは『誰?』と呼ぶがよい」

 「誰?」

 「そう『誰?』じゃ。じゃが、まあ、わしのことなどどうでもよかろう。お前さんには別に聞きたいことがあるはずじゃろう」

 そう言われてメインクーンはまっすぐに答えた。

 「戦争を殺すためにはどうしたらいいの?」

 人間の基準で言えばはじめて会った相手に尋ねるようなことではない。しかし、〝知恵ある獣〟にとって人間のような駆け引きや、腹の探り合いなど無用なもの。知恵ある獣は常に直接的なのだ。

 ほっほっほっ、と、老人は再び笑った。

 「お前さんたち、〝知恵ある獣〟はまっすぐでいいのお。心が洗われるようじゃ。お前さん、戦争を殺したいのかね?」

 「うん」

 「なぜじゃな?」

 「前のわたしは戦争のせいで三つのときに殺された。いまのわたしも戦争のせいで母さんとふたり、ひどい目に遭った。だから、戦争を殺して仇を取りたい。わたし自身の仇を」

 「ほっほっ。なるほどのう。ならば、金持ちになることじゃ」

 「金持ちに?」

 「そうじゃ。金で飼えない人間はおらん。もし、お前さんが世界一の金持ちになれば、戦争を望むすべてのものを賄賂漬けにして操ることができる。武器屋という武器屋を買収してしまえば、もう誰も武器を作ることも、売ることも出来なくなる。そうなれば戦争など出来なくなる」

 「じゃあ、どうすれば金持ちになれるの?」

 メインクーンはどこまでもまっすぐに尋ねる。

 『誰?』は答えた。

 「そのためにはたくさんのことを学ばなくてはならん。とても、たくさん、たくさんのことをな。お前さん、それだけのことを学ぶ気はあるかね?」

 メインクーンは迷うことなくうなずいた。

 「ある」

 「ならば、これから毎日わしの所にくることじゃ。わしの知るすべてのことをお前さんに教えよう。そして、お前さんはその教えを使い、自分の望みを叶えるのじゃ」

 「わかった」

 そうして契約は成立した。メインクーンは約束通り、それから毎日『誰?』の元を訪れた。『誰?』もまた、約束通り、メインクーンに教えを授けた。不思議なことに、最初はあれだけの時間がかかったというのに、二度目からは行くのも帰るのもすぐだった。まるで、行こうと思っただけでその場に移動できるような、そんな感覚だった。おかげで毎日たっぷり教えを受けてもその日のうちに家に帰ることができた。

 「わしがお前さんに教えるのは忍術じゃ」

 「忍術?」

 「そう。忍びの技じゃ。忍びは戦闘者に非ず。生存者じゃ。忍術とは戦闘術に非ず。生きるための総合技術じゃ。気力を維持し、健康を保つ術。心を管理し、能力を養う術。野山のなかでひとり、生き抜く術。天文気象、自然界のありとあらゆることを感じ取る術。人の心を見抜き、操る術。世の数勢を見抜く術。忍術のなかにはそのすべてがある。お前さんはそのすべてを学び、お前さん自身の目的のために生かすのじゃ」

 その言葉通り、メインクーンは『誰?』から多くのことを学んだ。それこそ、ありとあらゆることを学んだのだ。心身を鍛える術。身を守るための戦闘術。野山で生き抜くための医学、薬学。自然の移ろいを感じ取る術。人の心を見抜く洞察術。情報を集め、分析する判断力。世の数勢を見抜く観察眼。

 それらすべてを、メインクーンは砂が水を吸うように吸収していった。もとより、生きるための総合技術である忍術は、ひとり、野山で生きる種族である〝知恵ある獣〟とは相性がいい。メインクーンが驚くべき速さで知識と技術を吸収していったのも当然だった。

 『誰?』のもとには他にもどこかからやってきた子供たちがいた。メインクーンはその子供たちとときには競い、ときには協調しながら、学びつづけた。

 そうして、メインクーンは成長をつづけた。学びたくても学べない苛々が解消されたことで、態度もすっかりかわった。野性的、と言うより原始的だった激しさは陰を潜めた。穏やかで、静かな佇まいとなった。町の人たちとも少しずつ関わるようになった。

 そして、メインクーンが一〇歳になったとき。

 かの人の生涯に転機が訪れた。

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