ライアー

ゆうとと

狼少女

 ◆

 高校入試の合格発表の日、私は探偵を思わせるようなぶかぶかのコートを着た少女に出会った。ずいぶん余っているコートの袖を揺らしながら、彼女は私に近づいてきた。

「う、受かってる……!」

「やあ君、そこの君。受かっていたのかい、おめでとう」

「え……誰?」

「私は……ほら」

 少女は名刺を差し出した。そこには両手にピースを作った笑顔の彼女の写真と、『空言来亜』という文字があった。

「えっと……くう、げん、くるあ?」

「見事に外したな。そらごと、らいあ。変な名前だろう?」

「いや、そんな……」

 気を遣わなくてもいいさ、と彼女は言う。私も変な名前だとからかわれたことがあるから、彼女がそのように言う気持ちは何となくわかった。

「それにしても……初めて聞いた時は甘味処って聞き間違えたんだが、この神土高校ってのは中々甘くないね」

「あなたも受かってたの?」

「いや、落ちたよ」

「え……」

 しまったと思い、一歩身を引いた。恐る恐る彼女の顔を見ると、まるで私のその反応を楽しんでいるかのように、にやりと笑っていた。

「もちろん嘘さ。それで、君の名前は?」

「え? えっと……」

 彼女の軽妙な語り口と、あまりにも自然に嘘をつく様子が、私には強く印象に残った。それは入学式の日になっても残り続けたままだった。




 入学式の日にも彼女に会った。彼女は相変わらず、ぶかぶかのコートを着ていた。神土高校には一応制服があるものの、常識を外れなければ服装は自由だ。彼女の格好は奇抜でこそあったが、問題視はされなかったようだ。

「やあ、また会ったね。私たち、どうやら同じクラスみたいだよ」

「あ……来亜ちゃん」

 彼女は一瞬戸惑ったような顔をした後、少し気恥ずかしそうな表情で返事をした。

「……来亜でいいよ」

「その……呼び捨ては慣れてなくて」

「……そうかい。なら強要はしないよ。じゃあよろしく、流」

「えー、来亜ちゃんは呼び捨てなの?」

「余計なものは入れない主義でね。いい名前じゃないか。谷降流。タニオリ、ナガレってさ」

 彼女のやや堅い呼び方は、何となくからかっているようにも感じた。彼女がそのつもりなら、私も少しだけ反撃しよう。

「余計なものは入れない主義なのに、この前私に何の意味もなく嘘ついたの?」

「あ……それは、まあ、その、嘘は私の生命線だからね」

「ふふ、何それ」

 こうして、やや風変わりな友人とともに私の高校生活は幕を開けることとなった。




 彼女は謎に包まれているが、自分について隠そうとはしない。特徴的なのにつかみどころのない、不思議な人間だ。

「来亜ちゃんは一人っ子?」

「いや、姉さんが一人」

「へえ、どんな人なの?」

「一応物書きをやっているけど、家ではだらだらしてばかり。私と同じ、ろくでなしさ」

「えぇ……」

 私が想像していた彼女の姉と実際の姉の乖離と、自分もろとも家族をろくでなしと躊躇いなく言い切る彼女の姿勢に思わず困惑した。

「私は嘘をついてばかりで、姉さんは横になってばかり。空言家にはライアーが二人いるんだ」

「そうなんだ……」

「ただ、作品は中々だよ。なんでも、書いてある言葉が現実に起こっていると感じられるほどリアリティがあるって評判さ」

 一応物書きをやっている、と言うから売れていないのかと思ったが、どうやら私の予想よりも遥かに立派な作家らしい。

「す、すごいんだね!」

「姉さんの話はいいよ。そうだ、今日は喫茶店でも行かないか?」

 私は返事をする前に時計を見て、その指す時刻に驚いて目を見開いた。日が沈んでしまう前に、急いで帰らなければならない。

「もうこんな時間!?」

「そんなに遅いかな、まだ五時だよ」

「ごめん、今日は無理!」

「何か用事でもあるのかい?」

 不意に問われ、思わず言葉に詰まる。彼女はどこか訝しむような表情をしていて、思わずたじろいでしまった。

「いや、その……ご飯の用意をしなきゃいけなくて」

「……そうかい。じゃあ仕方ない。飲み物の写真でも送りつけてやろう!」

「あははっ! ごめん、じゃあね!」

 警戒を解き、笑ってそう言った彼女とすぐに別れて、息を切らしながら家まで帰った。




 夏休みが近くなってきても、彼女がコートを脱ぐことはなかった。ある日、初めからずっと気になっていたそのコートについて、ついに彼女に直接聞いてみた。

「来亜ちゃんっていつもそのコート着てるよね」

「え?ああ……そうだね」

「暑くないの?」

 彼女は一瞬ピタリと止まって、自分の両手の先で余っている袖を一回ずつ見た。

「……まあ、暑いな」

「それでも着てるんだね」

「……このコートは、兄さんの形見だからさ」

「あ……」

 彼女は少し遠くを見るような目をしてそう答えた。一瞬、気まずい空気が流れる。私は彼女の心の琴線に触れてしまったかと思い、申し訳なくて彼女から目を背けた。その後、ゆっくりと彼女を見ると、彼女はとても嬉しそうな顔をしていた。

「もちろん、嘘だよ!」

「……!」

「きょうだいは姉さんしかいないって前に言っただろう?」

「で、でもそのコート、かなり大きかったから……本当なのかなって」

「……そうかい?」

 彼女は少し間を置いて返事をした。問い直されたので、私はそのコートに対する率直な感想を述べた。

「うん。来亜ちゃんがそれを着てると、なんだか……子ども博士とかに似たものを感じるよ」

「子ども……」

「あ、ちがっ……」

 彼女の表情はみるみるうちに曇り、すっかり落ち込んでしまった。どうやら私は思わぬ形で彼女の心の琴線に触れてしまったようだ。

「その……違うの」

「何がどう違うんだ?」

 彼女は鋭く切り返した。小さくも強かな眼光が、私を捉えて逃さない。

「それは……」

 何とか弁明しようとしたが、どう言えばいいか分からず黙り込んでしまった。

「……しょうがないな」

「ごめんね……」

「……じゃあ、喫茶店」

「え?」

「喫茶店。明日一緒に行こう。ちょうど学校も早く終わるし、文句は無いだろう?」

「あ、うん……」

 罪悪感から断ることはできなかった。もし拗ねるところから全てが彼女の演技────嘘であったなら、私は上手くはめられてしまっているのだろうか。

 その後、私は結局彼女がコートをずっと着ている理由を聞き出せていないことに気が付いた。

「そうだ、それで……どうしてずっとコートを着ているの?」

「それ、そんなに重要なことかい? ただ……これが私にとっての正装というだけさ」

「その探偵みたいなコートが?」

「ああ。なんせ探偵だからね」

 彼女はさらりとそう言ってのけた。そのあまりに自然な様子が、かえって怪しかった。

「何、また嘘?」

「本当さ! ……とは言っても、まだ何一つ解決した事件は無いけどね」

「それ、探偵って言えるの?」

「名乗る分にはタダだからね」

 疑わしかったが、彼女が自分の名刺を持っていたことを考えるとあながち嘘でもないかもしれない。何も隠していないはずなのに、彼女は相変わらず謎に包まれている。




 翌日、私は彼女と電車に乗り、その近くにある喫茶店に行った。そこで新作らしい飲み物を味わいながら、他愛のない話をした。チェーンの喫茶店だったが、彼女は名店にいるかのように気取った姿勢で座っていた。その背伸びをするような態度がやはり子どもらしいと思ったが、もちろん彼女には言わなかった。

「この店にはよく来るの?」

「ああ、私の行きつけの店さ」

「そっか……」

 言うと思った。数ヶ月一緒に過ごしてきて、私にも少しずつ彼女のことがわかってきたかもしれない。

「家もこの辺りだし、通いやすいところにあるからね」

「家……」

「家、よければ寄っていくかい?」

 思いもよらない誘いに、つい乗ってしまいそうになったが、帰りが遅くなるかもしれないと考え、私はそれを丁重に断った。彼女は一瞬神妙な顔をしたが、すぐにほっとした表情を見せる。

「はは、冗談だよ。本当に来るって言われたらどうしようかと思ったね」

「もう……」

 隙あらば嘘をつく彼女にやや呆れて息をついた。その時、他の席からの話し声が妙にはっきりと聞こえてきた。

「最近物騒で嫌ねえ」

「そうね、女の子が毎日一人ずつ行方不明になるなんて……前代未聞だわ」

 聞こえたのは私だけでなかったらしく、彼女は目を見開いていた。彼女はどうやら恐怖ではなく、好奇心や期待を抱いているようだった。

「……!」

「来亜ちゃん?」

「……事件だね」

「ま、まあそうだろうけど」

 彼女は襟を正し、ずいっと身体を前に出して口元で手を組んだ。いかにも探偵らしい姿勢だ。彼女も私と同じ偏見を持っているのだろう。

「毎日一人ずつ少女が姿を消す……『人狼事件』といったところか。私の初仕事にふさわしい大事件じゃないか!」

「そんな、危ないよ!」

「そう、私も狙われるかもしれない。だが、事件の方からやって来るなんてむしろ好都合だろう? 早速聞き込みをしよう!」

「あ、ちょっと……!」

 私の制止を気にも留めず、彼女は席を立ってしまった。そして話し声の聞こえてきた席へ向かい、そこに座る女性たちに声をかけた。

「お茶の最中に失礼、ご婦人方」

「あら、来亜ちゃん?相変わらず大きなコートね」

「……少々お聞きしたいことが」

「ええ、何かしら?」

「少女が行方をくらましているという事件について詳しくご存じで?」

「私達はニュースで見ただけだから詳しくはわからないわ。事件がどうかしたの?」

 彼女は待ってましたと言わんばかりに、自信に満ちた様子で答えた。この時点で、女性たちの返答の予想はついた。

「実は私、探偵を務めておりまして……この事件を追おうかと」

「……あっはっは! 嘘はもう少し上手くつきなさいよ!」

 私の予想通りの返答を、彼女は正面から受けた。

「……」

「まあいいわ。もし本当に探偵だとしても、事件が事件だからね。くれぐれも気をつけるのよ」

 戻ってきた彼女は、不満げな顔をしていた。一応理由を尋ねてみたが、その答えは何となく分かっていた。

「……私はそんなに探偵に見えないのか……!?」




 初めての聞き込みの後、すっかり彼女は落ち込んでしまっていた。彼女を慰めるためにかける言葉が他に見つからなかったので、私はつい口を滑らせてしまった。

「……そんなに落ち込まないでよ、私も協力するから、ね?」

「……本当に?」

 彼女は一歩前に出て私の顔を見上げた。予想以上の食いつきに驚いて、思わず一歩下がる。

「も、もちろん」

「……じゃあ私たちはこれからバディを組むわけだ!」

「バディって刑事とかじゃない? 探偵なら助手とか……」

「細かいことはいいのさ。それに友達を助手扱いする方が失礼な話じゃないか」

「それはそうかもしれないけど……私、役に立てるか分からないよ?」

「別に構わないさ。流……この事件、一緒に解決しよう!」

「……うん、そうだね!」

 私は彼女の助けになれるとは思えなかった。しかし、彼女の嬉しそうな顔を前にして、今更辞退することはできなかった。

 帰り道、彼女はずっと笑顔だった。不思議に思ってわけをたずねてみると、バレていない嘘がまだあるからだと言う。私は一生懸命考えてみたが、駅に着いてもそれが何だか分からなかった。




「うーん……分からない」

「まだ考えてたのか、中々粘るね」

「もう帰っちゃうし、教えてよ」

「……仕方ないな。じゃあ何で私が今、君と一緒に電車を待っているのか考えてごらん」

「……あ! そういえば、家が喫茶店の近くって……」

「ご明察! 喫茶店が行きつけなのは本当だけどね。いやあ、これはかなり長持ちしたな!」

「もう、結局意味の無い嘘だし……来亜ちゃん、意地悪だよ!」

「あははっ! それはライアーにはこの上ない褒め言葉さ!」

 つい強い言い方になってしまったが、彼女は全く気にする様子ではなく、むしろ満面の笑みを浮かべていた。嘘をつくことでこれほど元気が湧いてくるのならば、嘘が生命線だという彼女の言葉もそれほど間違っていないように思えた。彼女の嘘に付き合っていたら、予定よりも帰るのが遅くなってしまった。日が沈みゆく夕焼けの下、先に電車を降りていった彼女に手を振って見送った。




 翌日、学校の授業が終わった後で、私は前々から気になっていたことについて彼女に尋ねた。

「あの、来亜ちゃん」

「何だい?」

「その、今更かもしれないんだけど……来亜ちゃんがよく言う『ライアー』って何?」

「あれ、言ってなかったかい? 私みたいに嘘を愛してやまないろくでなしのことさ。嘘つきじゃあ人聞きが悪いからね」

「そうなんだ……」

 私にはいまいちその違いが分からないが、どうやら彼女なりのこだわりがあるらしい。

「そんなことより、流! 分かっているだろうけど、今日からいよいよ調査開始だ!」

「そ、そうだね」

 彼女は意気揚々と私の袖を引っ張りながら、昨日の喫茶店の辺りへ再びやって来た。街の様子は昨日と変わらず、それなりに人の往来があった。

「それじゃあ始めよう。結構人が多いから、二手に分かれた方が良さそうだな」

「ちょっと危ないけど……人も多いしそうしようか」

 そして私たちは聞き込みを始めた。数人に聞いたが情報が得られず、場所を変えようかと周りを見渡したところ、ぐったりして座り込んでいるバディが視界に映りこんだ。

「来亜ちゃん!?」

「……ああ、流か」

「そんな所で何してるの? あ、もう良い情報を聞けたとか?」

「……疲れた」

「え?」

 彼女は弱々しくそう呟いた。さっきまでの勢いは見る影もなく、ただでさえ小柄な彼女がさらに小さく見える。

「探偵の仕事がこんなにも辛いものだったとは……」

「まだ始まったばっかりだよ……」

「とにかく、私はもう歩けない」

「嘘でしょ!?」

「この目を見てもそう言い切れるかい?」

 そう言う彼女の目は、通りすがりの人が背負っているリュックサックと私の間を行ったり来たりしていた。

「……まさかとは思うけど、おぶってほしいとか?」

 こくこくと彼女は頷く。私は内心呆れてしまったが、ここで彼女を捨て置くわけにもいかないので、仕方なく彼女を背負うことにした。

「悪いね、流」

「ほんとだよ……」

「そこの曲がり角までで良いから……あぁ、極楽だな。君、おんぶの才能あると思うよ」

「そんなの褒められても嬉しくないよ!まったく、もう……」

 周りの人たちの奇異なものを見る目がとても気になったが、言われるままに彼女を背負って歩いた。おぶられている彼女がごそごそと何かをしているようだったが、この際あまり気にしてはいられなかった。

「……はい、ここまででいいよね」

「助かったよ、ありがとう。少し名残惜しいが、聞き込みに戻るとしようか」

 子どもみたいなんだから、という言葉がつい口をついて出そうになったが、何とか押し留めた。離れていく彼女をしばらく眺めていると、突如後頭部に強い衝撃が走った。

「うぁ……!」

「へへ……こいつは上物だぜ。おい、こいつ連れてくぞ。一緒に運んでくれ」

 私は車の中に運ばれ、後部座席に寝かされた。意識が朦朧とする中、私は最後に彼女の声を聞いた。

「流、そっちはどうだ? 場所を変えた方が良いかな……って、ながれ……?」




 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。眼を開けると私は両手を縛られていて、知らない建物の中にいた。周りを見ると、私を連れ去ったであろう数人の男たちが同じ部屋にいた。

「ここは……」

「チッ、目を覚ましやがったか。まあいいだろう、逃げれやしねえさ」

「……」

 静かに、男たちを睨む。正当な怒りと逆恨みが、私の中でゆっくりと渦巻き始めていた。

「悪いがお前の身柄はボスに引き渡す。その後は知ったことじゃねえ。俺らは金を貰っておしまいだ」

 ああ、なんて運の悪い。だから危険だと言ったのに。怖い。しかし、覚悟はしていた。私のかつての友人たちも、こうして捕らえられ、引き渡され、今はどこにいるのか、生きているのかも分からない。私も、彼らと同じようになるのだろう。悪事を働く男たちが取引の場とするような所だから、きっと助けに来る人はいない。けれど、もしこのまま日が沈んだら、あるいは────

 ふと、下の階の方から足音がだんだんこちらに近づいてくるのが聞こえた。姿を現した足音の主は、私の今の友人だった。

「あ……!」

「てめえ、何だ? どうしてここが分かった!」

 彼女はコートの襟を正して、男たちに向かって話す。沈みかかった夕陽に照らされたその身体からは、大きな影が伸びていた。

「ごきげんよう、悪漢ども。私は空言来亜。駆け出しの探偵さ」

「探偵? お前みてぇなガキが?」

 彼女の言葉を聞いて、男たちは声を上げて笑う。それが彼女の逆鱗に触れる行為だと、彼らは知る由もない。

「……いや、よく見破ったな。私は探偵なんかじゃない」

「はは、そうだろうよ!」

「私は霊能力者だ」

「……は?」

 彼女の狙いが分からない。彼女が自身の正体について嘘をついたところで、状況が好転するわけでもない。本当に霊能力者であれば話は別だが、私の知る限り、彼女はどうしようもなくか弱い探偵でしかないのだ。

「……お前たち、これまでに相当な数の悪行を重ねたようだな? 怨霊がそこかしこに見えている」

「怨霊だあ……?」

「私がここに来たことを奴らは好機だと……待て、後ろ!」

 彼女がいきなり声を上げる。その気迫に呑まれ、男たちは咄嗟に後ろを振り返る。しかしそこには両手を縛られたままの私しかいない。恐る恐る彼女の方を見ると、彼女は安堵の表情を見せていた。

「いや、危なかった。お前たち、既にこの周辺でいくつも屍を作っているのか」

「はあ?俺たちはこの街じゃ他に誰も攫ってねえし、殺してもねえよ」

 彼女の表情が、引きつった。

「……なるほど。しかし私は……そうだな、さっき結界を張った。これでもうお前たちは近づけない」

 途端に彼女の嘘が雑になる。男たちはその様子を見てにたりと口角を上げた。彼女の額の汗が沈みかかった夕陽に照らされ、いやにきらきらして見えた。

「……おい、あのホラ吹きはいつまで置いとくんだ?」

「見られちまったしなあ……いい加減飽きてきたし」

「そうか、なら片付けちまうぜ!」

 男のうちの一人が彼女に襲いかかる。彼女の両隣は机に挟まれていて、咄嗟に逃げ出すのは難しい。思わず手で顔を覆いそうになった時、男は一瞬何かに動きを阻まれたように見えて────電撃のような音がした直後、彼は気を失っていた。無傷の探偵以外のその場にいた全員が、目の前の光景を信じられずにいた。

「何……!?」

「……嘘を重ねれば重ねるほど、真実は見えなくなっていく。狼少年の語った真実が、彼の村を滅ぼす牙となったようにね」

 彼女はそう言いながら、男たちの方に少しずつ近づいてゆく。その威圧感に押しのけられるように、彼らは一歩ずつ引き下がってゆく。

「そして、嘘で塗り固めた私の言葉に込められた真実は、お前を破滅させる銀の弾丸となる……!」

「ま……まさかこいつ、本当に結界を張ってやがるってのか!?」

 その結界の仕組みは、私には全く分からなかった。それは男たちも同じらしく、気を失った男に続いて襲いかかろうとする者はいなかった。彼女はその様子を見て、得意気に微笑んでいた。

「来ないのか?退屈だな。なら一つ、別の謎の答え合わせをしよう。……流、フードの中、探ってごらん」

「え……?」

 言われるがまま、縛られている手を服のフードの中に入れると、何か小さな固いものが手に当たった。

「これは……?」

「発信機さ。念の為仕込んでおいたが……まさか役に立つとはね。ああ、帰る前には外すつもりだったからそこは誤解しないでくれ」

「いつの間に……」

 おいおい、と彼女は分かりやすく呆れたような仕草をした。両の手を広げ、力なく首を横に振っている。

「……君、まさか私が本当に疲れて一歩も動けなかったと思っているのかい?」

「あ……おぶった時!」

「ちっ……小賢しいマネしやがって!」

 悠長にタネ明かしをする彼女に対する男たちの怒りは増していく。そこに突如急速に足音が近づいて、細身の男が姿を現した。彼は何も言わずに彼女の背後に回り、その首を掴んで身体ごと持ち上げた。

「がっ……!?」

「……ここなら平穏に引渡しが終わると思ったんだがね……」

 細身の男は呟くようにそう言った。周りの男たちは急にかしこまった様子で彼の方を向く。

「ボ、ボス!」

「どうやらしてやられたようじゃないか、君達。少々暗がりとはいえ、机に張られたピアノ線と手に隠し持ったスタンガンも見えないようでは頼りにならないね」

「す、すいません!」

「……随分目がいいんだな、お前」

「失礼、タネ明かしは自分の手で行いたいタイプだったかな?」

 彼女は何とか首を回し、男を睨みつけようとする。しかし男は力を強め、鷲掴みにするように彼女の首をとらえて離さない。彼女の顔は徐々に青くなってゆくが、男が力を緩める気配はない。彼は一見油断しているようでありながら、嘘によって抜け穴を作ることを全く許さぬ冷酷さを持っていた。

「ぐ……!」

「悪いが必要以上の取引は行わない主義でね。迷い込んだネズミにはここで死んでもらう」

「────やめて!」

 思わず声を張り上げた。その場にいる全員がこちらを見る。直後、建物の中が急に暗くなった。とうとう日が沈んだのだ。とうとう、私は谷降流ではなくなってしまうのだ。

「……!」

「来亜ちゃん……ごめんなさい」

「いや、流、君、眼が、紅く……」

 沈んだ夕陽を吸い込んだように真紅に染まった私の眼を指さしながら、彼女は動揺を隠しきれない様子で私を見た。

「……ごめんなさい。私、あなたのことを裏切ってしまう」


 ◇

 流の紅い眼を見た直後、来亜の目の前には惨状が広がっていた。血祭りという言葉すら、その光景の前にはあまりにも生ぬるい。彼女に襲いかかり失神した男も、その仲間である男たちも、彼女の首を掴んでいた男も、瞬く間にその命を奪われ、それぞれ身体がおかしな方向に曲がったまま辺りに散らばっていた。突如漂ってきた血なまぐさい匂いに、来亜は思わず一瞬姿勢を崩す。

「……あぁ……!」

「ごめんなさい、来亜ちゃん。私……嘘をついていました」

「……君の正体については、確かに思い当たるものがあった。だが、そんなことがあるはずはないと切り捨てた。私の先入観を、見事に利用したわけだ! ははっ……全く、君も大したライアーじゃないか!」

「…………」

 動揺や恐怖を見せない来亜に、流は戸惑っていた。これまでその紅い瞳で捉えてきたのは、恐怖や苦悶に満ちた表情ばかりだったから。人の命を容易く奪う怪物を相手に、来亜は一歩も退かずにそのまま話を続ける。これは虚勢か、それとも何か勝算があるのか。あるいは、そもそもそのような二択に相手の考えを絞らせるのが彼女の策なのか。溢れる破壊衝動に食い潰されつつある流の中で、ゆっくりと思考の歯車が回ってゆく。

「確かに私が今まで疑問に思った点は、君の正体がそれであれば全て辻褄が合う。なぜ、日が沈む前に君は帰るのか。なぜ、バディを組んだ時にわざわざ役に立てるか分からないなんて言ったのか。そして……男たちがここでの犯行は初めてだと言っていたことも」

「……それは」

「……それは?」

 言いかけて口を噤んだ流に問い返して、来亜は発言を促した。流が再びゆっくりと口を開くと、研ぎ澄ました刃物のような鋭い牙がわずかに姿を覗かせた。

「私が……人狼だから。人狼事件の……犯人だから」

 獣と化した相棒の体毛が夜風に靡くのを、来亜はじっと見つめていた。

「……どうして、こんなことを?」

「それは……来亜ちゃん、あなたを食べるためです」

「いたって月並みだな」

「……驚かないのですか」

「察しはつくからね」

 流が自ら正体を明かしても、来亜は普段と同じ様子だった。流が一歩近寄ってみせても、彼女は眉一つ動かさなかった。彼女は一度息をついて、流の眼を真っ直ぐ捉えて問う。

「では……どうして、こんなことに?」

「……!」

 来亜は、何か理由があって流は人を襲っているのだと考えた。彼女、谷降流は普通の少女だった。たとえその正体が人狼であっても、人間としての彼女に乱暴で暴力的な面は一つとして見られなかった。現に、今も理性的に話ができているのだ。明らかに、彼女は衝動や本能とは別の何かを抱えている。

「そんなの……理由なんてない。私が人狼だからです」

「本当にそうかい?これを最後の対話にしようと考えているんだが……最後ぐらい、嘘をつかなくても私は一向に構わないよ」

 来亜の言葉を聞いた流は、身体の中から湧き上がる衝動を食い止めるように息を切らしながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「……私たち人狼には、二つの種類があります。普段は狼として生きるものと、普段は人として生きるもの。私は後者でした。仲間と山の中で家を作って……穏やかに暮らしていました」

 流は話しながら、涙を流していた。鮮血のように紅い眼が、微かに滲む。来亜はそれを見て、流の言葉に嘘はないはずだと悟った。

「……でも、私たちの平穏は突然壊されました。街に流れた人狼の噂を聞きつけた狩人たちが、ちょうど私が山菜を取りに行っている間に仲間をみんな捕らえてしまいました。人狼は言ってしまえば魔物ですから、捕まえれば高く売ることができるのです」

「魔物、か……」

「抵抗したらしい仲間は、死んでいました。私は帰ってきて、いやに静かな家の中に何人かの狩人が残っているのを見ました。彼らは私を見つけると、僥倖とばかりに襲いかかってきました。日が沈みかかっていた頃のことでした」

 ひどい話だ、と来亜は呟いた。流が現に生きている以上、その後のことは明らかだ。彼女は恍惚としたような表情を見せる。

「……美味しかった」

「…………」

 来亜は、まだその場に留まっている。彼女の目の前に立っているのは、もはや谷降流ではない。人を喰らう魔物。生きるついでに恨みを晴らす、怪物だ。それでも彼女は動かない。本当の自分を曝け出す友人の姿を、じっと見つめている。

「それから、人として生きていた私は再び獣となりました。人の味を、思い出してしまった。人を喰わなければ、生きていけなくなったのです」

「……それで、自分が少女であることを利用して獲物に近づいていたわけだ。人間も食べるなら若いのが良いんだろうが、今の話のわりには贅沢なことだな」

「……来亜、さん。虫のいい話ですが……あなたを食べても、よろしいですか?」

 息を切らしながら、流は問いかける。それを聞いて、来亜はようやく一歩退がって返事をした。

「心苦しいがお断りするよ。私はまだ駆け出しの探偵だ。ここから経験を積まなければならないのさ。だから────獣にくれてやる身体はない」

「……あなたは、こういう時には正直なのですね」

 人狼が来亜に襲いかかる。速さこそそれほどないが、体力には長けている。長く追いかけられ続けるほど、来亜は不利になってゆく。来亜は風を切って走りながら部屋を出ると、階段の前で一度立ち止まった。そしてコートの中から取り出した香水で少し服を濡らし、残りを瓶ごと下の階に落として上の階へと走った。

 流が人狼であるはずがないと彼女は断じた。しかし、だからこそ多くの備えをしてきた。もし、この備えが杞憂だったと笑い話にできたなら。ぎり、と来亜は歯を軋ませる。来亜の策と、人狼の膂力。文字通り、命をかけた闘争が始まった。

「……さて、ここからどうするか……」

 来亜は扉を開けて屋上に出た。屋上には隠れられそうな物陰がいくつかあったが、しらみつぶしに探されれば見つかってしまう。ただ隠れていても、生き延びることはできない。

「……よし、これだ」

 来亜は置いてあった長いロープを拾い、柵に巻き付けて下へと垂らした。これで、下へ降りることができる。しかし、人狼は今ちょうど下の階にいるはずだ。すぐに逃げるのは得策ではない。それに、逃げてしまっては事件を解決することはできない。

「……この事件は、ここで解決しなければならない」

 自分に言い聞かせるように来亜はそう唱え、近くの物陰に身を隠した。しばらくすると足音が近づいてきて、ギィ、と扉の開く音が辺りに響いた。人狼が、来た。

「どこに逃げたの……? ……これは、ロープ……じゃあ、ここから下に?」

 人狼はそう言いながら、垂らされているロープの先を目で追うようにして下を眺めた。だが、すぐに人狼は真後ろを振り返った。月光が、怪物の姿を冷ややかに照らす。

「……違う。匂いが、します」

 人狼の言葉を聞いて、来亜は凍りついた。最初の撹乱に使った香水が裏目に出てしまったようだ。人狼が、ゆっくりと近づいてくる。

「……どこにいるの、来亜さん。私、もう待ちきれません」

「……」

 流と同じ声で、怯える子どもを誘い出すように人狼は優しく呼びかけた。来亜は息を潜め、人狼が来るのをじっと待っていた。足音がやや近くなってきた時、来亜はわざとコートを振るわせ音を立てる。人狼は一直線に音のした方へと向かい、来亜の腕をもぎ取ろうとしたところで、目の前に突如現れた炎に驚いて急停止した。来亜はライターをポケットにしまい、屋上を出て階段を駆け降りる。流が捕らえられていた部屋の隣に給湯室があったので、蛇口を捻って水を勢いよく出し、部屋の奥へ逃げた。

「……しまったな。ライターは最後までとっておきたかったんだが」

 人狼にとどめを刺す手立てを来亜は持っていた。流との最後の対話のうちに、それが有効である確信を得ていた。だからこそ、一瞬でも動きを止められる手段を失ったのは大きな痛手だ。来亜があれこれと考えているうちに、再び人狼が迫ってくる。

「……どこまで逃げても無駄ですよ。ずっとあなたの近くにいて、あなたの匂いはよく分かっています」

「……いくら相手が同性で狼でも、そんなことを言われて良い気はしないな」

「まだ余裕がありそうですね。では、その活きのいい口から……」

 彼女は傍にあったスタンガンに気が付かないまま、濡れた床に足を踏み入れる。電流が、水を伝わって彼女を襲う。

「っ……!」

「はぁ……効かなかったらどうしようかと思ったよ。一つしかないが、ここで使い切るか」

 彼女の動きが止まった隙にスタンガンを拾い上げ、思い切り床に投げつけて破壊した。より強力な電流が水の中に流れ、来亜と人狼を強力に分断した。

「……でも、こんなもの……!」


 人狼は床の濡れている部分を飛び越えることで電流を回避し、そのまま来亜の首元めがけて腕を振る。来亜は咄嗟に避けたが、爪が右の頬を掠めた。来亜はすぐに水を飛び越え、部屋を抜け出した。微かに痛む右の頬を手で触りながら、彼女はコートから防犯ブザーを取り出して栓を抜き、階段の方へ滑らせるように投げた。そして、来亜は最後の仕掛けをするために、最初の部屋に戻った。人狼も彼女を追いかけて部屋に入る。防犯ブザーには目もくれず、匂いを頼りにして部屋の中に潜んでいる来亜を探した。香水の匂いがする方に目を向けると、自分に背を向けているコートが映った。人狼は、反射的にそのコートに襲いかかった。

 コートに触れた瞬間、再び人狼を電流が襲う。来亜は反対の机の下から飛び出して、訳が分からず動けないでいる人狼の首を銀のナイフで掻き切った。

「がっ……!?」

「かかったな……私の勝ちだ」

「う、ぁ……なん、で……!」

 辺りに血を撒き散らしながら、必死にもがいて生にしがみつこうとする人狼を、来亜はその場に立ったまま見ていた。

「……じゃあ、冥土の土産にタネ明かしだ。まず私は君にひとつ嘘をついた。もう分かっているだろうが、スタンガンを私は複数持っていた」

「……」

 来亜は、人狼の反応を待たずに話を続ける。人狼も、この事件の解決を待ち望んでいた者の一人だ。その命が途絶える前に、来亜は全てを明かそうと急いでいるのだ。それが、探偵の務めなのだから。

「椅子にコートをかけて、残していたスタンガンを私の首にあたる位置に仕掛けた。防犯ブザーの音があったから、君は嗅覚に頼らざるを得なかった上に、スタンガンの音には気付けなかった訳だ」

「……!」

「そして、君の首を切ったのは銀製のナイフだ。退魔には銀が有効だというのは有名な話でね。効くかどうかは怪しかったが、君の魔物という言葉で確信できた」

「私、は……」

 人狼が何かを言いかけているのが来亜にも聞こえたが、彼女は話を止めなかった。今にも自分を置いていこうとしている相手を待つことは、できない。

「……最後に、君が気を取られてるうちに後ろから首を切り裂いた。これが一番骨が折れたよ。何せ……相棒を切るわけだからね」

「……私、私が……悪かった、の、かな……」

 最後の力を振り絞るように、人狼はそう言った。来亜は一度上を向いてから、人狼の方に向き直って返答する。

「……さあ。解決後の考察は探偵の管轄外でね」

「……」

 人狼は、眠りにつき始める時のような遅く深い呼吸を始めた。もう身体には全く力が入らないようだった。

「もう流石に限界か。全く、見習いたいほどしぶといな。じゃあ、そろそろ────さよならだ、狼少女。どうか来世は、幸せに」

 眼を閉じた流の胸に、来亜はもう一度ナイフを突き刺した。それで、彼女は完全に動かなくなった。

 建物の中に、再び静寂が訪れた。月明かりが窓から差し込み、血にまみれた部屋を照らし出す。

「……嘘つき。一緒に事件を解決するなんて、初めから無理だったんじゃないか……!」

 一人残った少女は、駆け出して建物を出る。返り血を浴びたコートには、まだ温もりが残っていた。

 小さな街に住まう人々を震撼させた人狼事件。その現場には、最後の被害者たちの肉片と、人狼の亡骸と、数滴ばかりの涙の跡が残っていたという。

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