幕間 ——独白——

 事務所に戻ると、来亜が先にシャワーを浴びようと言い出した。そう長い間ではないとはいえ、私たちは雨の中で意識を失っていた上にそのまま歩いて帰ってきている。確かにこのまま放っておけば体調を崩すのは間違いない。先に浴室に向かった来亜を待っている間に、濡れてしまった荷物を乾かしておいた。

「……」

 他のことをして気を紛らわせようと思ったが、どうにも上手くいかなかった。ドライヤーの音だけが、虚しく部屋に響いている。ふと外を見ると、雨は気付かないうちに雪に変わっていた。

「おや、雪か」

 不意に、後ろから来亜の声が聞こえてきた。いつの間にか、出てきていたらしい。私はまだ彼女と普通に言葉を交わすことができず、無言で浴室に向かった。きっと、来亜は私のことを怖がっても憎んでもいない。それでも、自分がそんな彼女に甘えるのを許せなかった。

「……」

 冷えた身体をシャワーで温めながら、過去の日々を思い出す。誰も知らない、本当の私がそこにいる。そんな日々はもうどこにもないのに、ただ私だけが取り残されている。

「……違う」

 そんなはずはない。取り残されているのは、私だけじゃない。ずっと、皆そこにいるのだから。

 浴室を出て着替え、髪を乾かしてから、来亜と向かい合って椅子に座る。来亜は冷静な様子でティーカップに口をつけていたが、私は異様な緊張感を覚えていた。

「奈緒、話すのは落ち着いてからでいい。気になるなら、メモもしまっておこう」

「……いえ、大丈夫です。全てお話しします」

 一度深呼吸して、私は自分の過去について話し始めた。

「今から十三年前、私は三歳の頃に親元を離れて施設に預けられました」

「……確か、君の両親は海外に行ったと聞いたが」

 来亜は私の話を遮って問いかけた。私が事務所に来たばかりの頃、確かにそう言って誤魔化した記憶がある。

「……嘘をついてしまって、ごめんなさい。急に話せるようなことでもなかったので」

「それは構わないよ。施設に預けられた理由は知っているのかい?」

「施設に入るまでのことは覚えていません。でも身体に傷や痣はなかったので、親からひどいことをされたわけではなかったと思います」

「……なるほど。失礼、つい遮ってしまった」

 来亜は引き下がり、足を組み替えた。どうやら、私の答えに納得したらしい。

「私が預けられた施設は、”天狼”という組織が運営しているものでした。いわゆる裏社会の組織……みたいなものです」

 私の言葉を聞いて、来亜は驚いたように目を見開いた。無理もない。いくら探偵とはいえ、彼女の生活圏にはほとんどないような概念だ。

「”天狼”は児童養護施設を買収して、組織の人員の育成を行っていたようです。そういう事情があったので、施設も人里離れた場所にあって、周りに組織以外の人はいませんでした」

「それは……災難だったな」

「でも、私がいた施設は少し特殊で……同じ施設の仲間たちと、幸せに暮らしていました」

 私は、施設での日々を来亜に全て語った。もしかしたら、彼女にとって必要ない情報もあるかもしれない。それでも、私は来亜に全てを知っておいてほしかった。仲間に囲まれて笑い合った日々と、それが粉々に砕け散った一日のことを。


 ◆

 目が覚めた時、私は施設のベッドで横になっていました。私よりずっと年上の女の子が覗き込むようにこちらを見て、目が合ったと思うとすぐに走って部屋を出て行ってしまいました。それが、私の一番古い記憶です。

「源、目を覚ましたわよ!」

「俺に言うな。子どもの世話はお前の方が得意だろ」

「まあ、そうだけど……」

「適材適所だ。何事もな」

 遠くで声が聞こえてしばらく経ってから、女の子が一人で部屋に戻ってきて、私に話しかけてきました。その頃の私はほとんど言葉を話せませんでしたが、彼女は優しく微笑みながら聞いてくれました。

「こんにちは。あなたが奈緒?」

「……うん」

「私は千尋。これからよろしくね!」

 私が頷くと、千尋姉さんは頭を撫でてくれました。それから彼女は私を部屋の外に連れ出して、施設を一緒に回ってくれました。

「この施設では、皆が家族なのよ」

「……かぞく?」

「そうよ。奈緒も、今日から家族。お父さんとお母さんはいないけど、きょうだいはいっぱいいるわ!」

 今考えると不思議ですが、その時の私はその状況をすんなり受け入れていました。その日から、私は施設の……いえ、家族の一員として生活することになりました。仲間たちも私を歓迎してくれて、毎日幸せに過ごしていました。




 私がいた施設には、大人がほとんどいませんでした。さっき特殊だと言ったのは、このことです。源兄さん……既に並の戦闘員よりも遥かに強かった子どもがいたので、組織は施設を運営するための最低限の人員を配置するだけにして、彼に訓練を任せることに決めたんです。だから、最年長の四人の子どもが施設の生活を取り仕切っていました。誰にでも優しくて真面目な千尋姉さん、いつも寝てばかりいる海斗兄さん、すごく頭が良い杏里姉さん、そして、誰よりも強い源兄さん……その四人です。彼らに限らず、他の仲間もみんな個性や得意なことがあったので、私もきっと何かを見つけられると思っていました。最初の一年間は体力をつけるために基礎的な運動をして、それから訓練に参加しました。ほとんどの仲間は優しく訓練に付き合ってくれましたが、源兄さんだけは全く容赦がありませんでした。組織では、戦いに敗れることは死を意味しますから、兄さんはそれだけの責任感をもって私たちを育てていたんだと思います。

「……奈緒、立て」

「う、うう……!」

「お前はまず身体を鍛えろ。他の奴らのような強みを見つけるのはそれからだ」

 言ってしまえば、私は落ちこぼれでした。他の仲間と年齢が離れていたこともありますが、彼らのように個性や強みを見つけることができなかったのが一番の理由です。戦いだけではなく、歌や手芸なんかも試してみましたが、どれも上手くはいきませんでした。仲間の中には戦いが強い子どもの他にも、料理や荷物の整理が得意な子どももいたんです。戦いは必ずしも戦闘員だけで行われるものではなく、それを支える人も必要ですから。でも、私はそのどちらにもなれませんでした。




 それから一年ほど経ったある日、源兄さんから特別な訓練をすると言われました。彼は寝ている海斗兄さんを引きずりながら歩いてきました。

「奈緒、これからお前の相手は海斗に任せる」

「カイトにいちゃん……?」

「そうだ。こいつに攻撃を当てることができたら、一緒に報告しに来い。掠るだけでもいいから、来月になるまでには達成しろ」

 源兄さんはそう言って、傍で寝たままの海斗兄さんを置き去りにしていきました。まずは起きてもらわないと始まらないと思い、海斗兄さんの頬をそっとつつこうとして、手首を掴まれてねじ倒されました。

「うわあっ!?」

「……」

 私はわけがわからず、起き上がって辺りを見回しました。でも、近くには寝息を立てながら横になっている海斗兄さんしかいませんでした。何が起こったのか分かりませんでしたが、源兄さんから無理難題を押し付けられたことは直感的に分かりました。

「僕からは、攻撃しないけど……手は抜かないからね……」

「ねてるのに、しゃべった……!」

 海斗兄さんは、とにかく不思議な人でした。寝たふりなんかではなく、本当に意識を失っているようだったのに、言葉も話すし身体も動いていたんです。源兄さんのように厳しくはありませんでしたが、最初は少し怖かったのを覚えています。眠っていて目も見えていないはずなのに、私の動きに助言もしてくれました。それでも、結局一発も攻撃を当てることはできませんでした。源兄さんに怒られると思って、冷や汗が止まりませんでした。

「……奈緒」

「ご……ごめんなさい……!」

 源兄さんは何も言わず、怯える私を強く睨みつけました。全身が震え上がるような感じがして、腰を抜かしそうになりましたが、どうにか踏みとどまりました。

「……それなりにはなったか」

 私の様子を見て、源兄さんは静かにそう呟きました。それから彼は私を抱えてあっという間に近くの山の中腹まで走って、私を降ろすなり帰ろうとしました。捨てられるのかと思って、怖くなって兄さんを呼び止めると、兄さんはその場を動かず私にわけを話しました。

「お前自身には分からねえかもしれねえが、訓練の目的は達成している。だが、海斗に攻撃を当てられなかったのは事実だ」

「……」

「本当は、罰として連れてくるつもりだったが……次の訓練としてもいいだろう。ここから施設まで、自分で帰って来い」

 それだけ言って、兄さんは去ってしまいました。それまで施設が見えないほど遠くまで来たことがなかったので、不安でそこから動けませんでした。この時、初めて孤独の辛さを感じました。いつも厳しい訓練に耐えられたのは、仲間がいたからです。普段の訓練とは違う、この未知の痛みに対抗する力を、私は持っていませんでした。

「奈緒、大丈夫!?」

 日が暮れそうになった頃、千尋姉さんが駆けつけてきてくれました。その姿を見て、全身の力が一気に抜けたのを覚えています。堪えていた涙が溢れて、縋るように姉さんの手を握り締めました。

「怖かったね」

 頷く私の頭を撫でながら、千尋姉さんは歌を歌ってくれました。

『いつまでも 絶えることなく 友達で いよう』

『明日の日を 夢見て 希望の 道を』

 その優しい歌声が、真っ赤な夕陽とともに今も記憶に焼きついています。

「怖くなったら、この歌を歌うのよ。私が助けに行くからね」

「……うん」

「明日には、きっと今日より強くなってるわ。いつか、奈緒も一人で山を降りられるようになる。皆より強くなるのが遅くても、少しずつでもいいのよ」

 千尋姉さんと手を繋いで山を降りた後、姉さんが源兄さんと言い争っているのをたまたま見てしまいました。源兄さんは冷静でしたが、千尋姉さんの方はすごく怒っているようでした。

「千尋、なぜ奈緒を連れて帰った。お前が助けたら意味がねえだろ」

「奈緒は怖くてずっと動けなかったのよ。あの子を死なせるつもり!?」

「……それで死ぬなら、それまでだ。訓練で手を抜けば、いずれにせよ実戦で真っ先に死ぬだろうが」

「だからって……あんなの、ひどいわ!」

「お前が甘やかして、惨い死に方をするのは奈緒だ。それとも……最後までお前が責任持って守るのか?」

「……もちろんよ。奈緒だけじゃない……ここにいる全員、私が守る!」

「……はっ、やれるもんならやってみろ。一人でも守れたら上等だな」

 私は、自分が弱いせいで仲間が争っているのが嫌でした。千尋姉さんには少しずつでいいと言われましたが、少しでも早く強くなりたいと思いました。

 それから、源兄さんはあまり私に干渉してこなくなりました。それでも、私は強くなると決めたので、杏里姉さんに助言を頼みました。頭の良い彼女なら、強くなれる良い方法も知っているかもしれないと思ったからです。

「アンリねえちゃん……」

「奈緒、どうしたの?」

「ゲンにいちゃんみたいにつよくなるには、どうしたらいいの?」

「……そうね。私もよくわかっていないけど、源は”気”っていう力を使っているらしいわ」

 私の期待通り、姉さんは源兄さんの強さの正体を知っていました。でも、それは当時の私には到底真似できるものではありませんでした。

「”気”とは、思い込みの力。自分と相手の気持ちを上手く操ることで、大きな力を出せる……らしいわ」

「……どういうこと?」

「さあ。私は全く戦えないから、よくわからない。まあ、”気”は使えないにしても……色々な相手を見て、真似してみるのが良いでしょうね。相手と同じ戦い方をすれば、その子と自分の違いも見えてくるはずよ」

「わかった。ありがとう!」

「頑張ってね、奈緒」

 姉さんに言われた通り、色々な仲間と勝負しました。訓練を重ねるにつれて身体が育ってきて、勝負の様子も少しずつ変わってきました。でも、相変わらず得意なことは見つからず、全く勝てませんでした。苦しかったけれど、仲間たちも変わらず優しく励ましてくれたので、折れずに自分に向き合い続けることでした。




 それから五年ほど経ったある日、全てが壊れました。今日のように、雪が降りしきる日のことでした。その日の朝は大人たちの姿がなく、子どもだけで食卓を囲みました。変だと思いながらも、そのまま訓練に取りかかりました。源兄さんは、今日の訓練は身体をほぐす程度にしておけと言っていました。彼が訓練で全力を出すなと言ったのは、それが最初で最後でした。

 しばらく経って、倉庫の辺りでいきなり大きな爆発が起こりました。すぐに仲間たちが一箇所に集まって、それぞれの安否確認をしました。しかし、海斗兄さんの姿だけが見つかりませんでした。

「海斗がいない……!」

「千尋、次の爆発があるかもしれない。ひとまず退避しよう!」

「……ええ、そうね。杏里、指示は任せるわ!」

 音がした方から離れて施設の外に避難した時、目の前に数えきれないほど多くの大人が並んでいました。全員、”天狼”の戦闘員でした。源兄さんが真っ先に前に出て、戦闘員たちを睨みつけました。横から見ていただけでも、忘れられないほど恐ろしい表情をしていました。

「……おい、こいつはどういう了見だァ?」

「先に言っておこう。君たちに非はない。だが、組織の都合で死んでもらう」

 他の戦闘員とは少し服装の違う人がそう答えました。多分、小隊長のような人だったんだと思います。突然のことで、私はどうしたら良いのか分かりませんでした。そうしているうちに戦闘員たちは構えて、私たちに向かって走ってきました。その場にいた最年長の三人だけは、落ち着いた様子でそれを見ていました。

「……杏里、まずは全員分の武器を確保する。後の細かいことは頼むぜ」

「え、でも倉庫は既に……」

「何言ってんだ、らしくもねえ」

 源兄さんはそう言いながら、正面にいた戦闘員を殴り倒し、武器を奪って後ろにいる私たちの足元に放り投げました。

「──────目の前の奴らが、いいもん持ってんだろうが」

 それから、私が呆然として瞬きする度に彼は新しく武器を奪って投げ渡しました。私は皆のことを見ていたのでたまたま気付きましたが、源兄さんは全員に得意な武器を渡していました。最後に私が長い刀を受け取って構えたのを見て、兄さんは楽しげに笑いながら叫びました。戦闘員たちは彼を恐れ、初めよりも少し引き下がっていました。

「これで準備は整ったなァ!!」

「ば、化け物……!」

 源兄さんがそのまま単独で敵陣に突っ込んだのを見てから、杏里姉さんは指示を出し始めました。

「皆、ここは源に任せて一旦下がる。千尋は奈緒を守って!」

「分かった。奈緒、大丈夫だからね!」

「う、うん……」

 源兄さんの力は、圧倒的でした。私たちが訓練通りの配置についた頃には、既に半分近くの戦闘員が倒れていました。私たちの役割は、彼の手を逃れてきた戦闘員を後方で倒すことでした。源兄さん以外の子どもと戦闘員とでは力の差がありましたが、杏里姉さんが全員に的確な指示を出したおかげで誰一人倒れずに戦闘員を全滅させることができました。私たちは、勝ちました。確かに、勝ったんです。

「油断ってのは良くねえなァ。せっかく簡単に勝てたんだから、疑いでもすればよかったのによ」

「──────え?」

 その直後、源兄さんにそっくりの声をした人影が突然現れて、杏里姉さんを背後からナイフで刺しました。

「杏里!」

「ち、ひろ……あと、は……!」

 杏里姉さんは口から血を流し、辺りに積もった雪を赤く染めながら、力なく倒れました。異変に気づいた源兄さんが戻ってくるまでに、杏里姉さんの近くにいた仲間が五人殺されました。一瞬の出来事で、人影の顔さえ全く見えませんでした。

「……来たか、佐香源」

 源兄さんが戻ってきたのを見て、人影は正体を現しました。そこには、源兄さんと全く同じ顔がありました。私は呆気に取られて、遠くから聞こえてきた新たな戦闘員の足音で我に返るまで何もできませんでした。

「……変だとは思っていた。海斗は爆発でまんまと死ぬような奴じゃねえのに、何をしてるんだってな」

「ああ、あれか。悪くなかったぜ。だが、闘志が足りなかった。まだ満足はできねえな」

「……一つだけ聞く。お前は、何だ?」

 源兄さんの表情には、さっきまでの余裕がありませんでした。私を睨んだ時とは到底比較にならないような剣幕で、目の前の相手を捉えていました。

「何だ、か。たまたまかもしれねえが、鋭いもんだな」

「……」

「源、俺はお前の複製……クローンってやつだ」

 その答えに、その場にいる全員が驚きました。源兄さんの力を組織が放っておくはずはありませんでしたが、こんな形で使われていたとは思いもしませんでした。

「そんなことを許した覚えはねえんだがな。それで、偽物がノコノコと喰われに来たってわけか?」

「まさか。偽物が本物に勝てる道理はねえ。思考や身体能力が同じでも、経験量がまるで違うからな」

「……なるほどな」

 ぎり、と歯の擦れる音を立てながら、源兄さんは苦しげに笑みを浮かべました。その直後、私たちの目の前に四つの人影が新たに現れました。皆、最初の人影と同じ顔をしていました。

「経験量で勝てないなら、物量で勝負というわけだ」

「……チッ、自分の顔が嫌いになりそうだ」

「そう言うなよ、こっちだって危険なんだぜ。この事実が明るみになった以上、お前は協力を拒んで行方を隠すだろう。それなのに、組織は大胆にも今いる五体のクローンをここに全部投入した。つまり、お前が勝てば研究は台無しだ」

 皆が源兄さんを心配して見つめる中、彼は千尋姉さんの方を振り向きました。

「千尋」

「……」

「互いに、為すべきことを為す。それだけだ」

 千尋姉さんが頷くと、源兄さんはクローン達と一緒に凄まじい速さで森の中に消えていきました。私が兄さんの姿を見たのは、それが最後です。

「皆、向こうから戦闘員が来てるわ。構えて!」

 千尋姉さんは、力を尽くして仲間に指示を出しました。でも、落ち着いて戦える仲間はもう一人もいませんでした。ただでさえ杏里姉さんの知恵があって成立していた戦いでしたから、既に私たちは破綻していたんです。恐怖に囚われながら戦っていた仲間が倒れて、それがまた他の仲間の恐怖を呼んで……そうして一人ずつ、仲間が殺されていきました。残った仲間が十人を切ったところで、姉さんは勝ち目がないと悟って撤退を指示しました。雪で足場が悪く、装備も整っていない中で無事に撤退するのは困難でしたが、これ以上戦っても誰も助からないということもまた明白でした。千尋姉さんは私の手を引いて、敵に追いつかれた仲間の断末魔を背中に聞きながら、必死に走りました。その手は、ひどく震えていました。

 雪が激しくなったおかげで、私たちは何とか敵の目を免れることができました。でも、他に仲間はもう誰も残っていませんでした。近くの山の中腹で、枯木や吹雪に紛れながら、私たちに気付かなかった戦闘員たちが引き上げるのを見ました。

「……チヒロねえちゃん」

「……奈緒、もう……大丈夫よ。大丈夫だから……!」

 涙の混じった姉さんの声を聞くのは、苦しくて仕方ありませんでした。私がもっと強ければ、仲間たちは助かったかもしれない。そう思わずにはいられませんでした。きっと姉さんも私と同じ気持ちだったのに、私の方が弱いから、彼女は私を安心させようとしてくれたんです。

「……こんな所に残ってやがったか」

「……!」

 私たちの前に、二人の戦闘員が現れました。彼らは全員撤退したわけではなく、周囲の見回りのために少数の戦闘員を残していたのでしょう。それまでの追手に比べれば数は随分と少ないですが、それでも私たちにとっては死神も同然でした。

「あ……」

「……奈緒、退がって。私が、何とかするわ」

 千尋姉さんは短剣を取り出して、彼らに立ち向かいました。勝ち目がないことは、私にも分かりました。体力を使い果たした姉さんは、戦闘員たちの敵ではありません。彼女は腕を切りつけられ、花が手折られるように力なく倒れました。

「く……!」

「ねえちゃん!」

 私が弱いせいで、千尋姉さんまで殺されてしまう。そんなのは、絶対に嫌でした。私が、もっと強ければ。源兄さんのように、強ければ……恨み言のように、心の中で何度もそう念じていました。

『奈緒、立って刀を抜け』

「……?」

 その時、どこからか声が聞こえました。つい背筋が伸びるような、聞き慣れた厳しい声でした。辺りを見ても、千尋姉さんと二人の戦闘員だけしかいなくて、声の主は見つかりませんでした。

『奈緒──────俺になれ!』

 でも、そのとき確かにいたんです──────私の中に、源兄さんが。




 目を覚ますと、血塗れになって倒れている二人の戦闘員が視界に映りました。すぐ隣に生きている千尋姉さんの姿が見えて、安心して全身の力が抜けました。辺りの雪を押し当てて、どうにか止血も済ませたようでした。

「奈緒、今のは……?」

「え……?」

 私は刀を取ってからのことを覚えていなかったので、千尋姉さんから話を聞きました。先パイが見たのも、きっと同じような光景だったと思います。

「……奈緒。やっぱりあなたに長物は向いていないわ」

「……」

「いや……向きすぎている、と言った方が正しいわね。とにかく……決して、長物は持たないで。あなたが……人間でいるために」

「……うん」

 千尋姉さんは自分が見たものを一通り話した後、真剣な眼差しで真っ直ぐに私を見て、はっきりとそう言いました。源兄さんは長物全般の扱いが得意だったので、刀以外の長物でもこのような事態が起こってしまうと思ったから、姉さんはこんな言い方をしたんだと思います。兄さんをずっと間近で見てきた姉さんでさえこう言っていたので、もしかしたら長物を持った私は本物の彼よりも残酷だったのかもしれません。とにかく、私はもう長物を持たないことにしました。力が無いせいで仲間を失いたくありませんでしたが、力のせいで仲間が傷つくのも同じくらい辛いことでしたから。

「……よし、ひとまず山を登って、辺りの様子を見てから安全に下りましょう。歩ける?」

 私が頷くと、千尋姉さんは私の手を引いて歩き始めました。歩いて、歩いて、ずっと歩いて……日が沈んだ頃、やっと山頂に着きました。それと同時に、姉さんはいきなり倒れました。呼吸は荒くて、ひどい熱がありました。寒さに心身の疲労、汚れていたであろう辺りの雪を止血に使ったこと……今になって考えればその原因はいくらでも思い当たりましたが、その時の私には何が起こったのか全く分かりませんでした。どうすればいいのかも分からなくて、必死に姉さんの身体をさすっていました。姉さんは消え入りそうな声で、ごめんね、ごめんね、としきりに謝っていました。私を優しく仲間に迎えてくれて、辛いときも励ましてくれて、今日も必死になって私たちを守ってくれたのに、何で謝っているのかも、私には分かりませんでした。

 私は独りになりました。でも、独りになったことに気付きませんでした。さっきまで熱かった姉さんの身体がどんどん冷たくなっていって、私の手を握り返す力がなくなって、それでも気付きませんでした。これまで殺されて死んだ人しか見たことがありませんでしたから、私は殺されなくても人が死ぬことを知りませんでした。目の前で倒れている姉さんは殺されたわけじゃないから、朝になったらきっと目を覚ますと思っていました。吹雪が止み、大きな月が天頂に昇ってゆく中、残雪を踏みしめながら歩き続けました。夜の山は、夕日が出ていた時よりも一層恐ろしく映りました。怖くて足が竦みそうで、本当は姉さんに助けてほしいと思いました。だから、姉さんに教えてもらった歌を歌いながら山を下りました。

『いつまでも たえることなく ともだちで いよう』

立ち止まって姉さんの助けを待っても、ひたすら冷たい風が吹いてくるだけでした。

『あすのひを ゆめみて きぼうの みちを』

 結局、何回歌っても姉さんは起き上がって私を助けてはくれませんでした。山を下りきったところで、私は力尽きて姉さんから手を離し、道端に倒れました。

 意識が薄れゆく中で、これはきっと夢なんだと思いました。目を覚ましたらいつも通り皆がいて、怖い夢を見たと言ったら笑いながら頭を撫でてくれて……あるいは、それも全て嘘だったら、とも思いました。目が覚めたら、自分は江寺奈緒なんて名前じゃなくて、他の誰かとして生きていくのかもしれないって。でも、意識を取り戻して最初に目に入ったのは、血塗れであちこちに傷がある千尋姉さんの亡骸でした。山を下りるのに必死で、姉さんのことを見ていませんでしたから、きっと途中で何かにぶつけてしまったんだと思います。ひゅっ、と息が詰まって、そこから目が離せなくなりました。人は殺されなくても死ぬということを知らなくても、彼女がもう助からないことが直感的に分かりました。その後、朝日が昇っても、姉さんは目を覚ましませんでした。その時になって、私は初めて大声をあげて泣きました。泣いても誰も助けに来ないとか、むしろまだ敵が残っていたら気付かれるかもしれないとか、そんなことを考えている余裕はありませんでした。声が枯れるまで泣いた後、姉さんの亡骸を山の麓にそっと置いて、山を去りました。それから今まで、そこに戻ってくることはもう二度とありませんでした。そこはもう、私の帰る場所ではなくなってしまったから──────


 ◆

 私が話を一度止めると、来亜は口を開いた。彼女は私を恐れも憐れみもせず、ただ真っ直ぐに見据えていた。

「……話を聞かせてくれて、ありがとう」

「……私の方こそ、聞いてくれてありがとうございます」

「だが、話を聞く限りでは、そこから今までまだ六年ほどあるが……私に出会うまでは、どうしていたんだ?」

 来亜の疑問はもっともだ。話を一度区切って休憩をした方が良いかと思ったが、どうやらその必要はないらしい。私は一呼吸置いてから続きを話し始めた。

「……それから、私は保護されて、ある老夫婦の家に引き取られました。いきなり学校に通えるような状態ではありませんでしたから、お爺さんが昔勤めていた工場の力仕事を手伝ったり、無所属で参加できるスポーツの大会に出たりして、お金を稼ぎながら身体を鍛えて過ごしていました」

「子どもだったのに、工場で働いていたのか?」

「それは……本当はいけないことでしたが、事情を知った周りの大人が職場体験と称して黙認してくれていました」

「……そうか」

「大会の結果を高校の先生がたまたま見ていたので、勉強が苦手でも神土高校に進学できました。それと、アリア先生の作品に出会ったのも、この頃です」

 今思えば、私を引き取ってくれたあの家には来亜との不思議な縁があったように感じる。実際に彼女に出会ったからこそ、そう思えるだけなのかもしれないが。

「しばらく経って落ち着いた頃、他の仲間の力も源兄さんと同じように引き出せるんじゃないかと思って、試してみました。源兄さんや杏里姉さんの言うとおり、身体を鍛えて仲間をよく見ていたおかげで、上手くいきました。ずっと探していた、私の得意なこと……それは、人を真似ることだったんです」

「それが君の言っていた、気持ちの切り替え……」

「……はい」

 それは、人の背中を追い続けてきた私にはぴったりの力だった。弱い私に代わって、強い仲間の力を借りる。来亜と一緒に解決した事件でも、そうやって戦ってきた。私は、ずっと人任せにしてきたのだ。

「だから、あの施設の仲間たちは……私を入れて七十人、みんな私の中にいます」

 私は、もう独りじゃない。全てが壊れる前と同じように、仲間たちとともに生きている。組織の追手は頻繁に襲いかかってきたけれど、もう十分に戦えるようになった。これで良い。そう思っていたのに。

「……今年の三月、私を引き取ってくれたお爺さんとお婆さんが、亡くなりました。私の高校の進学が決まって、自分の孫のことのように喜んでくれて、すぐのことでした」

「……」

「”天狼”です。学校から帰ってきた時、二人を殺した戦闘員と鉢合わせになりました。私に勝てないと悟りながらも、何もできずに帰って始末されたくはなかったのでしょう。その場で殺そうとしましたが、結局逃げられてしまいました」

 裏社会の人間は、一般の相手に手を出してはいけない。その掟を破った以上、その戦闘員が生きていることはありえない。だが、それは私がこの手で復讐する機会を失ったことを意味する。やるせない気持ちと、二人を巻き込んでしまった罪悪感で押し潰されそうだった。

「警察も、”天狼”の力の前では安易に動けませんでした。他にも凶悪な事件をいくつも起こしていたので、特別に組織の長に対して生死を問わない指名手配が出されたんですが……今でも”天狼”の活動は続いています」

「……そうか」

「二人の葬儀を済ませて、行くあてを探していた時に、先パイの噂を聞きました。"人狼事件"を解決した先パイなら、私の過去を知っても受け止めてくれるかもしれない……そう思って、事務所の扉を叩きました」

「……」

 来亜は何も言わず、持っていたティーカップを置いた。そして、脚を組んで顎に手を当て、普段通りの考える姿勢を作った。

「……先パイ?」

「……源は、私に君への伝言を頼んだ。為すべきことを為せ、と」

「……!」

「だが……今の話を聞いても、私には君の為すべきことがわからない。君は……自分の為すべきことが、分かるかい?」

 私の中に、確かに答えはあった。だからこそ、これまで"天狼"についての話は誰にもしてこなかったし、その長の居場所も突き止めたのだ。

「……復讐」

 成功するかどうかにかかわらず、それが私の為すべきことだと確信している。来亜は私の答えを聞いて止めるような人じゃない。それもまた確信している。だからこそ、嘘をつかずに正直に話した。

「……仲間たちが、それを望んでいなかったとしても?」

「はい。それに、私は仲間のために復讐をするわけじゃありません。生き残ってしまった私の罪を、新たな罪で雪ぐんです。何より……私は、自分を壊した理不尽の正体を知りたい」

「……そうか。そこまで覚悟しているなら、止めはしない」

 来亜はそう言って、一度伸びをしてから私の方に向き直った。探偵としての彼女の目が、ぎらりと光る。

「それで、相手の調べはついているのか?」

「はい。"天狼"の長は、虎嶋統一郎こじま とういちろう。組織の絶対的な権力者にして、最大の弱点です」

「……というのは?」

「彼は圧倒的な力を持っていますが、権力を集中させるため、補佐や側近を置いていません。だから、彼が倒れれば組織は瓦解します」

 私の話を聞いて、来亜は驚いたような、あるいは呆れたような表情を浮かべた。確かに、これでは組織を作る意味が薄い。自分の身に万が一のことがあってもいいように側近をつける、あるいは組織を統べる後継者を育てるなど、通常の組織がしているようなことを”天狼”は一切していないのだ。

「そんな体制でやっていけるのか?」

「……そんな体制でもやっていけるほどの実力者、ということでしょうね」

「……信じがたい話だが、そう考えざるを得ないか」

 来亜は目を閉じ、深く息をついた。統一郎を倒すだけで良いのだが、誰にもそれができないから今も組織が続いている。単純だが、それだけに大きな問題だ。

「統一郎の居場所は分かっているのか?」

「はい。ただ、こちらが探っていることも向こうは分かっているらしく、待っていると伝言を受けました」

「……なるほど。それと、必要な情報ではないかもしれないが……組織の最近の動向は分かっているかい?」

「……それは……」

 来亜の質問に素直に答えるべきではないと思った。組織の動向を伝えれば、まず間違いなく彼女はこの復讐に加担する。だが、私は来亜を巻き込みたくない。彼女にもしものことがあれば、私はもう正気ではいられないだろう。それに、私は自分だけで復讐を果たしに行くからこそ、来亜に全てを話したのだ。私がもう彼女に会えなくなったとしても、彼女だけが私の全てを覚えていてくれるように。彼女がついて来たら、そうした意味が全くない。それなのに──────

「……二年ほど前、魔物を見つけたという戦闘員の報告をきっかけに、魔物を捕らえて売るという商売に手をつけた、と……」

「……!」

「”人狼事件”のあった建物で、”天狼”の戦闘員の服の切れ端を見つけました。それ以前に人狼……流さんの身に起こったことが彼らの仕業かどうかは分かりません。でも……あの日、彼女を攫ったのが”天狼”の人員だというのは、確実でしょう」

「……そうか」

 結局、話してしまった。ここまで話して最後に嘘をつくのは、やはり誠実ではないと思ったから。それに、来亜が源兄さんの言葉を伝えてくれた時、きっと私の答えも想定の範疇にあったはずだ。彼女はこうなることを覚悟した上で、兄さんの言葉を私に伝える選択をしてくれた。どうしても、私だけが自分のために隠し事をする気にはなれなかった。

「……私、もう行きます」

「待ちたまえ、私も行こう。初めからついていくつもりだったが、そういう事情があるなら尚更だ」

 私が危惧していたことが起こった。だが、これだけは絶対に譲れない。何としても、彼女を巻き込みたくはない。たとえ、彼女を突き放すことになったとしても。

「……来ないでください」

「……なぜ?」

「先パイを、巻き込みたくないからです」

「生憎、おいそれと引き下がれるわけじゃ──────」

 机を叩き、来亜の言葉を遮る。がたん、という激しい音が、強く胸を締めつけるのを感じた。

「そんなに気安く戦っていい相手じゃないんです!」

「……」

「……先パイの気持ちは、わかります。でも……お願いですから、事務所にいてください」

 来亜の気持ちは、私と同じだ。彼女も、自分の身に起こった悲劇を描いた張本人に報いを与えたいのだろう。それでも、私は彼女と共に行くことはできない。来亜は立ち上がり、拳を握りながら呟いた。

「……君も、私の前からいなくなるのか」

「……」

「──────嘘つき!」

 私は、何も言えなかった。来亜の言葉は、全くもって正しいから。いなくならないと約束したばかりなのに、私は彼女のもとを去ろうとしている。ともすれば、永遠に。彼女の言う通り、私はとんでもない大嘘つきだ。全てを正直に話したのに、私は嘘つきになってしまう。それでも、私は彼女を振り切らないといけない。黙って踵を返し、すっかり乾いていた上着を着て、事務所の扉を開けた。夜の闇と降りしきる雪が、来亜から私を隠してくれる。そう信じて、ゆっくりと復讐に向けて歩き出した。


 ◇

 奈緒が事務所を出た後、来亜は携帯電話の画面を見た。彼女は、かつての相棒を助けに行ったのと全く同じ手口で奈緒の行き先を知ることができた。奈緒におぶってもらった時、上着に発信機を入れていたのだ。二度と相棒を失わないための備えだったが、来亜にとっても思わぬ形でそれが功を奏することとなった。

 不意に外から窓を叩く音が来亜の耳に入った。来亜は驚いて立ち上がり、辺りを見回す。すると、窓の外に白い外套を着た人影が見えた。来亜にとっては見知った相手だが、同時に今ここに現れるはずがないと思っている相手でもあった。

「ライト……!?」

 突如姿を現した怪盗は、身を震わせながら窓をドンドンと叩き続けている。明らかに、寒さに苦しんでいる様子だった。来亜が呆れながら窓を開けると、ライトは雪を振り落としてから部屋の中に入り込んだ。ライトは相変わらず顔を隠していて、来亜の目の前に立っても彼女がその外見から新たに手がかりを得られることはなかった。

「久しぶりだね、来亜」

「話が違うな。次に会うのは七つの物語を終わらせてからだと言っていたはずだが」

「こんなに寒い中わざわざ会いに来たというのに、手厳しいな。カイロの一つや二つぐらい寄越してくれても良いじゃないか」

「ああ、喜んでくれてやるとも。お前が目的を洗いざらい話すならば、ね」

 ライトはわざとらしく残念そうに首を横に振り、ため息をついた。その程度で来亜の心が動くことはないとわかると、事務所を訪れたわけを話し始めた。

「事情が変わったのさ……君たちの事情がね。何やら大変そうじゃないか」

「……聞いていたのか」

「少しだけね。だから、忠告をしに来たんだ」

「私を止めるつもりか?」

「そうだ……これは、君の進むべき道じゃない」

 ライトは来亜の目を真っ直ぐ見てそう言った。普段の飄々とした様子からは考えられないようなその真剣な様子を見て、来亜は思わず顎を引いた。

「……どういうことだ?」

「断言しよう。君は、一人でも残りの事件を解決できる。危険を冒して助手を救いに行くのは得策じゃない」

「危険なら、承知の上だ。これまでも、ずっとそうだったからね」

「……本当に?」

 来亜が頷くと、ライトはふっと笑った。自分だけが何かを知っていることを示すような笑い方をしていた。

「何がおかしい?」

「失礼、おかしくて笑ったわけじゃない。だが……君は本当の危険を知らない、と言ったら?」

「本当の、危険……」

「君がこれまで歩んできた道のりは、それなりに険しく見える。しかし、それが全て誰かにそうなるべく舗装されたものだとしたら?」

 そう言いながら、ライトは来亜に少しずつ迫る。来亜は窓から入った風に揺れる外套に目をやって、ライトの目を見ないまま返事をした。

「……生憎、そんな無駄話をしている暇はない」

「……どうしても、行くのかい?」

「奈緒が私をどう思っているのかはわからない。それでも、私にとって彼女はかけがえのない相棒だ。この先にどんな危険があったとしても、私は奈緒を追う」

 来亜はライトを睨むように見据えながらそう言った。やれやれ、と溜め息をつきながら、ライトは一歩引き下がった。

「……まあ、それも悪くない。彼女も大事な存在であることに違いはないからね。たまには寄り道というのも一興だろう」

「……」

「……引き止めて悪かった。少しだけ手を貸してやるから、そう睨むんじゃない」

 ライトは懐からメモ帳を取り出して紙を一枚破り、それを四つに折って来亜に渡した。

「これをやろう。お守りだ」

「……はは。どうやら冗談というのはものを盗むより難しいようだ」

 来亜は引きつった笑みを浮かべながら、紙を握り潰さんばかりの力で受け取った。

「そう怒るな。捕まっていない悪人のお守りほど効き目のありそうなものもないだろう。もちろん、捕まった瞬間曰く付きになってしまうがね」

「……」

「……"必ず、二人で無事に帰って来い"」

 来亜に渡したお守りを握りながら、ライトはそう呟いた。

「言われるまでもない。私と奈緒の二人で、お前と決着をつける……必ずだ」

「楽しみにしているよ。それじゃあ、行ってきたまえ。残る最後の物語を終わらせた時、また会おう!」

 ライトは玄関に置いてあったカイロを二つ取り出し、それを両手で振りながら窓から出ていった。来亜が窓を閉め、携帯電話の画面に視線を落とした時、奈緒に付いている発信機の座標が建物の近くで止まっていることに気がついた。来亜はコートを着て、お守りをポケットにしまいながら雪の中を駆け出した。

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