もうひとりの狼少女
早朝、冬の冷気を全身に浴びながら、郵便受けを開く。そこから新聞を取って開き、見出しを一目見た瞬間、今日が平穏な一日でなくなることを確信した。扉の鍵も閉めず、かかとを出したまま履いていた靴を脱ぎ捨てて、来亜のいるリビングへ走る。
「せ、先パーイ!」
「どうしたんだ、いつになく慌てて」
「こ、これ、見てください!」
私が突き出した新聞の一面を見て、来亜は目を見開いた。
「"人狼事件、ふたたび”……!?」
「こ、これ……本当なんですか!?」
「わからない。だが、仮にこれが事実なら……」
どういうわけか、来亜の表情は微かに明るく見えた。しかし、彼女はすぐに唇を結んで顎を引き、呟くように小さく言葉を発した。
「……いや。やはり、これが事実だとしても調査はしないでおこう」
「え、どうしてですか!?」
“人狼事件”は、いわば来亜の出発点だ。私が彼女の名を聞いたのも、この事件がきっかけだ。それなのに、彼女は再び起こったその事件に対して意外にも冷たい姿勢をとった。
「探偵は、一度解決した事件には執着しないものだ」
「そういうものですかね?」
「……そういうものさ」
来亜のその言葉は、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。新聞を下げた時、不意に事務所の扉を叩く音が響いた。まだ事務所が開く時間ではないのに、誰かが来たようだ。
「あ、鍵かけるの忘れてました」
「構わないよ、迎えてやってくれたまえ」
来亜がそう言ったので、扉を開けて出迎えた。そこに立っていたのは、背の低い少女だった。ちょうど来亜と同じぐらいの身長だ。ぶかぶかの赤いコートを着ていて、両手の袖が余って垂れている。
「どちら様ですかー?」
「でっっっっか!!」
「ええーっ!?」
その少女は、私の姿を見て大きな声を上げた。それを聞いて、来亜も玄関までやってきた。いつもならすぐに客間に案内するのだが、珍しく来亜はその場で真っ直ぐに来客を見つめている。
「ごきげんよう。だが、生憎まだ事務所の営業時間ではないんだ」
「あ、確かにそう……なんですけど!」
少女はいきなり来亜の前に新聞を突き出す。来亜はそれを少しだけ見た後、さっきも見たと言って少女の手を軽く押しのけた。
「……悪いが、その事件の調査なら他をあたってくれ」
「私、来亜さんのファンなんです。再び起こった”人狼事件”を解決できるのは、来亜さんだけだと思ってここに来ました!」
「そんなことはないだろう。新聞に載った以上、今に他の誰かが事件を解決するさ」
来亜は軽くあしらうようにそう言ってのけた。それを聞いて、少女はにわかに苦々しい表情を浮かべた。それから、彼女は絞り出すようにぽつりと呟いた。
「……逃げるんですか」
「そう思ってくれても構わない」
「……!」
来亜の返答は、私にとっても意外だった。いつもなら挑発に乗って調査に乗り出してしまいそうなものだが、今日の彼女はやけに決心が固い。
「いずれにせよ……私には、”人狼事件”に関わる資格がない。それだけの話だ」
来亜は少女を真っ直ぐ見据えてそう言った。そこに一切の嘘はないと、一目でわかる。彼女が嘘を真実らしく言うのが得意だということを踏まえても、私はその言葉が彼女の本心から発せられたものだと確信した。来亜の返答を聞くと、少女は新聞を潰すように強く握り込み、駆け出して事務所を去ってしまった。
「先パイ……」
「……そうだ、奈緒。これまでの事件の整理をしないか?」
「整理……ですか?」
「ああ。ライトは再び私たちと会うのは七つの事件を終わらせた時だと言っていた。だから、そろそろ状況を整理しても良い頃だと思っていたんだ」
確かにその言葉が嘘でないならば、ライトと再び会うのはそう遠くない未来だ。私たちは、これまでに物語を元にした事件を四つ解決してきた。来亜だけで解決した”人狼事件”も数に入れるならば五つになる。ここで一度情報をまとめ直せば、残るあと二つの事件の解決の糸口にもなるかもしれない。そう思って、来亜の提案に頷き、部屋から紙とペンを持ってきて椅子に腰かけた。私の準備ができたのを見て、来亜は話を始めた。
「……まず、これまでの事件にライトが関わっていることは間違いないだろう。こうも行く先々で出会っては、流石に偶然では片付けられない」
「はい。いずれも物語を元にした事件ですし、そこは間違いないと思います」
「セイレーンの事件で姿を現さなかったのは、姿を現せば雪女の時の自身の発言と矛盾してしまうからだろうね。それで、問題はその意図や目的を読み取れるかどうか、だが……」
来亜はこれまでの事件の元になった物語を書いて並べ、小さく唸りながら首をひねった。
「……それにしても、バラバラだな」
「え?」
「事件の元になった物語さ。人狼伝説に白雪姫、眠り姫に雪女、そしてセイレーン……」
「確かに、そうですね……」
物語の内容も、それが生まれた場所も、時代も違う。全ての物語に共通する点は全く見つからない。来亜も同じようで、腕を組みながら考え込んでいた。
「恐らく、物語ではない何かが根底にあって、それを伝えるために物語を使っている……そんなところだろう」
「なるほど……」
それを聞いて、眼鏡を取り出そうとすると、来亜に手で制止された。口では無理はしなくていいと言っていたが、先に答えを暴かれたくないようにしか見えなかった。その様子を見て、少し安心した。さっきは事件の調査に乗り気ではない様子だったが、探偵としての熱意が失われたわけではなかったようだ。
「……物語の名前と睨めっこしていても埒が明かないか。事件の内容の方も振り返ってみよう」
「詳しい内容、ですか」
「ああ……事件の中には、元の物語から大きく逸れていたものもあった。そういう風に改変したということは、そのままの物語ではライトにとって都合が悪かったということだろう」
来亜は紙に事件の大まかな内容を書き出し始めた。彼女が人狼事件の方から書き始めたので、私はセイレーンの事件の方からまとめていった。ほどなくして作業は終わったが、私が見ても相変わらず何も分からない。
「さっぱり分かりません……」
「……これは」
来亜が何かに気付いたらしく、セイレーンの事件について書いた紙を指さした。そこには、セイレーンの動機が書いてある。
「全てが欲しいっていうのが動機、というかセイレーンの思い……でしたよね」
「ああ。これは明らかにライトが手を加えている。セイレーンが欲深いなんて話、聞いたことがない」
「強欲……」
「……それだ!」
私がぽつりと呟くと、来亜の人差し指が勢いよくこちらを向いた。それに驚いている間に、彼女は次々に他の事件の内容を書いた紙に目を向け、それぞれの紙に一つずつさらさらと言葉を書き加えた。
「……多少、無理があるところもあるが……やはり、これは七つの大罪だ」
「七つの大罪……って、何ですか?」
「キリスト教において、最も重い罪とされているものだ。それこそ、物語においては使われがちな概念さ」
「あの……キリスト教って、何ですか?」
「……!?」
私が何の気なしに聞くと、来亜は目を見開いた。呆れたり、怒ったりするのではなく、本当に心の底から驚いている様子だった。それほど知っていて当たり前の知識なのだろうか。来亜は慎重に探るように、問い返してきた。
「……それは、詳しくはどういうものなのかと聞いているのかい?」
「え……いえ、聞き覚えがないので、何なのかなと」
私の返事を聞いて、来亜は黙ってしまった。数秒後、彼女は熊が出ると噂される道でも通っているかのように恐る恐る私に問いかけた。
「……君、本当に義務教育を受けたのか?」
「な、そんなの当たり前じゃないですか!」
私はどうやら相当まずいことを聞いてしまったらしい。来亜は溜め息をついて、簡単に説明してくれた。
「……キリスト教自体の説明はまた今度にしよう。さっきも言ったが、七つの大罪はその宗教における重罪のことだ」
「その七つっていうのは?」
「傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲の七つだ。”人狼事件”は言うまでもなく暴食、白雪姫の事件は復讐が目的だったことを考えると恐らく憤怒だろう。眠り姫は明らかに怠惰だろうね。雪女は……少し無理があるが、許されざる恋が色欲……ということだろう」
「そして、セイレーンが強欲……」
「そういうことだ。残っているのは嫉妬と傲慢……だが、これほど物語が曲解されるようなら先読みは難しそうだな」
状況は整理できたが、結局ライトの目的に迫ることはできなかった。しかし、新たに事件の共通点に気付くことができただけでも収穫があったと言えるだろう。
「そうだ、ついでに聞いておきたいんだが」
「何ですか?」
「ライトが君に渡した本……『無題』は、どんな内容だったんだ?」
「ああ、それが……」
正直なところ、がっかりした。作品の出来が残念だったわけではない。ただ、明らかに未完の状態だったのだ。ページが破られていたり、装丁が上手くいっていなかったりする様子もなかったので、私の本の状態が悪かったわけでもなさそうだった。
「それが……変なところで終わっちゃってて、結末はよく分かんなかったんですよね」
「おや、珍しいな。姉さんの作品は綺麗な結末に定評があると聞くのに」
「そうなんです。ご存知だったんですね」
「まあ、妹だからね。作品を読んだことはないが……」
何度聞いても、あまりにももったいない。その嘆きを何とか胸の中に押し込み、作品のあらすじを伝えた。
「主人公の騎士が、自分の故郷を焼いた敵国の王を討つ話なんですけど……」
「……結構ありきたりだな」
「先生の作品は分かりやすくて面白いのが魅力ですから、それは気にならなかったんです。でも、いよいよ敵の本拠地に攻め込むってところで終わっているんです」
「ふむ……妙ではあるが、ライトの目的との関係は見出しづらいな。単純に君が姉さんの作品を好んでいるから用意したのかもしれないね」
来亜がそう言った直後、事務所の入り口の方から扉を強く叩く音が聞こえてきた。状況の整理をしている間に、いつの間にか事務所の営業時間になっていたようだ。来亜が扉を開けると、ほとんど同時に少女が駆け込んできて、二人は音を立ててぶつかった。
「うわっ!?」
「だ、大丈夫ですか!?」
「全く……誰だか知らないが、少しぐらい待ちたまえ!」
来亜が立ち上がると、少女は縋るように彼女のコートの裾を下から引っ張って身体を起こした。彼女は、先ほど押しかけてきた少女だった。しかし、先ほどとは違ってひどく憔悴した様子で、身体は震えている。
「た、助けて……!」
「……何かあったのかい?」
「友達が……人狼に攫われたんです……!」
「……!」
少女を客間に招き、事情を聞いた。少し落ち着いたとはいえ、まだ彼女は息を切らしている。吐く息に音だけを乗せるように、彼女は力なく話し始める。
「……私、
「おや、奈緒の同級生か。知り合いかい?」
「いえ……」
私が答えると同時に、世良も首を横に振った。
「友達と”人狼事件”の調査をしていたら、友達が突然いなくなって……」
「……なるほど」
来亜は世良の身体の先にあるものを見通そうとするように、彼女の方をじっと見た。そんな来亜を弱々しく見つめ返しながら、世良は立ち上がって頭を下げ、頼み込んだ。
「どうか……お願いします……!」
「……わかった。時間がないから、急いで準備をしよう」
「……!」
ぱっと世良の表情が晴れる。それから、彼女はすぐに準備をして高校に向かうと言って事務所を去った。やれやれ、と来亜はため息をつきながら立ち上がる。
「先パイ、受けちゃって良かったんですか?」
「仕方ないさ。人の命がかかっているかもしれないんだ。断れば、世良まで命を落とすかもしれない。それに……」
「……それに?」
「……いや、今はやめておこう。この事件に決着がついたら、全て話すことにするよ」
来亜はそう言い残して、客間を後にして身支度を始めた。私も部屋に戻って準備をしようと思った矢先、遠くから微かに足音が聞こえた。
「……」
不自然なほど、小さな足音。来亜がその場に残っていたら、きっと聞こえなかっただろう。上着を羽織って外に出て、足音がした方を見た。全身に突き刺さるような真冬の冷気は、早朝よりはいくらか鋭さを失っている。強風で狭められた視界の端に、黒い影が映った。雪女の事件の時に襲いかかってきた相手よりは少し大柄だ。太刀を構えているが、すぐに斬りかかってくる様子はない。一瞬だけ力を抜き、体重を風に任せた後、その影を冷たく睨みつける。
「……来ないの?」
「……長より伝言だ。"お前の探り当てた通りの場所で待っている"……以上」
前の刺客を追い払った時に発信機を仕掛けて帰し、本拠地の場所を探っていたのだが、どうやらそれが見抜かれてしまったようだ。
「……そう、さよなら」
上着のポケットからペーパーナイフを取り出して構える。黒ずくめの男は鋭い眼光を一層ぎらつかせて、私を見据えた。そこに、一切の油断はない。
──────それでも、届かない。
「ぐうッ……!」
「……もう帰っていいよ」
腹部に小さく穴が開くほど強くナイフを突き刺された男は、呻くような苦しげな声で問いかけてきた。
「なぜ、殺さん……敗れて戻った者の末路を知らぬはずはないだろう」
「私たちみたいに逃げ出せば、助かるかもしれないわね」
「私たち、だと……?」
「……とにかく、早く逃げて。ここで死なれたら迷惑だから」
私がそう言うと、男は身体を起こしてよろめきながら去っていった。恐らく、私が彼を見るのはこれで最後になるだろう。溜め息をつきながらナイフに付いた血を拭い、事務所に戻って支度を始めた。
学校に着くと、既に正門の前で世良が待っていた。フードのついた赤いコートが良い目印になった。
「失礼、待たせてしまったね」
「いえ、早速二手に分かれて探しましょう!」
「それは良いが……友達の特徴を教えてくれるかい?」
「あ……」
世良は数秒の間沈黙した後、特徴を話した。髪が長く、華奢な体型だという。目立った特徴がないらしく、探すのは大変そうだ。
「そうだな……写真はあるかい?」
「写真は……これです」
世良が渡してくれた写真に映っていたのは、確かにごく普通の少女だった。少し遠くから撮った横顔の写真だったのでやや顔が分かりにくいが、それでも何とか探せそうだ。
「助かるよ。では、調査開始だ!」
来亜はそう言って勢いよく駆け出し、辺りをきょろきょろと見回した。それが数回続いたかと思うと、その場にぐったりと座り込んでしまった。急いで追いつき、声をかける。
「先パイ!?」
「……奈緒、先輩として、ここで一つ大事な話をしよう。心して聞きたまえ」
「は、はあ……」
私が腰を下ろしたのを見て、来亜は話を続けた。
「どうして探偵は助手を雇うのか、わかるかい?」
「えっと……戦いになった時に身を守ってもらうため……ですか?」
「私たちの場合はそういうところもあるが……根本的にはもっと単純だ。弱点を補ってもらうためさ」
弱点を隠そうとする姿勢を全く見せないまま、来亜は語る。私はそれを聞いて、彼女を抱き上げて背負った。
「それなら……こうすれば良いんですね!」
「そうだ、そのまま……」
「はい、このままどんどん探しますよ!」
私は来亜を真似て、勢いよく駆け出した。さっきまでは冷たかった風が、途端に心地よく感じる。おかげで、後ろから大きな声が上がっているのにしばらく気が付かなかった。
「うおおおおおおおッッ!?」
「先パイ、どうしたんですか!?」
「……」
私が止まって振り返ると、後ろにあるはずの来亜の姿が一瞬にして消えた。困惑し、しきりに辺りを見回す。
「あれ!?」
「背負っているんだから、背中ごと振り向いたら私も動くだろう!」
「……あ!」
その言葉でようやく気がつき、来亜を一旦下ろしてから振り返った。彼女は見るからに呆れた様子で、コートの襟を正す。
「やれやれ……ジェットコースターにでも乗せられたのかと思ったよ」
「す、すみません……」
「……いや、全く平気だね。この程度のことでは動じないさ!」
来亜は思い出したように平静を装いながら、再び少女を探し始めた。いつの間にか、空には薄い黒みを帯びた雲がかかっていた。周囲の人たちの歩みがわずかに速くなって、それにつられるように私の胸の中にある不安も高まっていった。ただでさえ冬の日は短いのに、辺りが暗くなったことで余計に時間が速く進んでいるように感じる。
「おや、雨が降りそうだな」
「予報では晴れだったはずなんですけど……にわか雨ですかね?」
「とりあえず、傘は買っておこう。君はまたレインコートかい?」
私が頷くと、来亜は足早に近くのコンビニへ向かった。それから、ビニール傘を一本だけ買って帰ってきた。さっきの仕返しだろうか。
「……先パイ?」
「そんな顔をしないでくれ。レインコートが置いてなかったんだ」
「えー、じゃあ雨が降ったら先パイの傘に入ってもいいですか?」
「……できるものならやってみたまえ」
来亜は私の頭の上の方を見上げながらそう言った。店から通りに出たところで、不意に近くから声をかけられた。そちらを向くと、瓜谷先生の姿があった。
「あ、瓜谷先生!」
「あなたたち、冬休みも調査?」
「ええ、急な依頼が入りまして」
「そうなの、大変ね」
それから、瓜谷先生と少し話をした。聞くところによれば、眠り姫の事件から半年近く経って、紡もすっかり元気になったようだ。元々頭が良いこともあり、勉強にも問題なくついていけているらしい。羨ましい限りだ。
「そうだ、高校時代の先生……あっ、愛良さんってどんな感じの人だったんですか?」
「奈緒、それは今の事件に関係ないだろう」
「でも、気になりますよ!」
そうねえ、と呟きながら先生は腕を組み、少し考えてから質問に答えた。
「まあ……変わった子だったわ」
「なるほど……具体的にはどう変わってたんですか?」
「そうなるわよね……」
先生は少し困ったような様子を見せたが、すぐに話を続けた。
「まあ、あなたたちは知っているだろうから話すけど……あの子、昼と夜で性格が違うのよ」
「……ええ、そうですね。あれには何か理由があるのですか?」
「やっぱり先パイも気になるんじゃないですか!」
どうせ聞くなら私からも質問した方が良いだろう、と来亜は澄ました顔で言った。
「理由はわからないけど、高校に入った頃は今みたいに違うことはなかったらしいわ。私があの子の担任になったのは三年生の頃だったから、あくまで聞いた話だけどね」
「……そうですか、ありがとうございます」
私が質問しようとしたところに割り込むように、来亜は続けて別の質問をした。
「それと、先生……”人狼事件”が再び起こったという話はご存じですか?」
「え……”人狼事件”が!?」
瓜谷先生は血相を変えて来亜を見た。元の”人狼事件”も高校生ぐらいの少女を狙ったものだったから、彼女たちを守る立場である先生にも無関係な話ではないのだろう。
「ええ。今朝の新聞に載っていたはずですが……」
「……それ、本当?」
先生は、怪訝そうな表情を浮かべた。その様子からして、新聞を読んでいないわけではなく、読んだ上で来亜の話を疑っているようだ。”人狼事件”は、神土町のみならず全国を騒がせた大事件だ。それが再び起こったとあらば、取り扱わない新聞社はないだろう。来亜もその反応に驚いているらしく、返事をする前に一度息を呑んだ。
「……というと?」
「今朝の新聞に、そんな話はなかったはずよ」
「……え?」
「今、その新聞は持ってる?」
私はカバンの中にしまっていた新聞を取り出し、先生に見せた。先生はその新聞をじっくり見て、首を傾げた。
「確かに、変なところはないわね……だけど、新聞でもテレビのニュースでも私は見てないわ」
「……なるほど。ありがとうございました」
瓜谷先生と別れてから、来亜はすぐに世良から貰った写真を取り出した。その表情からは、異様な焦りが見えた。
「先パイ、いきなりどうしたんですか?」
「……先生にああ言われて気付いたが、確かに不自然だ。この人のことを世良は友人と言っていたが……友人を探すための写真に、こんなものを選ぶとは考えにくい」
少し遠くから撮った横顔。写真の準備がなかった可能性もあるが、さっきの瓜谷先生の話を聞いた後でこれを見ると確かに疑わしい。
「……時間を食ってしまうが、やはり何人かに聞き込みをしてみよう」
「……はい」
急速に疑念が渦巻き始める中、再び歩き出した。近くを通りかかった人に声をかけ、事件や少女のことについて知らないかと尋ねてみるが、誰も知っているとは答えない。その人数が増えるにつれて、私たちの疑念はどんどん確信に変わっていった。
「どうやら、この”人狼事件”は全くのでっち上げだったようだな……」
「それにしても、紅井さんは何でこんなことをしたんでしょう?」
「……ふむ」
来亜は息をついて立ち止まり、顎に手を当てて考え始めた。しかし、相変わらず立ち止まっている余裕はない。仮に”人狼事件”が起こっていないとしても、世良が友達だと言っていた少女の身の安全は保証されていない。世良自身が彼女を誘拐している可能性さえ考えられる。来亜に声をかけ、思考に集中する彼女を背負って歩き出した。しばらく経ってから、来亜の方から声をかけてきた。
「奈緒、歩きながらで構わないから聞いてくれ」
「はい」
「まず、世良の目的は私を誘い出すためだと思う。偽造した新聞が私たちだけに届いていたからね」
歩きながら、ゆっくりと頷く。確かにそれはほとんど間違いないはずだ。彼女が”私”と言ったのは、恐らく来亜だけが関係している”人狼事件”をでっち上げの材料にしたからだろう。それに、さっきの世良の様子を見ても、彼女の関心が来亜一人に向いているのは明らかだった。
「私たちを誘い出した後に何をしたいのかは分からないが……まあ、危害を加えてくると思っておいた方が良いだろう。力を試している可能性もないとは言えないが、依頼したいことがあるならさっき言っているはずだ」
「そうですね……でも、紅井さんは今どこにいるんでしょう?」
「……世良の動向には、穴があった。友達の写真のこともそうだが、何より私たちが聞き込みをすればその時点で隠し通すのはほとんど不可能になる。だから、これは恐らく捏造を見破られることを前提にしている……」
そう言い終えた直後、来亜は背中から私の服を強く掴んだ。下ろせということだと察して腰を落とすと、彼女はすぐに駆け出し、来た道を戻り始めた。
「えっ、ちょっと先パイ!」
「彼女が私を待っているとしたら、捏造を見破った上で私にしか分からない場所……”人狼事件”を解決した建物にいるはずだ!」
来亜は走りながら、周りに聞こえるのも構わず叫ぶ。私は急いで彼女を追うが、やたらと足が速くて追いつけない。おぶって歩く必要もなかったかもしれないと少し後悔しながら、何とか彼女の速さに食らいついた。必死で走っているうちに、すぐに建物に着いた。一年半ほど前、”人狼事件”が起こった時点でかなり人通りは少なかったようだが、今ではもはや廃墟同然だ。暗雲が空を覆い尽くし、物々しい雰囲気が漂っている。
「……本当に、ここに紅井さんがいるんですか……?」
「わからない。だが……彼女がいる可能性が最も高い場所は、間違いなくこの建物だ。ご覧の通りの有り様だから、人目も避けられるというわけさ」
「そもそも、罠だとしたらこのまま入るのは危険ですよ!」
「確かにそうだ。でも、私は一刻も早く知りたい。彼女が、どういう思いでこの事件を利用したのか……」
来亜は表情こそ変えなかったが、コートのポケットの中で強く拳を握っているのが見えた。それから、ゆっくりと入り口に向かって進み始めた。もはや、私に彼女を止める術はない。今の私にできるのは、助手として彼女を守ることだけだ。来亜の背中を追い、私も建物に入った。
「……」
緊張した空気が、重苦しい沈黙を包んで肩にのしかかる。壁に点々とついた赤い染みが、当時の惨劇を静かに物語っている。辺りには、雨が地面を叩く音だけが響いていた。私たちが建物に入ってから降り出したらしい。歩みを進めるごとに、様々なものの残骸が視界に入る。割れた香水の瓶、派手に壊されたスタンガン、そして、見覚えのある人間の服。
「……こんなところにまで」
「おや、どうかしたかい?」
「い、いえ、何も!」
「……そうだな、全て終わったら話すと言ったが、ここまで来てしまったからには話しておこう。事情も変わったことだしね」
来亜はそう言って近くの部屋に入り、壁を背にして腰を下ろした。本当にこんな余裕があるのかどうか分からなかったが、ひとまず私も彼女の隣に座った。
「あの……人が攫われてるかもしれないのに、こんなことしてていいんですか?」
「さっきは咄嗟に走ってしまったが、世良の狙いが私ならば、わざわざ私以外の人間に気付かれる危険を冒すことはないだろう。ここで少し話すぐらいなら問題ないはずだ」
「なんだ、じゃあそんなに急ぐ必要はなかったんですね……」
「いや、あったさ。こうして、君に”人狼事件”の話をする時間ができたわけだからね」
来亜の言葉を聞いて、思わず息を呑む。当時の報道で伝えられたのは、社会を震撼させた大事件が一夜にして解決したということだけだった。唯一の生存者にして事件を解決した張本人である来亜も、この事件については完全に口を閉ざし、結局その全貌は明かされないままだった。私は、その未知の事実を受け止める用意が全くできていなかった。しかし、それは来亜も同じらしい。彼女は話し始める前に、一度ゆっくりと息をついていた。
「……”人狼事件”の内容は知っているね。毎晩一人の少女が攫われて、行方不明になるという事件だ。その噂を聞いた私は、友人……谷降流とバディを組んで、この事件を調査したんだ」
「バディ……」
来亜からその言葉を聞くのは、彼女と初めて出会った時以来だ。その時、彼女には既にバディがいると言っていた。彼女が言っていたのは、その流という人のことだったのだろう。
「だが、街で聞き込みをしていた時に流が連れ去られた。ちょうど今の世良と同じ状況さ……彼女の言葉に嘘がなかったらの話だが」
それから、私は”人狼事件”の全容を聞いた。備えをしていた来亜が駆けつけ、流を救出した次の瞬間、今度は来亜が背後から襲われたこと。そして、日が沈んで”人狼”が姿を現したこと。
「……”人狼”は、流だったんだ。姿を変えた彼女は、私を食べようと襲いかかってきた」
「……!」
「そして、私は流を……一緒に歩んできたバディを、殺した」
「そんな……!」
その結末は、その罪は、一人の少女が背負うにはあまりにも重いものだった。だが、それでも彼女は口を閉ざし続けた。嘘をついてでも、流の死を隠したのだ。
「……楽しい話じゃなくて悪いね。だが……今この機会を逃せば、次の機会は来ないかもしれない。だから、今ここで話しておきたかったんだ」
「いえ……ありがとうございました」
「……君は、いなくならないでくれ」
「……はい」
来亜は私の返事を聞くと、手をコートの袖に引っ込めてそっぽを向いた。彼女は、私がずっと自分の傍にいると信じたからこそ、今この話をしてくれたのだろう。私も今、彼女に隠していることを打ち明けるべきなのかもしれない。そう思って、声をかけた。
「あの────────」
「……奈緒、来るぞ!」
突然、来亜が声を上げる。驚きながら立ち上がって構えると、少女の高く軽い足音が響いた。世良が、部屋に入ってきた。さっきとは違い、コートの赤いフードを被っている。その可憐な外見は、まさしく童話の主人公のようだった。
「あ、来亜さん!」
「……世良」
世良は来亜の様子を見て、わざとらしく困惑したような仕草をした。あくまで誤魔化そうとするつもりらしい。
「……そんなに怖い顔をして、一体どうしたんですか?」
「街中の人たちに聞き込みをしたら、誰も”人狼事件”のことを知らなかった」
「そうなんですか、それは運が悪かったですね……」
「猿芝居は結構。私が聞いたことだけに答えたまえ……どうして、こんなことを?」
来亜は、真っ直ぐに世良を睨んだ。その眼差しからは、殺気すら感じる。だが、”人狼事件”の話を聞いた以上、彼女の怒りが過剰なものとは到底思えなかった。話を聞いただけの私でさえ、世良に敵意を向けずにはいられなかった。世良は観念したように息をついた後、フードを手で押さえながら来亜を強く睨み返した。
「……分かったわ。お望み通り、全てを話してあげる」
「……」
「私はね……空言来亜、あなたになりたい。だから、こんなことをしたの」
世良の答えは、意外だった。私は思わず首を傾げてしまったが、来亜は黙ったまま世良が話を続けるのを待っていた。
「"人狼事件”を解決したあなたは、一躍有名人になった。その後も難事件を解決して、その評判を高めていった……」
「……それが羨ましかったのか?」
「否定はしないわ。結局は、それがあなたの問いに対する答えになるでしょう。でも……私が羨んだのは、探偵としてのあなたじゃない。もっと根本的な何か……確かにあなただけにある何かが、私は欲しかった!」
世良の話し方は、以前とは別人のように違う。その言動からは、来亜に対する異様な執着を感じる。私は警戒したまま、世良の話を聞き続けた。
「そう、私はあなたになりたい。あなたを超える探偵になっても駄目なの。あなたに、ならなければ……!」
「……そんな思いがありながら、”人狼事件”を利用したのか」
「私はあなたになりたいだけで、別に”人狼事件”に思い入れがあるわけじゃないわ。嘘として使える材料があったから使ったまでよ」
「……そうか、わかった」
会話を打ち切る来亜の声は、ひどく重苦しい雰囲気を纏っていた。彼女の返事を聞いて、世良は何も言わずいきなり前に出た。一歩、また一歩と来亜に近づいてゆく。
「……どうしていきなり近づいてきた?」
「あなたの顔をよく見るためよ」
世良は再び歩き出し、さらに距離を縮める。来亜は後ろに退がることなく、真っ直ぐに世良を見据えたまま、彼女に問いかけた。
「……もう十分だろう。どうしてまだ足を止めないんだ?」
「もっと近くであなたの声を聞くためよ」
既に二人の距離は腕を伸ばせば届くほど近くなっていたが、それでも世良は歩み寄った。そして、来亜の目の前に来たところで、彼女は真っ直ぐに手を挙げた。
「……どうして、手を挙げているんだ?」
「それは──────あなたを消すためよ!!」
世良が叫びながら手を振り下ろす。来亜が横に避けると同時に、部屋の天井から何か大きなものが落ちてきた。咄嗟に拳で弾き飛ばそうとすると、それは空中でひらりと回転して私の攻撃を躱した。着地すると同時に、鈍い音が辺りに響く。その音を聞いただけで、落ちてきたそれが拳一つでは到底弾けないものだったのだと悟った。来亜を抱えて退がり、落ちてきたものの姿を見て、目を見開いた。
「な……!」
そこにいたのは、異形の存在。形こそ人間のようだが、大きさは私の倍ほどもある。隆起した全身の筋肉には血管が浮かび上がり、その身体には巨大な剣のようなものが突き刺さっていた。爛々と輝く眼は、一つしかない。それが私を捉えた瞬間、全身に悪寒が走る。かつて戦った悪魔以上の威圧感を覚え、口角が引き攣ったように上がったのを感じた。来亜も流石に驚いたらしく、目を見開いていた。
「一つ目の巨人……キュクロプスか!」
「"狩人”さん、狼が来たわ!」
世良が叫ぶと、”狩人”と呼ばれたその巨人は咆哮した。瞬間、建物全体が揺れる。直後、世良は部屋を出て階段を駆け上がった。
「先輩、あれは私がどうにかしますから、先輩は紅井さんを追ってください!」
「あんなのと戦えるのか!?」
「分かりません……でも、ここで逃がすわけにはいきませんから!」
「……ああ、分かった!」
来亜が世良を追いかけるのを見届けてから、ナイフを構える。圧倒的な膂力を持つ巨人とはいえ、今までの相手と同じ魔物であれば、銀のナイフが効くはずだ。しかし、前に出て戦おうとしたところで一つの違和感が脳裏をよぎった。世良は、真っ先に逃げ出したにもかかわらず階段を駆け上がった。普通、逃げるなら階段を下りて建物の外へ出るはずだ。彼女は、何かを隠しているかもしれない。もし目の前の”狩人”が、来亜から私を引き離すための囮だったとしたら。その可能性に気付いたところで、急いで部屋を出て来亜を追った。入り口を破壊しながら、巨人もその後をついてくる。少し走り、小さな影が見えたところで声を上げて来亜を呼んだ。
「先輩!」
「どうした、奈緒––––––––」
来亜は後ろを振り返り、一瞬固まった。私がどうにかすると言った巨人が追いかけてきているのだから、無理もない。はっと彼女は我に返り、再び走り出しながら叫んだ。
「は、話が違う!」
「先輩、この状況は何かおかしいです!」
「……なるほど、それに気付いたから来てくれたのか」
たった一言で、来亜は私の意図を察したらしい。きっと彼女も私と同じ違和感を抱いていたのだろう。先に巨人を倒してから世良を追うことになるかと思ったが、来亜は私の手を引いて、そのまま上の階に向かった。
「それなら、その”狩人”とやらも連れて乗り込んだ方が好都合だ!」
「えっ、挟み撃ちになっちゃいませんか!?」
「単純な戦力勝負では、分が悪いだろうな。だが、世良が本当に何かを隠しているとしたら、勝算はある」
「……」
来亜は獲物を視界に捉えた狼のような強く鋭い眼差しで、目の前に迫る屋上の扉を睨んだ。そして、扉を勢いよく開け放ちながら屋上へ足を踏み入れる。床は濡れて、いくつか水たまりができている。正面に、フードを被った世良が背を向けて立っていた。扉が開く音を聞いて、彼女はゆっくりと振り返る。そして、私たちとほぼ同時に来た巨人の姿を見て、明らかに困惑した様子を見せた。
「……私、裏切られた?」
「安心したまえ、彼は相変わらず君の駒だ」
「……そう。だったら都合が良いわ」
世良は再び手を挙げて真下に振り下ろすと、どこからともなく別の巨人が彼女の前に姿を現した。最初に呼び出した巨人とそっくりだが、今度は身体に大斧が刺さっている。
「巨人が、もう一人……!」
「落ち着きたまえ。これぐらいは想定内だ」
「あら、流石ね……虚勢でなければの話だけれど」
やはり、世良は来亜が屋上に来た時にこの巨人で殺すつもりだったのだろう。ひとまずそれは防げたものの、二人の巨人に挟まれている以上、状況は依然として最悪だ。来亜はやけに冷静だが、私の方はそうもいかなかった。来亜は私の背中を軽く叩き、声をかける。
「私が何を言っても、動揺せずに従ってくれ」
「……努力します」
私がそう言うと、来亜はふっと微笑みながら一歩前に出た。世良が手を前に突き出すと、巨人たちは自分の身体に刺さった武器を引き抜いて構える。”狩人”が、その得物を手に取った。大きな眼が二つ、私たちを見下ろしている。だが、恐怖は全くない。私は、隣に立つ狼少女を信じているから。
「さて、奈緒……この事件、一緒に解決しよう!」
「……はい!」
私が返事をすると、それが開戦の合図となった。狩人たちが、私たちを挟んだまま少しずつ近づき始める。まずはこの挟撃を脱しなければ、勝ち目はない。
「私を置いて前に跳んでくれ、頼む!」
来亜の指示通り、彼女を抱えて後ろに跳んだ。同時に来亜がポケットから懐中電灯を取り出し、狩人の目を光で照らす。嘘と道具の組み合わせで、どうにか挟み撃ちから逃れられた。
「よし、その調子だ。いつも通り、頼むと言ったら指示とは反対に動いてくれ!」
「えっ、先輩!?」
動揺するなと言われたが、来亜の言葉に早速驚いてしまった。私たちの間だけの取り決めを、彼女はいきなり口に出した。世良は、間違いなく来亜の言葉を聞いたはずだ。これまで事件を解決する決定打となってきた策を、来亜はあっさり相手に伝えてしまったのだ。彼女のことだから、単なる失敗ではないはずだ。だが、私にはその意図が全く分からなかった。
「……なるほど。簡単だけど有効な策ね」
「それはどうも。参考にしてくれても構わないよ」
「でも、それはもう通じないわ。強がっているけれど、随分と焦っているようね」
「……そうだな」
来亜は静かに呟いて、私に次の指示を出した。
「奈緒、まずは退路を確保する。向こうに移動できれば、そこから下に降りられるはずだ」
来亜が指を差した先には、確かにロープがかかっていた。彼女が知っているということは、恐らく”人狼事件”の時からあったのだろう。だが、それを世良が易々と許すはずもない。彼女は斧を持っている方の狩人に指示を出し、ロープの前に陣取らせた。
「逃がさないわ!」
「そのまま斧の方を狙え、頼む!」
剣を手にした狩人めがけてナイフを投げるが、防がれてしまった。さっき天井から落ちてきた時でさえ私の拳を避けられたのだから、見た目に似合わずかなり俊敏なのだろう。目の前で放たれた飛び道具を避けることぐらい造作もないようだ。
「次はこっちの番よ!」
世良が私の方を手で指すと、二人の狩人が同時に迫り、武器を振り下ろす。どうにか隙間を縫って避けると、地面が割れそうなほどの衝撃が足から伝わり、危うく姿勢を崩しそうになった。来亜の方は、持っていた傘を使ってうまく身体を支え、事なきを得たようだ。
「全く、凄まじい威力だな」
「先輩、どうしますか?」
「……もう少しだけ、時間が欲しい」
来亜のその答えに、私は少し安心した。彼女の中に、確かに策はある。人狼を、悪魔を、生霊を、雪女を、そしてセイレーンを下したように、今度も彼女は牙を研いでいる。それが分かっただけでも十分だ。
「奈緒、私から少し離れて時間を稼いでくれ!」
「わかりました!」
駆け出して来亜から距離をとり、狩人たちの注意を引く。二人の間に滑り込んで背後に回ることで、来亜を彼らの視界から外した。離れすぎずに適度な距離感を保てば、私を放っておいて来亜を狙うこともできない。次々と飛んでくる攻撃を躱しながら、来亜の次の策を待つ。
「決着をつけるぞ、奈緒!」
「……はい!」
ついに来亜の準備が整ったようだ。世良も身構え、彼女の指示を注意深く聞いていた。来亜は真っ直ぐ歩きながら、私に指示を出した。
「そこを……動くな!」
来亜の言葉を聞き、私も世良も固まった。時間が止まったその一瞬のうちに、来亜は傘を置いて私の目の前で大剣を構える狩人の背後まで近づき、そのまま跳び上がって銀のナイフを心臓に突き刺した。不意を突かれたもう一人の狩人も攻撃をやめ、一度退避する。
「……まずは一人だ」
「……え?」
世良は目の前で起こったことを飲み込めず、呆然としていた。私も似たような状況だ。心臓を貫かれた狩人が倒れ込んできていることに気づき、我に返って慌てて避けた。
「せ、先輩?」
「話は後だ、畳み掛けるぞ!」
来亜は間髪入れずに右から回って狩人に迫る。世良は咄嗟に手で来亜を指し、狩人はそちらを向いて応戦する。来亜は突如動きを止めて懐中電灯を取り出し、その光を狩人に向けた。ここまで来たら、彼女の考えは私にもわかる。私は再び駆け出して、狩人の背後を取った。
「そうはさせないわ!」
世良は私の方を指した。彼女も、来亜自身が囮として動いていることを見抜いていたようだ。だが、視界が悪い中で急に向きを変えたせいか、狩人は滑って体勢を崩してしまった。その隙に、来亜がしたのと同じようにナイフでその心臓を貫いた。二人の狩人が倒れ、残ったのは彼らを操っていた犯人のみとなった。来亜は一度手放した傘を拾って差し、ゆっくりと世良に迫る。世良との距離が近くなると、彼女はとうとう膝から崩れ落ちた。
「そん、な……!」
「……かかったな、私の勝ちだ」
「戦力は私の方があったのに……どうして、私はあなたに勝てないの!」
世良は来亜に縋るようにして、飢えた獣のような悲壮感と苛立ちを露わにした目で彼女を見た。世良を押さえようとした私を来亜は手で制止し、世良に向かって話し始めた。
「……では、お望み通り種明かしだ。君が最初に巨人を呼んだ時、そこを決戦の場にしなかった時点で、君にはもう一つ切り札があると考えた。それは奈緒も同じだったね」
「……はい」
「本当は世良の手の内を見てから奈緒のいる方まで逃げてきて合流するつもりだったが、君の策略に気づいた彼女が巨人ごとこちらに来たから作戦を変えた。流石に冷や汗をかいたよ」
なんだか、勝ったのに責められているような気がする。だが、そう言っても来亜はきっと気のせいさ、とあしらうだろう。仕方なく、黙って話を聞き続けた。
「君は、この時点で切り札……もう一人の巨人で私を殺すことばかり考えていただろう。そうなりやすい性格であることは、これまでのやり取りで既に見抜いていた。君は、一つの目的を持つと他のことを見失いやすい。そして、自分の狙いが上手くいかないと取り乱しやすい。だから、それを利用することにした」
「……」
世良は、黙って下唇を噛む。彼女自身にも、思い当たるところがあったのだろう。こちらもまた、今はそっとしておく他にない。
「まず、私と奈緒の取り決めを君に伝えた。これで、君は私たちの指示を聞けるようになった。君にとっては、思わぬ幸運だったはずだ。だが、頼むというのは最後に付け足す言葉だ。君は指示を出す立場でありながら、ずっと私の指示を最後まで聞いていたわけさ。しかもこの雨で声が聞こえにくい中だ、さぞ注意力を削がれたことだろう」
「そんなことを考えてたんですか……!」
世良よりも、私の方が驚いてしまった。思わず口をついて出た言葉に、来亜は軽くため息をつきながら反応した。
「当たり前だろう、私がわざわざ手の内を明かす時は、それ相応の利点がある時だけさ」
「……」
「まあ、そういった具合で君に色々な情報を与えた。奈緒の戦闘力、私が懐中電灯で隙を作れること、君に塞ぐべき退路があること……そして、自分が指示を出す味方が増えたことも、だ。君は有利になったと油断したようだが、考えることは増えるし、広い場所でもないからそこにも気を遣う必要が出てくる。お互い様だったというわけさ」
来亜の策は、私が想像していたよりも大がかりなものだった。戦闘が始まる前の情報さえ利用して、彼女は戦略を組み立てていたのだ。そうして研ぎ澄ました無数の牙が、世良を残酷に追い詰めた。
「様々な情報を得た君は、ずっと一人で戦っていた奈緒だけを戦闘要員として認めた。一流の探偵には戦闘の心得も求められるのにね。そうして私を注意から外した矢先、君は狩人を一人失った。だから君は、再び私をマークせざるを得なくなった」
「……」
「最後はあえて見抜かれやすい簡単な策を使い、雨で滑りやすくなっていることを見落とすように誘導した。これで、君を守る狩人はいなくなったというわけだ」
種明かしが終わり、世良は力なく肩を落とす。来亜の逆鱗に触れたその瞬間から、世良は彼女の掌の上で踊らされ続けていたのだ。彼女の抱く恐れ、自己嫌悪、そして絶望感は、察するに余りある。
「さて、今度はこちらから聞かせてもらおうか」
「……わかったわ」
「改めて問おう。どうして、こんなことを?」
「それは答えたはずよ。あなたに嫉妬して、あなたになろうとしただけだわ」
「……そうか。では––––––––––––どうして、こんなことに?」
世良はそれを聞いて、観念したように一度息をつき、ゆっくりと話し始めた。
「……私は元々、本当にあなたに憧れていたの。探偵としてのあなたにね。言った通り、ファンだったわ」
「……」
「でも、今から一ヶ月ぐらい前に、ライトと名乗る怪盗に出会ったの」
「ラ、ライトとどんな話をしたんですか!?」
驚いて、つい話を遮って尋ねてしまった。来亜は後にしたまえと言って私の袖を引っ張ったが、世良はその問いに答えてくれた。
「そこで、来亜……あなたは特別なものを持っていると聞いた」
「……特別なもの、か」
「私はそれが欲しいと思った。ライトは君も空言来亜になれると言って、この赤いコートをくれた。”狩人”さんを呼び寄せて、操る力を持ったコートをね」
「……」
世良は一歩前に出て、来亜に問うた。彼女の中で混濁した感情が、その瞳を濡らしている。
「実際にあなたと戦って、確かに感じたわ。あなたは何か特別なものを持っている。それは……一体何なの?」
「……さあ。考察の余地もない。それは私の与り知ることじゃないからね」
そこまで話したところで、世良はおもむろに立ち上がった。それから数歩引き退がり、声を立てて笑った。
「ふ、ふふ……あはははは!」
それは、自嘲とは思えない。まるで私たちが見落としに気付いていないのを嘲笑っているように見えた。来亜は冷静に、世良を見据えて問いかける。
「……話は、それで終わりか?」
「ええ、これで全部よ。ところで……不思議だと思わなかった?」
「……何が、ですか?」
「私が下への退路を塞ぐ時、どうしてロープを切らなかったのか?」
逃げ出すのかと思ったが、今のところその様子はない。世良はコートを脱いで、上に高く放り投げた。雨に濡れて血のように濃くなった赤色が空に舞う。直後、建物の下で大きな物音がした。世良はいち早くロープを使って地上に降りた。
「あっ、逃げました!」
「待ちたまえ、彼女と同じ経路で降りるのは危険だ。待ち伏せに遭ったら何もできない」
来亜に諭され、半ば飛び下りるようにして階段を駆け下りた。外に出て、そこに広がっていた光景に目を疑う。
「え……」
「……これは、まずいな」
私たちの目の前には、無数の狩人と、その真ん中で勝ち誇ったように笑う世良の姿があった。目の前にいる分だけでも、三十人いる。仮に建物を取り囲んでいるなら、さらに多いはずだ。
「これが私の本当の奥の手よ、驚いたかしら?」
「……本当は、この数の狩人を呼び出せたのか?」
来亜は怯む様子を見せず、世良に問いかけた。世良もその問いは想定していたらしく、すぐに答えた。
「いいえ。コートを捨てて、私はその所有権を放棄した。だから、制御を失ったコートは呼べる限りの”狩人”さんを呼び出したのよ。ざっと百人近くはいるわね」
「百人……!」
「彼らを操る力を持っているのはコートの方だから、前の持ち主である私には攻撃こそしないけれど、もう指示は聞かないわ」
世良は、さっきと同じように手で私を指す。しかし、周囲の狩人たちは一切動かなかった。不気味な石像のように、彼らはその場に留まっている。
「そんな、正気じゃないです……!」
「そうよ、正気じゃないわ。それでも……私は、あなたに負けたくないの」
「……」
束の間の沈黙の後、狩人たちは一斉に動き出した。策略を尽くしてやっと二人倒した相手が、およそ百人。制御を失っているならば、さっきまでの狩人より強い可能性さえある。その上、さっきのように指示を出す相手の隙を窺う余地もない。状況は、絶望的だ。来亜は諦めずに黙って考えているようだが、この状況を覆すような策などあろうはずもない。情けないことだが、私の方はとっくに諦めてしまった。
「……先パイ」
だから、来亜を騙すことにした。きっと、彼女のバディも今の私と同じような考えを持っていたのだと思う。これしかない。これしか、ないのだ。
「傘を、渡してください」
「……傘?」
「間に合わなくなる前に……早く!」
戸惑う来亜に、重ねて強く迫った。早くしなければ、決心が揺らいでしまいそうだったから。彼女は言われるがまま、私の頼みを聞いてくれた。傘を手に取った瞬間、私の中から何かが凄まじい勢いで溢れ出るのを感じた。それが、私を喰ってゆく。私がこれを望んだから。この力に、身を預けるしかないから。私が、弱いから。でも、たとえ彼女と一緒にいられなくなったとしても。私が、人間でいられなくなったとしても。それでも、私は彼女を助けたい。その一心で、傘を強く握った。
「先パイ––––––––––––さよなら」
◇
真っ先に奈緒に向かって飛びかかった五人の狩人の首が切れた。切り口から血が噴き出て、雨粒と溶け合って地に落ちる。ごとん、と鈍い音が少し遅れて響く。世良は首の落ちる音など聞いたことがないから、初めはその音の正体に気付くことができなかった。
「……え?」
戸惑う彼女の目の前に、傘を持った奈緒がゆらりと現れた。その雰囲気は、明らかに先刻までとは異なっている。かっと開いた眼に、荒い呼吸。口角は不自然に上がっている。
「……ああ、まずいなァ、まずいなァ……」
奈緒は、独り言のようにぼそりと呟いた。傘を横一文字に振るい、続けて向かってきた三人の狩人を一撃のもとに斬り伏せてから、彼女は続けた。
「こんな奴ら、腹空かせた犬でも喰わねえだろうによ……!」
奈緒の変貌も、ただのビニール傘で狩人の首が斬られている原理も、何もかもがわからない。焦りと恐怖が、ただでさえ窮地に立っていた世良をさらに追い詰める。
「な、お……?」
目の前に広がる光景を見て、かつての”人狼事件”で目にした惨状が来亜の脳裏をよぎる。圧倒的な力と、何も知らないままその犠牲になる者たち。喰う者と、喰われるものだけが、そこにいる。来亜にとって、今の奈緒はかつて見た月下の人狼そのものだった。奈緒は身を翻し、彼女には敵わないと踏んで来亜を狙った二人の狩人を真っ二つに斬った。
十人。全体の一割が、なす術もなく喰われた。世良は戦意を失い、その場にへたり込んでいる。来亜も呆然として動けないままだ。ただ、奈緒の時だけが進んでいる。狩人をいくら殺しても、傘が折れる様子はない。それが、彼女の強さを物語っていた。乱暴に見える戦い方の中に、人間離れした技巧が潜んでいる。眼を潰し、首を斬り、喉を裂き、腹を割り、奈緒は嵐のように、目の前の敵を狩り尽くして突き進む。
三十人。目の前に立ち並んでいた狩人が全て消えたところで、彼女はようやく一度止まった。その頃には、世良も来亜も言葉を発することさえできなくなっていた。ただ、獣が蹂躙した跡だけが、辺りに残っている。異常を察した残りの狩人たちが奈緒の目の前に集まって、一斉に踊りかかった。
「……数で押す、か。悪くねえ戦略だ。ただの人間が相手だったらの話だがな」
奈緒は、身を引いて傘を構えた。力を溜めた右足が、唸るような低い音を立てる。それが大技の合図であることは、言うまでもない。
「知らねえようだから教えてやるよ––––––––––––この世には、数が問題にならねえ怪物もいる」
右足で地面を強く蹴り、奈緒は疾風を置き去りにしながら狩人の群れに突っ込んだ。そこから立て続けに傘を振るい、視界に入る全ての狩人を斬りつけた。当然、そこから逃れることができた狩人などいるはずもない。
「……”五月雨”!」
雨月の下、餓狼が舞う。傘を振るう轟音は咆哮の如く響き、狩人たちに最後の調べを届けてゆく。
六十人。奈緒が狩人の群れを一度通り抜けただけで、今までに倒れたのと同じ数の狩人が死に絶えた。人数が半分を切っても、目の前の相手が到底敵う相手ではないことがわかっていても、彼らは止まることができない。それが、彼らの宿命だった。物語は、終わらなくてはならない。それが、彼らにとって不本意な結末であったとしても。
「終わりだ––––––“霧雨”!!」
絶え間のない、超高速の連続攻撃。視界を塗り潰すほどの血飛沫が舞い、それに怯んだ狩人はまた別の狩人を怯ませる材料となる。波紋が広がってゆくように、残っていた狩人たちが次々と倒れていった。
百人。全ての狩人が倒れるまで、五分もかからなかった。奈緒の身体には、傷ひとつない。ただ、全身に返り血を浴びて、その見た目は辺りに築かれた屍の山よりも遥かに悍ましいものだった。彼女は真っ赤な眼で世良の方をじっと睨んだ。
「……なァ、お前か?」
「ひ……!」
「俺にこんなもんを喰わせたのは……お前か?」
「––––––––––––!」
ようやく一音だけ言葉を絞り出すことができたばかりだが、世良は再び言葉を失った。奈緒は傘を構えながら、ゆっくりと歩み寄る。
「やり過ぎは良くねえってことだなァ。おかげで俺が出てきちまった」
「……?」
「あいつらが四、五人だったら、奈緒は奈緒のままでいようとしただろうよ。お前が用意した壁は、高すぎたってわけだ」
奈緒は、傘を振り上げる。命乞いの暇さえ、与えるつもりはないようだ。世良は恐怖のあまり目を瞑り、ぐっと下を向いた。
「じゃあな」
「––––––––––––やめろ!」
来亜の声を後ろに聞いて、奈緒は動きを止めた。上半身を捻って、来亜の方に顔を向ける。
「ああ……?」
「世良を、殺すな。それは……探偵の仕事じゃない」
「……」
来亜の言葉を聞いて、奈緒は黙って傘を下ろした。世良は自分が死を免れたことに気付き、一目散に逃げ出した。直後、奈緒は来亜の瞬きより早く、その目の前まで詰め寄った。その首筋には、傘が当たっている。
「指図するなよ……弱い癖に」
「……お前、奈緒じゃないな。お前は……何だ?」
来亜は一歩も退くことなく、奈緒の姿をした目の前の相手を睨み返した。
「……俺は、源。
「……!」
自分が源と名乗ることがあったら、その時は逃げることだけ考えてほしい。来亜はかつて奈緒に言われた言葉を思い出していた。だが、その名を聞いても、来亜は逃げる様子を見せなかった。逃げようにも、どうせ逃げ切れる相手ではない。しかし、来亜の中にはそれよりも大きな理由が確かにあった。
「……すまない、奈緒。私は––––––––君を諦めることはできないよ」
来亜は後ろに跳び退き、コートのポケットからスタンガンを取り出して電源を入れた。そのまましゃがみ込みながら、それを軽く上に放り投げる。源は想定していた通りに来亜が退がったので、追いかけて傘を振るった。だが、来亜の首があった位置には、その代わりに放り投げられたスタンガンがあった。源はそのままスタンガンを破壊し、破片が地に落ちる。源はこの時、来亜の策略を見抜いていた。囮としてスタンガンに攻撃を当てさせ、その電流で傘を手から離そうとしたのだろうと推測していた。ビニール傘は電気を通さないから、その策略は成功するはずがないと思っていた。だから、自分が今電流を浴びていることが信じられなかった。
「……!?」
「戻って来い、奈緒……!」
来亜の放り投げたスタンガンは、まさしく囮だった。ただし、単なる身代わりではない。作戦の失敗を確信させ、その間にもう一つ同じものを取り出すための囮だ。源は彼女の手の内を見抜いたからこそ、破壊されたスタンガンに意識を向けていた。だから、来亜は彼の膝に縋るようにして彼の視界から消え、別のスタンガンを当てることができたのだ。源は電流を浴びた直後、それに気が付いた。来亜の元から離れる時、同時に傘から手が離れた。百人もの狩人の命を奪った傘は、からんと乾いた音を立てて地面に落ちた。
「なるほどな……大した度胸だ」
「傘から手を離しても戻らないのか……!?」
「……奈緒が起きたら伝えろ。為すべきことを為せ、と」
源はふらつきながら、呟くように言った。来亜が訝しみながら頷くと、源は突然彼女に迫り、爪で首筋を掠める。殺意があればこれで殺されていてもおかしくないから、その目的は殺しではないと来亜は悟った。源は、首筋から滲み出た来亜の血に口をつける。
「……!」
「はっ、はは……ははははッ!」
来亜の首から口を離した源は、声を立てて笑った。
「……何が、おかしい?」
「おかしいさ。味が、しねえ」
そう言い残して、源は意識を失って倒れた。来亜は駆け寄り、そこで眠っている少女の表情が確かに見慣れた穏やかなものに戻っているのを目にした。その直後、来亜もその場で崩れるように座り込んだ。雨は降り続けていて、夜は明けない。来亜の心も、未だ晴れない。奈緒の中に潜んでいるもののことも、分からない。それでも、彼女は束の間の安堵に身を委ねることにした。
◆
目を覚ますと、建物の中にいた。雨に濡れた服が中途半端に乾いていて、かえって気持ちが悪い。身体を起こしてみると、隣に来亜が座っているのが見えた。
「あ……先、パイ……?」
「……奈緒」
来亜の表情は暗い。意識を失う前の記憶がいまいちはっきりしていないが、その表情からある程度の察しはつく。建物の外に目をやって、その予想が間違ったものではないと確かめてから、来亜に声をかけた。
「……あの、私……!」
「今は、何も言わなくていい」
「……」
来亜は私を責めているわけではないようだ。今はあれこれと考えるのを後回しにしたいから、そう言っているような気がした。だが、むしろ私にとっては話すことができないのが苦しかった。
「姉さんを呼んでみたが、泊まり込みの仕事があるらしい。少し休んでから、歩いて事務所に戻ろう」
私は頷いて、雨が止むのを待った。だが、いつまで経っても止む様子はない。来亜は痺れを切らし、待つのを諦めて歩き始めた。傘はもう使えたものではないから、処分してしまったらしい。恐る恐る後ろからついて行くと、来亜は振り返って私に声をかけた。
「……戻ったら、君の話を聞かせてくれ。少し、長くなってもいいから」
「……はい」
雨夜の中、人通りのない街の中を歩く。事務所まで戻る間、私は黙って俯いていることしかできなかった。
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