空と海の鎮魂歌
「先パイ、先生、ご飯できましたよー!」
「ああ、少し待っててくれ。すぐ行くから」
夏休みが終わっても、来亜は事務所に来る客の対応に追われていた。客と言っても、依頼をしに来る人はあまりおらず、大半は活躍の噂を聞いて事務所の様子を見に来た同級生だ。だから、むしろ学校のない休日の方が忙しくなっている。
「先パイ、依頼は来ましたか?」
「いや、今日は一件もないね」
「そうですか……」
「落ち込むことはないさ、信頼の獲得もれっきとした仕事だからね」
来亜はそう言って食卓についた。ちょうど先生も仕事が一段落したようなので、三人で揃ってご飯を食べた。
「おいしい! ほんとに助かるわー、ありがとうね!」
「いえいえ、お口に合ったようで何よりです!」
来亜は先生の方を見ながら、呆れた様子で口を開く。
「全く……夏休み以降、家事を奈緒に任せっきりじゃないか」
「あら、私がご飯を作った方が良い?」
数秒の沈黙の後、来亜はすっかり勢いを失った声で先生に返事をした。
「……いや、何事も適材適所だな」
「そういうことよ」
ご飯を食べ終えて洗い物をしている最中、不意に来亜が私に声をかけた。
「そういえば、奈緒は料理する時に箸しか使わないんだね」
「そうね、箸だけで何でも器用にやっちゃうんだから、驚きだわ」
「ああ、それは……」
決して、長物を持ってはいけない。それは、武器に限った話ではない。箒や一部の調理器具など日常生活で使うものでも、長いものは持たないようにしている。家の決まりでそうしていると説明すると、案の定二人は不思議そうに首を傾げた。
「ずいぶん変なしきたりだな。そして君はそれを律儀に守っているというわけか」
「はい……あ、でも別に問題があるわけじゃないですよ!」
問題がある家庭で育ったのではないか、と二人に誤解されないように、慌てて付け加える。
「皆……先パイや先生と同じくらい、良い人たちなんです」
「……」
私がそう言った途端、唐突に沈黙が訪れる。不思議に思って二人の方を見ると、露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。
「あれえ!?」
「……奈緒ちゃん、私ちょっと心配だわー……」
「な、何でそんな反応なんですか?」
「いや……だって、そんなの絶対ろくでもないじゃないか……」
来亜は苦々しい表情のまま、そう言った。そうよね、と先生も頷いている。どうやら誤解を避けようとした私の言葉が、余計な誤解を招いてしまったらしい。
「お二人と同じくらい良い人なんですよ!?」
「……いいかい奈緒、それはカナヅチと同じくらい泳ぎが上手いって言っているようなものだよ」
「はあ……」
食器を片付け終え、掃除に取りかかろうとした時、唐突に事務所の扉が開いた。それとほとんど同時に、少女が駆け込んでくる。
「あ、あの、まだ事務所ってやってますか!?」
「おや、依頼かい?」
来亜は嬉々として立ち上がり、少女を客間に迎え入れる。彼女はかなりおどおどした様子で、落ち着きがなかった。しかし、それはどうやら元々の性格によるものらしく、彼女の声から焦りや恐怖は感じない。
「わ、私、
「先パイの同級生なんですね」
「……そうだな」
来亜は汐音をしばらくじっと見た後、一度息をついて、用件を聞く姿勢を取った。それを見た汐音は、ぽつりぽつりと話し始める。
「その……おいてけぼり、ってご存じですか?」
「もちろんだ。おいてけぼりが、どうかしたのか?」
「えっと、あの、信じられないかもしれないんですけど……今、神土高校にいるって噂が流れてて……」
「えっ!?」
平然としている来亜の隣で、私は驚いて声を上げてしまった。コップに注がれたお茶が、微かに揺れる。
「……奈緒、今更驚くことでもないだろう。私たちがこれまで見てきた相手を挙げてみたまえ」
「悪魔に生霊、雪女……先パイは人狼も、ですよね」
「そこにおいてけぼりが入ったって、むしろ見劣りするくらいだろう?」
「まあ……そうかもしれないですけど」
「それで……事件が起こったのかい?」
来亜に促され、汐音は話を続ける。話している途中、彼女は時折肩の辺りをさすっていた。
「誰かが怪我をしたり、殺されたりしたわけじゃないんですけど、夜にプールの近くを通った生徒が声を聞いたって話していたんです」
「声?」
尋ねると、汐音はいきなり激しく頭を垂れた。長い髪が御簾のように彼女の前にかかり、その奥から暗い色をした瞳が覗く。今までの落ち着きのない様子は消え失せ、汐音は少しの間沈黙した後、呻くように声を発した。
「……おいてけ、おいてけ……」
「ッ!!」
「……という、声なんですけど」
汐音は何事もなかったかのようにそう言った。私はすっかり驚いて、ソファから動けなくなっていた。
「……奈緒、驚きすぎだ」
「だって!」
「君、それでよく悪魔や生霊相手に平気でいられたな……」
来亜が溜め息をつく。私は何だか自分だけ驚いてばかりいるのが気恥ずかしくなって、軽く咳払いをして強引に話を進めた。
「そ、それで……そのおいてけぼりについて調査してほしい、ってことですか?」
「はい……お願いします」
「任せたまえ。今日は依頼がなかったから、ちょうど良かったよ」
汐音の頼みを来亜は二つ返事で引き受けた。私としては、もう少し考えてほしかったが。
「それじゃあ、これから早速聞き込みだ」
「でも……学校はお休みですよ?」
「わざわざ行かなくても、勝手に向こうから来てくれるだろう?」
来亜はそう言って、事務所の扉を指さした。扉のガラス越しに、ぼやけた人影がいくつも見えている。汐音と話している間に、午前中のように事務所を見に来た生徒がやって来ていたようだ。
「そうだ、最後に一つだけ聞いておかないとね」
「な、何ですか?」
「……君は、何のためにおいてけぼりの調査を依頼したんだ?」
来亜が訝しむような眼光を汐音に向ける。彼女は怯むかと思いきや、平然としていた。見たところ、彼女は人の視線や声に込められた感情など、そういうものに鈍いところがあるようだ。
「それは……こういう怪奇現象が好きなんです。それだけです」
「……ほう」
「だから、もし何か分かったら教えてください!」
そう言って、汐音は事務所を後にした。彼女の答えは存外単純なものだったが、どうやら来亜はその答えに満足したらしい。
「先パイ、何か分かったんですか?」
「……いや、単に気になっただけさ。なぜ、彼女は初めから怪異だと分かった上で調査を依頼しに来たのか」
「あ……」
言われてみれば、これまではいつも事件の相談から始まり、調査の末にその原因として現れた怪異を退治する、という流れで解決していた。来亜が抱いていた違和感は、このことだったようだ。
「さて、そろそろ聞き込みを始めるとしよう」
「はい!」
扉を開け、来客を招き入れる。その中には、見覚えのある人物の姿があった。
「あ、小野さん!」
「やあ、久しぶり」
小野七奈。かつて白雪姫事件の調査を依頼しに来た、来亜の同級生だ。事件が解決してからおよそ半年が経ち、以前の怯えたような雰囲気はすっかりなくなっている。
「ごきげんよう。依頼かい?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……最近皆ここに来てるみたいだから、私も様子を見に来たんだ」
「そうか……まあ、ちょうど良かった。私から君に聞きたいことがあってね」
来亜はそう言って、おいてけぼりについて何か知らないか、と尋ねた。七奈は腕を組んで、少し考えるような仕草をした後、来亜の質問に答えた。
「話を聞いたことはあるんだ。ただ……少し変なんだよ」
「変?」
「ああ。私が聞いた話によると、声を聞いた生徒はその後カバンを抱えて走って逃げたらしいんだ」
「……あ!」
私は違和感に気付き、思わず声を上げた。本来のおいてけぼりから逃げる時は、釣った魚を置いていかなければならない。七奈の聞いた話が事実だとすれば、物語の根幹が崩れている。
「……なるほど。それは確かに変だ」
「私が知ってるのは、それぐらいだな……」
「いや、十分だ。ありがとう」
七奈が事務所を後にしてからも、私たちは聞き込みを続けた。
「ああ、夜のプールに出るってやつか。俺が聞いた話だと、やたら声がでかいらしいな」
「慌ててポマード、って三回唱えたら一瞬止まったけど、またすぐに声が聞こえたの。本当に怖かったわ……え、これは違う?」
「噂が広まったから、もう昼にさえ誰もプールには寄り付かないよ。迂回すればいいだけだし、水泳部もプールでの活動を休止したからね」
聞き込みは成功と言えるだろう。いつもと比べてかなり多くの情報を得ることができた。しかし、来亜は難しい顔をして、顎に手を当てている。
「先パイ、何か引っかかることがあるんですか?」
「少しね。例えば、声が大きかったという話は汐音の再現と食い違う」
「あ……」
「だが、どちらかが嘘をついているとも限らない。地の底から響くような低く大きな声を、汐音が再現しきれなかっただけかもしれないからね」
だから難しいんだ、と来亜は言う。現状では、どちらも正しい可能性も、どちらも違う可能性もあるのだ。聞き込みによる不確実な情報だけで推理を組み立てるのは困難な上、危うくもある。
「何より、これだけ情報が出回っているのに、事態が解決していないのが気がかりだ」
「確かに……」
「気をつけたまえ、奈緒。今度の相手は、強大かもしれない……もしかしたら、事件の真相を暴く余裕などない、なんてこともありうる」
来亜にそう言われ、思わず背筋が伸びた。そして、覚悟を決めて問いかける。
「もし、そうなったら……解決を優先しますか?」
「もちろんだ。噂が本当なら、人の命を奪う恐れだってあるからね。それに、解決後の考察は……」
「探偵の管轄外、ですね!」
「そういうことさ。さて、そろそろ現地調査に移るとしよう」
来亜は事務所を閉め、調査の支度を進めた。日が沈んだころ、先生が書斎から出てきて来亜に声をかけた。
「もう行くのか?」
「ああ。奈緒も準備ができたようだからね」
「それなら、今回は私も同行しよう。車を出すから待っていてくれ」
「えっ!?」
驚く私をよそに、先生は車の鍵を取りに行ってしまった。来亜も流石に驚いたようで、先生の後を追う。
「姉さん、一体どういう風の吹き回しだ?」
「こっちの仕事が一段落して、時間ができたんだよ。せっかくだから妹の仕事ぶりでも見てやろうと思ったのさ」
「妹の仕事ぶりなら授業参観で好きなだけ見ればいいだろう?」
「全く、都合が良い時だけ学生の身分を持ち出して……いいから行くぞ」
先生は来亜の返事を待たず、事務所のドアを開ける。冷静な物言いをしているが、車の鍵が付いたキーホルダーを指でくるくると回していた。随分機嫌が良いようだ。
「先パイ……どうします?」
「……まあいいだろう。出不精とはいえ、自分の身ぐらいは守れるはずだ」
結局、先生の申し出を受けて車に乗り込んだ。学校に着いた後、先生は私たちを車から降ろして、近くの駐車場に向かった。その間に、私たちはプールへ足を運ぶ。部活動をしている生徒の姿はなく、職員室の電気も既に消えていた。おいてけぼりの噂が広まったことで、学校全体で警戒しているのだろう。誰もいない学校にも慣れてきてはいたが、今日は一段と不気味な雰囲気があった。
「うう……何かいつもより静かじゃないですか?」
「気のせいだろう……待て、後ろだ!」
「!」
来亜の言葉に反応して、彼女の目線の先を向く。しかし、そこには何もなかった。ただ、真っ暗な夜の闇が広がる空だけが視界に映る。むっとして、来亜の方に向き直った。
「も、もう、先パイ!」
「悪いね。後ろに何かいるかと思ったんだが、君の肩についていたようだ」
「せッッッッ!?」
慌てて両肩を手で払うと、やはりそこにも何もない。ほっとして、目の前で今にも膝から崩れ落ちて地面に倒れそうなほど笑っている来亜の姿を捉えた。
「くく……は……せっ、って……!」
「……」
私は何も言わず、腹を抱えながら夢中で笑っている来亜の視界から消えて忍び寄り、背後からいきなり来亜の肩を掴んでその身体を横たえる。そして、すぐさま彼女の横から背中と足を抱え上げ、真上に放り投げた。一度だけで済ませるはずもなく、来亜の小さな身体を何度も空中に投げ上げる。
「先パイ、いい加減に、して、くださーい!!」
「うおおおおおッッ!?」
「……楽しそうだな」
ちょうど戻ってきた先生が、呆れたようにそう言った。来亜はよろよろと立ち上がり、軽くコートを叩く。
「やれやれ、酷い目に遭ったよ」
「こっちのセリフですよ!」
「全く……後にも先にも、こんなに怖いお姫様抱っこを経験することはないだろうな」
「……それで、プールにはまだ行っていないのか?」
「おや、もしかして駐車している間に私たちが事件を解決していることを期待したのかい?」
はいはい、と先生は来亜の挑発を軽くあしらい、私たちより先に進んだ。私は急いで先生の後を追おうとしたが、来亜に袖を引っ張られた。
「どうしたんですか、先パイ?」
「……逆にお手並み拝見といかせてもらおうじゃないか」
「そんな、危ないですよ!」
「まあまあ、これぐらいの悪戯は姉さんも想定してるだろう」
来亜がそう言うので、仕方なく先生に怪しまれない程度に距離をとってついて行くことにした。
「……今のところは、何もないな」
プールの前まで来たが、外から見る限りは特に変わった様子はない。強いて言えば、使われていないプールにしては水が綺麗に保たれていることぐらいだ。とはいえ、つい最近までは水泳部が使っていたようなので、それも恐らくおいてけぼりとは関係がない。
「ふむ、やはり噂にすぎないということか」
「あ、安心しました……」
「まあ、おかげで先生方も早く帰れているようだし、これで────」
来亜が話している最中、他の場所から声が聞こえたような気がした。私は一度静かにするよう頼み、耳を澄ます。声はどうやら、プールの中から聞こえているようだ。
「奈緒ちゃん、何か聞こえたのか?」
「……はい。でも、おいてけとは言ってないような……」
何を言っているのかは聞き取れなかったが、それが一つの言葉を繰り返しているのではないことは辛うじて分かった。しっかり聞き取るため、プールの中へ歩みを進める。
「……プールってこんなに暑かったか?」
「こんなものだろう。夜も暑いとは思わなかったけれどね」
プールに水が入ったままだからか、秋の中頃にもかかわらず、湿度が高くてかなり蒸し暑い。しかも、神土高校のプールには屋根があるので、余計に熱が逃げにくくなっている。
「さっきより声が大きくなりました。やっぱり、こっちの方みたいです!」
そう言って一歩踏み出した途端、それまで聞こえていた声は全く聞こえなくなり、代わりに地の底から響くような声が耳に飛び込んできた。
「おいてけ」
「……奈緒、私にも聞こえてきたぞ」
「……まさか」
その場から動けず、首だけ回して来亜の方を向いた。すぐに目を背けた私とは正反対に、来亜は正面をじっと睨む。私も勇気を出して、正面に向き直った。
「おいてけ、おいてけ」
「……」
不意に、水から何かが上がってくる音がした。私や来亜と同年代くらいの少女が、昼間に汐音が再現したように俯いて立っている。細身長身、華奢な男性のような風貌とは裏腹に、髪は絹のようにすらりと長く、そこから水が滴ってぽたぽたと音を立てる。その髪に阻まれて、やはり顔は見えなかった。それはしばらく静止していたが、私は逃げ出すことができず、見惚れるようにその場に立ち止まっていた。数秒が経った頃、少女は突然こちらを向いて、さっきまでとは桁違いの大声を発した。
「おいてけ、おいてけ、おいてけ、おいてけ、おいてけおいてけおいてけおいてけ!!」
「わあああああ!!」
流石に足も動き、一目散に逃げ出した。おいてけぼりは、水から上がってきた直後のゆっくりとした挙動を完全に捨て、裸足で地を蹴って追いかけてくる。明らかに並の少女よりも速かったが、私たちに追いつかないように加減しているようにも感じた。急いでプールを出て、校門の近くまで走る。
「せ、先パイ、無事ですか……?」
「全く、真っ先に逃げておいて何を言う……私も姉さんも無事だよ」
来亜の返事を聞いてほっとした矢先においてけぼりの黒い影が視界に入り、せっかく得た安心感が跡形もなく消し飛んでいった。
「おいてけ、おいてけ、おいてけ、おいてけ!」
「せ、せせせ、先パーイ!!」
「ええい、抱きつくな!」
来亜に押しのけられ、その場にへたり込む。おいてけぼりは相変わらず俯いたままで、顔は見えない。その状態でここまで追いかけてきているのだから、恐ろしい。
「ど、どうしましょう、先パイ!」
「……」
来亜は黙って考え込んでいる。彼女にも打つ手はないらしい。その間においてけぼりは容赦なく距離を詰め、先生の方に向かって駆けた。
「先生!」
庇おうとして咄嗟に駆け出すが、間に合わない。先生はおいてけぼりを真っ直ぐに見据えて、口を開いた。
「……止まれ」
「ッ……!!」
すると、いきなり四肢を縄で縛りつけられたかのように、おいてけぼりの動きが止まる。おいてけぼりは歯を食いしばって抵抗するが、全く身体が動く気配はない。そして、彼女が先生を睨むようにして見上げると、それと同時に髪が横に流れ、その顔が露わになった。それを見て、来亜が驚いたように声を上げる。
「君は……!」
「……ちっ」
おいてけぼりは抵抗をやめ、小さく舌打ちをした。彼女は来亜の方を睨んで、ゆっくりと後ろに退がる。後ろには問題なく動けるらしく、それを確認した彼女はすぐさま闇の中へ溶け込むように姿を消した。
「待ってくれ!」
来亜の声が、彼女に届いたかどうかは分からない。だが、いずれにしても、おいてけぼりが帰って来ることはなかった。
「なんだ、案外話の分かる怪異じゃないか」
先生は落ち着いた様子でそう言った。私はすっかり安心して、その場で力なく座り込んだ。
「あ、危なかった……!」
「全く、肝を冷やしたよ」
「あっはっは、安心してくれ。仕事に同行させてもらってるんだから、迷惑をかけるわけにはいかないさ」
「……さて、ひとまず帰ろう。ここで長居したら、今度こそ何が起こるか分かったものじゃないからね」
帰りの車の中で、先生がおいてけぼりについて来亜に尋ねた。来亜はおいてけぼりの素顔に見覚えがあるようだったから、私も気になっていた。
「いや、知り合いというわけではないんだが……多分彼女は同級生だ」
「……ほう。名前は知っているか?」
「
その話を聞いて、私もようやく思い出した。朝礼がある度に表彰を受けているから、名前を覚えている生徒も少なくないだろう。
「私は剣道をやっていないから、試合中の様子を見たことはないが……とにかく凄まじい、らしい。奈緒にとってはちょうどいい相手かもしれないけれどね」
「やめてくださいよ、あんな恐ろしい相手と戦うなんて……!」
「……その霧江とやらは、なぜこんなことを?」
「それを考えるのが、探偵の仕事だ。今日はもう遅いから、明日の朝に情報を整理しよう」
翌朝、来亜と一緒に情報を整理した。おいてけぼりの正体は、堀川霧江。それが分かったことで、声の大きさに関する情報の食い違いは解決した。剣道部の主将だとすれば、あの声量にも納得がいく。持ち物を持ったまま逃げた生徒が無事で済んだのも、怪異が本物ではなかったからだろう。しかし、彼女の動機は依然として不明だった。
「その、少し気になることがあって……」
「何だい?」
「聞き込みした人の中に、ポマードって唱えた人がいましたよね」
彼女の話によれば、そう唱えた後に声が少し止まり、再び聞こえてきたという。
「その時、霧江さんはなんで止まったんでしょうか?」
「……ふむ」
来亜が顎に手を当てて考え始めるのとほぼ同時に、事務所の扉を軽く叩く音が聞こえた。まだ事務所を開けていないのに、既に待ちきれない来客がいるようだ。
「先パイ……」
「構わないよ、開けてくれ」
そう言われて扉を開けた瞬間、背筋が凍った。身が強ばり、息が詰まる。私の正面に立っていたのは────────堀川霧江。私たちが昨夜見た"おいてけぼり"その人だった。
「な……!!」
「……空言来亜はいるか?」
低い声で、霧江は尋ねる。異変を悟った来亜が玄関先まで出てきて、首を上に向けて霧江を見据えた。
「……ごきげんよう」
「……選べ。私の依頼を受けるか、今ここで消えるか」
霧江は呟くようにそう言った。しかし、私たちの間には凄まじい剣幕で迫られているような威圧感が走っている。
「それは、内容次第だな」
「……殺したいものがいる」
「却下だ。犯罪の片棒を担ぐ気はないからね」
来亜は全く怯まずに霧江の依頼を断った。霧江は背中に手を回し、ちょうど彼女の身体で隠れて見えなかった位置から木刀を取り出した。咄嗟に来亜の肩を掴んで引き戻し、横一文字の軌道を描く一撃を躱す。霧江は私をぐっと睨み、構え直した。
「先輩、大丈夫ですか!?」
「ああ。私は退がるから、後は任せる!」
そう言って来亜は後退し、観察に専念した。何とか初撃を避けたとはいえ、霧江が木刀を持っている以上、彼女の優勢は揺るがない。清流のように絶え間なく紡がれてゆく連撃を凌ぎながら、逆転の糸口を探る。
「この人、強い……!」
しばらくは防戦一方だったが、段々相手の動き方が分かってきて、少しずつ余裕が生まれてきた。霧江もそれを悟ったのか、攻めの手を緩めてこちらの様子を窺うことが増えた。
「先輩、ごめんなさい!」
攻勢に転ずるきっかけを作るために、テーブルに置いたままだった自分のコップを掴んで投げつける。霧江は全く動じず、目の前まで飛んできたコップを木刀の一撃で砕いた。
「おい!?」
「……」
コップが割れた音に、霧江が全く反応しなかった。来亜は彼女をじっと見た後、私の真後ろに隠れた。
「先輩、何ですか?」
「……無理に攻める必要はない。私は隠れて動くから、もうしばらくそのまま戦っていてくれ」
私は霧江を見据えながら、ゆっくりとうなずいた。来亜には何か考えがあるのだろう。私は守りの姿勢に入り、再び霧江の攻撃を躱すことに専念した。しばらく経った後、来亜が急に霧江の前に姿を現す。その手には、懐中電灯が握られていた。
「……?」
「奈緒、前に出ろ!」
言われるままに前に出ると、来亜は懐中電灯の明かりをつけ、霧江の目に向ける。霧江は咄嗟に目を背け、ようやく攻撃する隙を見せた。しかし、拳を一発当てただけで霧江は体勢を立て直し、木刀を横に振りながら後ろに退がった。彼女は私が追ってこないのを確認すると、ゆらりと立ち上がる。
「復帰が早い……!」
「奈緒、恐らく彼女は────耳が聞こえない!」
「……え?」
来亜の推理はとても信じられなかった。事務所に入ってきた時、霧江は確かに会話をしていた。それに、補聴器のようなものをつけている様子もない。しかし、仮にそうだとすれば、私が彼女に対して違和感を覚えた点には全て説明がつく。ポマードと唱えたことでおいてけぼりが一瞬止まったのも、馴染みのない単語に対する戸惑いが大きかったからだと考えられる。霧江がコップの割れる音に反応を見せなかったのも、耳が聞こえないのならば当然のことだろう。
「……そうだ。私は、耳が聞こえない。だが、顔や唇の動きを見れば、話していることはわかる」
「……!」
霧江は来亜の言葉を肯定した。彼女の話もまた信じがたかったが、それが事実ならば、確かに会話もできるだろう。彼女の睨みつけるような鋭く厳しい視線は、単なる怒りや敵意によるものではなく、できる限り多くの情報を得るためだったようだ。
「……少し、喋りすぎたな。そろそろ終わりにしよう」
そう言って、霧江は大きく息を吸い込んだ。隙だらけだ。だが、それと同時に、この隙は攻めるためのものではないことも直感的に悟った。私は咄嗟に来亜の前に立って彼女を庇い、防御の姿勢を取った。霧江は足を強く踏み込み、力いっぱいに叫ぶ。
「が」
聞こえたのは、最初の一音だけ。それ以降は、音として認識できなかった。衝撃で部屋全体が揺れ、床に散らばっていたコップの破片が震える。
「ッ……!!!!」
吹きすさぶ嵐のような轟音が過ぎ去った後には、静かな世界が広がっていた。霧江が何か話しているようだったが、全く聞こえない。鼓膜は破れずに済んだようだが、聴覚が麻痺してしまったようだ。来亜の方を向くと、彼女は気を失っていた。痛む耳を押さえ、霧江を真似るように彼女の唇の動きを捉える。
「……惜しいな。協力してくれれば、頼りになっただろうに」
「……!」
霧江は木刀を構え、斬りかかった。同時にこちらからも間合いを詰め、彼女の手元に近い位置で木刀を握り、受け止める。
◇
「……」
「……!?」
霧江の眼前に現れたのは、さっきまでの奈緒とは違う何かだった。ただの一言も発していないのに、その威圧感に霧江の背筋が凍る。霧江は、自身が計り知れぬ力を持った怪異の戒めを解き放ってしまったのだと悟った。彼女は咄嗟に奈緒から木刀を引き離そうとしたが、木刀は錨に繋ぎ止められているかのように強固に握られており、動く気配がない。
にい、と奈緒の口角がつり上がる。直後、霧江は彼女の蹴りを正面から腹部に受けた。木刀から手が離れ、霧江の身体が壁にびたりと打ちつけられる。その一撃は、彼女の戦意を削ぐには過剰なほどであった。
「ぎ……あ……?」
苦痛に歪む霧江の顔を冷ややかに見下ろした後、飽きた玩具を手放す子どものように、奈緒は不意に木刀から手を離す。それから、彼女は眠るように身体を横たえた。直後、霧江も意識を保てずにその場で目を閉じた。
◆
「はっ!」
目を覚ますと、目の前で霧江が意識を失って倒れていた。麻痺していた聴力が戻ったらしく、自分が息を吸う音がはっきりと聞こえる。
「……これは?」
ひとまず、倒れている霧江を抱えて木刀から離し、その腕を押さえて制圧した。
「か、確保!!」
そう言ってみるが、全く実感がない。しばらくそのままでいると、先に来亜が意識を取り戻して起き上がった。
「ぐ……」
「先パイ、聞こえますか?」
「ああ……記憶は曖昧だが、凄い叫び声だったな」
「はい……私もその直後からの記憶がなくて……」
一旦霧江は縛っておいて、荒れた部屋を片付けようと来亜は提案した。私もそれに同意し、霧江の手足を縄で縛ってガラスの片付けに取りかかる。それが済んだ頃、霧江は呻き声を上げながら目を覚ました。
「ぐ……!」
「先パイ!」
「もう起きたか。では、話を聞いてみるとしよう」
来亜の指示に従い、霧江を椅子に誘導し、メモを用意して来亜の傍に座る。霧江は抵抗する様子もなく、ただ力を抜いて来亜に促されるままに座った。殺されそうだったにもかかわらず、来亜は落ち着いて普段通りの聞き取りを始めた。
「さて、霧江……君の話を聞かせてくれるかい?」
「……何が知りたい」
「そうだな、まずは……直近の疑問から解決しよう。奈緒は、どうやって君を倒した?」
来亜にそう問われて、霧江は首を捻る。
「それは……私にも、分からない。君たちに声を浴びせてからの記憶がないんだ」
「……そうか。生憎、目撃者はいないというわけだ」
「そのようだな。だが、私は彼女……奈緒に、負けた。何にせよ、それは変わらない。だから、君たちに逆らうつもりはない」
「随分ストイックなんだな」
「ここは負けを認めて、再戦を楽しみに待つ方が良いからな」
「か、勘弁してください……」
一つ目の疑問が解決しないことを悟り、来亜は次の問いに移った。
「ところで、君はずっと耳が聞こえなかったようには思えないが、いつから聞こえなくなったんだ?」
「え、何でそう思うんですか?」
「生まれつき耳が聞こえないと、正しい言葉の発音を覚えるのが大変なんだ。だから、話す時もたどたどしくなりがちだ。でも、霧江の喋り方からは、そういう苦しさを全く感じない」
「な、なるほど……」
霧江は少し考えるそぶりをして、来亜の問いに答える。
「……中学生になったばかりの頃、自分で聴覚を絶つようにした」
「そ……そんなことできるんですか!?」
「最初は竹刀が偶然耳に当たって鼓膜が破れたんだ。だが、耳が聞こえなくなったおかげで、試合に勝てるようになった」
「それは……関係があるのか?」
「もちろん。自分や相手の声に動揺することもなく、視覚に意識を集中させることができたんだ」
霧江の話は、衝撃的だった。試合に勝てるようになった理由が聴覚の喪失にあると悟ると、彼女は自分で鼓膜を破るようになった。鼓膜が再生する度に破り、数を重ねるにつれて耳が聞こえない状態に適した動き方も分かってきた。そして、高校に入学する頃には耳が聞こえる人とほとんど見分けがつかないような自然な動きができていたという。
「……流石に呆れるよ。いくら勝つためとはいえ、それは単純に危険だ。言うまでもないが、やめた方が良い」
「当然、それは承知の上だ。だが、少なくとも今は、この静かな世界を手放す気はない」
「……」
来亜は霧江を諭すのを諦め、続けて問いかける。彼女の眼差しは、事件の核心に迫る時のように鋭くなっていた。
「では……霧江、君の依頼の内容を聞かせてくれ」
「先パイ、まさか殺しの依頼を受けるんですか!?」
「いや、単なる人殺しが目的なら受けないよ。だが、霧江が探偵に人殺しを依頼するような間抜けだとしたら、それこそまさかって話だろう?」
「……確かに、そうですけど……」
霧江は少し躊躇っているように見えたが、観念して話し始めた。
「私が殺したいのは……私が助けた魔物だ」
「……魔物」
「ああ。一ヶ月ほど前、怪我をしていたところを助けたんだ。人魚のような姿をしている」
「それで、プールに連れてきたわけだ。この辺りにはろくな水場がないからね」
その後、霧江は魔物について調べ始めたという。どう見ても通常の生き物とは異なるので、神話や伝承などから似た特徴を持った存在を探し、自分が助けたのは魔物だと結論づけたのだ。来亜はその正体に察しがついていたようで、これは厄介だ、と小さくこぼしていた。
「私が助けたのは────────海の怪物、セイレーンだ」
「セイレーン……!」
名前と大まかな性質ぐらいは私も聞いたことがある。海に棲息し、魅力的な歌声で船乗りや旅人を海の中へ誘う怪物。昨夜プールに行った時、微かに聞こえていた声はセイレーンのものだったのだろう。
「……なるほど、それでおいてけぼりというわけか」
「えっ、どういうことですか?」
来亜の考えていることが分からなかったので尋ねると、彼女は自信に満ち溢れた様子で推理を披露した。
「霧江はセイレーンの歌声で人が死ぬのを防ぎたかったのだろう。そのためには、歌声をかき消しつつプールから人を遠ざける必要があった」
「……」
「声を発する怪異ならば、その両方を同時に達成できる。そこで、彼女はおいてけぼりになったというわけさ。今、私たちのもとに来たのは、噂の真相を言いふらされてプールに人が戻ってしまうのを防ぎたかったからだろう?」
「……驚いたな。その通りだ」
霧江は感心した様子で来亜の推理を肯定した。そして、彼女は改めて私たちに問いかける。常に厳しい表情をしている霧江だが、今の彼女は一段と真剣な面持ちだ。
「……私は、あの無邪気なセイレーンに穏やかな最期を迎えてほしい。そのために、協力してくれないか」
来亜は少し黙ってから、わざとらしくやれやれと首を振った。
「それで、君はその魔物の手が汚れないようにして、人々も助けたいというわけか」
「……そのつもりだ」
「全く、欲張りな話だ。そんなことになるなら、初めから関わらなければ良かったものを」
「先パイ、ちょっと……」
来亜は霧江をなじるようにそう言ってから俯いて、また少し黙った。嫌な沈黙が走る。来亜は何かを押し殺すようにぐっと拳を握り、霧江の方に向き直った。
「でも……分かるよ」
「……そうか」
来亜は、霧江の依頼を受けた。今夜、神土高校でセイレーンを倒す。その備えをするために、一度解散した。霧江が事務所を去った直後、仕事で外出していた先生が事務所に帰ってきた。
「ただいま……って、ずいぶん散らかってるわね」
「あ……」
「……ひとまず、掃除の続きからだな」
日が沈み、約束の時刻が近づいてきた。来亜が出かけると先生に声をかけに行こうとしたところで、先生の方が書斎から出てきた。先生はコートを着た来亜を見るなり、食い気味に声を発した。
「私も同行しよう」
「先生!」
その時、唐突に先生の携帯電話が鳴り、先生は再び書斎の中へ姿を消した。扉が完全に閉まっておらず、微かに声が聞こえてくる。
「はい、はい……はあ、今からですか?」
「……」
「……明日までに。はい、わかりました。それでは……」
ほどなくして部屋から出てきた先生の様子からは、何かを諦めたような、一種の清々しさを感じた。
「……気をつけて行ってきたまえ!」
「……大人は大変だな」
結局、私たちは徒歩で神土高校に向かった。校門の近くには、霧江の姿があった。彼女は竹刀袋を一つ担いでいるだけの軽装だ。
「悪いね、待たせてしまったかな」
「……いや、私の方が早く来ただけだ。行こう」
歩みを進める度に、得体の知れない緊張感と重圧がのしかかる。そんな中、ふと軽やかな歌声が耳に入ってきた。
「……綺麗な歌声だ」
つい心が躍るような、朗らかな歌。その声を聞きながら、私は昔を思い出していた。たくさんの仲間に囲まれて、幸せに過ごした日々。仲間たちが、私に向かって手を差し伸べる。
『おいで、おいで』
「……みんな」
『こっちだよ』
「……ち、ひ」
「奈緒!」
その時、どこからか私を呼ぶ声が聞こえた。叫ぶようなその声を聞いた直後、私は右の脇腹を何かで強く打たれ、左に吹っ飛んだ。激しい痛みによって、現実に引き戻される。
「いったあ!?」
「……悪いな」
「あれ、私……」
いつの間にか私はプールの室内に入っていて、水が目の前まで近づいていた。それを見てようやく自分が知らないうちに死の淵まで引きずり込まれそうになっていたことを悟り、血の気が引いた。
「うわあああっ!?」
「……まさか、これほど強力とは……」
プールの水の中から、一つの影が姿を現した。おとぎ話に出てくるような、美しい顔の少女。その腰から下にある、煌めくような瑞々しい鱗を持った
「あれが、セイレーン……!」
「……キリエ?」
「……」
少女の呼びかけに、霧江はすぐには応えなかった。数秒の間、黙って俯いた後、彼女は口を開く。
「……セイレーン。今日は、大事な話をしに来た」
「だいじな、はなし……」
セイレーンは、霧江の言葉を復唱する。その意味が分かっているのかどうかは、判然としない。しかし、重苦しい雰囲気を感じたのか、彼女は真っ直ぐ霧江の方を向いて話を聞いていた。
「……私たちは、もう一緒にはいられない」
「……!」
「君の歌は、人を殺す。私は……それを、認めることはできない」
「……」
霧江は、セイレーンに自らの思いを打ち明けた。その言葉を聞いたセイレーンは、静かに涙を流した。そして、呟くように霧江に問いかける。
「いままですごしたじかんは……ぜんぶ、うそだったの?」
「……そう思ってくれて、構わない。君を騙したことに違いはないのだから」
霧江は、無理に冷徹を装ってそう答えた。きっと、今のセイレーンに必要な言葉はこれではないと彼女自身も分かっているはずだ。けれど、こう答えなければ彼女は自分自身を許せなかったのだろう。
「けががなおるまで、ずっといっしょにいてくれたのも?」
「ああ」
「ここにつれてきてくれたのも?」
「……そうだ」
「たべものをもってきてくれたのも、ことばをおしえてくれたのも、まいにちあいにきてくれたのも……?」
「……」
霧江は、何も言わずに唇を噛んだ。自らを罰するように、強く。流れ出た血が、彼女の口元を濡らす。それでも、彼女は噛むのをやめない。霧江が答えずにいるのを見て、セイレーンは吼えるように泣き声を上げた。同時にプールの水が波となって立ち上がる。
「あ……ああ……ああああああああッッッ!!」
「……!」
「霧江、離れろ!」
来亜が呼びかけても、霧江は動かない。そのまま、彼女は正面から大波を受けた。身体はいとも容易く流され、壁に衝突する。セイレーンは泣き声を上げ続け、それにつられるように再び水が立ち上がった。
「あ……あ……う、ううう……!」
「霧江さん!」
「……」
霧江は何も言わずに濡れた袖で頬を拭い、竹刀袋から木刀を取り出して構えた。彼女の鋭い眼差しが、真っ直ぐにセイレーンを捉える。
「……これで良い。これで……涙を気にせず戦える」
霧江の眼に、もう迷いはない。その様子を見て、私たちも構えた。セイレーンは私たちの方を見ると、息を大きく吸い込み始めた。再び歌い出すつもりだろう。
「まずい、一旦離れるぞ!」
「は、はい!」
急いでプールから出て、外から霧江の無事を確認する。再び突入するには、歌声の対策が不可欠だ。
「先輩、対策はないんですか!?」
「……確か叙事詩によれば、大きな輪型の蝋を切ってこねて……」
「そんなことしてる場合じゃないですよ!」
「そうだな……後は、別の歌でかき消す、とか……?」
どうやら、すぐにできる確実な対策はないようだ。だが、霧江をずっと一人で戦わせるわけにもいかない。失敗するかもしれないが、どちらかが歌ってセイレーンの歌声をかき消すしかないようだ。セイレーンよりも大きな声で歌い続けることを考えれば、体力のある私がこの役割を担った方が良さそうだ。
「じゃあ、私が歌います!」
「……分かった。霧江の支援は任せてくれ!」
プールに再び入ると同時に歌い始める。それは、ふと脳裏に浮かんだ歌。遠い昔、私が仲間から教えてもらって、よく口ずさんでいた歌だ。
『いつまでも 絶えることなく 友達で いよう』
「……!」
『明日の日を 夢見て 希望の 道を』
「う……うう……!」
呻くような声を発し、セイレーンは歌うのをやめた。しかし、私の歌が終わるとすぐに再び歌う姿勢を取った。
「短いな!」
「すみません!」
「まあいい、その調子で続けてくれ!」
私は霧江と来亜に戦いを委ね、祈るように何度もその歌を繰り返し歌った。
◇
「霧江!」
一人で戦っていた霧江のもとに来亜が駆けつける。そこに向かって、セイレーンは声を発した。たちまち水が柱のような形で彼女の傍に現れ、来亜めがけて飛んでゆく。来亜が回避すると、水は壁に当たって轟音を立てた。
「無事か!?」
「ああ……どうやら、セイレーンは声で水を操っているようだな」
「声で、水を……」
「音は空気の振動だからね。人間には到底無理だが、魔物ともなれば話は別だ」
来亜は霧江の後ろに退がり、さらにセイレーンの観察を進める。真っ向から戦えば、勝ち目はない。相手がプールの真ん中にいる限り、有効な一撃を加えることすら困難だ。
「来亜、私はどうしたら良い?」
「……ひとまず逃げ回って、隙を突いて陸へ誘い出そう。このまま水の中に居座られては、まともに戦えないからね」
霧江は頷き、駆け出してセイレーンの注意を引く。彼女の眼をもってすれば、一点を狙って放たれる水流を躱すことは容易い。やがてセイレーンもそれに気付き、来亜の方を狙って水流を放ち始めた。しかし、来亜は既に彼女を倒す算段を整えていた。
「……よし」
来亜の仕事は二つ。霧江にセイレーンを倒すための銀のナイフを渡すことと、セイレーンを水から出すことだ。一つ目の仕事を完了するために、彼女は懐を探り、水流に正面から立ち向かう。流される直前に来亜は懐から取り出した懐中電灯の明かりをつけ、セイレーンの目を強く照らした。セイレーンは怯んで声を止め、それに伴って水流も消えた。
「……!?」
「霧江、受け取れ!」
来亜は懐中電灯と一緒に取り出した銀のナイフを、霧江の方へ滑らせるようにして投げた。霧江が走ってそれを受け取った直後、セイレーンが立ち直って再び歌い始めた。
「これは?」
「退魔には銀……それを使えばセイレーンを倒せるはずだ!」
「……分かった」
一つ目の仕事を達成し、来亜はひとまず安堵した。二つ目の仕事には、霧江の協力が必須だ。しかし、彼女の視界に入っていなければ指示は通らない。セイレーンから目を離すわけにはいかないから、来亜の方が霧江に近づかなければならない。次々に飛んでくる水流を避けながら、来亜は少しずつ霧江の方に向かっていった。やがて彼女の正面に立つと、来亜は霧江に指示を出す。
「霧江、叫べ!」
「……!」
来亜はそう言った直後に明かりをつけたままの懐中電灯を投げ捨て、水中に飛び込んだ。指示を受けた霧江は大きく息を吸い込み、力いっぱいに叫ぶ。セイレーンの歌も奈緒の歌も一瞬で掻き消え、建物が激しく揺れる。気圧されるようにセイレーンは後ろに退がってゆき、やがて水際まで追い込まれた。来亜は水中からセイレーンに迫り、コートの袖を彼女の口に押し込んで発声を阻む。霧江は叫ぶのをやめてセイレーンの背後に回り込み、その首筋に銀のナイフを突き立てた。セイレーンの口がコートから離れ、甲高い叫び声が上がる。
「アアアアアアアアッッッッ!!!!」
セイレーンはそれを最後に倒れ、水の中に沈んだ。霧江はナイフをポケットにしまい、何も言わず、その様子を眺めている。来亜も陸に上がり、その隣に立った。直後、二人の傍に奈緒が駆け寄る。
「先パイ、霧江さん!」
「奈緒、お疲れ様。助かったよ」
「……!」
霧江はいきなり目を見開き、来亜と奈緒の腕を掴んで後ろに退がった。突然の行動に二人が驚いていると、水中から大きな影が飛び上がった。
「え……!?」
「……まさか、まだ生きているのか!?」
来亜は水の中に視線を落とし、さっきまで沈んでいたセイレーンの姿がないことに気がついた。間違いなく、今上空で羽ばたいているものがそれだ。鱗や鰭は無くなり、翼を持った鳥のような姿に変わっている。
「あんな姿、見たことない……!」
「セイレーンは、今でこそ人魚の姿が一般的だが……元々は有翼の魔物として語られていたんだ」
「それじゃあ……!」
来亜は奈緒の言葉に頷き、彼女と霧江に向かって叫ぶ。
「気をつけろ────あれがセイレーンの本来の姿だ!」
◆
セイレーンは少しずつ高度を落とし、私たちに近づいた。今は翼が濡れているからか、天井を突き破るほど高く飛ぶことはできないようだ。その後、彼女は私たちを見下ろすようにして口を開く。
「……キリエ。あなたは、私と一緒にいられない……そう言った」
さっきまでとは大きく異なる大人びた口調で、セイレーンは霧江に語りかける。霧江は、その言葉を聞いて、頷いた。
「ああ。君の歌が人を殺してしまう限り……君が、魔物である限り、この考えは変わらない」
「……私は、それでもあなたが欲しい。いや……あなただけじゃない。他の人間も、魚も、鳥も、全て……全て、私のものにしたい」
「……」
セイレーンが打ち明けた望みは、その身にはあまりにも大きいように思われた。沈黙をもって、霧江はその望みを否定する。
「……キリエ、あなたの望みは何?」
「望み……?」
「私と一緒に来て、全てを手に入れられたら……あなたの望みも叶うわ。私には、それができる。鰭も翼もあるんだもの。空と海は私のもの。陸にいるものは、海に引き込んでしまえばいい。だから……」
セイレーンが話している途中で、霧江は足を強く踏み込みながら木刀を構え、その言葉を遮った。そして、彼女はセイレーンを見上げ、はっきりと答えた。
「私の望みは……君が誰も殺さず、穏やかな最期を迎えることだ」
「……理解できないわ。自分のための望みはないの?」
「私の剣は、そういうものを抱かないためにある。何にも動じることなく、ただ静かに在るために……」
霧江の答えを聞いて、セイレーンは説得を諦めたようだ。彼女は再び初めの高さまで飛び上がり、開戦の合図とばかりに叫び声を上げた。さっきと違い、歌い始める様子はない。私は霧江に加勢するため、彼女の背後に駆け寄ってナイフを構えた。瞬間、セイレーンの足の鉤爪が視界に飛び込んでくる。
「……ッ!!」
「奈緒!」
突風が起こり、身体の重心がずれる。そのおかげでわずかに早く上体を反らすことができ、何とか攻撃を回避した。息が切れ、冷や汗が背中を伝う。これまで戦ってきた相手とは桁違いの速さだ。少しでも気を抜けば、致命傷を負いかねない。セイレーンは続けて霧江を狙うが、彼女は未来が視えているかのように先立って後退し、爪の一撃を冷静に木刀で跳ね返す。
「ギッ!!」
「凄い……!」
「奈緒、霧江は木刀の間合いに慣れている。攻撃は君が担ってくれ!」
「はい!」
来亜が後方から指示を出した直後、セイレーンは羽ばたいて再び高度を上げる。空からの急襲を防ぐだけでは、攻撃の機会は訪れない。来亜は上空の怪鳥をぐっと睨み、つけ入る隙を探す。その時、セイレーンが彼女に襲いかかった。
「先輩!」
「奈緒、来い!」
来亜はそう言うと同時に、右足を強く蹴り上げた。彼女の足元に転がっていた懐中電灯が宙を舞い、手当たり次第に周囲を照らす。セイレーンはまたしても光に怯み、一瞬動きを止めた。それだけの隙があれば、十分だ。
「やああああッッ!!」
声を上げ、ナイフを握って飛びかかる。刃は退避しようとしたセイレーンの右の翼に当たり、大きな切り傷をつけた。耳をつんざくような金切り声が上がる。それを正面から受け、耳に痛みが走った。
「く……!」
「奈緒、よくやった!」
翼が傷ついてもなお、怪鳥は空へ舞い上がる。勢いこそ落ちたが、それでも驚異的な速さであることに変わりはない。顎を引き、次の攻撃に備える。
「……セイレーン」
霧江が呟くと、それに呼応するように怪鳥は彼女に襲いかかる。ひっきりなしに続く攻撃を、霧江は滑らかに弾いてゆく。爪と木刀がぶつかり合い、激しい衝撃音が辺りに響く。しかし、それは霧江には聞こえない。どこまでも静かな世界の中で、彼女は戦い続けている。セイレーンは一度退がり、勢いをつけて強打を放った。攻撃を防いだ木刀が霧江の手から離れ、プールに沈む。
「……!」
「霧江さん!」
霧江に飛びかかり、何とか追撃から守る。起き上がった霧江は、木刀を失ったにもかかわらず、全く動揺していない。
「……私のことは気にせず、戦ってくれ」
「でも……!」
霧江はすぐに立ち上がり、更なる追撃を躱す。彼女はセイレーンの姿を捉えたまま、私に向かって話した。
「木刀がなかろうが、関係ない。武の技は……自分の手に宿っているものだ」
武器を手放した霧江をセイレーンは執拗に狙うが、その攻撃は掠りさえしない。何も持たずに構える彼女の両手には、あるはずのない刀が見えた。彼女は見栄を張っているのではなく、初めからこの事態を危機だと感じていないのだろう。その様子を目の当たりにした私は、彼女の言葉に従わざるを得なくなった。霧江を追うセイレーンの背後に回り、すかさず左の翼を切りつける。セイレーンは声を上げ、飛び上がって退避した。その高度は、初めよりも随分下がっている。
「キリエ、キリ、エ……」
「……」
セイレーンは、哀しげな声で霧江の名前を呼ぶ。霧江は、彼女に言葉を返さない。ただ、祈りを捧げるように、一瞬だけ目を閉じて下を向いた。傷ついた両翼を必死にはためかせ、空の魔物はなおも飛び続ける。一度手にした空を手放すのを拒むように。だが、それほどまでに弱っても、その攻撃は苛烈そのものだった。霧江は難なく躱していたが、私には弾くのが精一杯だ。セイレーンはそれを見抜き、来亜に矛先を向けて私に庇わせる。
「く……!」
防戦を強いられる私を見かねてか、来亜は口元を袖で隠しながら指示を出す。
「奈緒、私も少しなら平気だ。今のうちに背後からトドメを刺してくれ……頼む!」
そう言って、彼女は駆け出した。セイレーンはそれを追って、私に背中を向ける。私は床を強く踏み込み、一気に距離を詰めた。
その音を聞いて、セイレーンがいきなりこちらを振り返る。あの近距離で出された指示を、彼女が聞いていないはずはなかったのだ。それから、彼女はナイフを握って振り上げた私の腕を両足で掴み、そのまま空へ持ち上げようと羽ばたく。だが、この瞬間、セイレーンは致命的な思い違いをしていた。来亜によって、そうなるように仕組まれていたのだ。狼少女の牙が、魔物の命を喰らう。
「……これで、終わりだ」
セイレーンは、すっかり聞き慣れた低い声を背後に聞いた。同時に、彼女の背中に銀のナイフが真っ直ぐに刺さる。力なく堕ちてゆく彼女から、霧江は決して目を離さなかった。
セイレーンが床に倒れると、霧江は無言でその傍に跪いた。来亜はそこへ歩み寄り、倒れ伏す魔物に言葉をかける。
「……大それた望みを抱いてはためく翼は、堕ちる定めにある。それは、物語を歌う君自身もよく分かっているはずだろう」
「ぐ……どう、して……!」
「……じゃあ、冥土の土産にタネ明かしだ。私は君と……霧江に、一つ嘘をついた。頼む、と付け足した指示には従わないように、というのが私と奈緒の間の取り決めでね。だから、君は奈緒がトドメを刺すものだと勘違いした。初めにも彼女が攻撃を担うようにと指示していたから、君は尚更信じて疑わなかったわけだ」
「……」
「そして、この指示が霧江だけには伝わらないように、私は口元を隠した。悪かったね」
来亜はそう言って、霧江の方をちらりと見た。彼女は何も言わず、小さく首を横に振った。
「さらに、君は霧江が木刀を手放したことで、彼女が君を傷つけられなくなったと錯覚した。だが……その手段も覚悟も、確かに彼女は持っていたんだ」
来亜は話を終え、引き下がる。セイレーンは霧江の方を向いて、絞るように微かな声を発した。
「……キリエ」
「……すまない。私が助けたばかりに、余計に苦しませてしまって……」
「……」
「許してくれとは言わない。私のことは、恨んでくれて構わない……!」
霧江がそう言うと、セイレーンは彼女に向かって優しく微笑みかけた。さっきまでの激しい戦いが嘘のように、穏やかな表情をしている。そして、今にも消え入りそうな声で歌い始める。
『いつまでも たえることなく ともだちで いよう』
「……!」
『あすのひを ゆめみて きぼうの みちを』
「……セイレーン」
「いいうたね。きにいっちゃった」
セイレーンの影が、薄くなってゆく。力を失った彼女からこぼれ落ちるように発されている光は、空へ昇ってゆく。
「すべてがほしいなんて、ほんとうはおもっていなかったのかもしれないわ」
「……」
「ただ、こうして、わたしのうたをだれかがきいてくれる。それだけで、よかったのかも」
セイレーンはそう言って、霧江の手を柔らかく握った。その笑顔に、微かに暗い影がさす。
「……でも、わたしのうたをきいたひとは、しんでしまうから……それでも、よくばりなのよね」
「……そんなことはない。君の歌を聴いても生きている人間が、今まさにここにいるのだから」
セイレーンの翼が、光となって消えた。彼女の輪郭が、ほどけるように朧げになってゆく。その終末を予感したのか、霧江の手を握るセイレーンの力が強くなった。
「ねえ、キリエ。もういちどだけ、うたいたい。つぎは……あなたもうたって」
「……歌は苦手だ」
「いいのよ。さいごくらい、おねがいをきいて?」
「……」
霧江はその言葉を聞いて、数秒の間、沈黙した。その後、彼女はおもむろに息を吸った。セイレーンもそれに合わせ、歌い始める。静寂を破り、二人の歌声だけが響く。
『『いつまでも たえることなく ともだちで いよう』』
残っていたセイレーンの身体が光に包まれ、空へ消えた。おいてけぼりの低い歌声が、残りの詞を紡いでゆく。
『明日の日を 夢見て 希望の 道を』
霧江自身が語った通り、お世辞にも上手いとは言えない歌だった。しかし、彼女の友達に贈るのに、きっとこれ以上の歌はないはずだと私は確信した。来亜は項垂れたまま動かない霧江に歩み寄る。彼女が顔を上げたのを見て、言葉をかけた。
「セイレーン……その存在が語られる古代の叙事詩には、ある定型句がしばしば使われるんだ」
「……」
「”翼ある言葉”……君の歌も、彼女にとってはきっとそうだった。私は、そう信じている」
「……私は、まだ自信がない。この選択が、彼女にとって幸せだったのか……」
来亜はいつもの調子に戻って、霧江に返事をした。その表情は、少しわざとらしくおどけているように見える。
「さあね。解決後の考察は、探偵の管轄外だ」
「……そうか」
短く返答する霧江に向かって、来亜は微笑んだ。それは、安易な同情による笑みには見えなかった。
「……それを考えるのは、君の仕事だ。考えて、考えて……君が納得できる答えを探すんだ」
来亜は霧江を真っ直ぐ見据えてそう言った。霧江は何も言わず、ただゆっくりと頷く。
「私も同じ仕事を抱えているからわかるが……それはもう、大変な仕事さ」
「……それなら、こうしてはいられないな」
霧江は立ち上がり、私たちの方に向き直った。それから、深々と頭を下げて礼をした。
「……ありがとう。君たちに頼んで良かった」
「全く、いきなり殺そうとしておいてよく言えたものだね」
「それは……悪かった」
来亜は笑みを浮かべ、立ち去る霧江を見送った。彼女の姿が見えなくなるまでその場に残ってから、私たちも学校を後にした。頬を撫でる秋の夜風が、今夜は一層冷たく感じる。やっとの思いで事務所に帰ると、先生はまだ起きて作業をしており、それはそれで背筋が凍る思いがした。
翌日、汐音が事務所を訪れた。おいてけぼりについての調査が終わったと来亜が連絡すると、驚くべき早さで駆けつけてきたのだ。一度はソファに座った彼女だが、興奮を抑えきれない様子で立ち上がって来亜に問いかける。
「そ、それで、おいてけぼりの正体は何だったんですか!?」
「それは……」
来亜は勿体ぶるように、少し間を置いた。そして、自信満々に調査の結果を知らせた。
「生徒のいたずらだったよ!」
「生徒の、いたずら……?」
汐音は拍子抜けした様子で、へなへなと座り直した。
「なあんだ、そうだったんですね……」
「ああ。また困り事があったら遠慮なく相談してくれ」
「はい……また相談します。こういう相談を受けてくれる探偵事務所は、貴重なので!」
汐音は丁寧に礼を言って、事務所を去った。しばらく経ってから、本当のことを言わなかったわけを来亜に尋ねる。
「先パイ、どうしてあんな嘘ついたんですか?」
「嘘はついていないさ。これは、一人の生徒のいたずらにすぎない。そうだろう?」
来亜はそう言って、ワイングラスに注いだ葡萄ジュースを一気に飲み干した。
「それに……物語を一から十まで知ろうとするなんて、それこそ強欲というものさ」
「はあ……」
来亜のグラスを片付けてから、机の上に置いていた本をしまうために持ち上げた。すると、本の中から二枚の紙切れが床に落ちた。
「おや、その本は……」
「『無題』……ライトが持っていた本です。一通り読んだので片付けようと思ったんですけど、何か挟まってたみたいですね」
紙切れを拾い上げると、どうやら何かのメモ用紙のようだった。片方を来亜に渡すと、彼女も見覚えがないと言う。
「書類の断片のようだが……まともに読めないな」
ひとまず、読める字を声に出して読んでみることにした。しかし、意味は全く分からない。
「教、故、四、うち、重……?」
「……二つ、ケア、日光……いや、さっぱりだ!」
「暗号ですかね?」
「……いや、他の字が上手く読めないだけで、ちゃんと文章にはなっているようだ。とりあえず保管しておこう。ライトが渡した本の中に挟まっていたなら、重要なヒントかもしれないからね」
来亜はそう言いながら、私が持っていた方の紙切れを受け取って部屋の机にしまった。ずっと謎に包まれたままだった、ライトの目的。この紙切れが、それを明かしてくれるのだろうか。それとも、怪盗の秘密を全て知ろうとすることも、また強欲なのだろうか。その疑問はひとまず放っておいて、私は来亜の様子を見に来た生徒たちを出迎えに行った。
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