残雪、かく語りき

 ◇

 吹雪の中を、ひとり歩く。目の前もほとんど見えない中で、私はたった一つの探しものをしている。それが何だったのか、もう思い出すこともできない。ものだったのか、ひとだったのか、それさえも、わからない。それでも、探し続けている。長い夜が何度過ぎ去っても、見つからない。吹雪で手がかじかんで、息も苦しい。けれど、探しものをしている時だけは、胸に何かあたたかいものが生まれるのだ。

 だから、ずっと探している。この気持ちをくれるものの正体を、突き止めるために。

 たとえ、この気持ちが許されないものだったとしても────────


 ◆

「夏だ!」

 窓の外を見ながら、私は唐突に声を上げた。それは、目の前に広がる光景があまりにも信じがたいものだったからだ。夏だ、そう声を上げて確認しなければ、私はどうにかなってしまいそうだった。

「海だ!」

 私は続けて声を上げる。来亜は全く反応せず、事務所のソファに腰かけて教科書のページをめくっていた。学業と探偵業を両立させるためには、今の時期にしっかり勉強しておく必要があるらしい。ただ、さっきからその視線は教科書ではなく、部屋に掛けておいた私の水着の方に向いていた。私を差し置いて、彼女はすっかり出番を失ったそれに対して妬むようなじっとりとした視線を送っている。

「なのに……」

 私は窓から視線を外して、部屋の中の方に向き直る。そして、ありったけの怒りや不満を込めて叫んだ。

「なんでこんなことになってるんですかーっ!!」

 高校生になって初めて迎えた夏休み、その初日。目の前には、季節外れの大雪が降っている。交通機関も麻痺するほどの吹雪で、テレビには大会を間近に控えた運動部の生徒が嘆く様子が映っていた。神土高校の辺りは、特に雪が多いらしい。

「奈緒、この町は七月の後半に三日間だけ真冬のような雪が降る。知らなかったのかい?」

「いくらなんでも嘘が雑ですよ!」

 来亜は教科書を閉じ、窓の外をじっと見た。彼女も先生も、あまりにも落ち着いている。その様子を見て、私は少し不安になった。

「……嘘、ですよね?」

「もちろん嘘さ、安心したまえ。だが……」

 来亜はぶかぶかのコートの袖で、結露した窓をぐいと一度拭った。拭う前と後で、景色はほとんど変わらない。水滴を除いても、相変わらず目の前は真っ白だ。

「事件であることは、間違いないな」

 事件といえば、と続けながら、来亜はくるりとこちらを向いて私に尋ねてきた。

「君、期末試験は大丈夫だったのか?」

「事件で思い出さないでくださいよ!」

 しかし、私は今度こそ来亜や先生に呆れられることはないと確信していた。鞄から成績表を取り出し、自信満々に机の上に叩きつける。

「どうですか!!」

「これは……!」

 来亜は私の成績を見て、目を見開いた。数学の点数は相変わらず低いが、その他は概ね八十点前後。九十点を超えた科目もある。そして何より、赤点がない。前回の目も当てられない結果と比べれば、雲泥の差だ。

「どうしたの、来亜。そんなに固まって……」

 来亜の反応を見た先生も机に近づいて、私の成績を見た。良い結果とはいえ、まじまじと見られるのは気恥ずかしかったが、何とか耐え忍んだ。しばらく経ってから、ようやく来亜が口を開いた。

「……奈緒。今からでも遅くないから、職員室へ行こう。私も一緒に行くから」

「ええ!?」

「だって、どう見てもおかしいだろう……」

「別にズルなんて……してないですよ!!」

 決して不正行為はしていないのだが、一瞬言葉に詰まってしまった。不正がないことと、やましいことがないことは、必ずしも両立しないのだ。

「奈緒ちゃん、勉強はまた見てあげるから、こんなことはもうしないでね……」

「そんなあ、先生まで!」

 私が誤解を解こうとした矢先、いきなり事務所の扉が開いた。一気に冷たい風が入り、思わず一瞬身をすくめる。

「うわっ、寒い!!」

「こんな時に来客か……?」

 玄関の様子を見に行くと、一人の青年が疲れきったような表情でその場に伏していた。それから事務所が大騒ぎになったのは、言うまでもない。




「いや、助かった。ありがとう!」

「無事で良かったよ。危うく事務所が曰く付きになるところだった」

 すっかり元気を取り戻した青年は、自らを斧山浩一と名乗った。神土高校の二年生らしい。来亜に知り合いかと尋ねると、彼女は首を横に振った。

「それにしても、こんな吹雪の中で事務所に来るとは……よほど急な要件があるのかい?」

「実は……」

 浩一は、言いかけたところで一瞬止まった。言うべきか否か、まだ迷っているのだろうか。そのあまりの緊張感に、聞く方も思わず身構えた。葛藤を乗り越え、浩一が口を開く。

「夢で見た女の子を、探しているんだ」

「「な……!」」

 私たちは揃って驚き、その場で固まった。浩一はその凍りつくような雰囲気を察したのか、慌てた様子で説明を加えた。

 彼は一ヶ月ほど前から、不思議な少女が出てくる夢を見続けている。肌は雪のように白く、見れば思わず息を呑むほどの美人らしい。その足元には、何か人の形をしたような黒い影が倒れ伏している。彼女は浩一に近付くと、そっと人差し指を自分の唇に当てて消えてゆく。まるで口止めをしているかのように──────

「そんな夢を、毎日のように見るんだ。気になって仕方がないよ」

 そう語る浩一を、来亜は半ば呆れたような目で見ていた。冷やかしとは思えない熱量だが、確かに簡単には信じられないような話だ。

「そうは言うが、いくら何でも夢の中の人を探すなんて……まだイタコにでも頼んだ方が望みはあるだろう」

「既に十人ほど当たったさ」

「十人」

「それで、全部駄目だった……でも、霊を降ろせないなら、きっと彼女は生きているはずだ。君はいくつも難事件を解決してきたと聞いたから、何とかしてくれるかと思って訪ねてみたんだ……」

 頼むよ、と浩一は縋るように言った。来亜の方を見ると、やれやれと首を横に振っていた。流石に彼女も断るつもりなのだろう。

「……悪いが、どうも今は人を信じる気分になれなくてね」

「私のせいですか!?」

「そうは言っていないが……それに、この吹雪の調査もある。他の調査をしている余裕はないよ」

「吹雪……そう、吹雪だ!」

 浩一はそれを聞いて立ち上がった。どうやら、まだ諦めてくれないようだ。

「僕が見る夢も、いつも吹雪の中なんだ。こんな真夏に大雪が降るなんて、絶対に何かある!」

「だから、何かあったとしても……」

「僕も調査に同行させてくれないか!」

 来亜の言葉を遮り、浩一は大きな声で彼女に頼み込んだ。

「この夢は、でたらめじゃない。何か……何かが、あるはずなんだ……!」

 彼の夢に対する異様な執着は、私にもよく分かる。自分が無意識の中に封じていた過去が、夢となって掘り起こされることがあるという。一ヶ月も同じ夢を見続けているということは、よほど重大な過去があったのだろう。彼はきっと、その過去を紐解きたいのだ。

「先パイ、同行ぐらいなら良いんじゃないですか?」

「……まあ、そうだな。ただし、調査の邪魔はしないでくれたまえ」

「もちろんだ、ありがとう!」

「では二時間後、神土高校に集合しよう。あそこは特に雪が多いらしいから、そこから調べたい」

 返事を聞いて、浩一は嬉しそうに事務所を去った。彼が過去を紐解いた先には、一体何が待っているのだろうか。そう思いながら、私は調査の支度を始めた。




 時間が経つにつれて、吹雪は強くなっていった。電車はおろか、バスの本数さえ減っていたから、渋々歩いて学校まで向かった。来亜は途中で疲れてしまったというので、半分くらいは私がおぶって運んだ。

「先パイ、着きましたよ」

「く……想定外だったな、まさかあれから雪が強くなるとは……」

「おかげで車も出せませんでしたからね……」

「全く……いつもなら足手まといになるコートが、今はありがたいね」

 来亜はそう言いながら私の背中から降り、降り積もった新雪の山にブーツで小さな足跡をつけた。当然ながら気温も低く、私も雪よけに着ていたレインコートをありがたく思っていた。来亜は不意に私の方を振り向いて尋ねた。

「そういえば、どうして君は傘を使わないんだ?」

「あー……傘、下手なんですよね」

「……何か、想像がつくな……」

「ひどーい!」

 頬を膨らませる私をよそに、来亜は校舎の辺りをじっと睨み始めた。

「先パイ、何か見つかったんですか?」

「……ライトだ」

 そう言って彼女が指をさした先には、歩いている怪盗の姿があった。いつも通りの真っ白な服装で、大雪の中を歩いてきたとは到底思えない。不意打ちを試みるために、来亜から離れてそっと後をつけた。ライトは唐突に後ろを振り返って、声を発した。

「そこにいるのは分かっているんだ」

「……ッ!!」

 観念して物陰から飛び出す。ライトの様子を見ると、大きく後ろに引きさがっていた。ひどく驚いているようだ。

「な……何でいるんだ!!」

「ええ!?」

「冗談だったのに、本当に出てきたら困るだろう!」

「そんなこと言われても……」

「……まあいい、君がいるということは、来亜もいるのだろう?」

 ライトは一度息をつき、襟を正しながら私に問いかけた。その真っ白な服が雪に紛れ、思わず姿を見失いそうになる。

「……いえ。ここには一人で来ました」

「君も僕に負けず劣らず嘘が下手だな」

「……」

 どういうわけか、すぐに見抜かれてしまった。しかし、また私を欺いて自白させようとしているのかもしれない。余計なことを言わないように、沈黙を貫こうとした。

「いや……違うな。君は、嘘が下手なんじゃない。それどころじゃないのか」

「な……バカにしてるんですか!!」

「あっはっは、ノーコメントとさせてもらおう!」

 ライトが高笑いした瞬間、その背後から小さな影が迫った。ライトはそれを見抜いていたようにいきなり高く跳び上がり、自分を捕まえようと伸びてきた手を躱して軽やかに着地した。

「甘い甘い、僕を捕まえるためにはまだ経験が足りないな!」

「……ごきげんよう。ずいぶん不法侵入が板についてきたようだな」

 来亜は積もった雪に手をついたまま、苦々しく笑いながらライトの方を向いた。

「怪盗だからね。これぐらいはお手のものさ」

 それよりも、と言いながら、ライトは自身の懐に手を伸ばした。相変わらず顔はよく見えなかったが、口角が上がっているのが辛うじて見えた。

「来亜……君の言う通り、君の助手は本当に優秀だ。現に、僕は前回殺されかけているわけだからね」

「……それで?」

 ライトは懐から手を離さず、少しずつ後ろに退がってゆく。飛び道具を警戒して、私は来亜を庇える位置に移動した。不意にライトは足を止め、私の方を向いて口を開いた。

「だから、また君たちに出くわした時のために対策を練ってきたんだ」

「ふん、試してみたまえ。多少の小細工なら小指一本で水の泡さ」

「先パイは私のことを何だと思ってるんですか?」

 ライトはついに懐から手を離した。その手には、一冊の本が握られていた。しかし、本の表紙や題名は吹雪でよく見えない。

「これ、何だと思う?」

「……あーっ!!」

 束の間の沈黙の後、その本の正体に気付いた私は大きな声をあげた。瞬間、ライトは本を上に放り投げる。私はそれに吸い寄せられるように夢中で駆け出し、本が落ちる前に飛び込みながら掴み取った。直後、ガシャン、と金属音が響く。本の無事を確認してから顔を上げると、視界一面に鉄の網目が広がっていた。信じがたいことだが、檻が上から降ってきたのだ。

「奈緒―ッ!!」

「つ、捕まっちゃいましたー!!」

「あっはっは!」

 まんまと罠にはまった私を、ライトが指をさしながら笑っていた。怒りに任せて檻に手をかけてみたが、びくともしない。

「何でこんな罠に引っかかったんだ!」

「こんなの、アリア先生のファンとして取りに行かない方がおかしいんですよ!!」

 ライトが取り出した本は、『無題』。アリア先生の幻の作品だ。私が先生の作品に出会う前に限定販売していたものだから、どうしても手に入らなかったのだ。来亜が駆け寄ってきたが、外からも開かないらしい。

「これは……暗号か!」

「うう、檻が冷たい……先パイ、私がこのまま死んでも忘れないでくださいね……」

「……善処しよう」

「そこは言い切ってくださいよ!」

「まあ、しばらくそこで大人しくしているがいいさ。その本は盗品ではないから、安心して楽しんでくれたまえ!」

 殴る、蹴る、体当たり、どれも檻には通じない。どうやらただの檻ではないようだ。前回体操マットが飛び出してきたように、これもライトが呼び出したものなのだろうか。何もできないでいる私をよそに、ライトは吹雪の中へと消えてゆく。

「さて、そろそろ失礼しよう」

「待て!」

「今は諦めたまえ。物事には順序というものがある」

 何度も飛びかかる来亜の手を軽々とすり抜けながら、ライトはそう言った。

「再び君たちに会うのは、七つの事件……いや、七つの物語を、終わらせた時だ」

「物語……?」

「そうだ……物語は、必ず終わらなければならない。それを、肝に銘じておくことだ」

 その言葉を最後に、ライトは姿を消した。直後、浩一が手を振りながら駆けつけてきた。

「斧山さん!」

「ようやく見つけた……って、その檻は!?」

「ちょっと失敗しちゃって……」

 私の返事は、浩一の耳には入っていないようだった。彼は急に驚いたような、あるいは怯えたような表情をして、震える手で私の後ろを指さした。来亜もそれに気付いたらしく、襟を正して身構えていた。

「二人とも、急にどうしたんですか?」

「……奈緒、ゆっくり後ろを向くんだ。決して大声を上げないでくれ」

 来亜にそう言われて後ろを振り返ると、そこには一人の少女の姿があった。私はその異様な光景を見て、思わず目を見開いた。明らかに、その少女を中心にして吹雪が起こっている。彼女が歩けば吹雪も動く。その様子は、まるで鎧を身に纏っているようだった。

「な……」

「おい、奈緒────」

「なんですかーッッ!?」

 少女がこちらを向いた瞬間、自らの過ちに気がついた。来亜は呆れたようにため息をつき、片手で頭を押さえている。

 少女が私に向かって指をさす。直後、私の両方の手首に氷でできた手錠のようなものがかかった。壊そうとしたが、どういうわけか全く力が入らない。

「ま、また捕まっちゃいました!!」

「君、今日は踏んだり蹴ったりだな!」

 少女が少しずつこちらに近づいてくる。毒で獲物を追い詰める獣のように、じわじわと。背筋が凍るような思いだが、まずはこの状況をどうにかしなければならない。動かない私たちを見て、浩一が声を上げる。

「二人とも、ひとまず逃げないか!?」

「そうしたいが、奈緒が……!」

 この状況を確実に抜け出す方法が、一つだけある。浩一の手に握られている傘を受け取れば良いのだ。

「浩一さん、傘を渡してください!」

「傘……?」

 咄嗟の頼みに浩一が首を傾げている間に、夢に出てきた言葉が脳裏をよぎる。

『……決して、長物は持たないで』

「……!!」

 その言葉を思い出して、考え直すことにした。しかし、こうして悩んでいる間にも少女はどんどん迫ってくる。

「……ごめんなさい、斧山さん。やっぱり傘は結構です!」

「あ、ああ……」

 最善の策を捨てた以上、次善の策に頼るしかない。手に力が入らない中で必死に鞄を漁り、眼鏡を取り出してかけた。

「奈緒、こんな時に何してるんだ!?」

「……先輩。暗号の内容を教えてください」

「いや……その、君に解けるとは思えないが……」

「早く!」

 渋る来亜を急かし、何とか暗号を伝えてもらった。

「"真相を知るあなたは、この後の物語に従うだけ"……以上だ」

「……わかりました」

 それを聞いて、私は檻の出入口の辺りにある鍵のかかった部分に手を伸ばして握った後、すぐに離した。ガチャリと音がして、鍵が開いた。

「開いた!?」

「行きましょう……ただ、恐らくこの手錠のせいで、力が入りません。先輩、肩を貸してください」

 来亜は驚きながらも私の傍に駆け寄り、檻を開けて肩を貸してくれた。しかし、身長差のせいで思いのほか上手く歩けない。私の身体を支える来亜の腕は震えている。その原因は、どうやら恐怖ではないようだ。

「重ッ!!」

「僕が支えるから、空言さんは逃げてくれ!」

「…………」

 駆けつけた浩一の肩に手を置き、私は複雑な気持ちを抱えながらその場を離れた。後ろを振り返ると、いつの間にか少女は歩みを止めていた。彼女から離れるにつれて氷の手錠が次第に解け、だんだん力が戻ってくる。それと同時に頭痛も襲ってきたので、急いで眼鏡を外した。

「あ、危なかった……ここまで来れば大丈夫ですかね?」

「……何にせよ、ひとまず事務所に戻るとしよう」

「ああ、それなら僕は一度家に帰るよ。また調査をする時はぜひ呼んでほしい」

 浩一はそう言って、私たちと別れた。彼の姿が見えなくなった後、来亜の方に向き直ると、彼女は怪訝そうな表情をしていた。その視線は、私の目に向いている。

「あの……何か、ありましたか?」

「……そうだな、帰るついでに聞いておこう。君、さっきのは何だ?」

「……あ!」

 私は声を上げて、鞄から『無題』を取り出した。来亜はアリア先生の作品を読まないらしいから、知らないのも無理はない。

「これですよね、『無題』はアリア先生の幻の作品で……!」

「それも気にはなるが……私が聞きたいのはその後のことだ。君は眼鏡をかけて、一瞬で暗号を解いた。あれは一体……何だ?」

「……ああ、ちょっと待ってくださいね」

 来亜の疑問はもっともだ。私は頭痛を覚悟して、頭を押さえながらもう一度眼鏡をかける。

「……私は普段から、気持ちを切り替えるきっかけを作っているんです」

「……ふむ」

「戦う時や眠る時、そして頭を使う時……私は場面に応じて、気持ちを切り替えています。眼鏡はそのきっかけの一つです」

 来亜は歩きながら私の説明を聞き、顎に手を当てて考える仕草をしていた。これまでの私の様子を思い返しているのだろう。しばらく経つと疑念が晴れたようで、彼女は普段通りの顔つきに戻った。

「……そうだ、ついでに暗号の解説も聞かせてもらおうか。簡単に解けたようだからね」

「暗号を解いたというよりは、読みが当たったという方が近いですが……」

 "真相を知るあなたは、この後の物語に従うだけ"。この暗号が示す檻からの脱出方法は、檻の鍵の部分を握って、その手を離すことだ。前半は単なる言葉遊びで、"真相を知る"という言葉を"鍵を握る"という慣用句に置き換えれば良い。後半は、ライトが去った後に現れた少女のことを指していると考えた。あれは、明らかに雪女だ。今までのライトの様子から、物語を変わった視点から捉えるのを好む性格をしていると思った。だから私も雪女を"話すことで終わった物語"だと解釈し、鍵を握った手を"離す"ことで鍵が開くのではないかという結論に至ったのだ。そう説明すると、来亜は感心したような表情を浮かべていた。

「……それを、あの一瞬で?」

「はい。その……時間が、ないものですから」

 来亜は再び訝しむような表情をした。その鋭い眼光が、眼鏡の先にある私の瞳をとらえる。

「……時間がない、というと?」

「この状態は、五分も維持できません。この……いえ、普段の私は頭が良くないので、このままでいると頭痛で倒れてしまうんです」

「……なるほど、試験の結果が数学だけ悪かったのはそのせいか。記述する時間も考えれば、五分では到底間に合わないからね」

「……はい」

 私が説明しようとしていたことを先回りして、来亜は納得してくれた。不意に彼女は降り積もった雪に向かって背中から倒れ込んだ。

「全く……この吹雪だけでも大変だというのに、君のことも、そして斧山さんの夢の話もある。流石に頭がいっぱいだ」

「斧山さんのこと、考えていたのですね」

「……まあね。初めは断るつもりだったが、気が向いたのさ」

 来亜は雪の中からひょいと身体を起こした。コートはびっしょりと濡れて、背中の辺りの色が濃く見えていた。私は頭痛に耐えられなくなり、その場に腰を下ろした。

「……先輩。すみませんが、そろそろ限界です」

「ああ、無理をさせてしまったな」

「最後に、一つだけよろしいですか?」

「何だ?」

 私は来亜に、一言だけ忠告をした。本当はもっと早く伝えるべきだったが、それはできなかったようだから、少し無理をしてでも今この場で伝えておきたかったのだ。

「"源"……もし、私がそう名乗ることがあったら、その時は……逃げることだけ考えてください」

「ゲン……?」

「それでは、少し休んでから戻ります……先に行っていてください」

 私は来亜に先に行くよう促した後、眼鏡を外して休息した。ひどく頭が痛む。いつもと違って、頭の負担だけがその原因ではないような気がした。私はひとまずそれを寒暖差のせいにして、来亜を追って再び歩き出した。




 事務所に戻った後、私たちは今後の動向について話した。吹雪を起こしていると思われる少女の出現と、その近くにいた怪盗ライトの存在から、この異常気象は解決すべき事件だと判断したのだ。

「……さて、奈緒。まずは君についての話から済ませよう」

「は、はい!」

「眼鏡をかけた君の知恵は是非とも借りたいところだが、極力頼らないようにしたい。負担が大きいようだからね」

「わかりました、ありがとうございます」

 推理は私に任せたまえ、と来亜は軽く胸を叩いた。そして、彼女は本題の異常気象の話を始めた。

「次に、この大雪についての調査だが……一旦、直接調査に出るのはやめよう」

「えっ!?」

「考えてもみたまえ。ほんの僅かな時間の接触だったが、危うく全滅するところだったんだ。無闇に突っ込むべきではない。これは事件で、原因がある……それが分かっただけで十分さ」

 来亜は冷静にそう言った。だが、今回はこれまでの事件とは比べものにならないほど規模が大きい。放置すれば、取り返しのつかないことが起こる可能性もある。

「確かに、それはそうですけど……この事態を放っておくんですか?」

「……それも、望ましくはないね。間を空けるのは、一日が限度だろう。明日で情報を集めて、明後日で解決だ。簡単な話さ!」

「……」

 来亜は、追い詰められるとこういう嘘をつく。ただでさえ一筋縄ではいかない事件を、短期間で解決しなければならない。さらに、その被害は町全体に及んでいるのだ。彼女にかかる重圧は、想像を絶するものだろう。

「心配する必要はないよ、当てはある。今回の調査のおかげでね」

「当て?」

「詳しいことはまた明日話す。今日は早く休もう、風邪をひいてはいけないからね」

 来亜はそう言って話をやめ、せっせと寝る支度を始めた。私は先生に声をかけて、一度外に出た。冷たい風が、全身を叩くように容赦なく吹きつける。

「……すごい音。玄関先の足音も、事務所の中には聞こえないかも」

 私はそう呟いて、目の前に佇む黒い影を睨んだ。影は私の方を向いて、襲いかかる。少し前まで忘れていた日常が、再びやって来た。毎日、一分にも満たないほんの僅かな間だけ、私はこの影に奪われていたのだ。相手が瞬きする間に距離を詰めて掴みかかり、その場にねじ倒した。今日も、取るに足らない相手だった。

「……!!」

「……あなたも、先パイを見習うべきだよ。無闇に突っ込むべきじゃなかった」

「ぐ……怪物め……!」

「……あは」

 つい、笑ってしまった。目の前の人間は、私のことを怪物と呼んだのだ。私なんかのことを。なんて、幸せな人なんだろう。何だか馬鹿馬鹿しくなって、飽きた玩具を捨てる子どものようにその見知らぬ相手を放り投げた。

「もう来ないでね。その時になったら、私の方からそっちに行くから」

 黒装束に身を包んだその人は、怯える小動物のように一目散に逃げ出した。向こうから襲ってきたくせに、勝手な人だ。その姿が見えなくなってから、私は事務所に帰った。




 翌日、私たちは浩一に連絡し、彼の家まで向かった。どうやら、来亜の言っていた当てとは彼のことらしい。浩一は自分が事務所に行くと申し出てくれたが、来亜はそれを断って彼の家まで来たのだ。結局、その理由は私もまだ聞いていない。

「雪の中、大変だっただろう」

「まあね。ただ、この辺りは雪が少なくて助かったよ」

「それで……話って?」

「……単刀直入に問おう。あの雪女……あれは、君の探していた少女か?」

 浩一は驚いたように目を見開く。その反応を見て、来亜はほっと息をついた。彼女は身体の力を抜き、余っているコートの袖を軽く握った。

「何で、それを……?」

「確証はなかったんだが、雪女が君を見た時から歩みを止めていたように見えたからね。夢で会った少女ではないにしても、何らかの関係はあると思ったのさ」

「……そうか、流石だね」

「だが、あの様子では今から会うだけでおしまいとはいかないだろう。彼女に夢で会うに至ったきっかけ……君の過去を、解明する必要がある」

 来亜はそう言って、浩一の部屋全体を見回した。何か解決の糸口になりそうなものを探したようだが、やはりそう簡単には見つからないようだ。

「……君自身も覚えていないことを他人が覚えているかどうかは怪しいが、私たちはこの辺りで聞き込み調査をしようと思う。君は自分の過去を振り返ってみてほしい」

「わかった。それなら……」

 浩一は机の引き出しからスケッチブックを取り出して広げた。そこには、昨日見た雪女にそっくりの絵が描かれていた。

「すごい、上手ですね!」

「絵は少し得意でね。言葉だけで説明すると大変だろうから、良ければ使ってくれ」

「ありがたく使わせていただこう、助かるよ。それじゃあ、調査開始だ!」

 来亜は張り切って声を上げ、ぐいぐいと私の手を引っ張って浩一の家を出た。そして、すかさず近くの喫茶店に入った。彼女は慣れた様子でコーヒーを注文し、これまた慣れた様子で信じられない量の砂糖を入れた。

「先パイ、こんなことしてていいんですか!?」

「おいおい、喫茶店は情報収集の基本さ。居酒屋なんかも悪くないが……今は昼だし、何より私たちは未成年だからね」

 来亜は砂糖の塊が浮いたコーヒーを美味しそうに飲み、追加でパフェまで注文した。私もやむなく紅茶を頼み、待っている間に他の客の会話に聞き耳を立てた。しかし、事件に関する話をしている客はいないようだ。

「わざわざここまで来たのは、この喫茶店に来るためでもある。新作のパフェが話題でね、気になっていたんだ」

「全くもう……」

「初めて来たが、いい店だな。コーヒーも美味しいし」

「そんなに砂糖入れて評価したら怒られますよ!」

「わかってないな。砂糖を入れるにしても、良し悪しがあるのさ」

 来亜は自分の視線が上に向くほど大きなパフェを前に目を輝かせ、すぐに咳払いをして平静を装った。だいぶ手遅れだと思ったが、何も言わなかった。そうしているうちに一人の女性が店を訪れ、来亜のもとに歩いてきた。

「あら、来亜ちゃんじゃない。久しぶりね。最近来ないから、心配してたのよ」

「……ご無沙汰しております」

 どうやら女性は来亜の知り合いらしい。一瞬の沈黙の後、来亜は一度スプーンを置き、コートの裾を掴んでお辞儀をした。彼女のお辞儀は、どこかぎこちなかった。女性の言葉で私に嘘がバレたのを、察していたのだろう。

「……先パイ、さっき初めて来たって……」

「……まあ、こういうこともあるさ!」

「あら、来亜ちゃん……前に一緒に来てた子は?」

「……」

 一瞬、来亜がこれまで見たことがないような暗い顔をしたように見えた。しかし、そう思った次の瞬間には普段通りの表情をしていたので、見間違いかもしれない。来亜は苦笑しながら答える。

「……実は、嘘ばかりついているうちに愛想を尽かされてしまって……」

「あら、そうなの?」

「まあ、方向性の違いというものです。気にすることではありません」

 来亜はコートの襟を掴んで直した。彼女の言葉を聞いた女性は安心した様子で息をつき、来亜の肩を軽く叩いた。

「それならいいんだけど。そう、そういえば来亜ちゃん、最近凄いじゃない!」

「え?」

「数々の難事件を解決した探偵って、あちこちで騒がれてるわよ。この調子で頑張ってね!」

 そう言い残して、女性は去っていった。来亜は再び席につくと、残ったコーヒーを一気に飲み干し、パフェをさっきの倍ほどの速さで食べ進めた。私も急かされるように紅茶を飲み、会計を済ませて急ぎ足で店を出た。

「先パイ、急にどうしたんですか!?」

「そろそろ本格的に調査に乗り出そうと思ったんだ。思いのほか長居してしまったからね」

「やっぱり調査じゃなかったんですね!」

「いや、調査ではあったよ。収穫が皆無だっただけさ!」

 来亜は浩一から受け取ったスケッチブックを開き、周囲の人たちに少女のことを知らないかと尋ねて回った。私は来亜の代わりに返答を書き留めていった。

「綺麗な絵だね、浩一君らしいよ。でも、その子のことは知らないなあ……」

「浩一君が描いたのか。どこかで見たことあるような気はするけど、思い出せないな……」

「浩一君、やっぱり絵が上手ね。でもごめんね、その子のことは知らないわ」

 何人かに尋ねたが、手がかりは全く得られなかった。一度休憩を取ることにして、近くの公園に入る。ベンチに座りながら、来亜は何かを考え込んでいるようだった。

「先パイ、何か気になることでもあるんですか?」

「……ああ。試しに、斧山さんが描いたことを伏せて聞いてみないか?」

「え?」

「……普通、この絵を誰が描いたかなんて気にすることはないと思う。恐らくだが……彼らは、斧山さんに知られたくない何かを知っている」

 来亜はそう言って、再び立ち上がった。私が絵を描いたことにした途端、周囲の人たちの反応が明らかに変わった。どうやら来亜が考えていた通りらしい。

「この子は……去年の冬に雪山で遭難した子だと思う。美幸って名前の子だ」

「絵が上手な子だったよ。あんたもあの子みたいな絵を描くね、中々上手じゃないか」

「浩一君とは小さい頃から仲が良かったよ。浩一君はあの子の影響で絵を描き始めたって聞いたな」

「……くれぐれも、美幸ちゃんのことは浩一君に言わないでくれ。頼んだよ」

 日が沈んだ頃、私は疲れた彼女を背負って浩一の家に戻った。話は聞けたが、核心に迫る情報は得られなかった。雪女の正体が美幸だったとして、半年前に遭難したと言われている彼女がなぜ今になって神土高校に現れたのか。なぜ、周囲の人たちは彼女のことを浩一に知らせないようにしているのか。結局、疑問が増えるばかりだ。

「お疲れ様、何か手がかりは得られた?」

「さっぱりだ。残念だが、時間もない。明日の夜、力尽くで解決するより他にないだろう」

「……そうか。仕方ない」

「君の方は何か思い出せたかい?」

 来亜が尋ねると、浩一は首を横に振った。ぼんやりと何かが浮かんでいるような気もするが、何せ一ヶ月も同じ夢を見ているものだから、その夢の記憶とあまり区別がつかないのだという。ただ、と彼は付け足しながら、机の引き出しからミサンガを取り出した。

「部屋の整理をしていたらたまたまこんなものを見つけたんだ」

「これは……?」

「僕も覚えがない。こんなの自分で作らないから、人から貰ったものなんだと思う」

「それが雪女のものかもしれない、というわけか」

「ああ。その可能性が高い。他にも人から貰ったものは出てきたけど、これだけ全く覚えがないんだ」

 手がかりになるかもしれないから、と浩一は来亜の手にミサンガを握らせた。来亜はコートのポケットにそれをしまい、浩一に礼を言って立ち上がった。

「さて、明日は大仕事になりそうだ。奈緒、先に事務所に帰っていてくれ」

「何かやることがあるなら手伝いますよ?」

「……さっきは時間に追われてしまったからね。改めてコーヒーとパフェを楽しもうと思ったのさ」

「そんなに糖分摂ったら身体に良くないですよ!」

 結局、忠告もむなしく私は来亜に促されるまま先に帰ってしまった。彼女は中々事務所に戻らず、先生は先に寝てしまった。私も眠気に耐えかねて寝室に足を運んだ頃、ようやく鍵が開く音が聞こえた。




 翌日の夜、私たちは約束通り神土高校へ向かった。吹雪は以前よりも勢いを増していて、辺りに車は全く通っていなかった。高校に着いて雪女を探すと、彼女が運動場の辺りを彷徨うように歩き回っているのが見えた。

「見つけました、運動場にいます!」

「早いな!」

「もう行っても良いですか?」

「ああ––––––––決着をつけるとしよう!」

 来亜の号令とともに、私は足元の雪を思い切り踏み固めながら前進した。雪女の背後から接近すると、彼女はぐるりと身体を回してこちらを見た。宝石のような紅い瞳が、私を捉える。まるで後ろにも目がついているかのような反応速度だ。私が近づき、風の動きが変わったことで気付いたのだろう。攻撃を受ける前に、懐からナイフを投げて退避した。

「奈緒、手錠が来る!」

 来亜が叫んだ直後、私の手の周りの温度が急速に下がったのを感じた。その場で手を動かし、冷気の集中を妨げる。雪女は回避されたと悟ったのか、すぐにこちらに冷気を向けるのをやめた。その隙に、再び懐からナイフを投げる。風に防がれ、ナイフは雪女の足元に落ちた。辺りに積もっていた雪が、じわりと水に姿を変える。

「……!」

「効かないか……!」

 飛び道具は、きっと彼女には当たらない。しかし、下手に接近すれば吹雪に耐えられない。今はただ生き延びることだけを考えて、隙を見つけるしかないようだ。雪女の周りに冷気が集まり、天女の羽衣のような煌びやかな輝きを見せ始めた。冷気はやがて大量の氷柱に変わり、一斉にこちらに向かって飛んでくる。だが、これぐらいの攻撃ならば想定内だ。雪女を囲うように走って氷柱を避け、来亜に矛先が向かないように立ち回る。反撃として、懐のナイフを投げ続けたが、やはりどれも当たらずに雪女の足元に転がった。

「先輩、ナイフがなくなりました!」

「よし。作戦通りに行く、頼んだぞ!」

 来亜は勝ち誇るような笑みを浮かべながら、雪女に向かって人差し指を伸ばし、接近の指示を出しているように見せかけた。雪女は警戒し、足元のナイフを冷気で持ち上げて来亜の方に向けた。私は身体の向きを大きく変え、風を切りながら来亜のもとに駆け寄り、隠し持っていたナイフを構える。

「……!」

「自分の手の内を正直に言うわけがないだろう?」

「先輩、伏せてください!」

 雪女は構わず、ナイフを飛ばして攻撃を始めた。目を見開き、今防ぐべき攻撃を見極める。いくつかは避けた先に当たるように飛ばすことも踏まえて、私が防げる限界までナイフを持ち込んだ。一瞬でも気を抜けば、被弾は免れない。殴りつけるような暴風の痛みも、肌を赤く染めるような雪の冷たさも、この瞬間だけは全て忘れた。

「ああああああああッッ!!」

 叫びながら、押し寄せる無数の死を一つ一つ弾き返す。既に、準備は整っている。この先にある勝機を掴むために、無我夢中でナイフを振るった。さっきまでこの数のナイフを抱えて戦っていた分、今は身体が軽く感じる。だが、それを加味しても全て捌き切るのは困難だ。いくつかのナイフは風で軌道が逸れ、私の頬を掠める。血が流れて足元の雪に落ち、赤く滲む。疲労と高揚で、腕の感覚が徐々になくなってゆく。ほんの数秒、その取るに足らない時間が、およそ無限に引き延ばされているように感じた。それが私の錯覚だと気付くのは、目の前から全てのナイフが消えた後だった。

「あ……!」

「奈緒!」

「平気です!」

「これで最後だ、頑張ってくれ!」

 意識が朦朧とする中、雪女が動き出す前に立ち上がる。来亜がポケットから取り出した道具を受け取り、雪女の足元めがけて力いっぱいに投げ、その場に倒れ込んだ。彼女の周りの雪を貫き、地面に勢いよくぶつかったのは、乾電池だ。衝撃で発火し、すぐさま勢いよく燃え広がる。炎は吹雪さえ呑み込み、雪女を取り囲った。

「……!!」

「冷気……全く、便利なものだ。ものに触れもせず、無力化できる」

 来亜は雪女を包む炎に近づく。雪女は暴れたり、苦しんだりしている様子はない。だが、揺らめく炎の狭間から、強い怒りと憎しみをはらんだ瞳が垣間見えた。

「ただ、頼りすぎるのは良くないな。触れなければ分からないことだってある」

「……」

「例えば……そこに散らばっているナイフは、全て鞘の中に油を含んでおいたものだ」

 雪女は、口を開かないままずっとその場に立ち尽くしている。その様子は、どこか機会を窺っているようにも見えた。

「だから、君の足元に落ちた時点でこのナイフの仕事は終わっていたのさ」

「……」

「初めから君が運動場にいて良かったよ。屋内だったら、とてもこんな作戦は使えないからな」

 来亜がそう言った直後、雪女は両手を真上に掲げた。それから一気に振り下ろして、凄まじい勢いの冷気を起こして火を消した。来亜を庇うために前に出ようとしたが、まだ身体が上手く動かない。風の強さに耐えかねて目を閉じる。再び目を開くと、雪女の近くに浩一の姿があった。彼女はひどく驚いた様子で、震えるように短く息をしている。

「……!?」

「嘘をついて悪かったね、奈緒。初めから、私は力尽くで解決するつもりは一切なかった」

「ええーっ!?」

 来亜は音を立ててコートを直しながらそう言った。私が慌てるのにも構わず、彼女は話を続ける。

「私たちの役割は、浩一が雪女に近づく隙を作ること……いわば陽動だったんだ」

「そんなあ……」

「だが、それを君に伝えたら、戦いながら考えることが増えてしまう。雪女は、それで勝てる相手じゃなかった」

 来亜の言うことはもっともだ。実際、浩一が近づく隙を作らなければならないと考えながら戦っていたら、今頃私たちは自分で持ってきたナイフの錆になっていたことだろう。

「さて、私からのタネ明かしはこれで十分だろう。雪女……いや、美幸さんに必要なのは、斧山さんの言葉だからね」

 来亜はそう言いながら、その場で動けずにいた私の袖を引っ張って後ろに退がった。美幸は数秒ほど静かに浩一を見つめた後、顔を背けて再び冷気を起こした。

「危ない!」

「……奈緒、彼はきっと大丈夫だ」

 浩一は強風に打たれながらも、ゆっくりと前に進む。美幸に近づくにつれ、その動きは少しずつ鈍くなっていったが、決して歩みを止めはしなかった。

「……美幸」

「……」

「全部、思い出したよ。去年の冬……僕たちに起こったこと」

 美幸は浩一を退けることを諦めて冷気を弱め、彼の話を聞いた。穏やかな夜風が吹く中、浩一の声だけが辺りに響く。

「去年の冬、僕たちは近くの山に出かけた。毎年、そこで雪遊びをするのが習慣だったから」

「……」

「でも、山に登る途中で君が足を捻ってしまったから、近くの山小屋で休息することにした。そこで……雪女に襲われたんだ」

 浩一の声が、少しずつ暗くなる。その声には、恨みや後悔のような感情がこもっているようだった。私は、そんな声を知っている。だから、彼の気持ちが痛いほど伝わってくる。

「僕が水を汲みに行って、小屋を離れた時だった。戻ってきた時には、既に君は今の姿になっていた……!」

「……」

「僕は必死に逃げて下山して、自分の記憶を封じようとした。僕は……君を守れなかった事実から、逃げた」

 浩一は、静かに拳を握った。今もなお、自責の念に苛まれているのだろう。彼の過去もまた、紐解いた先に悍ましいほどの苦しみが待っていたのだ。

「でも……今度はもう逃げない。凍りついていた記憶が夢として蘇ってから、僕はずっと君を探していた。今度は、今度こそは、君を置いていくことはしない。だから……こんなことは、もうやめよう」

「……」

 美幸は、浩一の言葉を黙って聞いていた。彼女の中に渦巻く感情が何なのか、そもそもそんなものが存在するのかどうかさえ、分からない。ただ、その場に立ち尽くす彼女の瞳から、足元の雪に雫が落ちて、滲むように溶けている。私の目の前には、その事実だけがあった。

「……こう、いち」

「……!」

 美幸は、初めて口を開いた。ずっと声を発することもできないまま、今まで彷徨っていたのだろう。掠れるような、たどたどしい声で、彼女は浩一の名前を呼んだ。

「美幸……?」

「……ずっと、探してたの。私……ずっと……!」

「……ああ……!」

 美幸の言葉を聞いて、浩一は膝をついた。どす、と重い音がして、辺りの雪が固まる。吹雪の先に春風があるように、彼の苦しみの先に、救いがあって良かった。私は、心からそう思った。

「……一件落着だな。全く、大変な事件だった」

「うう、本当に良かったです……!」

「さて、私たちはさっさと撤収するとしよう」

 来亜がそう言った瞬間、私はひどく嫌な気配を感じた。底知れぬ悪意のような、正体の掴めない何か。それが、美幸のもとに向かっている。咄嗟に振り返ると、地面から巨大な氷柱が生えていて、それが浩一の喉元まで迫っていた。

「……ッ!!」

 浩一のもとに駆け寄り、拳で氷柱を砕く。手には青あざができたが、間一髪で助けられたようだ。美幸の方を睨むと、彼女も状況を理解できていない様子だった。

「斧山さん、何があったんですか……?」

「わ、分からない。いきなり地面から氷柱が生えてきて……!」

「あ、ああ……!!」

 美幸は混乱と悲哀の混じった声を上げ、その場にうずくまった。彼女、あるいはその中にいる雪女が、浩一を油断させて彼を襲ったわけではなさそうだ。しかし、そうだとすれば誰がやったのか見当がつかない。

「浩一……!」

「美幸、僕は平気だ。大丈夫だから……!」

「浩一……お願い。私を……消して」

 美幸は、目に涙を浮かべながらそう言った。私はそれを聞いて我慢できず、つい声を荒らげてしまった。

「何てこと言うんですか!」

「……!」

「ずっと待っていたのに、せっかく……会えたのに、そんなに簡単に諦めるなんて……!」

「……奈緒、そこまでにしておきたまえ」

 来亜は私の前に出て制止し、美幸と浩一の方をじっと見た。そして、再び口を開く。

「……これはあくまで推測だが」

「……」

「美幸さん……君の中には、”雪女の物語”がある。さっき氷柱が飛び出したのは、恐らくそれが終わっていないからだ」

「雪女の、物語……?」

 来亜は話を続ける。その様子はとても心苦しそうで、これから彼女が語る推理の残酷さを物語っていた。

「ああ。その結末は、男が雪女に口止めされていたことを、人間に化けた彼女に話してしまい、雪女は姿を消すというものだ」

「じゃあ、どうすればいいんだ……?」

「今、私たちの前にいるのは雪女に乗っ取られた美幸さんだ。だから、逆の場合を考えるんだ。斧山さん……君がかつての美幸さんの話をすれば、物語は終わるはずだ」

「……」

 浩一はそれを聞いて、静かに俯いた。それは、この後に来亜が話すことを察していたからだろう。

「だが……今の美幸さんは、もはや雪女そのものと言ってもいい。雪女の物語を終わらせれば、美幸さんも消えてしまうだろう」

「な……駄目です、そんなの!」

 居ても立ってもいられず、私は声を上げた。そんなことをすれば、浩一は二度も美幸を失うことになる。美幸だって、雪女として彷徨い、浩一を探し続けていたのに、彼と再び離れ離れになってしまう。それでは、あまりにも救いがない。

「奈緒、私だって同じ気持ちだ。だが……決めるのは、私たちじゃない」

 来亜はそう言って一歩後ろに退がり、それ以上は何も言わないと無言で表明した。浩一は美幸の方をそっと見た。彼女は、黙って俯いている。

「……美幸」

「……浩一、私……本当は消えたくない」

「……」

「でも……一緒にいることで、浩一を傷つけるのはそれよりもずっと辛い……!」

 浩一は、ただ真っ直ぐ美幸の顔を見つめていた。もう離れていかないよう、強く記憶に焼きつけるように。その様子が過去の自分と重なって、私は思わず目を背けてしまった。

「斧山さん」

「……僕は、もう逃げない。さっき、そう言ったばかりだ」

 その声は、震えている。恐怖をいっぱいにはらんでいて、今にも逃げ出しそうな声だ。そんなに怖がっているのに、どうして歩き出せるのか、私にはわからない。

「駄目です」

「……美幸。話したいことが、あるんだ」

「やめて!」

 探偵の助手として、浩一を止めるのが間違っているのは分かっている。私たちは、そもそも口を出せる立場にはないのだ。だが、それでも、私は彼らを取り巻く理不尽な運命を受け入れられない。真相を知った彼にできることが、この後の物語に従うだけだったとしても────────

「奈緒、やめたまえ!」

「だって、こんなの、こんなのって……!」

「……これが正しい結末なのか、私にも分からない。だが……それは、探偵の管轄外だ。私たちにできることは……もう、ない」

 来亜は俯き、片手で頭を押さえつけた。前髪が、ちょうど彼女の瞳を隠す。私はその場にへたり込んで、やり場のない怒りと無力感に押し潰されそうになりながら、浩一の話を聞いた。幼い頃、美幸の影響で絵を描き始めたこと。お揃いのミサンガをもらったこと。神土高校に合格して、二人で喜び合ったこと……出会った時から去年の冬の日、彼らが離れ離れになるその時まで、二人が共に歩み続けてきた時間を、一つ一つ刻み直すように、浩一は美幸に語ってゆく。全てを語り終える頃、天頂に昇っていたはずの月はすっかり傾いて、空は白く霞み始めていた。

「……僕は、これまでずっと君と一緒だった。何でも一緒にやって、何でも話し合ってきた。でも……たった一つだけ、言えなかったことがある」

 浩一はそう言って、一歩前に踏み出した。それから、彼は数秒沈黙した。引っ込む言葉を押し出そうとするように、全身に力が入っている。美幸は何も言わず、浩一が次の言葉を紡ぐのを待っている。浩一は、躊躇を振り切るようにもう一歩前に出て、口を開いた。

「たとえこの願いが、もう叶わないものだとしても。この気持ちが、許されないものだったとしても」

「……」

「僕は……ずっと、君が好きだった……!」

「……!」

 浩一のその言葉を聞き、美幸は苦しみから解き放たれたような安らかな顔で彼に微笑みかけ、その手を優しく握った。雪女の物語と同時に、彼女の物語もまた、結末を迎えた。

 雪が止み、風が凪ぐ。美幸がここにいた痕跡が、少しずつなくなってゆく。月は沈み、朝日が温かい光を放ち始めている。浩一は握っていた美幸の手が光とともに消えたのを目にして、その場で拳を握って俯いた。

「斧山さん……」

「……冷たい、手だった。生きているとは、思えないほど」

「……」

「あんな手になっても、ずっと、僕のことを待って、探していたんだ」

 立ち尽くす浩一のもとに、来亜が不意に歩み寄った。そして、コートのポケットから取り出したものを手渡す。

「……事件は、無事に解決した。これは、君に返しておくよ」

 来亜が手渡したのは、淡い桃色のミサンガだった。浩一がそれを手に取った途端、糸が解けてはらはらと崩れ、彼の手から滑り落ちた。

「あ……」

 ミサンガを拾おうとして足元に目を向けた浩一は、不意に声を漏らした。その視線の先には、積もった雪に描かれた花の絵があった。その場にいた全員がその花の名前を知っていたが、誰も口には出さなかった。浩一はその絵をじっと見て、それから声を上げて泣いた。柔らかな熱を帯びた涙がこぼれ、残雪を溶かしてゆく。堪えがたい結末だ。だが、彼はもう記憶を封じることはしない。私はそう確信した。

 いつも通りの夏の朝が戻ってきて、忌々しいほど強い熱気が数日ぶりに押し寄せる。手に触れた氷のように、焼きついて離れない記憶を抱える私たちを、ぎらぎらと輝く陽光が照らしていた。

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