夢幻の終焉
◆
真っ白な空間が、目の前に広がっていた。意識がおぼつかないまま私はそこに独りで立っていて、聞こえてくる声に耳を傾けていた。
『……奈緒、やっぱりあなたに長物は向いていないわ』
『……』
この声には、聞き覚えがある。これはきっと私の記憶だ。思い出そうとして、少しずつ意識がはっきりしてくる。
『いや……向きすぎている、と言った方が正しいわね。とにかく……決して、長物は持たないで。あなたが……人間でいるために』
『……うん』
私が返事をすると、ひどく幼い声が出た。直後、何かに吸い込まれるように私の身体が上に昇ってゆく。強い光が視界に飛び込み、思わず目を閉じてしまった。
◆
「うわっ!」
「わあっ、何ですか!?」
来亜の声に驚き、声を上げながら閉じていた目を開ける。数秒間そのまま固まった後、自分の左手が来亜の細い腕を掴んでいることにようやく気がついた。妙に力が入っていて、彼女のコートの袖に皺が寄っていた。
「……あっ!? ご、ごめんなさい!」
「……別に、これは構わないが……君、本当にどうなっているんだ?」
私が慌てて手を離すと、来亜は袖を軽く振って形を直した。どうやら私は知らない間に眠ってしまっていたらしい。さっき見た光景は夢だったのだろう。
「それよりも、だ」
来亜はもう一度おもむろに手を私の額の前に出し、中指で私の額を弾いた。
「いったあ!」
「勉強を教えてくれと頼んだ身で、よくもまあ居眠りなんかできたものだな」
「す、すみません……」
私はようやく眠ってしまう前のことを思い出した。今日、高校生になってから初めて受けた定期テストが返ってきた。そして、その結果を見てすぐさま来亜に泣きついたのだ。
「大体、何がどうなったらこんな結果になるんだ……」
「その……ここ最近忙しくて、切り替えが上手くいかなくて」
私はそもそも勉強が得意なわけではなかった。学力ではなく、身体能力を買われてこの高校への入学が認められたのだ。それでも、これまでは切り替えれば何とかなっていた。だが、今回はそれが上手くいかなかったのだ。
「はあ……まあ終わったことを嘆いても仕方がない。明日から補習なのだろう? 今夜である程度は対策を進めておかなければならない」
来亜の表情は、真剣そのものだ。それに、彼女はさっきから全く嘘をついていない。それが何よりも力強く、事態の深刻さを物語っていた。
「はい……」
「奈緒ちゃん、あまり根を詰めすぎないように」
騒ぎを聞いて部屋から出てきた先生が声をかけてくれた。来亜はため息をつきながら、机の上に置いてあった私の答案用紙をまとめて手にして立ち上がる。ひどく、嫌な予感がした。
「姉さん、そういうことは少なくともこれを見てから言ってくれ」
「あっ、ちょっと先パイ、それだけは!」
私が立ち上がる頃にはもう既に先生は私の答案用紙を受け取り、目を通し始めていた。膝から力が抜け、肩を落として自分の血の気が引いていくのを感じながら、ただ時を待った。
「……あっはっは!!」
「……さて、改めてご意見を伺うとしよう」
「緊急オペが必要だな」
先生はそう言って、微笑んだまま私の方を向いた。その視線がじっと私を捉えた時、びくりと肩が震えた。
「お、終わった……」
先生は飲み物を淹れて、来亜と一緒に椅子に腰掛けた。私は観念して、とぼとぼと机に戻る。
「では、オペを始めよう」
「うう、お願いします……」
「Math」
「はい」
来亜は事前に察していたように数学の教科書を先生に手渡す。主に心と成績に重傷を負った私の集中治療は数学から始まるようだ。そして言うまでもなく、それは夜通し続いた。
「先生、順列って何ですか?」
「汗」
「はい」
「この、み……い……ぜん、けい? これなんて読むんでしたっけ?」
「……汗」
「……はい」
「えっと、魚類と哺乳類と、あとは……?」
「…………汗」
「…………はい」
何だか、私よりも二人が疲れる方が早い気がした。しかし、日が昇る頃には皆等しく疲れ切っていて、ペンを取る手さえおぼつかなくなっていた。出発時間になって、私はふらついた足取りで事務所を後にした。
「……それで、眠たくて補習どころではなかった、と」
「いや、ちが……そうですけど、違うんです!」
来亜は疑うように私の目をじっと見つめながら話を聞いていた。だが、違和感があったのは本当だ。私だけではなく、ほとんどの生徒が眠ってしまっていた。初めは先生が起こして回っていたが、その内先生まで眠そうに授業をするようになっていたのだ。明らかに、何かがおかしい。だが、それを私が今話しても信じてはもらえないだろう。
「これは……きっと事件なんです!」
「……ほう」
私の言葉を聞いて、来亜は途端に表情を変え、顔の前で手を組んだ。
「だから、えっと……今から、依頼人を連れてきます。少し待っててください!」
「その依頼人というのは……そこにいる人のことかい?」
「え?」
確かに、私の前に私のものではない影が少しだけ伸びているのが見えた。迂闊だった。追い詰められていて、周囲の気配を感じ取るのをおろそかにしていたかもしれない。恐る恐る振り返ると、そこには誰もおらず、背の高い観葉植物だけが立っていた。
「もちろん、嘘だよ!」
「……!」
来亜の方に向き直ると、彼女は満面の笑みで私を見上げていた。
「さっき照明を動かして、光の当て方を変えてみたんだ。中々新鮮だっただろう?」
「せ、先パイ……」
私はすっかり力が抜けた身体に鞭打って立ち上がり、来亜のそばににじり寄った。そしていきなり彼女を抱き上げ、その場でぐるぐると勢いよく回った。
「嘘はほどほどにしてくださぁぁぁぁい!!」
「うおおおおおおおおっっ!?」
来亜を振り回していると、唐突に事務所の扉が開いた。そちらを向くと、今日の補習の担当をしていた先生が立っていた。
「あら、何か……邪魔をしちゃったかしら」
来亜はすぐさま私の手を離れ、先生の前まで駆け寄ってしとやかに一礼した。
「とんでもない。むしろ助けていただきました」
「そ、そう?」
「それで……何かご用で?」
「ええ、今日の補習で起こったことについて……少し話があって」
それを聞いて、来亜は私の後ろに回って背中を両手でぐいぐいと押した。
「彼女に対する指導ですか?」
「そんな、寝てたのは私だけじゃないですよ!」
「そういう問題ではないと思うが……」
「違うの、指導じゃなくて……生徒の居眠りについて、調査してほしくて」
先生がそういうと、来亜はふむ、と顎を引いて考えるような仕草をしてみせた。先生が来たことで、私の言い分について改めて考える必要があると判断したのだろう。彼女は先生を客間に招いて向かい合って座り、話を聞いた。
「空言さん、そういえばあなたの授業を担当したことはなかったわね。私は
「瓜谷先生には姉がお世話になったと聞き及んでおります。それでは……生徒の居眠りについて、教えていただけますか?」
来亜は普段とはかけ離れた丁寧な振る舞いで先生と接している。それに見惚れて呆然としていると、君もメモを取りたまえと注意された。人前でも、私への注意はするらしい。
「なるほど……生徒だけでなく、一部の教員も眠ってしまっている、と」
「そうなのよ……かく言う私も、今日の補習は眠たくて仕方なかったわ」
瓜谷先生はそう言って、いかにも気だるげに息をついた。来亜はその様子を見て、神妙な表情を浮かべながら口元に手を添えた。
「思いの外、事態は深刻かもしれませんね。こちらでも調査を行ってみます」
「こんなことで生徒を頼ってしまって、申し訳ないわ……」
「気にすることはありません。餅は餅屋、不可解な事件の調査を探偵に頼むことは何ら不思議なことではない」
お任せください、と来亜は軽く胸を叩いてみせた。話ももう終わろうと言うところで、ずっと部屋で作業をしていた先生が客間に出てきた。
「あら、お客さん……って、先生……?」
「愛良さん、久しぶりね」
「あ、あはは、どうも……」
先生は少し硬い表情で笑いながら、瓜谷先生に向かって軽く手を振った。愛良と呼ばれるのが久しぶりで、つい驚いてしまったのだろう。世間の人々は大抵ペンネームのアリアで呼ぶし、私たちも普段から彼女のことを名前では呼ばない。
「さて、教え子にも会えたことだし、そろそろ失礼するわ。くれぐれも無理のない範囲で、お願いね」
瓜谷先生が事務所を去った後も、来亜はしばらく真剣な顔で座っていた。
「先パイ、何か心当たりがあるんですか?」
「……これが仮に何者かが引き起こした事件だとして、教員まで対象になっているとなると……犯人は、学校全体に対して何かを抱えている可能性がある」
来亜は、低い声でそう呟いた。確かに、そうだとしたら厄介だろう。これまで解決してきた事件と比べると、対象の幅が大きすぎる。しかし、まだそうと決まったわけではない。むしろ、杞憂に終わる可能性の方が大きいだろう。
「考えすぎじゃないですか? 皆が疲れてるだけって可能性も……」
「そうだな。だが……考えた可能性を切り捨てるべきではない。探偵の取り越し苦労はするだけ得なのさ」
さて、と来亜は立ち上がり、机の上にばらばらと教科書や問題集を並べ始めた。
「先パイ?」
「明日も補習はあるのだろう?」
「まさか……」
「奈緒、君は内部から調査をしてくれ。話を聞く限り、やはり補習の授業で眠っている生徒が特に多いようだ。あの場で何が起こっているのか……見てきてほしい」
「それは、いいんですけど……」
目の前にいくつも積み重なった冊子の山が気になって、話が入ってこない。そうこうしているうちに、いつの間にか先生もにこにこと笑みを浮かべながら近づいてきていた。
「ね、寝ちゃわない程度に……お手柔らかにお願いしまーす!!」
翌日の補習でも、相変わらず多くの生徒は寝てしまっていた。何とか眠気をこらえながら周囲を見渡してみても、特に変わったことがあるようには見えなかった。心なしか生徒が眠るのが早く、長くなっているような気がする。とうとう瓜谷先生にも限界が来たのか、授業の最中に教壇の上に腰を下ろして眠ってしまった。やはり、これは異常だ。だが、辺りを見ても相変わらず何もわからない。そこでふと思い至り、自分の身体に意識を集中させてみた。微かに、何かにちくりと刺されているような感覚を覚えた。蚊に刺されるぐらいの、普段なら気にならない感覚。それを最後に、私も意識を失ってしまった。
その後、私たちはチャイムの音で目を覚ました。この学校のチャイムの音はやけに大きく、大聖堂の鐘のようによく響く。それが幸いして、何とか起きることができた。解散後、周りの生徒にも変わったことがなかったかと聞いてみると、ほとんどの生徒は生活習慣の乱れを打ち明けた。やはり、私たちの問題に過ぎないのかもしれない。そう思った矢先、一人の生徒が声をかけてくれた。ここでは話しづらいと言うので、場所を変えて話を聞いた。
「……多分、関係ないんだけどね」
「……うん」
「姫野紡さんって知ってる? 私たちの隣のクラスの子なんだけど」
「……その子がどうかしたの?」
聞いたことがある名前だ。
「あの子、ずっと学校に来てなかったでしょ。でも、この補習に来てるのよ」
「……なるほど」
「せっかく来てくれたのにこんなことを言うのは良くないけれど、あの子が学校に来たことが一番大きな変化……そう思うわ」
「姫野紡、ね」
「せ、先パイ!?」
背後から唐突に来亜がひょいと姿を現した。驚きながら横に飛び退く。
「どうしてここに!?」
「君に逢うために」
「先パイ……!」
「……嘘に決まっているだろう、調査だ調査。素直すぎるのも考えものだな」
「そんなぁ、私とは遊びだったんですか!」
来亜は手を挙げて首を振り、わざとらしく呆れたような仕草をした。その後、姫野を当たるぞと言って私の袖をぐいぐいと引っ張った。彼女に引っ張られながら、話をしてくれた生徒に礼を言ってその場を後にした。
「姫野……きっと彼女は事件に関係しているはずだ」
「でも、大半の生徒は生活リズムが乱れてたって言ってましたよ。それに、前と違って命に関わるわけでもないですし、そんなに焦る必要も……」
「……奈緒、ヒュプノスって知っているかい?」
「え?」
来亜は唐突にそう言った。授業で聞いた内容さえ覚えていない私が、そんなものを知っているはずもない。首を横に振ると、来亜は私が知らないことを予想していたように話を続けた。
「ヒュプノスは神話において、眠りを司るといわれている神だ。双子の神でね……もう片方は、タナトス────────死の神だ」
「!」
来亜の表情は、真剣そのものだ。だが、それをこの事件に結びつけるのは突飛と言わざるを得ないだろう。
「縁起でもなーい!! なんで急にそんな怖いこと言うんですか!」
「落ち着きたまえ、私だって本気ではないさ。だが……昨日も言った通り、考えた可能性を切り捨てるべきではない。くれぐれも気をつけたまえ──────眠りは、死と隣り合わせかもしれないのだから」
翌日の補習が終わった後、教室で机に突っ伏していた紡に声をかけてみた。
「姫野さーん?」
「……何?」
紡は身体を起こすと、ぶっきらぼうに返事をした。彼女も眠っていたことを考えると、事件に関わっているとは考えにくい。だが、犯人でなかったとしても何か知っている可能性はある。そう思って、話を聞いた。
「補習の間、皆が寝ちゃってることについて調べてるんだけど……何か知らない?」
「……ずいぶん、暇なのね」
「あはは……そうかも」
「生憎、私は何も知らないわ。学校に来てみようと思った矢先にこんなことになって、私も辟易しているのよ」
紡は溜め息をつきながらそう言った。どうやら彼女は何かを隠しているようでもなく、本当に事件について何も知らないようだ。
「何かきっかけがあって、学校に来ようと思ったの?」
「……何となく、よ。ずっと家で寝たきりのような生活を送るのも、思いのほか疲れるってわかったから」
「……」
別の教室に移動し、紡に聞いた話を電話で来亜に報告すると、彼女は困り果てて唸ってしまった。
「あの雰囲気で名前が出てきたのに、本当に何も関係ないのか……!」
「関係ないものはしょうがないですよ。他の手がかりを当たってみるしか……」
そう言いかけたところで、閉めていた教室の扉が勢いよく開けられた。さっきまで眠っていた生徒が、ひどく憔悴した様子で駆け寄ってくる。
「江寺さん、大変! 瓜谷先生が……目を覚まさないの!」
「……え?」
「息はあるんだけど、皆で身体を揺すってみても全く起きる様子がなくて……このままじゃ……!」
「……奈緒、すぐに私もそちらに向かう。君は他の生徒を避難させて待っていてくれ」
来亜はそう言うとすぐに電話を切った。今の会話が聞こえていたのだろう。他の生徒を避難させながら、教室から瓜谷先生を運び出して扉を閉めた。少し経った後、誰もいなくなったはずの教室の扉が、ひとりでに開いた。
「な……!?」
それからしばらく経って、別の教室に避難していた生徒もほとんど眠ってしまった。正体不明の異常が、牙を剥く。出会ったことのない異変を前に、冷や汗が背中を伝って流れた。
「奈緒、状況は?」
「駄目です、皆寝ちゃいました!」
来亜が駆けつけてくる頃には、私以外は眠ってしまっていた。改めて自分の周りに意識を集中させると、羽音のようなものが耳に入ってきた。音がした方を向くと、ほのかに光を放つ小さなものが無数に浮かんでいた。
「これは……!?」
「奈緒、どうした?」
「分からないんですけど……何かが、飛んでいます!」
眠りに落ちる前のちくりとした感覚も、これが引き起こしたものなのだろうか。その性質は全く分からないが、これに近づくのは避けた方が良さそうだ。
「それは、妖精よ」
不意に、私や来亜とは違う声が聞こえてきた。教室の中に、何かがいる。それは間違いなく、この事件の犯人だ。息を呑みながら、来亜の方を向くと、彼女は忽然と姿を消していた。直後、彼女が勢いよく扉を開ける音が響いた。
「え!?」
「ごきげんよう。君が……この事件の犯人か」
「……ええ、そうね」
急いで来亜の元に駆け寄ると、そこには紡の姿があった。だが、紡本人は別の教室で眠っているはずだ。彼女は一体、何なのだろうか。
「君は、生霊……そのようなものなのだろう?」
「生霊……?」
「人の意志や恨み……そんな強い思いが形を持って、持ち主のもとを離れて霊となることがある。君は、紡から生まれた生霊……違うかい?」
「……」
来亜がそう言っても、紡の姿をしたものは何も言わなかった。信じがたい話だが、今の状況はそうでもないと説明がつかないこともまた事実だ。
「姫野紡は別の教室で眠りについているはずだ。奈緒は、それを見落とすような助手ではないからね」
「……」
来亜は息をついて、話を続けた。推理を述べることで、隠しても無駄だと伝えようとしているのだろう。
「そして、彼女の話を聞く限り……紡は、この事件のことを知らない。君が彼女の双子か、あるいは生霊でもなければ、こんな状況は成立しない……生憎、双子の片方だけが光を発するなんて事例は聞いたことがないが」
来亜の推理を聞き終えると、紡の姿をしたものは形を変え、大きな羽を持った妖精のような姿になった。
「穴のある推理だけれど……正体を言い当てられた以上は隠す必要もないわ。この短い間に、よくそこまで考えたものね」
「奈緒、気をつけろ! あれの正体こそ分かったが、目的は不明のままだ!」
「先輩、そこを動かないでください!」
来亜の傍まで飛び込んで近づき、彼女の周りを飛んでいた妖精をまとめて手で払った。
「そこに妖精が飛んでいるのが見えますか?」
「……何とか」
来亜は目を凝らしてやっと妖精の姿を捉えられたようだ。これでは、妖精を避けるのは難しいだろう。私が彼女を守りながら戦わなければならない。私の方も、妖精の倒し方を知らない。この事件を解決するためには、彼女の知識と観察眼が不可欠だ。
「眠りに落ちる直前、虫に刺されたような感覚がありました。恐らく、あれが皆を眠らせています! 私が守りますから、先輩は観察に集中してください!」
「……ああ、分かった!」
来亜は壁を背にして、生霊を睨んで観察を始めた。そして、コートのポケットから髪留めをいくつか取り出し、私に向かって投げ渡した。
「これは……?」
「退魔には銀……だが、妖精は鉄が苦手だ。辺りを飛んでいる小さな妖精ならば、触れるだけで無力化できるかもしれない」
鉄の髪留めを指の間に挟み、近くの妖精に触れてみると、溶けるようにその姿がたちまち消えた。これならば、妖精には何とか対処できるだろう。問題は、生霊の方だ。以前の悪魔と同様、銀のナイフを突き立てることで倒せるとしても、来亜を庇いながら近づくのは難しい。いずれにしても、慎重に立ち回らなければならない。瓜谷先生の様子を見る限り、私たちが眠りに落ちれば終わりだ。目覚めることなく、皆で衰弱死を待つこととなるだろう。だが、体力は有限だ。時間をかけるほど、私たちの敗北は近づいてゆく。
「く……!」
「……奈緒、二手に分かれて、挟撃を仕掛けるぞ」
「え……?」
来亜はそれ以上何も言わずに鞄から銀のナイフを取り出して前に出た。無謀だ。そもそも挟撃を仕掛けると言っても、ナイフが一本しかない以上は不可能だ。止めようと急いで彼女を追いかけるが、間に合わない。すぐさま妖精たちが来亜の周囲を取り囲み、彼女は机の隣で倒れ伏してしまった。
「先輩!」
「油断したわね」
「────────!」
来亜の様子ばかり気にしていて、自分の周囲の警戒を忘れていた。瞼が重くなり、視界が暗く、狭くなってゆく。抵抗もむなしく、私の意識は奪われてしまった。
◇
来亜と奈緒が倒れた後も、紡の生霊はその場に佇んでいた。妖精が辺りを舞う中で、それは深く溜め息をついた。
「……眠りは、死と隣り合わせ……誰にでも平等に与えられる安息と、隣り合わせなのよ。それを拒むなんて……理解できないわ」
生霊は奈緒のそばに近寄り、先刻の戦いぶりが嘘のように穏やかな寝息を立てている彼女の顔を見て、微笑を浮かべた。
「こうして皆眠ったまま、死に至れば……生きる苦しみから解放される。もう少しよ、もう少し……」
生霊は、そこで自らの目的の達成を阻む可能性に気がついた。二人がもしも目覚めれば、再び戦いが始まってしまうだろう。そこで破れるようなことがあれば、全てが水泡に帰す。
「……やっぱり、あなたたちだけは先に解放しておきましょう。少し、苦しいけれど……すぐに終わるわ」
そう言って、生霊は奈緒の首に向かってそっと手を伸ばす。突如、奈緒は生霊の腕を掴み、下に強く引きつけた反動で立ち上がった。
「え……!?」
「この子は、渡さない……!」
目を閉じたまま、うわごとのように奈緒はそう言った。それは、もしかしたら奈緒ではないのかもしれない。生霊にもそう感じることができるほど、さっきまでの彼女とは明らかに雰囲気が違う。
「まだ眠っていなかったの……!?」
「今度こそ……僕が、守る!」
生霊が飛ばした無数の妖精を、奈緒は何も持たないまま殴り飛ばした。あまりに強いその敵意と殺気に圧され、生霊はほんの一瞬だけ動きを止めた。
「……」
生霊が動かずにいると、奈緒もまた動きを止め、まるで魂が抜けたかのようにその場で身体から力を抜いて倒れ込んだ。
「な、何だったの……?」
生霊をも凌駕する、奇妙。怪異の想像さえ絶する何かが、彼女の中に巣食っている。それを垣間見た生霊の矛先は、自然に来亜の方へと向かっていった。銀のナイフは手から滑り落ちて、近くに転がっている。その細い首に手をかけようとした瞬間、来亜の眼が急に開き、鋭い視線が生霊を捉えた。生霊が驚く間に銀のナイフを拾い上げ、その胸に突き立てた。狼少女の銀の刃が、怪異の命を刈り取った。生霊は数歩後ろに下がった後に倒れ、それと同時に辺りを飛んでいた妖精たちは地に落ちた。
「く……あ、ああ……!」
「……目覚めの時だ、眠り姫──────君の夢は、たった一つの嘘の前に崩れ去った」
驚嘆、無念、不可解。様々な感情が、生霊の中に渦巻いていた。たった一つの思いが形となって生まれた生霊にとって、それは抱えきれないほど多く、複雑だった。溺れる者が藁を掴むように、自らの中に溢れたものを少しでも処理するために、生霊は声を発した。
「どう、して……!」
「最も古典的で、初歩的な嘘。空寝……いわゆる狸寝入りだ。幸い分厚いコートを着ていたから、顔の周りの妖精だけ気をつければ容易にあの場を凌ぎ、かつ眠ったと誤認させられるというわけさ」
「そんな、ことで……!」
「そんなこと、だからこそだ。君は私がこの手を使う可能性を、そんなことと切り捨てた。それだけの話だ」
「……」
生霊は力なくその場で目を閉じた。もう、起き上がる力さえ残っていない。だが、その身は消えずに残っている。戦いに敗れても、自らを形作る思いがそれを認めていないのだ。来亜はそれを察したように深く息をついてから、生霊に問いかけた。
「……では、今度は私の番だ。どうして、こんなことを?」
「……それは、私があなたたちに聞きたいわ。どうして、眠りを拒むの?」
「……どうして、か」
「あなたの言う通り、私は……紡の願いから生まれた生霊よ。苦しみながら生きたくない、ずっと眠ったまま、穏やかに過ごしたい……この願いは、何もおかしくないはずだわ!」
生霊は、力を振り絞って強く声を上げた。来亜はその様子を黙って見ていた。
「私……いえ、紡は、この世界でずっと苦しみながら戦っていた。苦労を積み重ねた末にあの子を待っていたのは、報いではなく反動だった。力を使い果たしたあの子は、これからも苦しみが果てしなく続くと知って絶望し、そこから抜け出すことを願った」
「……」
「この世界に生きる人間は、少なからず同じ思いを持っている。だから、生霊となった私はあの子の願いと一緒に他の人々の願いを叶えようとした……それだけよ」
「……確かに、眠りの果てには安息があるのかもしれない」
倒れたまま自身の根底にある思いを叫ぶ生霊を見つめながら、来亜は静かに答えた。
「だが……そこには安息以外、何もない。楽しみも、幸せも──────眠りは、死と隣り合わせなのだから」
「それでも……あの子は眠りを望んだの! こんな不幸から抜け出すには、それしかないのよ!」
生霊は、なおも叫ぶ。彼女には、それしかないのだ。そのたった一つの存在意義を、否定されるわけにはいかない。それがどれほど歪んでいても、間違いだったとしても、それを認めるのは自己の否定に他ならないのだ。
「……紡は、不幸から脱したいのか? それとも、幸せになりたいのか?」
「……え?」
来亜はコートの襟を正しながら、生霊に問いかけた。その鋭い視線に縛りつけられたように、生霊は固まってしまった。
「君に出会う直前、奈緒から紡の話を聞いた。彼女が再び学校に行くことを決めた理由も、聞いている」
「……」
「……ずっと家で寝たきりのような生活を送るのも、思いのほか疲れるってわかったから。彼女は、そう言っていたようだ」
来亜は一歩前に踏み出して、生霊に詰め寄った。
「紡は、目を覚まして歩き出している。安息に向かって手を引いてくれる存在が現れずとも、彼女は幸せに向かい始めているんだ。その邪魔をするのが、君の望みなのか?」
「……!」
生霊の姿が、にわかに崩れ始めた。自身を生み出した紡の変化を知り、もう自分には存在意義がないと認めてしまったのだ。
そして、姫野紡の呪いは解けた。跡形もなく、全てが夢であったかのように────
◆
「奈緒、そろそろ起きたまえ」
「うう……あれ、先パイ?」
来亜に起こされて目を覚ますと、紡の生霊は消えていた。どうやら私が眠っている間に事件は解決してしまったらしい。
「生霊が消えてる……ってことは、今回の私は役立たずだったってことですか!?」
「何を言う、君のおかげで私の作戦が上手くいったんだ。十分活躍したじゃないか!」
「え?」
珍しく来亜に褒められたが、全く身に覚えがない。困惑していると、彼女にそれを見抜かれてしまった。
「……まさか君、本当に眠っていたのか?」
「……はい」
「ふむ……だとしたら、あれは一種の夢遊病なのか? いや、だが……」
私が眠っていたことを正直に伝えると、来亜は何かぶつぶつと呟いて、考え込み始めてしまった。瓜谷先生や他の生徒の様子を見るために教室へ移動している時もそんな様子だったので、別の話題を振ってみることにした。
「……ところで、先パイ」
「何だ?」
「結局、あの生霊は何が目的だったんですか?」
「……さあ。解決後の考察は、探偵の管轄外だからね」
来亜は首を横に振りながらそう言った。彼女のことだから理由は必ず聞いているものだと思っていたので、つい驚いてしまった。
「えー、本当に知らないんですか!? 気になります!」
「知っていたとしても意味はない。現に生霊は消えているのだから、あれ自身がその目的を自ら否定したんだ」
「はあ……そういうものですか?」
「そういうものさ」
そんな話をしている間に、皆が避難している教室に着いた。皆は既に目を覚ましていて、瓜谷先生の指示でその場に留まっているようだった。
「あ、二人とも!」
「皆ご無事のようで何より。事態は無事に解決しました」
来亜の言葉を聞いて、待っていた生徒たちがほっと胸を撫で下ろす中、紡が私の方に近寄ってきた。
「……江寺さん」
「どうしたの?」
「その……ありがとう。私……また学校に来ることにした矢先にこんなことになって、怖かった。でも、あなたのおかげで今度こそ頑張れそうだわ」
「……そっか」
紡は自らを縛っていた枷から解き放たれたように、晴れやかな表情をしていた。彼女の生霊は、彼女自身にとっても重荷になっていたのだろう。だが、この様子ならば心配は必要なさそうだ。
来亜の方を見る、彼女は窓の外をじっと眺めていた。直後、突然血相を変えて教室の出口に向かって歩き出した。私は窓から離れていたのではっきりとは見えなかったが、向かいの棟の四階の教室で何かが動いているようだ。瓜谷先生が声をかけ、急ぐ彼女を呼び止めた。
「空言さん、ありがとうね。それで、この異変の原因は……?」
「それは、また後ほどお伝えします。すみませんが、私たちは少し席を外します……奈緒!」
「はい!」
私が返事をするのと同時に彼女は走って教室を出ていき、さっき眺めていた教室へ向かった。教室に着くと、以前出会った怪盗が窓際の机に腰掛けていた。顔や肌を隠していて、特定につながる手がかりになりそうなものは一切わからない。性別さえ、見る人によって意見が違うだろう。彼は逃げ出そうとしているところだったようで、窓は開いていた。
「ごきげんよう、また会ったね。およそ一ヶ月ぶりか」
「怪盗ライト……どうやって、学校に?」
「どうやっても何も、学校なんて侵入しやすい方だろう。門は低いし、鍵も大したものはない。中で見つかりさえしなければ入り放題、出放題だ。まあ、君たちのせいで出放題とはいかなくなったが」
「……お前の目的は、何だ?」
来亜はライトに問いかける。彼は焦る様子もなく、来亜の問いに答えた。私たちが応援を呼んでいないことを見抜いているのだろうか。あるいは、応援を呼んでいても容易に逃げ出せる自信があるのかもしれない。
「前も言っただろう、神土町の闇を照らすことだ」
「そのために、学校に不法侵入か……それではまさしくミイラ取りがミイラになるというやつじゃないか」
来亜は話しながら、円を描くように遠回りで少しずつライトに歩み寄っていた。彼の方も当然それに気付き、来亜から視線を離さずにいた。
「まあ否定はしないさ。だが……それは同時に僕が手段を選ばないほど本気だということも示している」
「……」
「法の下、正義と公正の光に照らされた場所に……本当の闇は、存在しない」
そう言った後、ライトは机から降りて両手を広げた。その立ち振る舞いは、彼が追われている身であることをつい忘れそうになるほど堂々としている。
「さて、今度は君の話をしよう」
「私の話?」
「ああ。今回の事件について、僕は少しどうかと思ったのでね。あの生霊の考えだって、間違いと断じることはできないはずだ」
ライトは生霊について何か知っているようだ。捕まえれば、何らかの情報を聞き出せるかもしれない。来亜は歩みを止めず、彼の言葉に淡々と返事をした。
「……そんなものは知らないね。何にせよ、あれは他者を巻き込んで殺そうとした。だから事件になって、私たちが解決した。探偵として、すべきことをしたまでだ」
「いや、すまない。君の対応が間違っていたとは言わないさ」
ライトは一瞬だけ来亜から視線を外し、少し上を向きながら一歩下がって窓に近づいた。風が強くなり、彼のマントが激しく揺れ動く。
「ただ、どうしても疲れてしまうことはあるものだよ……人間はね」
「……」
来亜は何も言わず、その場で立ち止まった。ライトとの距離はかなり縮んでおり、彼女が飛びかかれば触れることぐらいはできそうだ。
「さて、君はこれで三つの事件を解決した。どれも不可解な難事件だ。探偵として、君は大いに評価されることだろう」
「……」
「だが、まだ僕の相手にはなれないね。今の君とは勝負にもならない。そうだな……七つだ。あと四つ、君がこれまで解決してきたような難事件を解決したら、対等に渡り合えるかもしれないね」
ライトは、平然とそう言ってのけた。だが、それは彼女を見誤っている。彼女は炎を司る悪魔をたった一つの嘘で制しているし、今回の生霊もほとんど一人で倒したはずだ。事件の数ではなく中身を見れば、彼女を過小評価しているのは明らかだ。だが、彼はそれを踏まえた上で彼女を取るに足らない相手と評しているかもしれない。とすれば、目の前の相手は見た目以上に強大だ。信じがたい話だが、考えた可能性を切り捨てるべきではない。それを来亜に教わったばかりだ。油断してはならない。彼女は逆に油断を誘うように、微笑を浮かべて挑発的に返答した。
「……見たところ、そこまでする必要はないと思うが」
「おや、試してみるかい?」
「そうだな、お手並み拝見といこう!」
来亜は窓側に回って進路を塞ぎながらライトに近づき、マントを掴もうとした。しかし、彼はそれを躱して背後の机に乗り、そこから来亜を飛び越えて直接窓の外に出た。前回と同じように、パラシュートが開いて彼の身体を支えた。
「な……!」
「ま、ざっとこんなものさ。僕の言った通りだったね!」
ライトは空中に浮かびながら、高らかに勝利を宣言した。瞬間、来亜は嘘をついた時と同じ、いたずらっぽい表情を浮かべた。
「まだ終わりじゃないさ。私には優秀な助手がいてね──────奈緒!」
「やああああッッ!!」
私は胸ポケットから先の尖ったペンを取り出し、パラシュートめがけて真っ直ぐに投げた。来亜が遠回りにライトに歩み寄ったのは、私から視線を外すためだ。ありふれた攻撃が、来亜の力で意識外からの一撃に変わる。先端が勢いよく刺さってパラシュートは壊れ、ライトは空中に放り出された。
「え?」
「せいぜい、快適な空の旅を楽しみたまえ」
「うおおおおッッ、バカーーーー!!」
ライトは叫びながら、四階から真っ逆さまに落ちた。窓に駆け寄って様子を見ると、体育館の方から突然体操マットが飛んできて、空中でライトを受け止めた。怪盗はにやりと笑ってこちらを見た。
「なーんてね。全く、肝が冷えたよ」
「ええ!?」
「あっはっは、まだまだ詰めが甘いな!」
ライトはいつの間にか、何かを右手に握っていた。身体に隠れてよく見えなかったが、それがこの不可思議な光景を生み出しているのだろうか。
「先パイ、どうしますか!?」
「く……もう一本だ!」
来亜はコートのポケットからペンを取り出して私に差し出した。マットがライトを放り出すように狙いを定めて力いっぱい投げる。しかし、今度はマットがふわりと浮かび上がって軽々とペンを躱した。
「ずるーい!!」
「それじゃあ今度こそお別れだ。次はもっと安全に配慮してくれたまえよ!」
そのままマットは加速し、ライトの姿はすぐに見えなくなってしまった。
「奴は、一体……」
「結局、逃げられちゃいましたね……」
来亜は少しの間、神妙な面持ちで何か考え込んでいた。しかしすぐに考えるのをやめ、一度大きく伸びをした。
「……まあ、仕方ないさ。奴は四つの難事件を解決しろと言った。その中で、きっとまた会えるだろう。その時こそ、捕まえてみせよう」
「そうですね、次こそ引導を渡しましょう!」
「……意味、ちゃんとわかっているかい?」
その後、私たちが散らかしてしまった机の片付けなどをしている間にマットだけが飛んで帰ってきた。広げてみるとメモが挟まっていた。
「あれ、これは……英語ですか?」
「どれ……いや、ローマ字じゃないか。”このマットは学校のものだから返しておくよ。君たちの方で体育館に戻しておいてくれたまえ”、と」
来亜はメモを手に取り、読み上げてからポケットにしまった。ライトの正体を突き止める手がかりにするつもりなのだろう。それはさておき、単純に仕事が増えたことに私は憤慨した。
「えーっ! 飛ばせるなら体育館に直接返せばいいじゃないですか!」
「全くだ。許しがたいね……奈緒、持てるかい?」
「まあ……はい」
「……片手で、とは言っていないんだけれどね」
片付けや報告などの事後処理を済ませて外に出ると、門の前に先生の車が停まっていた。私がマットを運んでいる間に来亜が呼んでくれていたらしい。
「二人とも、お疲れ様。事件は解決できたかしら?」
「まあ……あと三日ってところかな」
「解決したようね」
先生に嘘を軽くあしらわれ、来亜は膨れっ面をしながらシートベルトを締めた。しかしその直後、彼女は何か閃いたようにぱっと表情を変え、いたずらっぽく笑った。
「……いや、早くてもあと一週間ってところだろうね」
「先パイ、バレた嘘をつき通すのは諦めた方が……」
「何を言う、私たちはもう一つ、大事件を抱えたままじゃないか」
先生は来亜の発言の真意を汲み取ることができたらしく、それは確かに大変そうね、と苦笑した。何だか私だけが取り残されているように感じて、居ても立っても居られなかったので直接聞いてみた。
「先パイ、どういうことですか……?」
「おや、分からないか。解決には君の力が必須なのだが」
「えっと……分かんないですけど、私にできることなら何でもしますよ!」
「そうか、それは心強いね。ぜひとも頑張ってくれたまえ……再試験」
「……あ」
すっかり忘れていたものの存在を思い出し、さーっと自分の血の気が引いていくのがはっきりと分かった。夢から一気に現実に引き戻されたような気分だ。
「も、もう勉強は勘弁してくださーい!!」
私の悲鳴をかき消すように、車は音を立てながら事務所に向かって走り出した。
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