幕間 ——私の帰るところ——

 月が天頂をわずかに過ぎ、街の喧騒は徐々に落ち着きを見せ始めた。聖夜を目前に控えた街にも、ようやく冬の夜の静けさが訪れる。それに逆らうように、ただ一箇所だけが熱気を高め続けている。街に人が行き交っていた頃には厳かな沈黙を守っていたその建物の中には、今や息も満足にできないほどの圧力が生じていた。

「はああああっ!!」

 その要因の一つは、"天狼"の長、虎嶋統一郎。彼は来亜や奈緒に見せたのとは比べ物にならないほどの殺気を放ち、刺すように鋭い冬の冷気を跳ね除けている。

「足りねえ……なァ!!」

 そして、もう一つの要因は、佐香源。その力は、全力を解放した統一郎をも凌ぎ、鉄塊のごとき彼の拳を片手で難なく受け止める。しかし、源の力は単に膂力のみによって生み出されるものではない。彼は一度後ろに退いて、統一郎にその片鱗を見せた。

「"無影"!」

 源が叫ぶと、統一郎は咄嗟に屈んで攻撃を避けるような動きをした。これは、来亜の目には奇妙な光景に見えた。源は何もしていないのに、統一郎は確かに回避を強いられたのである。

「なるほどな。これが……"気"の力か」

「これで分かったつもりかよ、楽な戦いになりそうだなァ!」

 "気"。それが、源の力の本質だ。かつて杏里が奈緒に話した通り、それは思い込みの力と言い換えることができる。今、源が見せた"無影"もその一種だ。統一郎は源の放つ殺気を受け、攻撃を仕掛けてきたと思い込んだ。一方、殺気を向けられていない来亜には、統一郎の首を狙って一直線に攻めかかる源の姿が見えていない。だから、彼女には統一郎が無駄な回避をしたように見えたのだ。

「何が、起こってるんだ……!?」

 困惑する来亜のもとに源はいきなり近寄り、彼女の近くに落ちていた刀を拾い上げて構えた。統一郎も、反対の壁際に置いていた刀を取って構える。小手調べは済んだ。言葉を交わさずとも、二人は互いにそれを了承した。

 先に攻撃を仕掛けたのは、統一郎だ。しかし、それは源の迎撃を誘うための罠にすぎない。源は刀を構えたまま微動だにせず、統一郎が迫ってくるのを待っていた。そして、統一郎が誘導のために隙を見せる瞬間を狙って、その口を開く。

「"霧雨"」

 源の手から、斬撃の嵐が生み出される。辺りの柱を全て切り倒さんばかりの勢いで、源は統一郎に迫る。来亜は、その動きに覚えがあった。源の力に身を委ねた奈緒が巨人たちに向けて放った、超高速の連続攻撃。しかし、かつて彼女が見たのは源の力の再現ではなく、あくまで模倣にすぎなかったのだと来亜は思い知った。傘より遥かに重い刀を振るっているにもかかわらず、その速さは奈緒のそれをも凌駕している。しかも、攻撃をどれほど続けても一向に勢いが衰えない。手数、威力、持続力、どれをとっても百体の巨人を鏖殺した時の奈緒を上回っている。

「ぐ……!」

 予想だにしない猛撃を前に、統一郎は大きく引き退がった。薮をつついて蛇をおびき出すつもりが、八つ首の大蛇を喚び起こしてしまった。それほどの誤算である。しかし、今この瞬間において、統一郎の落ち度はその誤算のみであった。警戒し、構えていれば、これほどの大技さえ彼の手に負えぬものではない。それは、源も察するところだった。

「う……」

「奈緒!」

 攻撃が止み、再び両者が睨み合いに戻ったところで、奈緒は目を覚ました。一秒と経たぬ間に彼女は倒れる前の記憶を取り戻し、肩に置かれた来亜の手を軽く握りながら立ち上がろうとした。

「先輩、私たちも何かできることを探さないと……!」

「よしたまえ、私たちが出てきたところで足を引っ張るだけだ!」

「……く、はっはっは!!」

 源は来亜の言葉を聞いて、突如大きな笑い声を上げた。辺りを漂う熱気に融けるように、笑い声が虚しく広がってゆく。

「聞いたか統一郎、どうやらあいつ、俺の足を引っ張れるらしいぜ!」

「……」

 統一郎は、言葉を返さない。無駄と知りながら、源が油断する瞬間を虎視眈々と狙っている。源は彼に構わずに来亜の方をぐるりと向いて、嘲るような笑みを浮かべた。

「やってみろ」

「……奈緒、もうこいつが"傲慢"ってことにしないか?」

「に、兄さんはそんなのじゃないです!」

 統一郎が近くにいるにもかかわらず、腕をぐるぐると回しながら源に向かって進もうとする来亜を、奈緒は慌てて引き止める。来亜はむすっとした表情のまま、動きを止めた。

「それに……源兄さんは、ライトが生み出した物語じゃない————確かに今、ここにいるんです」

「……」

 来亜は奈緒の言葉を聞いて、その場に座り直した。それは、かつての仲間との思わぬ再会を果たした奈緒に対する同情が理由ではない。来亜の思考がある一つの可能性に辿り着いたため、それ以上の干渉を避けたのである。

「そうだ、座って気楽に見てな」

「……ああ、そうさせてもらうとしよう」

「奈緒、お前もだ。あの日から六年間、お前はずっと戦ってきた……たまにはこんな時間があっても、責める奴は誰もいねえさ」

 奈緒が源の言葉に頷いたのを見て、彼は再び構え直した。

「待たせて悪いな、統一郎」

「二人を逃がさなくても良いのか?」

「無駄話はしねえっつったのはお前だったよなァ、あいつらを狙った瞬間殺されるって分かって聞いてるだろ?」

「……そうだな。余計な時間を取らせた」

「しっかりしろよ、そんなんじゃ次でくたばるぜ!」

 源は刀を大きく引いて力を溜め、攻撃の姿勢を取った。重い一撃に備えて距離を取りながら、統一郎は目を凝らして源を睨む。源は叫びながら、刀を横一文字に振るった。

「"残月”!」

 刀身の先が月のように弧を描き、一気に統一郎のもとに迫る。それを間一髪で回避した直後、彼は異変に気が付いた。源が、構えを解かない。彼は刀を振り抜いたまま、その場に静止していた。当然、それが単なる隙ではないことは統一郎もわかっている。彼は訝しみながら、近くの柱を千切るようにして木片を掴み取り、源に向かって投げつけた。瞬間、目にも留まらぬ速さで木片が細切れになった。

「やはり……残心か!」

「……チッ、乗ってこねえか」

 統一郎の見立ては正しかった。”残月”は、意識を反撃に集中させながら攻撃を行う技だ。源は来亜や奈緒と話をしながらも、その隙を狙う統一郎の視線に気付いていた。だからこそ、一見すれば絶大な隙があるように見えるこの技を選んだのだ。

「……奈緒、少しいいかい?」

「は、はい」

「”気”の力について……もう少し詳しく教えてくれ」

 源の戦いを見ながら、来亜は先刻彼女が思い至った推論の確信を得ようとしていた。それとは知らず、奈緒は来亜に”気”の説明を始めた。源の力を模倣したばかりの彼女の中には、その力の感覚が多少鮮明に残っていたのだ。

「”気”とは、思い込みの力……主に自分、時には相手を騙すことで、自分が本来持っている以上の力を引き出すものです。動きに名前を付けているのも、そのためです」

 道端に落ちている小石を一つ拾って名前を付けると、何だかそれが他の小石とは違う特別なもののように感じる。適当に捏ねた粘土に名前を付けると、それは唯一無二の作品となる。それと同じで、なんの変哲もない攻撃にも名前が付けば、必殺の威力を持つ技であるように感じる。それは、攻撃を受ける側にとっても同じことだ。名前には、それを特別なものたらしめる力がある。”気”の基本は、そのような精神の作用を利用して力を生み出すというものだ。特別なことは何もない、普通の人間にも起こりうる心の動きだ。だから、本来それで生み出される力は誤差程度のものだ。しかし、源だけは例外だ。蟻の一歩と象の一歩が異なるように、元から並外れた力を持つ彼が”気”によってさらに力を生み出せば、その誤差は絶大なものとなる。

「……なるほど。自分や相手を騙して力を高める……か」

「はい。なので……源兄さんは、いわば私たちの完成形です」

 来亜は、狙い通り自身の考えに確信を持った。そして、固く口を閉ざした。この世界には、解き明かしてはならない謎がある。彼女は、身をもってそれを知ったのである。

 一方、統一郎もまた、源の力を紐解き始めていた。"天狼"は、源の強さを利用するためにその複製を作った組織だ。当然、その長たる彼には源の力を理解するための素地が十分にあったのだ。

「らあッ!!」

 源は一気に統一郎の懐に迫り、彼の持つ刀を弾いて落とすために、自分の刀を投げ飛ばすほどの勢いで振った。統一郎に刀で斬られれば、いくら源であっても致命傷は免れない。自分の武器を失ったとしても、まずは彼の手から刀を離すべきだと判断したのである。統一郎は右手を強く握って源の攻撃を受け流し、源の手から刀が離れた瞬間を狙って斬りかかる。

「はあッッ!!」

 得物を失った源に、統一郎の斬撃が容赦なく襲いかかる。しかし、この状況も源の想像の範疇だ。源はその場に留まって、統一郎を見据えた。

「"陽炎"!」

 源が叫ぶと、統一郎の視界が突如捻れる。彼だけではない。来亜も、奈緒も、一瞬にして正確な視覚を失った。この危機回避の技があったからこそ、源は危険を冒して統一郎の刀を落としにかかったのだ。だが、彼は一つ見誤っていた。それは、統一郎が刀を落とさなかったことではない。統一郎は一切の迷いなく己の歪んだ視界を捨て、源に向かって突き進み続けたのである。統一郎が引き退がって視界が元に戻るまで待つと予想していた源にとって、これは想定外の攻撃だった。

「嘘だろッ!?」

 時として、勝負の中には決して逃してはならない瞬間が生まれる。先刻の奈緒が統一郎に放った全力の一撃も、その類であった。そして今こそが、自分にとってのその瞬間なのだと統一郎は確信していた。源よりも多くの戦いに身を置きながら”天狼”の長として君臨し続けてきたことによって磨かれた洞察力、今この瞬間にもさらに研ぎ澄まされている統一郎の最大の武器が、この瞬間に源の予想を上回ったのである。統一郎は、果てのない深淵のごとき源の力の奥底を、ついに垣間見た。

「う……おおおおッ!!」

 源は後退をやめ、統一郎に向かって前進した。統一郎が振るう刀の柄の部分に当たるように動いて、被害を最小限に抑えることを狙っての行動だった。それが功を奏し、源は辛うじて致命傷を免れる。しかし、状況は変わった。単純な身体能力のぶつかり合いは終わり、勝負は統一郎の本領が発揮される段階に踏み込んだのである。

「やってくれるじゃねえか!」

「……ようやく、分かってきたぞ……!」

 統一郎は口角を吊り上げて笑みを浮かべ、自らの内にとめどなく湧き上がる高揚感を露わにした。一方、源もまた統一郎に向かって不敵に笑ってみせた。統一郎には、源が自身の窮地をひた隠しにしているように見えた。一気に畳み掛けるために、統一郎は再び駆け出す。

「チッ……!」

 源の予想を上回り、決定的な瞬間を捉えた統一郎は、その自信によってさらに手数と速さを増しながら刀を振るった。一方、刀を失った源はそれを紙一重で避け続ける。しかし、ほどなくしてそれにも限界が来た。刃の先が源の皮膚を掠め、赤黒い血が彼の身体を伝って流れ落ちる。

「源兄さん……!」

 奈緒は源の身を案じたが、もはや彼女には何の手出しもできない。無力な自身を憎み、彼女は歯を食いしばって強く拳を握る。その近くに、源と統一郎が迫ってきた。源はひっきりなしに続く斬撃を止められないまま、奈緒たちを巻き込みかねない位置まで追い込まれてしまったのである。

「ここまでだ……死ねッ!」

 統一郎が刀を振り始める寸前、来亜がポケットから出した懐中電灯の光が彼の視界を覆った。視界を奪っただけでは、統一郎を止めることはできない。しかし、源はその瞬間を見逃すような人間ではなかった。彼は統一郎の手を蹴り上げて刀の軌道を大きく逸らす。これ以上の追撃は無謀だと悟り、統一郎は一度引き退がった。

「驚いたぜ、統一郎。大したもんだ」

「佐香源……お前が身を隠している間、俺は何もしていなかったわけではない……もはや、お前は俺の恐れる相手ではない」

「……それだけ強けりゃ、これまでさぞ色んな奴を殺してきたんだろうなァ」

 自身の優勢がもはや揺るがぬことを確信していた統一郎の心中に、暗雲が立ち込める。源は、確かに外傷を負った。それに、来亜が助けるまで彼が統一郎の攻撃を止められなかったのも事実だ。さらに言えば、統一郎は刀を持っていて、源は素手であるということも変わらない。それほど優位に立っているのに、否、それほどの優勢だからこそ、彼は自らの精神を徐々に蝕む暗雲の正体を掴めずにいた。

「……何が言いたい」

「聞こえるんだよ、そいつらの声が。色んな奴がいたんだなァ、強さを求めてお前に挑んだ奴、目的を果たせず逃げ帰ってきた組織の奴、何も知らずにお前の悪事に巻き込まれた奴……」

「……生憎、与太話に興じるつもりはない」

「だったらお望み通り、いま現実にしてやるよ」

 源はそう言って、深く腰を落として項垂れた。まるで降霊術でも試みているかのような奇怪な構えに、統一郎は思わず目を見開く。

「圧し潰せ————"餓者髑髏"!!」

 源が叫ぶ。統一郎と来亜は、その名から即座に技の性質を想起した。餓者髑髏は、埋葬されなかった死者たちの骸骨や怨念の集合体である。直前の源の話や彼の姿勢から、彼は死者の霊を集めてこの場に喚び出そうとしていると考えるのが妥当であろう。そう二人は判断した。

「……来るか!」

「奈緒、巻き込まれないように気を付けろ!」

 しかし、何も起こらない。その場には、戦いが止んで本来の性質を取り戻した冬の空気が漂うばかりである。統一郎の心に立ち込めた暗雲は、消えた。今の源は、空言来亜と変わらない。追い詰められ、虚仮威しに頼るばかりの無力な存在である。統一郎はそう理解して、源に声をかけた。

「は……怪異でも喚び出すのかと思えば、この有様か」

「……」

「終わりだ、今度こそ死ね」

 統一郎は、刀を振り下ろす。さっきは意識の外にあった来亜の妨害も、今度は想定済みだ。袈裟斬りにされた亡骸となって無様に床に転がる佐香源を見下ろせば、この心はどれほど満たされるだろう。そんな想像をする統一郎を、源は嘲笑いながら蹴飛ばした。統一郎は予想以上に重い一撃を受け、思わず攻撃を止めてよろめいた。

「バァーカ、死ぬのはてめえだよ!」

 怪異は、確かに顕現していた。佐香源は、餓者髑髏————死者の集合体となったのである。”餓者髑髏”は、怪異を喚び出す技ではない。源は自分自身をその器に見立て、死者の無念を晴らす復讐者として今再び動き出した。率直に言えば、この技は感情を用いた身体強化に過ぎない。源の力は、あくまで思い込みの力という”気”の本質を外れることはない。それに気付かなかったが故に統一郎は既に目の前に現れていた怪異を無視し、来るはずのない怪異を待ったのである。しかし、それに気付いたところで、統一郎と源の間にはもはや決定的な力量の差が生まれていた。際限なく広がってゆく宇宙の如く、統一郎が垣間見た源の力の奥底は、既に奥底ではなくなっていたのである。

「佐香源……貴様は、一体どこまで……!」

「どこまでもさ。俺が信じる限りはな」

 今の源の力は、元から彼に備わっていたものではない。統一郎の強さ、そして”天狼”のあり方から、彼はここで多くの人間が斃れたと推察して新たな技を編み出した。”気”は、その本質が単純であるからこそ、戦いの中で新たな力を考え出すことができる。源は、その利点を活かして再び統一郎を凌駕する力を得たのである。

「歯ァ喰いしばれよ!」

 源が動き出す。統一郎の眼は、餓者髑髏となった源の動きさえも見事に捉えた。しかし、身体の方はそれに追いつかない。刀を手にしていてもなお、源を斬り伏せることはかなわなかった。統一郎は正面から蹴りを受け、一気に後方へ吹き飛ぶ。彼が壁に手をついて衝撃を逃がすと、壁は大きな音を立ててひび割れた。

「ぐ……お……!」

「なんて、力……!」

 来亜と奈緒は、目の前に現れた絶大な力の前に、ただ驚嘆することしかできなかった。源は狩りをする狼の如く、弱った獲物をさらに追い詰める。

“傲慢”。先刻、来亜が源に対して使ったその言葉は、図らずも彼の力の核心を衝いていた。佐香源は、今を生きる生命において最強の存在だ。源自身がそう信じているからこそ、彼は恐れや緊張を捨て、自身の力を十全に解き放っている。ただ力があるばかりではなく、最強であること。それが、源の強さを格段に高めているのだ。源を止めるために、統一郎は源のその確信を打ち砕かなければならない。しかし、もはや彼はそれを実現する手段を持っていなかった。

「統一郎……お前に向けられた恨みは、まだまだある。簡単にはくたばるなよ?」

「……」

 復讐心。その感情を、先刻の統一郎は一笑に付した。しかし、今その権化が彼に牙を剥き、命を刈り取る寸前のところまで迫っている。その事実に、統一郎は焦りを覚えていた。だが、これほどの窮地にあっても、彼は勝負を諦めない。圧倒的な力に翻弄されながらも、その陰に潜む致命的な欠点を探し続けている。

 膨大な怨念を乗せた方舟の如き源の拳が、統一郎に迫る。もはや、彼に逃げ場はない。負傷を覚悟し、統一郎は正面からそれを受け止めた。肉体が弾け飛びそうなほどの激痛に耐えながら、彼は眼前に立つ怪異の力を必死に見切る。

「ぐ……があああッ!!」

 餓者髑髏の一撃が、統一郎の生命を圧し潰す。彼は、自分の命がひび割れるような感覚を確かに覚えた。彼の眼が捉える世界は水滴を零した水彩画のように滲み、もはや時間すら正常に進んでいない。血管の一部が破れ、身体の至る所に痣のような斑点が浮かびはじめた。

 その時、ある可能性が統一郎の脳裏をよぎる。それは、とうの昔に来亜が辿り着いていた答えだ。しかし、その事実は統一郎に対する彼女の優位を意味しない。統一郎は激闘の中で、源の猛攻を凌ぎながら、それに気が付いたのだ。それができる者は、彼をおいてこの場にはいない。

「ごぁッ……は、ははは……!」

 壁まで弾き飛ばされて背中を強打し、血を吐き出しながら、統一郎は笑みを浮かべる。恐怖に由来する引きつった笑顔ではない。それは、まさしく勝利への確信を含んだ表情だ。彼の推察は、あくまで一つの可能性にすぎない。それが戦局を変えるものではなかったとすれば、結局彼は何も気付かなかったのと同様に死ぬ。しかし、今この瞬間においては、彼が勝利する可能性が存在する。だからこそ、彼は笑ったのだ。文字通り自分の命を賭けられる答えが自分の中にあるという事実に、彼はただ狂喜していた。

「わかったぞ……お前の急所が!」

「急所だァ? 自爆ボタンでも見つけたってのか?」

「は……言い得て妙だな」

 統一郎は壁に左手をついて、よろめきながら立ち上がる。すかさず拳を構える源に、彼は右の掌を見せた。

「そう焦るな。もう戦いは不要だ」

「あ?」

 源の困惑をよそに、統一郎は話を続けた。そこには、一切の敵意がない。生涯の好敵手を讃える、柔らかく真っ直ぐな眼差しが源を捉えている。当然、源の目にはそれがこの上なく気味の悪いものに映った。

「佐香源……やはり、お前は最強だ。もはや、それは揺るがぬ事実だと認めよう」

「……」

「だが————————もう、死んでいる」

 佐香源は、今を生きる生命において最強の存在だ。統一郎が源を破るには、彼の中にあるその確信を打ち砕く必要があった。そして、統一郎は源に比肩しうる力を持ちえなかった。この時点で、本来ならば源の確信が崩れることはない。しかし、それは源にとって全く想定外の方向から瓦解を始めたのである。

「な……デタラメを言うな!」

 真っ先に口を開いたのは奈緒だった。彼女もまた、源の生存を信じている。だが、当の源は何も言わずにその場に立ち尽くしていた。その指先は、微かに輪郭を失っている。

「え……」

「……」

「ど、どう考えてもおかしいですよね、先パイ……」

 奈緒は源から目を逸らし、来亜の方を向いた。来亜は何も言わず、ただ源の姿を見据えている。彼女は、既にこうなることを覚悟していた。だからこそ、早々に口を噤んだ。しかし、奈緒の方は違う。確かに存在を感じていたはずのものが、幻想だった。真冬の灯火を前にして倒れた御伽話の少女がついぞ知ることのなかった、残酷な真相。それと同じものを突きつけられた彼女は、涙を流すことすら忘れて呆然とした。

「……うそ」

 源は消えつつある身体を動かして、奈緒の傍に寄った。そして、彼女にだけ聞こえる声で呟いた。

「奈緒、俺は今から賭けに出る……後は頼む」

 そう言うと、源は奈緒の返事を待たずに統一郎の方へ向き直って声を掛けた。

「統一郎、冥土の土産にするから推理を聞かせろ。手短にな」

「……善処しよう」

 統一郎は源の言葉に応じて、息を切らしながら自身の推理を語り始めた。

「お前が現れた時、俺は違和感を覚えた。お前が生きていたことに対してではなく、江寺奈緒の襲撃がきっかけになっていることに対してだ。”天狼”をいつでも潰せる力を持っていながら、お前は六年もの間、姿を隠した。それは、そうする必要があったからに他ならないだろう」

「気が向かなかっただけかもしれねえだろ?」

「くだらん言い訳はよせ。お前は俺に……そして俺の組織に、壮絶な恨みを抱いている。その程度のことは俺にもわかる。襲撃が可能ならば、とうの昔に来ているはずだ」

 統一郎の返答を聞いて、源は再び沈黙した。彼が次の言葉を待ったのを見て、統一郎は話を続ける。

「その後は悠長に考え事をしている余裕はなかったが……”餓者髑髏”を使う前に、お前は死者の声が聞こえると言ったな」

「はっ、信じてたのか。案外ピュアな奴なんだな」

「実際に声が聞こえるのかどうかは知らんが、お前ならばあの程度の窮地を脱する手段をいくらでも思いつけるだろう。わざわざ不確実な手に頼るような奴ではない。ある程度の確信を持って、死者の怨念を力に変える判断をしたのだろう。そして、その力は同時に俺が違和感の正体に気付くきっかけにもなった」

「……なるほどな。それで全部か?」

 源の身体は少しずつ色や輪郭を失っている。真っ先に消え始めた彼の左腕は、もうほとんど形を失っていた。

「そこまでの段階では、あくまで疑念にすぎなかった。だが、餓者髑髏の一撃を受けて確信した。お前は、本来の力を出せないのだと」

「……俺にはお前が死にかけに見えるがな」

「そうだ。俺は死んでいない。俺が生きていること……それ自体が、最大の違和感だ。俺が、お前とこれほど激しく戦って無事なはずがない」

 統一郎は、かつて源の強さの解析を試みた。そして、それは源の複製を造り出すことができるほどに進んでいた。だからこそ、彼はいま目の前にいる佐香源の強さに疑念を抱いたのだ。

「そして、お前の”気”の力に考えを向けた。自分が生きていると思い込み、命を繋ぎ止めたのではないか。それほどの大それた力の使用ならば、お前に縁ある者で唯一生き残った江寺奈緒の行動が何らかの条件となってもおかしくはないし、お前自身が出せる力も大きく制限されるだろう……そう考えた」

「そいつはまた、えらく強気な推理だな」

「……普通ならありえない想像だ。本来、推理と呼べるほどの代物でさえないだろう。だが、佐香源……お前なら、やりかねない。お前の人並外れた強さが、くだらん妄想と切り捨てられるはずだった俺の答えに命を吹き込んだのだ」

 統一郎は、そこで話すのをやめた。源は、唐突に拍手をした。拍手と言っても、彼の左手は既に消失しているので、輪郭の薄れた右手が虚しく空を切るばかりである。

「大したもんだ。これじゃあそこの探偵の面目も立たねえなァ!」

 いきなり揶揄われた来亜は、咄嗟に声を上げる。

「おい、私はとっくに分かってたぞ!」

「なんてな。お前があえてずっと黙ってたことぐらいは分かる。察しが良くて助かったぜ」

「……全く、こんな時まで軽口を叩く必要もないだろう」

 源は柔らかく笑みを浮かべながら、再び統一郎の方に向き直った。

「さて……こういう時、追い詰められた犯人は追加で事情を話すのがお決まりの流れだな」

「……何か、言い残すことがあるのか?」

「お前に向けて言い残すことはねえ。だが、最後に一つ教えてやるよ」

「何だ?」

「その前にまず質問だ。世界の始まりには、何がある?」

 源の問いかけに、統一郎は即座に答える。

「この世界は大規模な爆発で始まったのだろう」

「夢がねえなァ。いや、それはそれで夢がある話か」

 源の反応を見て、統一郎は訝しげな表情を浮かべながら彼に問うた。

「……まさか、神がいたとでも言うつもりか?」

「惜しい。世界の始まりには、神を生み出した存在がいた」

 そう言って、源はおもむろに右手を前に突き出す。何かが来る。統一郎はそれを察知し、構えた。もはや、源の身体はほとんど動かない。戦闘は不可能だ。だが、それでもなお彼の持つ威圧感は統一郎に構えを取らせた。

「そろそろ正解発表といくか」

 源は、突き出した右手の指を鳴らす。それと同時に、呟くように小さく声を発した。

「————"混沌”」

 原初に混沌ありき。混沌から、この世界は生まれた。そして、その名を冠する源の力もまた、同様に世界を創り出す力であった。無論、物理的に新たな世界を創ることは不可能だ。源にそのような力はない。しかし、舞台上で創り出された世界に観客が没入するように、”混沌”の使用を認識した者が別の世界に飛ばされたと錯覚すれば、新たな世界の創造は擬似的に実現する。

 舞台。”気”の力を最大限活用する方法について考えた時、源はこの答えを出した。演劇や手品を見に来た舞台の観客は、自ら進んで騙されるためにそこにいる。自他を騙す力である”気”にとって、これほど都合の良い環境はない。”混沌”は、その舞台を創り出す。

 先刻の”餓者髑髏”は、源にとっては確認作業でもあった。彼がその名を叫んだ時、統一郎は怪異の召喚を想起した。”佐香源ならば、怪異を呼び出しかねない”という、一種の信頼とも言える疑念が統一郎の中に形成されていることを、彼はこの時確かめていたのだ。そして今、統一郎の中には同様の疑念が存在している。”佐香源ならば、新たな世界を創り出しかねない”と。

「何だ……!?」

 統一郎は、何かが起こっているのを感じながらも、それを直接的には知覚できずにいた。今、この瞬間にも、源の身体は徐々に消えている。それなのに、彼の力が増大しているのを感じる。あまりに不自然な齟齬に、統一郎は困惑した。直後、彼は何かが自身に迫って来ていると悟った。それは”無影”と同じ、源の力が生み出した幻だった。以前と同じように回避しようとしたが、統一郎の身体は動かない。舞台上の世界に入り込んだ観客は、それが終わりを迎えるまでそこから離れることはない。当然、回避はおろか防御すら不可能だ。

「ッ……!」

 そのまま、統一郎は幻による攻撃を受けた。しかし、外傷はない。幻の攻撃は、あくまで錯覚にすぎないのだ。その傷は、肉体ではなく精神に残る。そして、多量の出血で死に至るのと同様に、精神が過剰に磨耗すれば、命に関わる負傷となる。一時的に自我を失い、源の指示に逆らうことができない状態に陥るのだ。

「最後に根比べと洒落込もうじゃねえか、なァ!」

 統一郎の推理には、解決していない疑問が一つ残っていた。自分が生きていると思い込むためには、自分が死んでいるという絶対的な事実から巧みに目を逸らさなくてはならない。すなわち、自身の死に気付いていない必要がある。五体のクローンを全て打ち破り、かつその場で自分が気付かないまま命を落とす。そんな状況が、果たしてあり得るだろうか。

 ”混沌”は、その疑問に対する答えであった。源の奥の手である”混沌”は、彼自身をも追い詰める。創り出した世界を保つには、凄まじい集中力が求められる。それこそ、自分が死んでいることにも気付かないほどに。そして、自分の命が尽きるまで技を止めることはできない。途中で幕を下ろすことは、許されないのだ。

 統一郎の精神が耐え切れずに限界を迎えるのが先か、源の身体が完全に消えるのが先か。最後の死闘が幕を開けた。


 ◆

「……奈緒」

 ふと声が聞こえて、辺りを見回す。”天狼”の本拠地で統一郎と戦っていたはずなのに、いつの間にか真っ白な空間の中に私は独りで立っていた。聞こえてきた声は源兄さんのものだと思ったが、その姿もない。

「ここは……?」

「悪いな、奈緒。お前も”混沌”に巻き込んだ。まあ、夢を見てるようなもんだと思ってくれりゃいい」

 相変わらず姿は見えないが、声の主は源兄さんで間違いなさそうだ。状況を完全には呑み込み切れていない私をよそに、兄さんは話を続ける。

「時間がねえからさっさと話すぜ」

「う、うん」

「まず、統一郎に対する”混沌”はただの時間稼ぎだ。今の俺には、あいつを下して自害させるほどの力は残ってねえ」

 兄さんは、いきなりそう言った。いつも自分が勝つと信じて疑わず、そして本当に誰にも負けなかった兄さんが、あっさりと敗北の予感を口にした。その言葉に、私の心まで暗くなる。

「……そう、なんだ」

「そんな顔してる場合じゃねえぜ。後は頼むって言っただろ」

「え……?」

「俺が賭けたのは”混沌”じゃねえ————奈緒、お前だ」

 兄さんの考えることは、いつもわからない。私は、全力を乗せた一撃でも統一郎の体力を少し削ぐのがやっとだったのに。身体が消えかかっている今の兄さんでも、私なんかよりずっと強いはずなのに。どうして、兄さんは私に後を託そうとするのだろう。

「……私には、勝てないよ」

「そうだな。だから、今この時間で勝てるようにする。それが”混沌”の真の狙いだ」

「でも、どうやって?」

「簡単なことだ。お前の誤解を一つ解く、それだけだ」

 私は何か誤解をしているらしい。しかし、全く心当たりがない。統一郎に勝てないと思い込んでいるだけというわけではないだろう。奴と戦った時の様子から、私の力が足りないのは明らかだ。

「お前には模倣の力がある。それは、どんな力だ?」

「どんな力って……」

 それは、人任せの力だ。目の前で起こった問題の解決を、私の中にいる仲間に任せる。来亜と出会う前も、ずっとそうやって生きてきた。兄さんは私が六年間ずっと戦ってきたと言っていたけれど、私は何もしていない。江寺奈緒は、六年前から何も変わっていない。仲間で一番の落ちこぼれのままだ。

「そいつが誤解だ」

「えっ!?」

 私は何も言っていないのに兄さんがいきなりそう言ったので、思わず驚いて声を上げた。

「今は精神に干渉してるわけだからな、お前の考えていることはわかる」

「そ、そうなんだ……」

「お前の模倣の力は、ただ動作を真似るのとは違う。自分の中で人を思い描き、そいつの力を自らの力に変える……それが、お前の模倣の真髄だ」

 違う。仲間の力を使う時、私はその仲間と入れ替わっている。決して、自分の力になってはいない。

「それは、お前の心がそうさせているからだ。お前は、この力を使うことに対して罪悪感を抱いている」

 兄さんのその指摘は、恐らく正しい。そもそも、六年前のあの日に私だけが生き残ってしまったということ自体が心に重くのしかかってくる時がある。はっきりと自覚しているわけではないが、きっと仲間の力を使うことについても同じように考えているのだろう。

「だから、無意識に力の代償を設定した。反動、制約、そして犠牲……それが必要だってな。本来、能力に合わせて性格を変える必要もねえんだ」

「でも……」

「断言する。その力は、紛れもなくお前のものだ。だから、お前の思うように使えばいい」

 いきなりそう言われても、すぐに受け入れることはできない。もし兄さんの言葉が本当なら、今までずっと私の中にいた仲間たちも虚像だということになる。皆が私の中にいてくれたから、辛いことはあっても寂しさはなかった。しかし今、その仲間たちさえも消え去ろうとしている。頬の辺りが熱く濡れるのを感じる。それなのに、どうしようもなく寒くて、心細い。

「それなら、私は……ずっと独りだったんだ」

「……それは違う。一歩前に進んでみろ」

 そう言われて、足を踏み出す。すると、大勢の人間から背中を押されたように上半身が大きく揺れて、足が想定よりも前に進んだ。驚いて後ろを振り返ると、そこには仲間たちの姿があった。皆、昔と変わらない姿で微笑んでいる。もう二度と現実になることのない光景が、目の前に広がっていた。

「あ……!」

「これで分かっただろ。直接お前と入れ替わることはなくても、皆お前の糧となって、確かにお前の中にいる。六十九人、誰一人残らずだ」

「……」

「だから、お前はお前のまま、為すべきことを為せ」

 兄さんの言葉は、六年前に私の中の兄さんが叫んだ言葉とは真逆だった。やはり、私が認識していた仲間たちは、自分で作り出した虚像だったのだろう。でも、もう不安はない。私という一人の人間の中に、皆がいる。それが分かった今、私は一人でも立ち上がれる。

「……皆、ありがとう。私……皆の分も、戦うよ」

 突如、真っ白な空間に黒い点のような穴が一つ空いた。この場に立っているだけでも、微かに身体がその点の方へ引き寄せられているのを感じる。見たところかなりの距離がありそうだったが、そこが私の行くべき場所らしい。

「……そろそろ限界だな。最後に”混沌”を解くための命令を下す。準備はいいか?」

 私は強く頷いて、仲間たちに背を向けた。目の前の黒い穴は、徐々に大きくなりながらこちらに近づいている。

「————奈緒、立って刀を取れ!」

 源兄さんが叫ぶと同時に、私は穴に向かって思い切り駆け出した。六十九の手のひらが、優しく、温かく、私の背中を押す。その手が離れた直後、穴の方から腕が伸びてきた。たった一本の、小さくて細い腕。私が守って、一緒に帰らなければならない人の腕。それを掴んだ途端、勢いよく引っ張られた。そのまま穴の中に呑み込まれるようにして、私は真っ白な空間から抜け出した。


 ◆

「奈緒!」

 目を覚ますと、来亜が私の背中を支えながら手を握っていた。

「……先パイ」

「全く、いきなり倒れるから驚いたよ」

「……はっ!」

 意識がはっきりすると同時に、急いで身体を起こして源兄さんを探す。しかし、もうその姿はどこにもない。兄さんがいた方を向いても、息を切らしながら膝をついている統一郎の姿が見えるばかりだ。奴は、未だ息絶えてはいない。

「源兄さんは……!?」

「……ついさっき、完全に姿が消えた」

「……!」

「状況の理解が追いついていないが、恐らく源が統一郎を抑えてくれていたのだろう」

 兄さんから聞いた通りだ。これで、私は本当に独りになってしまった。仲間たちの無念を晴らすことができるのは、もう私しかいない。

「……私が、やらなきゃ」

 歩き出して来亜のもとを離れ、床に落ちていた刀を拾い上げる。瞬間、来亜が声を上げた。

「おい、奈緒!」

 刀を握る右手が、激しい熱を帯びているように感じる。この身さえ焦がさんばかりの、力の奔流。今まではそれにただ押し流され、呑み込まれることしかできなかった。しかし、今はこれが私の力だと理解している。

「大丈夫です、先パイ。もう……私は私でいることから逃げません」

 私が刀を構えると同時に、統一郎が立ち上がった。その身体は明らかに衰弱しているが、それでもなお強い威圧感を放っている。少しでも気を抜けば、思わず膝をついてしまいそうだ。

「佐香源……やはり凄まじい男だ。もはや残滓と言ってもよい程度の力でさえ、これほどの威力を持つとは」

「統一郎……!」

 統一郎を睨むと、奴はさもその時ようやく私の存在に気が付いたかのような様子で、わずかに眉を動かしながらこちらを見た。

「何だ、まだいたのか。さっさと立ち去れば良いものを」

「……絶対に逃がさない。お前を倒すまで、私がここを去ることはない!」

「何の話をしている、俺がわざわざお前から逃げるはずがなかろう。俺はあの男に救われた命を浪費するなと言っているだけだ」

 この期に及んで、奴は全く動じない。極限まで追い詰められていても、私のことを歯牙にもかけない。私の言葉は、全て負け犬の遠吠えとでも思われているのだろう。しかし、私にとってもそれはどうでもいい。ただ、統一郎を殺す。それさえできれば、奴にどう思われていようと構わない。

 統一郎のもとまで一息に迫り、横一文字に刀を振り抜く。奴はそこから一歩も動かないまま、刀で私の斬撃を受けた。小さく火花が散り、刀は勢いを失う。

「……どうせ、俺の傷が癒えぬうちに畳み掛けねばならないとでも考えているのだろう」

「……」

「甘く見られたものだな!」

 獲物を見定めた虎の如き眼光が、鋭く私を捉える。それは、初めに相対した時に見た、人の命を何とも思わぬような冷ややかな眼差しとは全く違っていた。

「今更立ち上がったところで、お前にできることは何一つない。いかに足掻こうが、お前は佐香源にはなれん!」

 統一郎の言う通り、私は刀を持っても源兄さんにはなれない。それどころか、どれほど手を尽くしても兄さんには全く届かないだろう。しかし、それは私がここで戦うことを諦める理由にはならない。私は江寺奈緒として、自分の為すべきことを為す。そのために今、立ち上がったのだ。

「……できる。私は、お前を倒せる」

「は、それがお前なりの”気”か?」

 統一郎の挑発を無視し、ゆっくりと息を吐く。そして、再び統一郎に向かって斬りかかった。今度は上から下に、刀を真っ直ぐ振り下ろす。統一郎はそれを刀で受け止めず、咄嗟に横に避けた。奴の全身は、いやに強張っている。死の接近を知覚したのだろう。

「……なるほど。もはや、虎は狼の天敵とは限らんというわけだ」

「お前に遺言を選ぶ機会を与えるつもりはない。喋るなら、もう少し慎重になれ」

「図に乗るなよ、小娘が……!」

 統一郎は、一歩踏み込みながら斬撃を放つ。躱してもなおはっきりとその重さを感じるその一撃で、床に亀裂が走る。もうほとんど体力は残っていないはずなのに、奴の動きは鈍っていない。

「……奈緒、勝てそうか?」

 不意に、後ろから来亜が声をかけてきた。統一郎を睨んだまま、彼女に向けて返事をする。

「……勝ちます」

「そうか。ならば、私たちの目指すべきは単なる勝利ではないね」

「え?」

「完勝だ。そのために、私も最大限の支援をしよう!」

 来亜が声を上げると同時に、統一郎が彼女に襲いかかる。来亜の前に割って入り、何とか攻撃を阻止した。衝撃で両手が軽く痺れ、刀を握る力が弱まる。

「く……!」

「その程度か!」

 統一郎はすかさず蹴りを入れた。それを受け止められた反動で距離を取ってから、奴は刀を構え直した。今度は私の方から斬りかかって、鍔迫り合いを始める。しかしその直後、双方の刀身が耐えきれずに折れた。接近をやめ、互いに一度後退する。統一郎が退いた隙を突いて、来亜はコートの中から水の入った小さな瓶を取り出して投げつけた。

「無駄だ!」

 落ちてきた木の葉を払うように、統一郎はその小瓶を造作もなく破壊する。瓶を割った左の拳に水がかかり、辺りに甘い香りが漂った。

「これは、香水……?」

「香水は燃えやすい。もう少し広い範囲に撒いて、火をつけるぞ!」

 来亜はそう言いながら、左右それぞれの手に懐中電灯を持ち、明かりをつけたり消したりしている。右、右、左。そして、右、右、右、左。両方同時に明かりがついた瞬間はなく、必ず片方だけ明かりがついている。その行動の意図はわからないが、きっと何か考えがあるのだろう。統一郎はその様子を見て、うっすらと笑みを浮かべていた。

「は……くだらん小細工だ、空言来亜」

「何……!?」

「お前たちの浅知恵が通じるとは思わんことだ」

 再び迫ってきた統一郎の拳を受け止める。以前は一撃で意識を失うところまで追い詰められたが、今は違う。そのまま両手の力で奴の右手を握り潰した。統一郎は追撃を諦め、一気に後退する。その隙を突いて、攻勢に転じた。

「はああッ!!」

「貴様ッ……!」

 痛みの残る右手を庇い、統一郎は左手で私の蹴りを防御した。しかし、もう私の攻撃は片手だけで防ぎ切れるものではない。奴の両手が力を失った。この機会を逃さず、来亜は再び統一郎に蓋の開いた小瓶を投げて水を浴びせかける。

「奈緒、準備は十分だ。あとは奴をうまく引き離してくれ……頼む!」

「……はい!」

 来亜の言葉を聞いて、統一郎は即座に私から離れた。妙だ。奴は、私と来亜の間にある取り決めを知らないはずだ。来亜の狙いをすぐさま達成させるような今の行動は、明らかにおかしい。私が指摘するまでもなく、来亜はその違和感に気付いていたようだ。

「……お前、どこでそれを知った?」

「何の話だ?」

「とぼけるな。もう知っているだろうから言うが、奈緒には”頼む”と付け加えた指示には従わないようにと伝えてある。まだお前には見せていなかったはずだが?」

「……言っただろう、お前たちの浅知恵は通用せん。これまでの戦いの様子は、お前たちの監視をしていた人間から聞いている。知る機会はいくらでもあった」

 統一郎は、一向に攻めてこない。このまま間合いを保って戦い続けるつもりらしい。しかし、飛び道具が通用する相手でもない。下手にこちらから攻めかかれば、手痛い反撃を受けるだろう。それでも、立ち向かわなければならない。これ以上、奴に回復の隙を与えるわけにはいかないのだ。

 統一郎を追って駆け出す。私が来亜から離れたのを見た途端、奴は反撃を狙い始めた。やはり、統一郎は私から距離を取ったのではなく、来亜から離れたのだ。それならば、このまま攻め続ければ、奴の守りを崩せるはずだ。

「く……おお……!」

 少しずつ、統一郎の防御が遅れ始めた。そのまま呼吸も忘れて拳を打ち込み続け、とうとう奴の顎に一撃が入った。姿勢を崩したところに、さらに畳み掛ける。

「ああああああッッ!!」

 心の奥底に沈んでいた怒りや恨みを再び呼び起こし、追撃を叩き込む。何度も、何度も、何度も、殴り続けた。もう少しで倒せると思ったその時、背後から来亜が叫ぶ声が聞こえてきた。

「奈緒、退がれ!」

 咄嗟に退くと、彼女は瀕死の統一郎めがけてスタンガンを投げた。瞬間、奴の右手が動き出し、それを強く弾き飛ばした。スタンガンは壁に強く打ちつけられて火花を散らし、壊れて床に落ちてしまった。統一郎は項垂れたまま、ゆらりと立ち上がる。

「そんな……!」

「愚かだな。あのまま攻撃を続けていれば勝てたものを」

 来亜は沈黙したまま、統一郎を睨んだ。奴は痣だらけになった顔を上げ、来亜を見た。その口角は、微かに吊り上がっている。

「お前の言っていた完勝とやらが何を指すのかは知らんが、お前は自分の計画に固執した。それが勝機を逃した原因だ。何しろ、俺にその計画を悟られたのだからな」

「……信じられないね。悟られる余地なんかなかったはずだ」

 来亜の言葉は、苦し紛れの嘘だ。私にもわかるほど、彼女の表情は強張っている。

「では、ここで明かしてやろう。お前の本当の狙いは、放火ではなかった」

「根拠は何だ?」

「他でもない、お前自身の行動だ。お前が放火すると言った時、両手で懐中電灯を操作していたな」

 統一郎は、来亜のあの行動の意味に気が付いていたらしい。来亜はそんなこともあったかと呟き、平静を装っている。しかし、その様子にはかなり無理があった。

「あれはモールス信号だろう。一般的に使われる英字ではなく、わざわざ和文を用いた。確かに事前に教えておけば、相手に悟られる可能性は低い。合理的な判断だ」

「……」

「だが、生憎俺はそれを知っている。お前の言葉が”うそ”だと伝えるための暗号は、俺にも筒抜けだったわけだ」

 それを聞いて、来亜は急に不敵な笑みを浮かべた。その理由は、もう統一郎以外の誰の目から見ても明らかだった。奴に弾き飛ばされてその視界から消えたスタンガンから、火の手が上がっている。獲物を見定めた毒蛇の如く、炎は撒き散らされた香水を伝って徐々に統一郎のもとへ迫ってゆく。

「なるほどな。見事な推理だ」

「残念だが、これまでだ。あのような勝機は、もう二度と訪れない」

「……そんなものは、もういらないよ」

「何?」

 炎が、統一郎を囲い込んだ。常に冬の乾燥した空気が入り続ける木造の建物に、大量の可燃性の液体。そこにあるもの全てが、炎の味方だった。

「お、おおおおッッ!!」

「奈緒、瓦礫の外側まで逃げるぞ!」

「は、はい!」

 来亜が屋根を落とした時にできた瓦礫の山の向こう側まで走る。その後、彼女は瓦礫にも火を放った。これで、統一郎の逃げ場は完全に無くなった。

「馬鹿な、何故だ!?」

「……お前、やっぱり国語が苦手なんだな」

 炎の壁越しに聞こえる統一郎の叫び声に、来亜はそう返事をした。

「どういうことだ、説明しろ!」

「それじゃあお望み通り、最後のタネ明かしだ。奈緒の立場に立って考えてみたまえ」

「何……!?」

「幼い頃、彼女はお前に施設を追われ、その後もろくな教育を受けられなかった。キリスト教も知らないって聞いた時は流石に驚いたよ」

「……何が言いたい」

 統一郎は、静かな怒りがこもった声で来亜に問いかける。

「モールス信号……それも和文モールスなんて、知っているはずがないんだよ。もしかしたら英字の方は施設の訓練で学んでいたかもしれないから、念のため和文を使ったんだ」

「……!」

 来亜の言う通り、私はその暗号を読み取れなかった。彼女は私が知らないことさえも利用し、統一郎を欺いたのだ。

「つまりだ、統一郎……あれは他でもない、お前に向けたメッセージだったのさ。しっかり受け取ってもらえたようで良かったよ」

「……だが、それはおかしい。なぜ、俺に暗号が伝わることを知っていた?」

 統一郎の指摘を受けて、来亜は一度話を止めた。

「そこを突かれると苦しいね。今回の作戦は、たまたま考え出したものだから」

「……」

「私は、奈緒より少し遅れて来た。彼女が追い詰められるまで、この場に来てさえいなかったわけだ。その時間、私が何もしていなかったと思うかい?」

「その時点で手を回していたのか……!?」

「そんな大層なものじゃないさ。ただ、通り道で少し情報を集めただけだ。それで間に合わなければ元も子もないからね。その時たまたま聞いたのさ。”天狼”の長は、顔を見せずに手下とやり取りをするために様々な暗号を使う、とね」

 それを聞いて、統一郎は観念したように息をついた。

「……そうか」

「まあ、伝わっていないようならさっきわざわざ止めなかったよ。完勝はできないが、背に腹は代えられないからね」

 来亜と統一郎が話しているうちに、炎はさらに大きくなる。統一郎は、不思議と落ち着いているようだった。既に自身の生を諦めているのだろうか。

「……統一郎、なぜお前が組織の長の座につきながら、誰にも権力を与えず孤高の存在であり続けたのか……それが、ようやく分かったよ」

「……ほう」

「お前は、自分より弱い者のことを知らないんだ。自分より身体が弱い人間のことにも、自分より知識が浅い人間のことにも、想像が及ばないんだろう。そして、理解できない相手は当然信用もできない」

「……そうかもしれんな」

 統一郎は怒り出すこともせず、ただ一言だけ呟いた。

「とはいえ、それはある種の知恵でもある。自分が知っていることを相手も知っているという想定で動けば、自然と慎重になる。それは、お前の生きている世界では必要不可欠なことだっただろう」

「……だが、今度は裏目に出たというわけだ」

「お前は弱者を知ろうともしないまま、そこから英雄が立ち上がるという期待だけを抱いている。その虚しい期待が、お前の身を滅ぼしたんだ。これは結果論だけれどもね」

 来亜の言葉を、統一郎は沈黙しながら聞いていた。揺らめく炎の狭間から、静かに審判を待つ罪人のような神妙な面持ちが時折見える。

「歴史を振り返ってみたまえ。庶民の中から英雄が誕生した例は極めて少ない。それよりも、民衆の数の力が大きな結果をもたらしたことの方がよほど多い。革命なんかは良い例だろうね」

 炎が屋根の上まで燃え広がり、瓦礫が焼け落ちてきた。それによって、統一郎の姿は完全に見えなくなった。もはや私たちがいる場所も安全とはいえない。それでも、来亜は話をやめなかった。

「民衆の力の真髄は、その数にある。お前はそれに気付かないまま、英雄というそれに相反するような希望に縋った」

「……それは、所詮今までの歴史の話だ。この状況を見ろ。紆余曲折を経て、お前たちは俺を見事に討ち果たした。お前たちが望まずとも、人々はお前たちを英雄と呼ぶだろう」

 その時、統一郎がいやに落ち着いていた理由がようやく分かった。奴は、元から自身の命にさえ執着していなかったのだ。現に今、私たちは巨悪の長である統一郎を打ち破った。自分を打ち破る存在の誕生が、まさしく統一郎の本願そのものだったのだ。初めから、奴に敗北はあり得なかった。私たちの勝利は、奴の野望の達成を意味するのだから。

「なんだ、そんなことか」

 しかし、来亜は統一郎のその言葉を一笑に付した。その後、一層声を大きくして彼女は話を続けた。

「お前の身体は、焼けて跡形も残らないだろう。そうなれば、私たちがお前を倒したというその事実さえ確認できなくなる」

「何を、言っている?」

 統一郎は、明らかに困惑したような声を上げた。それを聞いて、来亜はやれやれと呟きながら両手を軽く上げた。余ったコートの袖がふらふらと揺れる。

「分かるだろう、それとも認めたくないのか?」

「……まさか!」

「私たちは、ただたまたまここを通りかかっただけの通行人だ。建物が焼けているのを見て、人がいたら大変だと思って中に入った。最上階で燃えている人間を見つけたものの、手遅れだと分かって引き返してきた」

「やめろ……!」

 統一郎の声が、どんどん弱々しくなってゆく。顔を見ずとも、その憔悴が伝わってくる。来亜は一切の容赦をせず、最後の追撃を加えた。

「お前の野望と、そのために積み重ねてきた努力は水泡に帰す————私が愛してやまない、嘘の力でね」

「空言来亜……貴様ァァァァッッ!!」

 完勝。来亜のその言葉の意図が、ついに形を持って現れた。ただ勝利するだけでは足りない。相手の望みを完膚なきまでに叩き潰す、あまりにも残酷な結末だ。炎を纏った瓦礫が、奴の身体を埋め尽くす。来亜の策略に呑み込まれた犠牲者の声は、もう誰にも届かない。

 建物を出ると、騒ぎを聞きつけた人々が集まって来ていた。焦って何も言えないでいた私の代わりに、来亜がさっき統一郎の前で語った内容をそのまま話した。そうして、”天狼”の長の死は、不慮の事故として片付けられた。元々、生死を問わず指名手配されていたような人間だから、死んだところでどうということもない。むしろ、体のいい厄介払いができた。誰も口には出さなかったが、彼らの行動がその心情を物語っていた。十分な様子見を経てから火が消し止められ、それに伴って人だかりも消えてゆく。ほどなくして、建物の前に残っているのは私たちだけになった。

「……終わったね」

「……はい」

 不意にどっと疲れが襲いかかってきて、その場に倒れ込んだ。それでも、来亜に言わなければならないことがある。意を決して、口を開いた。

「……先パイ」

「何だい?」

「勝手に出て行って、ごめんなさい」

「寝転がりながら言うことではないな」

「すみません。でも、もう身体が動かなくて……」

「……まあいいさ。今回は大目に見よう。勝手に出て行ったことも、そのだらしない謝罪もね」

 来亜は、私の隣に座り込みながらそう言ってくれた。大きな星がいくつも輝いている真冬の夜空が目に入って、何だか来亜に全てを打ち明けてしまいたくなった。どんなことも受け入れてくれる彼女の存在が目の前の空と重なって、つい甘えたくなってしまったのかもしれない。

「……私、ずっと自分の中には仲間がいてくれていると思っていました。だから、いつも寂しくなかった」

「……そう言ってたね」

「でも、本当はずっと独りだったみたいです。源兄さんが”混沌”を使った時、心の中で教えてくれました」

「……そうか」

 話を続けようとして、目を閉じた。ここから先はいくら広大な夜空でも受け止めてくれるかどうか分からなかったから、怖くなったのだ。

「……だから、私は千尋姉さんみたいに優しくありません。先パイのお菓子とか、勝手に食べちゃうかも」

「お菓子の一つや二つで文句は言わないよ。私は子どもじゃないからね」

 真っ暗な世界で、来亜の返事だけが聞こえてくる。私はそれを聞いて、一度ほっと息をついてから続けた。

「私……源兄さんや海斗兄さんみたいに強くありません。これから先、絶対に負けないとは言えません」

「……それでもいい。多少のミスも補ってこその探偵さ」

 来亜はそう言いながら、そっと私にコートをかけてくれた。大きめのコートだが、それにしても重い。中には一体何が入っているのだろうか。未だにそれは全然分からない。

「私……杏里姉さんみたいに賢くありません。休み明けのテスト、かなり不安です」

「それは……君が困るかもしれないが」

 来亜は少し困った様子でそう言った。流石にそこまでは受け入れてくれないかもしれない。でも、勇気を出して何とか次の言葉を紡いだ。

「……これが、本当の私です。それでも……これからも、先パイと一緒にいても良いですか?」

 来亜は、すぐに返事をしなかった。彼女が沈黙する間、自分の鼓動の音だけがいやに大きく響いて聞こえる。耐えがたいその時間が数秒だけ続いて、来亜はようやく返事をしてくれた。

「……もちろんだ。君は、かけがえのないバディだからね」

 来亜のその言葉の重みが、私には分かる。だからこそ、私はそれに応えなければならない。疲れた身体に鞭打って、何とか立ち上がった。来亜は素早くコートを回収して再び着た。目にも留まらぬ早業だ。私は、きっとまだまだ彼女のことを知らない。

「先パイ、こんな状態なんですけど……少し、寄り道してもいいですか?」

「寄り道?」

 来亜は首を傾げながらも承諾してくれた。彼女を連れて、かつて私を引き取ってくれた老夫婦の家に向かう。もう二人はそこにはいないけれど、家の裏の墓地に二人の墓があるのだ。私は、彼らにも報告しなければならないと思った。二人を襲った組織を壊滅させたこと。高校生活は大変だけれど、楽しく過ごせていること。そして、私の帰るところが新しくできたことも————

「先パイ、お付き合いいただいてありがとうございました」

「構わないよ。もう全部報告したかい?」

「はい……多分」

「まあ、何か忘れていたらまた来れば良い。まさか追い返すような柄じゃないだろう」

「……そうですね」

 来亜の言う通りだ。これが最後の挨拶というわけではない。いつでも帰ってきて良いのだ。二人なら、きっとそう言ってくれる。そう信じて、踵を返して墓に背を向けた。

「それじゃあ————帰ろう、奈緒」

「……はい!」

 墓地を後にして、事務所に向かって歩き出す。真冬の冷気が、全身の傷口に染みる。身体の状態はひどいものだったが、心は今までよりずっと軽かった。そのせいか、不意に昔を思い出してしまった。それから、来亜の手を握って、千尋姉さんに教えてもらった歌を口ずさんだ。長い間、無意識に蓋をしていた記憶。その歌の続きを、思い出したから。

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