魔法の解けるとき

 “天狼”の長、虎嶋統一郎の死は大きなニュースとして全国的に報じられた。予想通り、頭領を失った”天狼”は瓦解し、組織としての犯行は不可能となったようだ。当然そのまま悪の道に残り続ける者も少なくないはずだが、彼らが淘汰されるのも時間の問題だろう。

 奴の死の現場に居合わせていたことで、私たちもしばらくはその騒動に巻き込まれたが、冬休みが明ける頃には日常に戻っていた。それからどうにか学年末テストを乗り切り、今は春休みを心待ちにしながら過ごしている。高校生活の最初の一年間が終わりつつある中で、周りの皆も浮き足立っている————と、思っていたのだが。

「……先パイ、最近学校の様子が変じゃないですか?」

 放課後、校門の前で私を待っていた来亜に率直な疑問をぶつける。試験が終わってから、学校の雰囲気が少しずつ変わってきているのを感じていた。その様子は、七奈が命を狙われた”白雪姫事件”の頃のそれに近い。皆が神出鬼没の暴力に怯えていたあの時のように、不安と恐怖が少しずつ募っているような気がする。

「君もそう思うかい?」

 来亜は相変わらずぶかぶかのコートを羽織っている。少し前まではかなり寒かったので、その大きなコートもちょうど良いように見えていたが、そろそろ以前の違和感が戻りつつある。彼女は言葉を続けながら、私の袖をぐいぐいと引っ張った。

「それなら、早速調べてみようじゃないか」

「わ、分かりましたから、引っ張らないでください!」

 そのまま引っ張られながらしばらく歩いていると、来亜は不意に足を止めた。そのせいで、勢い余って前に倒れ込んでしまった。

「わあっ!」

「おっと」

 来亜が素早く横に飛び退き、いきなり視界にコンクリートが現れた。危うく顔から思い切りぶつかりそうになったが、何とか踏みとどまって事なきを得た。

「もう、危ないじゃないですか!」

「失礼、思ったより勢いがついていたようだね」

「それで……何でいきなり立ち止まったんですか?」

「……もしもこの騒ぎがライトの起こした事件なら、これで最後になるんだと思ってね」

 以前のライトの言葉を信じるならば、来亜が七つの物語を終わらせた時、奴は再び現れる。その時こそ、決着をつける。きっとライトも同じ心づもりだろう。

「まあ、ともかく今は騒動の原因を確かめるのが先だ。まずは一旦事務所に戻ろう」

 事務所に戻ると、玄関に見慣れない靴が置いてあった。見たところ新品ではない。事務所の中に誰かが入ってきたのかもしれない。怪訝に思って、気付かれないように客間を覗いてみることにした。

「あれから、困ったことはない?」

「大丈夫ですよ、そんなに心配しないでください」

「そうは言ったって……」

 客間に近づくと、二人の女性が話す声が聞こえてきた。話の内容は掴めないが、何だか怪しい。そう思って来亜の方を見ると、彼女はむしろ私の方に訝しげな視線を向けていた。

「君は何をやってるんだ?」

「先パイ、そんなところにいたら見つかっちゃいますよ!」

「……なるほどね」

 来亜は私の意図に気付いたのか、深く息をつく。そして、再び私の袖を引っ張って客間まで引き込んだ。

「ちょっと、先パイ!」

「全く……疑ってかかるのは結構だが、今回はその必要はないよ」

「え?」

 そう言われ、改めて客間を見回すと、そこにいたのはアリア先生と瓜谷先生の二人だった。どうやら私はよく知っている二人のことを侵入者だと勘違いして、わざわざ隠れようとしていたようだ。それに気付いた途端、ひどく顔が熱くなった。

「う……瓜谷先生!?」

「あ、帰って来たわね。じゃあ、私は仕事に戻りますね」

 アリア先生は私たちの姿を見るなりすぐに部屋に戻ってしまった。私たちが帰ってくるまで瓜谷先生の話し相手になっていただけらしい。

「驚かせてしまってごめんなさい、お邪魔してるわ」

「全く……バディとして先が思いやられるな。玄関先の靴、前に先生が眠り姫の件で来た時のものと同じだっただろう」

 来亜は分かりやすく呆れたような仕草をした。返す言葉もないけれど、何ヶ月も前に来た依頼者の靴を覚えている方が普通じゃないようにも思う。

「それにしても、どうして瓜谷先生がここに?」

「実は……また依頼したいことがあって」

「最近、学校の様子が少し変だと思っていましたが……それに関することですか?」

 来亜はさっきまでアリア先生が座っていた椅子に座りながら尋ねる。それを聞いて、瓜谷先生は物憂げな表情を浮かべながら頷いた。一目見ただけで、ひどく疲れているのがわかる。

「”爆弾王子”の噂って知ってる?」

「ばっ……!?」

 突拍子もない言葉の組み合わせに、思わず困惑してしまった。しかし、来亜に動揺は見られない。むしろ、興味深そうに身体を少し前に乗り出している。

「詳しくお話しいただけますか?」

「ええ。ここ最近、生徒の間で噂になっているらしいんだけど……」

 聞けば、最近になって夜に校内から爆発音がするという問い合わせが複数来ているようだ。しかし、学校で残業している教員に話を聞いても、皆口を揃えてそんなことがあった覚えはないと答えるのだという。そういった話がどこからか生徒の耳に入り、“爆弾王子”の噂が生まれたらしい。

「”爆弾王子”は心が弱った生徒の前に姿を現し、爆発とともに生徒をその苦しみから救い出す……そんなバカバカしい話まで広まり始めた」

「心が弱った生徒……ですか」

「そう。生徒にまで影響が出始めたから、いよいよ虚偽の問い合わせとして無視できない問題になってきて……いきなり調査の役目を押し付けられちゃったの」

 話しながら、瓜谷先生は溜め息を漏らした。話を聞く限り、どう考えても一人の手に負える内容ではない。どうやら来亜も同じ考えらしく、他の教員にも協力してもらうことを提案したが、先生は首を横に振った。

「……残念だけど、学校はこの問題を解決できるとは微塵も思っていないわ。だから、他の教員の協力は望めない」

「それは……どういうことですか?」

「こんな厄介な事件を素人の手で、しかも教員としての仕事をこなしながら、解決できるわけがない。でも、問題が起こった以上は誰かが責任を負わなければならない……」

「……それで、先生が選ばれた」

 来亜の言葉に、瓜谷先生は無言で首を縦に振った。その表情にはあって然るべき怒りが全くこもっていない。むしろ何の力も入っておらず、ただやるせなさを感じているようだった。

「有り体に言えば、人柱にされたわけですか……ひどい話だ」

「せ、先パイ……!」

「いいのよ、江寺さん。彼女の言う通りだわ。まさか、生徒指導担当ってだけでこれほどのことを押し付けられるとはね……」

 来亜は頷いて、ゆっくりと椅子から立ち上がった。その所作からは、やけに強い気迫を感じる。きっと、彼女も私と同じ気持ちだ。探偵としても、神土高校の生徒としても、こんな事態を見過ごすわけにはいかない。

「……分かりました。”爆弾王子”の調査、お受けしましょう」

「……ありがとう。全く、大人として情けないわ」

「そう自分を責めないでください。私たちもちょうど調査しようと思っていた事件ですから、むしろ情報が集まって助かりました」

「もちろん、私も協力するわ。できる限り遅くまで学校にいるようにするから、何かあったら声をかけて」

 そう言い残して、瓜谷先生は力なく事務所を後にした。開いた扉から、夜の闇が垣間見えた。いつの間にか、日が沈んでいたようだ。その上、小雨まで降り出している。

「さて、それじゃあ調査開始……と言いたいところだが、これでは外を出歩く人はほとんどいないだろうね」

「そうですね……」

「もどかしいが、仕方ない。聞き込みは明日からだ」

 来亜の言葉に頷く。もし”爆弾王子”が実在するとしても、流石に雨の日には動けないはずだ。焦って無理をするのではなく、明日以降に備えて身体を休めるべきだと私も思う。

 そうするはずだったのだが、いざ休もうとすると中々寝つけなかった。時間が経つにつれ、怒りが静かに湧き上がってくるのを感じる。それは、”爆弾王子”に対する怒りだけではない。むしろ、問題に対応せず、瓜谷先生だけに責任をなすりつけようとする学校の姿勢に対する怒りの方が大きい。何としても、事件を解決して先生を助けなければならない。改めて決意し、怒りを鎮めて眠りについた。




「よし……それじゃあ今度こそ、調査開始だ!」

「はい!」

 翌朝、来亜は声高に宣言した。私たちの気持ちが届いたのか、幸い今日は昨夜とは打って変わって爽やかな快晴だ。今回は事件の関係者が明らかになっていないので、まずは手広く聞き込みをすることにした。

「学校全体となると、流石に調査範囲が広いですね……」

「ここは手分けをしよう。君は一年生に話を聞いてくれ。私は二年生と、他の先生にも話を聞いてみる」

「でも……他の先生は話してくれるんでしょうか?」

「全員には聞けないだろうね。でも、瓜谷先生と親しい人なら可能性はある。終わったらここに戻って来よう」

 来亜の表情を見るに、彼女には当てがあるようだ。ひとまず彼女を信じ、一年生の聞き込みを始めた。一人で教室を回るのは少し怖かったが、来亜と一緒に調査をしていると伝えるとすぐに話を聞けた。彼女の評判は、知らない間にかなり広まっていたらしい。

「"爆弾王子”の話だよね。夜の学校で爆発が起こったって噂しか知らないなあ……」

「そうだ、心が弱った生徒を狙うって聞いたことあるよ。でも、心が弱ってるってどうやって分かるんだろうね?」

「”爆弾王子”ってことは……やっぱりお父さんは”爆弾王”なのかな」

「あんたは黙ってなさい。調査の邪魔になるでしょ」

 特に新しい情報は得られなかったが、瓜谷先生の情報が概ね正しいことは分かった。来亜に報告しようと思っていたところに、後ろから声をかけられた。

「あの……江寺さん」

「はいっ!?」

 驚いて振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。人見知りらしく、声をかけられてから中々話を続けてくれなかった。しかし、そんな生徒が自ら声をかけてきたということは、何か重要な話があるのだろう。

「どうかしたの?」

「その……”爆弾王子”の調査をしているって聞いたの。調査は順調?」

「まあ、最初に聞いた情報が正しかったことぐらいかな……もしかして、何か知ってる?」

「実は……近所に住んでた先輩が、”爆弾王子”の被害に遭って亡くなったの」

「……!」

 場所を変え、空き教室で女子生徒の話を聞いた。被害者は三年生で、大学入試を目前に控えていたようだ。被害者の同級生は既に卒業式を終えて学校に来なくなっているから、あまり話が耳に入ってこなかったのだろう。

「……あなたは、平気?」

「大丈夫。直接の知り合いだったわけじゃないし、訃報も親から聞いただけだから」

 そう答えてから、彼女は少し俯いて付け加えた。

「でも……怖くないと言えば嘘になる。噂が本当なら、私も標的になるかもしれないから……」

「……」

「江寺さん……お願い。”爆弾王子”を止めてほしい」

 切実な懇願に、無言で頷く。まだ十分な情報を得られたとは言えない。”爆弾王子”の目的も、見当がつかない。それでも実際に命を奪われた被害者がいて、今もその脅威を恐れている人が確かにいる。それだけで、到底許される犯行でないことは明らかだ。

「絶対、私と先パイの手で解決する。だから、もう少しだけ待ってて」

「……ありがとう。気を付けてね」

 女子生徒と別れ、集合場所に戻った。来亜は先に聞き込みを済ませていたらしく、顎に手を当てて考え事をしながら私を待っていた。

「すみません、遅くなりました」

「全く、随分待たせてくれたな」

 言葉に反して、来亜の表情はにこやかだ。見るからに怪しいので、もう一度尋ねてみる。

「……本当ですか?」

「もちろん嘘さ。予想に反して先生方が協力的で、私の方も思ったより時間がかかってしまった」

「本当ですか!?」

「もちろん嘘だよ」

「ストップ! ちょっと、ストップです!」

 わけがわからなくなる前に手を打たなければならないと思い、咄嗟に来亜を抱きかかえる。彼女は突然両足が宙に浮いたことに驚いたようで、何の抵抗もしてこなかった。

「先パイ、ちょっとだけ我慢してください!」

 そのまま勢いをつけて、その場で思い切り回転する。氷の上にいるわけではないからそれほど速くはないが、来亜が色を失うには十分だったようだ。状況を呑み込み、我に返った来亜は大きな悲鳴を上げた。

「うおおおおおおおおッッ!?」

 悲鳴が止んでから来亜をゆっくり下ろすと、彼女はぐったりしてその場に倒れ込んだ。もう嘘をつく余裕はないだろう。

「な……何も、ここまでしなくて良いじゃないか」

「こんな大事な時に嘘をつかないでください!」

「やれやれ……こういう時につく嘘こそ良いんじゃないか。情趣を解するバディになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだね」

 来亜はふらふらと立ち上がりながら、報告を始めた。

「さて、まずは私から話そう。とは言っても、生徒からは特に目ぼしい情報を聞けなかった。瓜谷先生の話が概ね事実だと追認する形になったな」

「私も大体同じです。ただ、被害者は確かにいるみたいです」

「ほう、被害者と関わりのある人物から話を聞けたのか?」

 頷いて、聞いた話の内容を来亜に伝えた。彼女は怪訝そうな表情を浮かべながら、軽く顎を引いて私の足元の辺りに目線を向けた。

「なるほど、三年生か……」

「先生からは何か聞けましたか?」

「ああ。まず、協力してもらえたのは二人だ。一人目は灰原千里先生……私のクラスの担任だ」

「そういえば、瓜谷先生と同期って前に聞きましたね」

 よく覚えていたな、と来亜は感心するようなそぶりを見せた。ここで誇らしげにすると、こんなのは基本だ、などと言われそうなので、嬉しがるのは心の中だけに留めておいた。

「もう一人は、時山貴也先生。瓜谷先生と同じ、生徒指導担当の先生だ。自分が同じ立場に立たされていたかもしれないから、出来る限りの協力はしたいと申し出てくださった」

 時山先生は、私たちと同じ時期にこの学校に来た若い先生だ。美術の授業を担当しているらしい。授業を受けたことはないが、朝礼や学校行事でよく顔を見るので覚えている。周り人の話を聞く限りでは、生徒からの評判も良いらしい。

「まず、灰原先生の話から伝えよう。爆発騒ぎについて詳しくはご存じないようだったが、精神的に弱っている生徒のカウンセリングをしていて、接点のある生徒が何人か被害に遭っているらしい」

「カウンセリング、ですか?」

「ああ。悩みを聞くだけがカウンセリングじゃないからね、それなりに親しく接していたのだろう。”爆弾王子”のことは本当に許せないと仰っていたよ」

「……そうですね、許せません」

 静かに呟くように、来亜から聞いた先生の言葉に同意する。ただでさえ追い詰められている生徒を狙い、その命まで奪うような行為が許されていいはずがない。

「次は時山先生の話だ。彼の評判は知っているかい?」

「ある程度は知ってます。なんでも、爽やかで人当たりが良く、王子様みたいだとか……」

「そうだ。そのせいで、一部の生徒や教員から嫌疑をかけられているらしい。誰が言い出したのか知らないが、あまりにも安直だね」

“爆弾王子”がもたらしている被害は、予想以上に大きいようだ。この問題が少しでも早く収束してほしいという願いが悪意や猜疑心に形を変えて、色々な人を窮地に追いやっている。怒りと焦りが心の中で混ざり合って、下唇を強く噛んだ。

「時山先生は、爆発があったとされるその時に学校にいらっしゃったそうだ。つまりは午前零時頃まで残業していたわけだが……ひとまずそこは置いておこう」

「……」

「ただ……先生は、爆発に気付かなかったらしい。問い合わせを受けて、その場にいた他の教員にも確認したが、皆同じように気付いてなかったそうだ」

「え?」

 近所から苦情が来るほど大きな爆発があったはずなのに、それに気付かないというのは変だ。この謎について考えようとしたところで、不意にガコ、という音が聞こえてきた。その直後、大きなチャイムの音が鳴り、思わず両肩がビクッと跳ねるように上がった。十八時。部活動の終了時刻だ。

「びっくりした、もうこんな時間ですか……」

「……時間といえば、あの時計は特徴的だな」

 来亜はそう言いながら、中庭にある大きな時計を指さした。時計の周辺は爆発の現場らしく、乱雑にテープが貼られ、立ち入りが制限されている。

「何か変なところがあるんですか?」

「針の進み方が大雑把なんだ。五分経つと一気にその分だけ進む。まあ、わざわざあの時計で時間を確認することもないから困ってはいないけれどね」

 言われてみれば、確かにあの時計の針が細かい時刻を指しているのを見たことがない。まさか、そもそも細かい時刻を指す機能が備わっていないとは思わなかったが。

「さて、もうそろそろ良い時間だ。私たちも引き上げて情報を整理するとしよう」

「はい……急ぎましょう」

 事務所に戻っている間も、私たちはこの事件について考え続けていた。問い合わせと先生たちの証言は食い違っている。しかし、被害者は確かに存在する。考えれば考えるほど、奇妙な事件だ。しかも、もしもこれがライトの仕組んだ事件だとすれば、どこかに必ず物語の力が働いている。まだ情報が足りないが、これ以上情報を増やせば余計に解決が遠のく気もする。頭を悩ませていると、急に来亜の携帯電話が鳴った。彼女は迷わず電話に出たが、困惑しているような表情を浮かべていた。

「もしもし……って君、電話できるのか?」

 電話の第一声としては、ずいぶん不可解だ。来亜に一歩近寄ると、彼女は電話をスピーカーに切り替えてくれた。すると、確かに覚えのある声が聞こえてきた。

「ああ、平気だ。それより……少し、頼みたいことがある」

「霧江さん!?」

「奈緒もいるのか、それなら好都合だ。そのまま一緒に聞いてくれ」

 驚く私をよそに、霧江は話を続けた。以前会った時、彼女は自ら鼓膜を破って外から入ってくる音を遮断していたはずなのだが、今は私の声も聞こえているようだ。

「境田汐音のことは知っているか?」

 汐音は私たちに”おいてけぼり”の噂を調査するよう依頼した生徒だ。まさにその”おいてけぼり”の正体である霧江の口から、その名前を聞くとは思わなかった。

「ああ、前に少し縁があってね。彼女がどうかしたのか?」

「これはあくまで私の憶測にすぎないのだが……汐音が危ないかもしれない」

 霧江は深刻そうな声でそう言った。本人は憶測と言ったが、常人離れした鋭い感覚を持つ彼女のそれは決して軽視して良いものではない。来亜も同じように考えたらしく、詳しく話を聞きたいと答えた。

「助かる。これから事務所に向かってもいいか?」

「構わないよ。極上のココアでも準備して待っておこう……奈緒がね」

「えっ?」

 楽しみだ、という短い返事を残して電話は切れた。心なしか、霧江は前に会った時から少し変わっている気がする。きっと、それは悪い変化ではないと思う。でも、残念ながら今の私にはそんなことをしみじみと考えている余裕はない。

「先パイ、飲み物の準備もするなら急ぎますよ!」

「おい、待————」

 来亜が何か言いかける前に、彼女の手を引いて走り出した。無茶振りのお返しに少し振り回してしまおうと思っての行動だったが、来亜が私より速く走れるのをすっかり忘れていた。途中から逆に私が手を引っ張られ、余計に疲れてしまった。

「全く……わざわざ仕返しするほどのことでもないだろうに」

「先パイ、何で足だけそんなに速いんですか……?」

「心外だな。足の速さ以外もそれなりに自信はある方なんだけれどね」

 息を切らしながら、私とは正反対の涼しい顔をした来亜と事務所に入ると、既に客間には霧江の姿があった。結局、間に合わなかったようだ。

「どうやら、ココアの準備はまだみたいだな」

「悪いが、それ以前の問題だ。生憎、今うちは水道を止められていてね」

「嘘だろ?」

「もちろん!」

 来亜は遅れたことを霧江に謝るどころか、挨拶代わりと言わんばかりに嘘をついた。しかし、霧江が特に動じていないのを見ると、彼女はつまらなさそうな顔をして椅子に座った。

「さて……早速だが、話を聞かせてもらおう。そもそも、君と汐音は接点があったのか?」

「ああ。セイレーンの件で少し世話になったのがきっかけで、時々話すようになった。当然、彼女は私がセイレーンと一緒にいたことを知らないままだが」

 そうか、と来亜は呟くように返事をして、すぐに別の質問をした。確かに、何故だか私もこのまま話を進めるのは良くないような気がしていた。

「それで、汐音が危ないというのはどういうことだ?」

「……彼女は何らかの暴力を受けている。まず、それは間違いない」

「そう言い切れる根拠はあるのか?」

「体育の授業の時、身体の動かし方が少し変に見えた。その後、着替える時に彼女の身体に傷跡があるのが見えた。今見せられる証拠ではないが……私の眼に狂いはないはずだ」

「ふむ……なるほど」

 来亜は特段驚いた様子を見せなかった。心当たりがあったのかと尋ねてみると、彼女は自信満々に探偵の勘だと答えた。私と霧江が沈黙しているのを見ると、来亜は一度咳払いをして話を続けた。

「いや、その可能性を考えてはいたのは本当さ。基本的に物静かでおどおどしているのに、私が少し睨んでみても平然としていたからね。そういう圧力に慣れているのかもしれないとは思っていた」

「ええ……それだけで、ですか?」

「それだけだったからわざわざ言わなかったんだ。もし違っていたら失礼だろう」

「それは、そうですけど……」

 まあいいだろう、と来亜は強引に話を打ち切り、改めて霧江に尋ねた。

「まず、と言ったね。何か続きがあるのか?」

「ああ。ここからが本題だ。君たちが追っている”爆弾王子”の件……噂を聞く限り、汐音も危ないだろう」

「そうだな。健全な精神は健全な肉体に宿るとも言う……裏を返せば、身体の傷は心にも作用しうるというわけだ」

 確かに、来亜の言う通りかもしれない。私にもそんな経験が何度かある。もしも汐音がかつての私と同じような状況に置かれているのならば、見過ごすことはできない。

「明日、私が汐音に話を聞く。一人暮らしの身だから、必要なら彼女を匿うこともできるだろう」

「わかった。私たちも同行しよう。放課後、君の教室の前に行くよ」

 来亜の言葉に頷いて、霧江は事務所を立ち去った。その背中を見送ってから、来亜に声をかける。

「それにしても、大変なことになりましたね。ただでさえ複雑な事件なのに、汐音さんのことまで……」

「そうだな。だが、これが解決の糸口になってくれるかもしれない」

 来亜は思いのほか前向きだった。これまで幾度となく騙されてきたのに、こういう時にはつい彼女を信じてしまう。そんな無責任な期待を抱きながら、明日を迎えた。




 翌日の放課後、私たちは約束通り霧江の教室まで向かった。既に霧江は汐音に声をかけ、引き留めている最中だった。

「霧江さん、お待たせしました!」

「あっ、探偵のお二人……どうしてここに?」

 汐音は新たにやってきた私たちを見て、怪訝そうな表情を浮かべた。これから自分の身に何が起こるのか、想像もつかない様子だ。

「少し話を聞かせてもらいたくてね。ああ、場所は変えるから安心したまえ。奈緒、早速だが頼むよ」

「はい!」

 来亜の指示を受けて素早く汐音の背後に回り込み、彼女の身体を抱える。来亜よりはいくらか大きいが、かなり華奢な方だ。私なら難なく抱え上げることができた。

「うわっ!?」

「そうだな、事務所で構わないか?」

「ま、まだ学校に用事があるので……困ります!」

「ふむ……それなら、三年生の教室を借りるとしよう」

 来亜は得意げに指を鳴らし、私に汐音を運ぶよう促した。汐音は声を上げようとしていたものの、そこまでの勇気はなかったようだ。そのまま汐音を空き教室まで運んで下ろすと、彼女はひどく疲れたようにぐったりと肩を落とした。

「な、何なんですか……!」

「失礼、少々手荒だったね。さっきも言ったが、君に話を聞きたいんだ」

「話って、何の……」

 そう言いかけたところで、汐音は言葉を詰まらせた。霧江の視線に気が付いたようだ。やはり、心当たりがあったのだろう。

「……ああ、この傷の話ですか?」

「そうだ。話せる範囲でいいから、話してほしい」

「なあんだ、これはただ転んじゃっただけですよ。ちょうど階段だったから、こんな怪我になっちゃって……でも、それだけだから平気です」

 汐音は恥ずかしそうに微笑を浮かべながらそう答えた。来亜は彼女の言葉を聞いて、視線を霧江の方に移しながら問いかける。

「……だそうだ。どう思う?」

「恐らく、嘘をついている」

 霧江は迷わずそう答えた。汐音の顔から笑みが消える。

「え……」

「以前の私なら、きっと気付かなかっただろうな。だが……今の私には、君の声が震えているのがよく聞こえるよ」

「……そうだね、私も同じ意見だ」

 汐音は沈黙し、軽く拳を握った。私にも簡単に見抜ける、分かりやすい嘘だ。しかし、そんな嘘をついたことには理由がある。来亜なら、きっとそう考えるだろう。汐音は、確かに嘘をついて自分の中に抱えているものを隠そうとした。だが、きっと本当はそれを見抜いてほしかったのだ。

「私たちで良ければ、力になりたい。本当のことを、話してくれないか?」

「……分かりました」

 観念したように一度深く息をついて、汐音は話し始めた。

「そんなに複雑な話じゃないんです。ただ、こうなるべくしてこうなっているだけですから」

「それは……どういうことだ?」

「私、長女なんです。だから親に期待されていて、それに応えるためにこの学校に入って……それからも勉強を続けてきました」

 汐音の話によると、ある日突然糸が切れてしまったように勉強に手がつかなくなってしまい、成績が下がり続けて親から見放されてしまったらしい。今までで一番成績が悪かったというこの間の学年末テストでさえ私には絶好調でも手が届かないような成績なのに、彼女は許されなかったようだ。

「それで、親は妹の教育に力を入れるようになりました。妹も、落ちぶれた私を嘲笑っています」

「期待していた反動で虐待に発展したというわけか……」

「ひどいですよ、そもそも全然ダメじゃないのに!」

「こうなったのも……私が弱いからです。だって、勉強を続けられたらこうはならなかったんですから」

 それは違う、と霧江が強くたしなめる。そんなに本気で怒ることないのに、と汐音は笑っていた。少しつつくだけでからからと音を立てて崩れてしまいそうな、上辺だけの脆い笑顔。この乾ききった笑顔を、私は知っている。想像よりも状況は深刻そうだ。

「……家族は皆、私のことが嫌いです。私だって、あんな人たちのことは嫌い。だから、一緒にいる意味なんかないんです」

 汐音は平気な顔でそう言った。暮らしを共にする人たちがそこまで憎み合う苦しみが、私にはわからない。全てを失っても、信じた相手に裏切られたことだけはなかった。そういう意味では、私は汐音よりもずっと幸せ者なのかもしれない。

「だから、私は怪奇現象が好きなんです。例えば、ある日突然宇宙人がやって来て、私をここから連れ去ってくれたら……素敵だと思いませんか?」

「……そうかもしれないね」

 来亜は呟くようにそう答えた。彼女も汐音の置かれた境遇を完全には受け止めきれていないのだろう。

「"爆弾王子”の話……調査中なんですよね。噂には聞いてます」

「ああ。今の話を聞く限り、君の身も危ない。必要なら、霧江の家で匿ってもらうことも————」

 来亜の言葉を遮るように、汐音は首を横に振った。

「いえ、いいんです。そこまで迷惑はかけられません」

「だが……」

「それに、私が死んだって、家族は何とも思いません。あの人たちは、そういう人だから」

「……でも、私たちは悲しいよ」

 汐音は来亜の顔を見て、言葉を詰まらせた。それから、気まずそうな表情を浮かべながら軽く頭を下げた。

「……ごめんなさい、こんな話ばかり」

「それは構わないよ、君の話を聞くことが目的だからね。むしろ、おかげで大収穫さ」

 来亜の表情が戻ったのを見て、安心したように汐音は息をついた。そして、ふと時計に目をやって、飛び上がるようにして立った。

「ああっ!」

「どうかしたか……って、そういえば用事があるとか言っていたな」

「今日は灰原先生とカウンセリングの約束をしてたんですよ!」

 慌てて鞄を背負いながら、汐音は教室の出口に向かって早足で歩き出した。

「それじゃあ、調査頑張ってください!」

「ああ。また困ったらすぐに来てくれ。もう隠し事はナシだよ」

 汐音を見送ってから、霧江は私たちの方に向き直って頭を下げた。相変わらず、律儀な人だ。

「……感謝する。汐音の問題には、ひとまず私が対応しよう。君たちは”爆弾王子”の調査に集中してくれ」

「それは頼もしいね。解決できるのかい?」

「一応、手はある」

「ちなみに、木刀を持っていきなり乗り込むのはおすすめしないよ」

 来亜の言葉を聞いて、霧江は黙り込んだ。それから、別の手を考えておくと小さく呟いて教室を後にした。

「やれやれ……」

「なんだか、急に心配になってきました……」

「だが、生憎こちらも時間がないからね。ひとまず彼女に任せるしかない」

 来亜はそう言いながら手帳をポケットにしまった。その時、急に彼女の手が止まる。それからゆっくりと引き出されたその手には、折り畳まれた紙のようなものが握られていた。どうやら来亜自身もそれが何なのか分からずに取り出したらしく、訝しげに目を細めながらその紙を見ていた。

「これは……ポスターか?」

「あ、これ……!」

 来亜が広げてみせた紙には、”白雪姫事件”の内容が記されていた。見たところ、学級新聞の下書きのようだ。しかし、それがわかってもなお私たちは首を傾げるばかりだった。紙には四月号と書かれているが、私の記憶が正しければ、四月号の内容はこんなものではなかったはずだ。

「こんなものを手に入れた覚えはないが……」

「確か、四月の学級新聞って……よく覚えてないですけど、これとは別の内容でしたよね」

「ああ、生徒会役員の立候補者インタビューだったはずだ。だとすると、これは学級新聞とは関係のないところで作られた偽物か、あるいは……事情があってボツにされた記事か」

 そう言って、来亜は顎に手を当てて考え込み始めた。確かに不審な点が多い。そもそもこんなものが彼女のポケットに入っていたことも変だし、この記事の背景に何があるのかも分からない。だが、今のところこれが”爆弾王子”の事件に関係するとは思えない。来亜もそう思ったのか、すぐに考えるのをやめて紙をポケットにしまった。

「まあ、これについて考えるのは後にしよう。ともかく、今は”爆弾王子”だ」

「でも、今日はもう厳しそうですね……」

 既にかなり日が傾いている。ほとんどの生徒は帰ってしまっているだろう。来亜は頷いたが、帰ろうとはせずにそのまま椅子に座り直した。

「どうしたんですか?」

「いや、事務所に戻る前に一通り考え事を済ませてしまった方が良いと思ってね」

「はあ……」

 来亜がそう言うので、私も座り直した。とはいえ、今日は汐音の話を聞いただけだ。特に新しい情報は何も得ていない。何か考えることがあるのだろうか。

「この事件の厄介な点の一つは、学校の内外で証言が食い違っていることだ。学校の外では爆発が起こっているのに、学校の中にいた人間は口を揃えてそれを否定している」

「こんなこと、ありえるんですか?」

「片方の証言が嘘ならば可能だろうね。だが、今回はどちら側にも複数の証言がある。学校側は口裏を合わせることができるかもしれないが……結局爆発の痕跡は残っているわけだし、何より被害者も出ている。嘘をつく理由がないはずだ」

 しかし、目立つ中庭で周囲の人間に気付かれずに爆発を起こすことなど可能なのだろうか。ない知恵を絞って考えていると、私が案を出すより先に来亜が話を続けた。

「……具体的な手口は分からないが、巧妙なトリックを使ったわけではなさそうだ。そこまで手を尽くす相手なら爆発の痕跡もどうにかして消すだろうし、そもそも爆発という手段を選ぶこともしないはずだ」

「だったら、どうやって……」

「……幸か不幸か、相手が普通の犯人ではないことは確かだろうね。”爆弾王子”は、不可能を可能にする力を持っている」

 来亜は口角を僅かに上げながらそう言った。その言葉を聞いて、目を見開く。私たちは、不可能を可能にする力を持つ相手を知っている。

「……怪盗ライト」

「ああ。やはり、これが奴の仕組んだ最後の事件と見て良いだろう。それと、もう一つ疑問がある」

「え?」

「被害者の情報だ。爆発に巻き込まれて亡くなったのなら、身元の特定はかなり困難になるはずだ。だが、警察が立ち入ってすらいないのに被害者の身元が判明している……」

 確かに、考えてみるとおかしい。身元が分からずとも、人が突然いなくなれば、亡くなったと疑われることはありうるだろう。しかし、その確証がなければわざわざ周辺の住人、それも子どもにまで情報を伝えることはしないはずだ。

「もしも、被害者が爆発で亡くなったのではないとしたら?」

「爆発は囮だった……ということですか?」

「疑いすぎかもしれないが、その可能性も考えられる。まあ、手口について考えるのはこのくらいにしておこう。問題は、犯行が可能になるタイミングが存在する人間がいるかどうかだ」

 そう言った直後、来亜は急に目を見開いて椅子から立ち上がった。そして、慌てたように声を上げた。

「何で気付かなかったんだ!」

「どうしたんですか?」

「カウンセリングだ! 狙った生徒……心の弱った生徒と二人きりになる方法として、これ以上のものはないだろう!」

 その言葉を最後に、来亜は駆け出して教室を出た。慌てて追いかけ、職員室に着いた。彼女は勢いよく扉を開け、半ば倒れ込むようにして瓜谷先生の元へ走った。

「瓜谷先生!」

「空言さん、そんなに慌ててどうしたの?」

「灰原先生のカウンセリングって、どこでやっているかご存知ですか?」

「えっと……確か、四階の物理準備室よ。放課後に部活で使わないから、そこを借りていたと思うわ」

 来亜はそれを聞いて軽く頭を下げ、急いで職員室を出た。今度は瓜谷先生が彼女の後を追いかけ、職員室の外で呼び止める。

「もしかして、”爆弾王子”のこと?」

「はい。まだ確証はありませんが……私の仮説が正しければ、もう時間がない」

「まさか、千里が……!?」

「そうと決まったわけではありません。報告はしますから、先生は職員室でお待ちください」

 瓜谷先生はひどく衝撃を受けているようだったが、来亜の言葉には首を横に振った。

「邪魔じゃなければ、私も行くわ。生徒を危険にさらして、自分だけ安全な位置にいるわけにはいかない」

「……分かりました。奈緒、もしもの時の護衛は任せる」

「はい!」

 そのまま階段を駆け上がり、物理準備室の近くまで走った。もうかなり遅い時間なのに、まだ明かりがついている。徐々に疑念が確信に変わってゆく。瓜谷先生は思い詰めたように溜め息を漏らした。

「先パイ、どうしますか?」

「……少し、気になることがある。先に行っててくれるかい?」

「えっ、今ですか!?」

 来亜の提案は、良策とは到底思えない。犯人がすぐ近くにいるかもしれないのに、わざわざ別行動を取る理由が分からない。彼女は私がそう考えることも想定していたようで、すぐに説明を加えた。

「もちろん、完全に別々で行動するつもりはない。携帯電話の通話を繋げておこう」

「そこまでして、一体何を確かめたいんですか……?」

「……全部話すには、時間がない。だが、ひとまず君が出向いてくれれば汐音の安全確保にもなる。まさか、向こうも君が見ている前で彼女を殺しはしないだろうからね」

 結局、来亜は私の疑問に答えてはくれなかった。そこに納得はいかなかったが、私が先行しなければ状況は大きく悪化しうるということについてはもっともだ。私が頷くと、彼女はすぐに下の階に向かって走り去った。

「江寺さん、足手まといでなければ私も行くわ。千里と……話がしたい」

「……わかりました。行きましょう」

 準備室の扉を引いたが、やはり鍵が閉まっている。物理室から回って入ろうとしても、同じことだろう。後のことが少し怖いが、鍵を取りに行って手遅れになれば本末転倒だ。ここは強行突破するしかない。

「はあッ!!」

 扉を蹴破ると、部屋の奥に二つの人影が見えた。大きい方の人影は、こちらを向いているようだ。鍵が閉まっていることを確かめた時点で、部屋に人が入ろうとしていることには気付いていたのだろう。横になって倒れたまま動かないもう一つの人影に目を向けると、やはりその正体は汐音だった。意識を失っているが、息はあるようだ。

「汐音さん!」

「千里、あなた……!」

 汐音の傍に立っていたのは、灰原先生だ。その部屋の雰囲気からして、普通のカウンセリングをしていたとはとても思えなかった。灰原先生は抗弁する気もないらしく、黙ってその場に立ち尽くしている。しかし、その視線は瓜谷先生の方に強く向けられていた。

「驚いた。まさか、見つかるとはね」

「……境田さんに、何をしたの?」

「まだ何もしていないわ。お菓子に薬を盛って、時間が来るまで眠ってもらっているだけ」

 灰原先生は、汐音に一歩近づいた。汐音は目を覚まさない。彼女の代わりに、瓜谷先生が声を上げる。

「そこから離れて!」

「できないわ。この子を救えるのは、私しかいないから」

「何を言っているの……!」

 瓜谷先生の言葉を聞いた灰原先生は、諦念を露わにするように溜め息をついた。彼女自身も、これから自分がする話で瓜谷先生を説得できるとは思っていないような様子だった。

「そうね、まずは問いかけから始めましょう。シンデレラの物語に、もう一枚だけ続きのページがあったとしたら……どうなると思う?」

 瓜谷先生は灰原先生の質問には答えず、目を覚ませと願うように、眠ったままの汐音をじっと見た。その様子を見た灰原先生は、つれないわねと小さく笑って話を続けた。

「私は、そこに幸せがあるとは思わない」

「……」

「王子様との結婚生活がうまくいかないとか、王国に危機が訪れるとか、その形は色々考えられるけれど……続きのページに幸せが広がっているとは思わない」

「御託はいらない。どうしてこんなことをしたのか……それだけを話しなさい」

 灰原先生の話を一蹴し、瓜谷先生は改めて彼女に動機を尋ねた。その鋭い視線を受けた灰原先生の方は、今それを話してるんじゃない、と微笑を浮かべていた。悪びれるような様子はない。

「人生もそれと一緒。幸せの先には不幸が待っている。楽あれば苦あり、禍福は糾える縄の如し……ことわざにもなっているようなことよ」

「まさか、その不幸を与えるために生徒を殺したの……!?」

「逆よ。救うって言ったじゃない」

 灰原先生は呆れたように首を横に振り、瓜谷先生の言葉を否定した。

「大抵の人間は、学校を卒業してから苦しむようになる。仕事を始めて、自分の時間の大半をそこに割かなければならなくなる。そこで初めて実感するの。かつて自分が過ごした日々が、まさしく魔法のような時間だったことを……」

「……」

「そこからは灰色の人生よ。これから先、かつてのような楽しい日々は訪れない」

 そう言って、灰原先生は息をついた。その白い吐息が、冬の面影の残る夜の冷えた空気に溶けて消えてゆく。

「幸せな若い日々を過ごした後に、長い苦しみが待ち受けている……人生は、そうやってできている。それこそおとぎ話のように、逆の順序を選べたなら……私も違う考えを持っていたかもしれないけれど」

「でも、歳を重ねても幸せに生きていく人だってたくさんいるでしょう!」

「それができない人間はもっとたくさんいるのよ。特に……学生時代さえ幸せに過ごせない人には、歳を重ねてから幸せに暮らすことは尚更難しい」

「そんなの、どうしてあなたに分かるのよ……!」

 瓜谷先生は、灰原先生の言葉を強く拒んでいる。私も同じ気持ちだ。仮に灰原先生の言葉が正しかったとしても、やはり彼女の行動は間違っていると思う。

「実際に見てきたから分かるのよ。長いカウンセリングを経てようやく立ち上がった人が、苦しみに耐えかねて再び膝をつく……そんな場面を、いくつも見てきた。カウンセリングの相手だけじゃない。仕事や生活を苦にして自ら命を絶った大学の同期だっている」

「そんなの……」

「それに————舞、あなたは知ってるでしょう。他でもない私のせいで、そうなっている人もいる……もう、あれから三年になるわね」

「千里……!」

 灰原先生の言葉の意味は、私には分からなかった。何か、二人だけが知っていることがあるようだ。しかし、それについて詳しく問う余裕はない。

「長々と話しすぎたわね、そろそろ終わりにしましょう。つまり、大人になって苦しみが訪れる前に人生の幕を閉じる……それが最も幸福な生き方だというのが私の考えよ」

「……」

「そして、今の時点で心が弱っている生徒には、これから先の人生で幸せを見つけることは到底叶わない。だから、ここで終わりを迎えることが救いになる。その救いをもたらすことができるのは……私しかいないの」

 灰原先生がそう言ったところで、不意にポケットに入れた携帯電話から音がした。取り出してみると、そこから来亜の声が聞こえてくる。

『……やれやれ。今回ばかりはライトの手腕を褒めるしかないな』

「先パイ……?」

『正直に言うと……佐香源を見た時、あれを超える傲慢な存在が最後の事件で現れることはないと確信していた。彼は色々と規格外だったからね』

 灰原先生は、来亜の声が聞こえたことに驚いてはいなかった。この会話が何らかの手段で外に漏れることぐらいは想定していたのだろう。彼女はそれを承知の上で、相応の覚悟をもって自身の考えを語っていたのだ。

『……だが、見事に予想を上回ってくれたな。他者の人生を勝手に決めつけた上、場合によっては命さえ奪う。これは正真正銘、最悪の”傲慢”じゃないか』

「……そうね。私は、これ以上ないほど傲慢な人間よ。否定するつもりはないわ」

 灰原先生は、電話越しに聞こえる来亜の言葉にそう答えた。そうか、と短く返答して、来亜は話を続ける。

『調査を始めた時から、ずっと気になっていたことがある……なぜ、犯人は”爆弾王子”と呼ばれたのか?』

「それは、そんなに大事なことかしら?」

『もちろん。こんな名前、自分で名乗らない限りはまずつかないだろう。この通り名自体が、犯人が自ら噂を流した可能性が高いことを示しているわけさ』

 来亜は瓜谷先生に対してはすごく丁寧な物言いをしていたが、灰原先生には全く敬語を使っていない。恐らく、彼女は既に灰原先生のことを打ち倒すべき敵と捉えているのだろう。私は目の前で話をしていても未だに信じられないのに、来亜は離れた場所にいるにもかかわらず、完全に気持ちを切り替えている。

『初めは、時山先生に罪をなすりつけるためかと思っていた。この学校で”王子”と聞けば、真っ先に彼の顔が浮かぶ生徒は多い。その上、まさか犯人が女性だとも思わないだろうからね』

「……それなら、今はどう考えているの?」

『さっきの話を聞いて、ようやく分かったよ。”王子”は……あなたにとって、救いの象徴だったんだ』

「……」

 灰原先生は、沈黙した。それは、恐らく肯定を示しているのだろう。その気配を察したのか、来亜は再び話を始めた。

『それにしても、大胆な犯行だ。まさか、調査にまで自ら進んで関わってくるとはね』

「そうかもね。でも、証言で嘘をついた覚えはないわ」

『ふむ……つまり、”爆弾王子”のことを許せないと言ったのも嘘ではないのか。あなたが”爆弾王子”その人であったにもかかわらず?』

 変な話だ、と来亜は呆れ気味に笑った。しかし、灰原先生は表情一つ変えずに来亜の言葉を肯定した。

「そうよ。私は自分のことが許せない。でも、本当に糾弾すべきは私じゃない。そうでしょう?」

『言っていることが分からないな。罪をなすりつけるような相手は思い当たらないが』

「特定の誰かじゃないわ。この社会……ほんの一瞬でも、こんな方法で子どもを殺すことが正義だと思えてしまうような社会、それ自体が間違っている」

 私が持っている携帯電話を真っ直ぐに見据えたまま、灰原先生はそう言った。責任を逃れたくて言っているようには見えない。彼女は本気でそう思っているのだろう。

『おいおい、随分大きく出たな。憎むべきは事件が起きた社会であって、事件を起こした犯人ではない……そんな理屈を犯人が述べたところで、それが通ると思うかい?』

「通すのよ。"爆弾王子"は……そのために生まれたのだから」

 灰原先生はあくまで犯行を取り止めるつもりはないようだ。来亜の方も説得を諦めたのか、彼女は灰原先生ではなく私に話しかけた。

『奈緒、私は中庭にいる。ここが爆発の現場になっているから、今回もここに爆弾があるはずだ』

 来亜からそう聞いたので、灰原先生に注意を向けたまま数歩下がって廊下の窓から中庭を見下ろした。確かに大きなコートを着た人型の影が見える。四階から見下ろすと、その人影は一層小さく見えた。

『君……何か妙なことを考えなかったか?』

「はいっ!?」

『……まあいいさ。これから私は爆弾を無力化する。君は汐音を救出してくれ』

「そんなことできるんですか!?」

 来亜は平然とそう言ったが、彼女一人でどこにあるかも分からない爆弾を探して無力化することが可能なのだろうか。

『心配するな。それより……忘れていないか? この事件には、認識の歪みを起こす存在が潜んでいる。くれぐれも、敵だと思って汐音や瓜谷先生を殴り飛ばすようなことはしないでくれよ』

「も、もちろんです!」

 来亜の言葉を聞いていた灰原先生は、驚いたような表情を浮かべてから深く溜め息をついた。私たち……正確には来亜が、そこまで見抜いていたとは思わなかったようだ。

「既に見破られているなら、隠す必要もないわね————リュッサ!」

 灰原先生が声を上げると、彼女の周りに黒い靄のようなものが集まってきた。人間に近い形を取っているように見えるが、その存在をはっきりと認識することはできない。

「リュッサ……!?」

 聞いたことがない名前だ。来亜も既に作業に取りかかっているのか、敵の素性を教えてはくれない。瓜谷先生の前に進んで彼女を守りながら、汐音の様子を見る。その時、彼女が目を覚まし、身体を起こした。

「汐音さん!」

「あれ、何で奈緒ちゃんがここに……?」

 汐音は目を擦りながら、近くに立っている灰原先生の姿を見た。そして、彼女を取り巻くように禍々しく漂っている黒い靄を見て、息を呑みながら後ずさった。

「おはよう、境田さん。よく眠れた?」

「せ、先生……それ、何ですか……!?」

「……そうね。せっかくだから話してあげましょう」

 灰原先生は不気味な優しさを纏いながら息をついた。今のところ、汐音に危害を加えようとする気配はない。

「彼女は西洋の神話に語られる女神、リュッサ。大英雄ヘラクレスを狂わせた女神よ」

「そ、それが、何で先生に……?」

 震えた声で汐音が問うと、先生ではなくリュッサと呼ばれた黒い靄の方が声を発して答える。低く響くその声を聞いた途端、全身に寒気が走る。

「それは、チサト……彼女も、私と同じだからだ。自らの行いを許せず、しかしそれを実行せざるを得なかった者……だから、私も力を貸している」

 そう言いながらリュッサが手を前に差し伸べると、その手元から影が伸びるようにして靄が広がっていった。何となく鎌のように見えるが、輪郭がぼやけているのでその形は判然としない。ただでさえ素性がほとんどわからない女神なのに、見た目から得られる情報も少ない。ただ一点はっきりとしているのは、既に戦いを避ける道は断たれているということだけだ。

「チサト……邪魔者の相手は私に任せ、あなたはそこの子どもを守りなさい」

「ええ、頼んだわ」

 灰原先生は汐音を抱えてリュッサの陰に隠れ、二人を守るように女神が前に出た。無闇に攻撃して汐音や瓜谷先生を危険に曝すわけにもいかない。しばらくは、観察に徹する他ないだろう。

「江寺さん、本当にあれと戦うの……?」

「はい、先パイに頼まれましたから。瓜谷先生は……巻き込まれないように気をつけてください!」

 靄で作られた武器を振りかざしながら、リュッサがこちらに迫ってくる。何度か攻撃を避け、瓜谷先生を逃がす時間を稼いだ。彼女が部屋を出て安全な場所に隠れたのを確かめてから、目の前の敵を今一度睨む。リュッサはもう一度武器を構えたが、さっきまでとは武器の形が全く違う。槍のように長い柄を握りしめながら、女神はこちらを見据えている。

「はっ!!」

 リュッサが繰り出した突きを躱し、一旦距離を取るために部屋の外まで出る。今のように武器が形を変え続けるとしたら、いつまでも対応できるとは限らない。厄介な相手だ。

「く……!」

「江寺さん、大丈夫!?」

「平気です、先生は隙を見て汐音さんを……!」

「……わかったわ!」

 私が最後まで言い切る前に、瓜谷先生は動き出した。物理準備室には扉が二つある。私が蹴破った、廊下と直接繋がっている方の扉ではなく、隣の物理室から入ることもできる。不意を突くようにそこから入れば、汐音を救出する隙も作れるだろう。当然鍵がかかっているのですぐには入れないが、鍵を取りに行っている間は瓜谷先生を巻き込む心配もない。

「防戦一方か、くだらない。臆病な人間に神の加護は宿らんぞ」

「そんなもの、いらない」

「は、それもそうだ。神と技を競うこと自体、自殺行為なのだからな。これから死ぬ人間には加護など必要ないか」

 リュッサは嘲るような声でそう言った。わざわざ挑発に乗る必要はない。今は観察を進めるだけでいい。とはいえ、戦いながらではそれにも限界がある。どちらかと言えば、来亜が戻って来るまでの時間を稼いでいると言った方が正確だろう。

「先パイ、無力化はできそうですか?」

『……ああ、じきに終わる。もう少しだけ待っていてくれ』

 その言葉を聞いて安心した。これまで何度もその存在すら信じられないような敵と戦ってきたが、来亜の支援があればどんな敵も打ち破ることができた。今度の相手も、二人なら乗り越えられる。来亜と一緒なら、神が相手でも怖くはない。

「は……あはははッ!!」

 突如、部屋の隅に移動していた灰原先生が高らかに笑い声を上げた。同時に、リュッサも攻撃の手を止める。何が起こったのか、理解できなかった。灰原先生の方に視線を移すと、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべながらこちらを見た。

「時間切れだ。午前零時————魔法が解ける時間よ」

 灰原先生のその言葉の直後、中庭の方から大きな爆発音が聞こえた。衝撃で木々が大きく揺れ、枝葉が激しく擦れる音がここまで聞こえてくる。

「え————」

 ポケットの携帯電話に目をやると、通話が切れていた。来亜の声は、もう聞こえない。鼓動が早くなるのを感じる。

「そんな……!」

 鍵を持って駆けつけてきた瓜谷先生が窓を見て、声を漏らした。私の希望が、文字通り音を立てて崩れたのだ。直接見ていなくても、それが何となくわかった。

「これで終わりね。冥土の土産にタネ明かしをしましょう」

 私が呆然として言葉も出せないでいる中、灰原先生は話を続けた。言葉は聞こえるが、意味を理解する余裕はない。その言葉は、ただ音として耳に入るばかりだ。

「今はもう午前零時、高校生は外を出歩けない時間。そこまでの時間が経っているとは思わなかったでしょう?」

「……」

「それがリュッサの力。人間の認知を歪め、狂気をもたらす力よ。いつもは爆発が起こったことを学校内の人間に認識させないために力を使っていたけれど、今回はあなたたちが邪魔をしに来た時のために、時間の経過に対する認知も歪めた」

 言葉は私が意味を掴むのを一切待つことなく、すらすらと流れてゆく。私の方も、そんなことばかりしている余裕があるわけではなかった。それとは別のことに、思考の大半を費やしていたのだ。

「だから、あなた達は午前零時……中庭の大時計の針がぴったり重なるその時間が近づいていることに気付かなかった。時計の針が動く勢いで爆弾を吊るした糸が切れて、爆弾が落ちるその瞬間まで、この狙いに気付かなかった」

「……」

 また、失った。それに、今度は今までとは違う。私は無力だったわけじゃない。その場にいなかったわけでもない。きっと、防ぐことができたはずだった。それなのに、汐音や瓜谷先生に危険が及ばないようにとか、いくら犯人でも先生に攻撃するわけにはいかないとか、余計なことを考えてしまった。だから、今度こそ守ると決めたはずなのに、大事な存在を失った。

 床に投げ出すように両膝をつく。何かが全身を駆け抜けているような感じがする。源兄さんの模倣をした時のような、熱い力の流れではない。六年前、仲間たちが殺されて独りになったあの時のような、凍えそうなほど冷たい感覚。きっともう味わうことはないと思っていた、あの寒さ。それが今、私を取り巻いている。

「終わりだ。お前も、神に逆らった罰を受ける時だ」

 雑音が聞こえる。普段なら何とも思わないような音。それが今は何だかとても腹立たしい。視界に入った黒い影を、力と感情に任せて振り払った。影は大きく後ろに吹き飛んで、壁に背中を打ちつけた。

「む……!」

「な、何……?」

 ああ、そうか————やっぱり、私は怪物だったんだ。怪物なのに、中途半端に人間のままでいようとしたから、取り返しがつかないことになってしまった。本当はずっと独りでいるべき存在だったのに、今まではそれを受け入れてずっと生きてきたのに、今は独りになったことがたまらなく怖い。それは、彼女に出会ってしまったから。怪物さえ受け入れてくれるような、温かい存在に出会ってしまったから。今、全身に突き刺さるような寒さを感じているのはそのせいだ。

「……そうだな、終わりだ。全部、ぜんぶ……終わりにしよう」

 もう、何をしたって構わない。どうなったって構わない。ただ、私が独りでそれを背負って生きてゆくだけだ。


 ◇

 奈緒が立ち上がった瞬間、女神は全身におぞましいほどの寒気が走る感覚を覚えた。彼女にとって、その感覚は初めての経験ではない。しかし、だからこそ彼女はより一層恐怖した。それは、彼女が自身の望まぬ行為を実行せざるを得なかった理由そのものだったから。

「この気迫……これは、まるで……!」

「リュッサ、どうしたの!?」

 女神の異変を察知し、灰原が声をかけた。しかし、リュッサは返事をしない。ただ、奈緒を恐れている。その事実だけが灰原にも伝わり、彼女もまた得体の知れない恐怖に身震いした。餓狼の牙は、今まさに彼女自身の首筋にも突き立てられている。それに気付くことができるほど、今の灰原は冷静ではなかった。

「な、何なの……!」

「境田さん、こっちよ!」

 瓜谷がその隙を突いて準備室の鍵を開け、汐音の手を掴んで物理室の方に引き込んだ。彼女も奈緒の変化に驚いてはいたが、視線を向けられてはいなかったので、何とか身体を動かすことができたのだ。だが、その空間に怪物が存在するということ自体に対する恐怖は灰原たちと同様に背負っている。汐音の救出が叶ったのは、ひとえに彼女の勇気と使命感の賜物であった。

「く……リュッサ、やるしかないわ!」

 悪魔と見紛う禍々しい力の塊を前に、灰原は怯えを抱きながらも叫んだ。それは全身を取り巻く恐怖を誤魔化すための苦肉の策でもあったが、結果的に彼女の期待とは全く逆の方向に作用した。

 灰原の言葉の一つ一つ、そして彼女の一挙手一投足が、奈緒の全身を支配する冷たい感情をさらに増幅させた。もはや、灰原がその場で呼吸し、口を動かしていることさえ、奈緒にとっては許し難い罪悪に形を変えていた。もはや来亜には不可能となったその行いを、灰原は奈緒の目の前でのうのうとしてみせている。それは言うなれば食物にまとわりつく虫のような、一刻も早く取り除きたい不愉快として彼女の目には映った。

「う……おおおおッ!!」

 リュッサは自らが最も得意とする武器、狂気をもたらす杖を奈緒に向けて振るった。しかし、彼女が期待するような効果は全く得られなかった。今、奈緒の身体を突き動かしている感情は、ともすれば生霊として実体を得かねないほどに膨れ上がっていた。それは、もはや一種の狂気と呼べるようなものだ。狂っている者を、新たに狂わせることはできない。リュッサはその単純な事実すら見落とすほど憔悴していた。

「……死ね」

 木こりの命を奪い去る雪女の息吹の如く、奈緒はリュッサに向けて一言だけぽつりと呟いた。直後、奈緒の身体はその静寂を一気にまとめて放り捨てるような勢いで躍動する。リュッサが武器を構えるより早く、奈緒は鈍い音を立てながら女神を何度も殴りつけた。

「ぎッ……!!」

 リュッサの神話が語られる文化圏において、神は不死の存在である。故に、リュッサに死の不安や恐怖はない。しかし、それとは異なる恐怖が彼女を取り巻いている。それは名だたる神々すら大いに苛まれる、苦痛に対する恐怖。神々に死は無くとも、痛みはある。リュッサはそれに怯えたのである。

「……」

 息を切らしながら痛みを堪え、身体を震わせるリュッサを冷たく見下ろしながら、奈緒はある違和感を抱いていた。完全に殺すつもりで殴ったのに、死んでいない。彼女はリュッサが不死であることを知らない。しかし、知識として知らずとも、奈緒はこの瞬間にそれを経験として理解した。

「……お前、死なないのか」

 リュッサの身体の震えが止まる。最も知られたくなかった事実を、呆気なく悟られてしまった。先刻までならいざ知らず、今の奈緒は相手が死なないからといって無駄な攻撃をやめるような合理性を持ち合わせてはいない。怪物の歌に魅せられた船乗りの如く、奈緒の心はどこまでも昏く、深く沈んでゆく。そして、彼女は同時に女神をも苦痛の中に引きずり込まんとして、その首に手をかけたのである。

「それならちょうど良い。死ぬより辛い苦しみを与えてやる」

 そう言った奈緒の表情は、それまでと全く変わっていない。自分にとって都合の良い事実が明らかになっても、彼女は笑顔ひとつ浮かべなかった。それは、これから襲い来る苦痛に終わりはないということをリュッサに知らしめた。怒りのような熱を帯びた感情は、時間が経つにつれて温度を失う。しかし、目の前の相手が抱いているのは怒りではない。どれほど時間が経っても、勢いが弱まることはない。そのどこまでも暗く冷たい感情は、リュッサに底の見えない大穴を思わせた。大神に逆らった神々が受ける罰の象徴。彼女はそれを想起せずにはいられなかったのである。

 奈緒はリュッサへの攻撃を続けた。女神が憎かったからではない。ただ、彼女がそうすべきだと思ったから。例えば、戦で友を失った英雄が仇討ちをしたように。或いは、長い放浪から帰還した英雄が、自身の不在につけ入って妻に言い寄った者を皆殺しにしたように。奈緒もまた為すべきことを淡々と為した。

 あらゆる抵抗を許さない、絶対零度の連続攻撃。大神と争った単眼の巨人が如き、神をも恐れぬ所業。女神は、女神であるが故に、その目の前の脅威から逃れる術を持たなかった。痛みで意識を失っては、また新たな痛みに目を覚ます。その繰り返しを目の前でまざまざと見せつけられている灰原の身体もまた、凍りついていた。

「ば、化けも————」

 灰原は、とうとう最後まで言葉を紡ぐことすら許されなかった。リュッサという最大の障壁が容易く蹂躙された今、彼女を守るものは何もない。奈緒は、無防備なまま罪悪を重ねようとする彼女を見逃すようなことは決してしなかった。彼女は瞬く間に灰原の眼前まで迫り、その細い喉を片手で握って身体ごと持ち上げる。

「黙れ。次に声を出せば喉を潰す」

「江寺さん……!」

 瓜谷は咄嗟に声を上げ、目の前で死に瀕している同僚を助けようと立ち上がった。しかし、そこから一歩も足を踏み出せないまま、力なく膝を折る。結局、彼女には恐怖と混乱で歯をがちがちと鳴らす汐音の傍についていることしかできなかった。奈緒がそのまま目の前の命を握り潰そうとする瞬間、彼女は背後に聞くはずのない声を聞いた。

「おいおいおい、待ちたまえ!!」

「————!」

 奈緒が手を離して振り返ると、そこには確かに来亜の姿があった。夢や幻の類だと疑った奈緒は、ゆっくりとその手を握る。瞬間、彼女の掌に熱が戻った。

「……先、パイ」

 奈緒は安堵で潤んだ目を閉じ、砂の城を指で突いたかの如くその場で崩れた。来亜はその身体を丁寧に寝かせ、未だ苦痛の残滓に悶える灰原の姿を見た。

「かはっ、はあ、はっ……!」

「やれやれ、心配するなと言ったのに……もうめちゃくちゃじゃないか。随分派手に暴れてくれたな」

 来亜は溜め息をついて、少し離れた場所で意識を失って倒れ伏しているリュッサに視線を向けた。そして彼女は奈緒の懐からおもむろに銀のナイフを取り出し、女神の方へ歩み寄った。

「まあ、事態は収束したも同然だが……ちゃんと始末をつけよう。物語は、必ず終わらなければならないからね」

 そう言って、来亜はリュッサの胸元にナイフを突き立てた。女神は安らかな表情を浮かべ、黒い靄の中に消えた。それから灰原の方に戻る途中、来亜は彼女から懐疑の視線を向けられていることに気がついた。

「……何で生きているのか、とでも言いたげな顔だな」

「……」

「それじゃあ、最後にタネ明かしだ。まず、今回の事件の手口を改めて説明しよう」

 来亜はコートの襟を正し、話を始めた。灰原は何も言わず、それに耳を傾ける。

「話は随分ややこしくなったが、手口自体は単純だ。カウンセリングを行う立場を利用して生徒をここに閉じ込め、時間が来たら殺害する……それだけだからね。問題は、その方法だ」

 僅かに呼吸が整った灰原は、来亜に背を向けて駆け出した。しかし、その直後に彼女の視界を足元の床が覆った。ぎり、と歯を食いしばりながら灰原が顔を上げると、その目には見覚えのある男の姿が映った。

「時山先生ッ……!」

「……灰原先生。もう、観念してください」

 灰原は強い違和感を抱いた。目の前の時山の表情には、当然見えるはずの怒りの色がなかったのである。危うく罪を着せられ、人生を潰されかねない状況であったにもかかわらず、彼が灰原に対して怒りを露わにすることはなかった。むしろ、そこから読み取れるのは哀れみに近い感情であった。それを見た灰原は正体の分からない怒りに駆られ、下唇を噛む。

「逃げ出すことぐらいは想定しているよ。だから、時山先生にも来ていただいた」

「……そう。わざわざ離れて電話を繋いだのは、それが理由だったのね」

 来亜は軽く頷いて、話を続けた。

「殺害の方法の話だったね。さっきあなた自身が奈緒に語ったように……爆弾が仕掛けられていたのは、中庭の時計だった。時間が来る少し前に短針に糸を引っかけて爆弾を吊るしておけば、あとは二本の針がハサミの要領で糸を切ってくれる……つくづく大胆な仕掛けだな」

「そうよ。そして、中庭に向かっていたあなたは爆発に巻き込まれて死んだ……はずだった」

「そうだな。私は爆弾を無力化するために中庭にいると奈緒に伝えた。彼女も私のコートを着た人影を見ただろうな」

「じゃあ、一体どうやって……」

 来亜はその瞬間を待っていたと言わんばかりにいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「もちろん、嘘だよ!」

「嘘……!?」

「私は爆弾を無力化すると言ったが、解除するとは言っていない。つまり、被害が出なければ爆発しても構わなかったわけだ。それなら、中庭にいる必要はない」

 灰原は、自分が既に喰われていることにも気付かない愚鈍な獣のように、呆然と来亜を見た。

「あなたが爆弾で吹き飛ばしたのは、私のと似たコートを着せた人形だ。時山先生に協力を仰いだのは、そのためでもあったんだよ」

「……まさか、備品を粉々に吹っ飛ばされるとは思わなかったけどね。反省文くらいは覚悟しておいてくれよ」

「……まあ、奈緒も好き放題やったみたいですからね。後日仲良く一筆したためるとしましょう」

 時山の言葉に苦い顔をする来亜に、灰原は疑問を投げかけた。彼女自身は既にその答えを知っていたが、それだけに来亜の話に強い違和感を覚えたのである。

「そ、それはおかしいわよ。だって、爆弾が爆発したら被害者が殺されて終わりじゃない」

 来亜はその質問を聞いて、声を立てて笑った。事件を起こした張本人なら知っていて然るべきことを灰原がわざわざ聞いてきたのが、来亜にとってはまさしく滑稽そのものだったのだ。

「……元々、あの爆弾は殺人のためのものではないんだろう?」

「……!」

 冷や汗が背中の辺りを伝うのを感じながら、灰原は来亜の話を聞いた。彼女の目には、来亜の眼差しが一層鋭くなったように映った。

「簡単なことだ。あんな大きな爆発で殺されていたら、被害者の身元がこんなに早く判明するはずがない。だから、爆弾は中庭にしかないと思ったんだ」

「じゃあ、爆弾も使わずにどうやって殺したと言うの……!」

「そんなの、いくらでも方法があるだろう。そうだな……例えば、そこにあるような偽物の爆弾を見せて、飛び降りて逃げるように促すこともできるだろうね」

 来亜はひどく荒れた物理準備室の方に目を向けながらそう言った。その視線の先には、破壊された機械の残骸が転がっている。既に数字の表示すら消えていたが、一向に爆発する様子はない。

「冷静に考えれば、到底信じられる言葉ではない。爆弾が本物なら、あなたが平気でいるはずがないからね。しかし直前に大爆発を起こせば、ただでさえ心が弱った生徒は尚更正常な判断ができなくなる。どれだけ粗雑な嘘でも受け入れてしまうだろう。そこにあなたが飛び降りて逃げろと一声かけてやるだけで、お姫様は救われるというわけだ」

 来亜は、これまで灰原が用いてきた手口をピタリと言い当てた。灰原の身体を取り巻く寒気がさらに強くなる。

「とはいえ、私たちの動きに気付いて手法を変えられたら困る。何せ、そちらには人間の認知を歪める女神……事実上の完全犯罪製造機がついているわけだからね。手口はいくらでも変えられる。だから、あなたの計画に乗った上で爆弾を浪費させる必要があったんだ」

「……」

「まあ、タネ明かしはこんなところにしておこうか」

 来亜はコートを軽く叩きながら姿勢を正し、灰原に向かって真っ直ぐに指をさした。それにつられるように、瓜谷と時山も灰原に視線を向ける。

「──────"爆弾王子"、あなたの物語はここまでだ」

 処刑台に立たされているような緊張感に耐えかね、彼女は声を上げた。

「な……何よ、皆してこっちを見て……これじゃあ、それこそおとぎ話の悪役みたいじゃない」

「……」

「確かに、これで境田さんの命は助かった。でも、彼女は本当に救われたと言えるの!?」

 灰原は、掠れた声で必死に訴えた。彼女の言葉に答えたのは、来亜ではなく汐音だった。

「……灰原先生、もうやめてください」

「境田さん、騙されたら駄目よ。彼女はあなたを救ったわけじゃないわ。あなたの問題は、何一つ解決していない……!」

「……」

「家に帰っても、あの人たちが温かく迎えてくれるわけじゃない。あなたを出迎えるのは、あなたに酷いことをした家族のままなのよ!」

 灰原は、半ば怒鳴るような剣幕で汐音に迫った。汐音はそれが灰原なりの善意の形であると理解していた。しかし、彼女がそれを受け入れるかどうかはまた別の話だ。そして、その答えは既に灰原以外の誰の目から見ても明らかだった。

「……確かに先生の言う通り、私の問題は何も解決していません。私は今日も真っ暗で冷たい家に帰ることになります。今日なんかは帰りが遅いから、普段よりもっと酷いかもしれません。ここで死んだ方が、楽なのかもしれません」

「じゃあ……!」

「でも……それは、先生が決めることではありません。たとえ未来の私が今の私を恨むことになったとしても、今の私は生きていくことを決めたんです」

 汐音は、灰原を真っ直ぐに見据えながら返答した。灰原は、今の汐音にかつての弱さを見出すことができなかった。もう立ち直る見込みさえなく、死んだ方が楽になれる。そう判断して奪おうとした命が、再び立ち上がっている。それは彼女のこれまでの犯行、そして”爆弾王子”という存在そのものの完全なる否定に他ならなかった。

「……こうやって死に瀕して、初めて分かりました。私、死ぬのが怖いんです。突然消えてしまいたいと思っていたけれど、それはすごく怖いことなんだって分かりました」

「……」

「それに……もう一つ、分かったことがあります。私を助けるために、こんなにたくさんの人が頑張ってくれるということ。皆、私を見捨てないでくれたということ……」

「それは違う。皆、この事件が終わったらまた他人に逆戻りよ。ただ目の前で命が失われることを受け入れられなかったから、私を止めたに過ぎない。そこに善意なんてない。あるのは嘘っぱちの良心だけなのよ……!」

 灰原の必死の反駁に、汐音はゆっくりと首を横に振った。

「……それでも、構いません。嘘だって良いんです」

「え……?」

「たとえ嘘だったとしても、それを信じることで幸せになれるんだとしたら……素敵だと思いませんか?」

 灰原は、汐音の言葉に心の底から困惑した。生徒の本音を引き出し、その苦しみから救う。相手の本当の顔に向き合うことだけを懸命に考え続けた彼女にとって、表面上の嘘を信じるという汐音の考えは最初から排除されて然るべきものだったのである。

「どういう、こと……?」

「……もう諦めたまえ。少なくとも、あなたの言う救済は今の彼女には必要ない」

 来亜が声を発すると、灰原は彼女の方に向き直った。その目はさっきまでの熱意を一切失い、ただ正面に立っている少女の輪郭をおぼろげに捉えるばかりである。

「私が……私が今までやってきたことは、正しいことじゃないの……?」

「……さあ。解決後の考察は、探偵の管轄外だ」

 来亜はコートのポケットに手を入れ、灰原の方に歩み寄りながら言葉を続けた。

「だが……考察するまでもなく、許されない存在もある」

「……」

「————正義と称して、罪を犯すことだ」

 来亜の言葉を聞いて、灰原は力なく項垂れた。そして、彼女は時山と瓜谷に腕を引かれながらその場を後にした。


 ◆

「う……」

 目を覚ますと同時に、疲労感が全身に襲いかかってきた。身体を無理に動かしたせいだろう。二度目の"人狼事件"の時とは違って、今の私は自分がしたことをはっきりと覚えている。わざわざ周囲を見回す必要はない。そして、あの時と同じように来亜は私の隣に座っていた。

「おや、ようやくお目覚めか」

「……先パイ」

「安心したまえ、事件は無事に解決したよ。心配すべきことといえば、反省文くらいだ」

 来亜は溜め息をつきながら、気だるげに軽く首を横に振った。彼女は周囲に散らばっている破壊の痕跡には目もくれず、私に向けて手を差し出した。

「まあ、それも今日のところはいいだろう。帰るとしよう」

「……」

 言葉が出なかった。私は、やはり彼女の傍にいてはいけないような気がする。ともすればそれは彼女に限った話ではなく、そもそも私は誰かと共に生きてはいけない存在なのかもしれない。大切な存在を失った悲しみで周囲を傷つけてしまうなら、初めからそんなものを持たずに独りで生きていくべきなのかもしれない。自らの力を自覚したことで、尚更そう感じる。まだ少しだけ身体に残っているさっきの寒さが、私の足から力を奪っている。そうして少しずつ足取りが重くなって、やがて歩けなくなってしまった。

「どうしたんだ?」

「……先パイ、私……!」

 そこまで言いかけて口を噤んだ私の手を引いて、来亜は再び歩き出した。引っ張られるようにして、動かなくなっていた私の足も進む。

「歩けなくなった時の世話もバディの務めだからね。生憎、おぶってやることはできないが」

「……」

 それからしばらくの間、私たちは何も言わずに歩いていた。しかし、校舎を出るとすぐに来亜がぴたりと足を止めた。彼女を頼りに歩いていた私は、当然その場でつまずいた。今度は踏みとどまるのが間に合わず、転んで地面に手をつく。

「もう、またこうなるんですか!」

「失礼。だが……怒る前に少し周りを見てくれ」

「え?」

 挑発にも聞こえるような来亜の言葉にひとまず従ってみると、辺り一面に紙が散らばっていた。大きさも硬さも葉書と同じくらいで、紙というよりはカードと言った方がより正確だろう。曰く付きの物品に札が貼られているように、カードは周辺の道にびっしりとばら撒かれている。

「な……何ですか、これ!?」

「こっちが聞きたいな。まあ、まずは紙を見てみなければね」

 そう言って、来亜はカードを一枚拾い上げる。私も同じように拾い上げたが、中に書いてある文章は同じだった。

「”三月十二日の午後八時、神土町の闇を照らしに参上する”……か」

「先パイ、これって……!」

 来亜は無言で頷く。間違いなく、怪盗の予告状だ。文章は新聞の文字を切り貼りして作っているから筆跡は分からないが、内容を見ればライトのものであることは明らかだ。

「全く……これまで不法侵入しかしていないと思っていたが、最後になってようやく怪盗らしいことをしてくれるじゃないか」

「三月十二日って、五日後ですよね……何かあるんでしょうか?」

 土曜日の夜なので多くの人が見物に来やすそうではあるが、祝日や記念日ではなさそうだ。来亜にも思い当たる節がないらしく、彼女も首を捻る。

「……まあいいさ、本人に聞いてみれば分かることだ。案外単純な理由かもしれない」

「それにしても……怪盗ライトは何者なんでしょうか?」

「ああ、その見当は何となくついているよ」

「えっ!?」

 私の何気ない疑問に来亜が思わぬ答えを返してきたので、驚きのあまり声を上げてしまった。しかし、今は本来高校生が出歩いて良い時間ではないことを思い出し、すぐに手で口を覆う。

「気をつけたまえ……」

「で、でも……!」

「正体の見当はついている。だが、動機は依然として不明だ。なぜ、ライトがこれほど大がかりな事件をいくつも起こしたのか。奴の本当の目的は、何なのか……この誘いに乗るのは、それを確かめるためだ」

「……」

「当然、その後きっちりお縄にもついてもらうけれどね」

 来亜はそう言ってカードを懐にしまい、事務所に向かって歩き出した。慌ててその後を追いながら声をかける。

「ちょっと先パイ、結局ライトの正体は誰なんですか?」

「それは五日後のお楽しみだ」

「えー!」

「もちろん、君の力も大いに頼らせてもらうよ。一対一で戦うなんて一言も言っていないからね」

 来亜はこちらに振り向いて、不敵な笑みを浮かべた。コートが風に靡いて、ばさりと音を立てる。自信に満ちた彼女を見ていると、何故か私の不安も薄れてゆく。人と共に在ることが許されない、怪物の力。彼女なら、きっとそれさえも思うままに使いこなしてくれる。彼女が良いと言ったなら、私はここにいても良いのだ。

「……はい!」

 返事をして、来亜のそばに歩み寄った。ライトとの決戦に備えるため、月明かりのない暗夜の裏路地を足早に駆けて事務所へ戻る。宿敵との決着をつける、最後の戦い。それが一体どのようなものになるのかは全く見当がつかない。しかし、どうか来亜には良い結末を迎えてほしい。そう願いながら、暗がりに揺れるコートの裾を追って走った。

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