終章

 ライトの出した予告状は町中を騒がせた。しかし、それは怪盗の名が知られていたからではない。神土町の人々は、単に大規模な迷惑行為に対して怒りを露わにしていた。何しろ、予告状が片付けられるまで町全体の交通がほぼ完全に止まった上、回収した予告状の処分にも困ったのだ。彼らが怒るのも道理だろう。

 事態が収まった後、住民たちの一部が声を上げて、ライトの正体を突き止めるための調査が始まった。しかし、私たち以外の手が加わったにもかかわらず、結局四日経ってもライトに関する新しい情報は全く手に入らなかった。

「先パイ……このままで本当に大丈夫なんですか?」

 予告状に記された決戦の時はもう目前に迫っているのに、何の収穫も得られていない。だから、当然私は焦っていた。一方、来亜は平気な顔をして事務所のソファでくつろいでいる。彼女は手に持っていたカップを机に置きながら返事をした。

「別に、これぐらいは想定内さ」

「そうは言ったって、ライトが現れる場所すら分かってないんですよ?」

 私がそう言うと、来亜は呆れたように溜め息をつきながら首を横に振った。

「考えるまでもないだろう。これまでの事件は、全て神土高校の人間が関わっていた。ライトが現れるのはまず間違いなく学校だ。本人も度々来ていたわけだし、奴の目当てがそこにないなら学校にそこまでの執着を見せる理由がない」

「それはそうですけど……そう思わせるところまでライトの作戦、という可能性はありませんか?」

 私の反駁を聞いた来亜は、感心したように小さく息をついた。しかし、私が示した可能性は彼女も想定していたらしく、すぐに反論が飛んできた。

「だが、そうだとすれば今度はこんな予告をする意味がない。ライトの目的は神土町の闇を照らすこと……それが何なのかは分からないが、わざわざ町中に予告状をばら撒いたということは、奴には見物人が必要なんだろう」

 言われてみれば、確かに納得できる。これまでは私たちだけに姿を見せていたライトが、ここに来ていきなり町全体にその存在を知らしめた。もしもライトの目的が自分自身のみで果たせるものならば、そもそもこんな予告は必要ない。これまでと同じように、私たちだけに決戦の日時を言い渡せば良いはずだ。

「でも……たくさんの人が見ている必要がある目的って何なんでしょう?」

「それを突き止めるために、この四日間は調査を進めていたわけだが……やはり、本人から直接聞くしかないようだね」

 そう言いながら、来亜はポケットから取り出した紙を机の上に広げ始めた。見れば、それは私がライトから受け取った『無題』に挟まっていたメモ用紙だった。二枚しかなかったはずなのだが、何故か来亜はメモ用紙を三枚並べている。

「え……?」

「実は、君が片付けていた『無題』を一昨日こっそり拝借したんだ。調べてみたら、別のメモ用紙が見つかった」

 来亜は平然とそう言ってのけたが、つまりは私の荷物を勝手に探ったということだ。”天狼”の問題が解決した今となってはもう見られて困るものは特にないが、あまり良い気はしない。

「そう怒らないでくれ、探偵の性というものさ」

「まあ、別にいいですけど……それで、何か分かったんですか?」

「ああ。とりあえず、これを見てほしい」

 来亜は前に見つけた紙のうちの一枚と、新しく見つけた紙を組み合わせた。すると、二枚の紙はぴったりと合い、一つの小さな書類の断片になった。まだ所々読めない文字はあるものの、大体の内容は読み取れるようになっている。

「えっと……愛良、ショックで精神が二つに分裂しており、ケアが必要……」

「日光の有無が切り替わるきっかけの可能性あり……というわけだ」

「これって……!」

 この書類は疑いようもなく先生の診断書だ。やはり、彼女は精神が複数に分裂していたらしい。かつての私に近いような状況だが、私と違って意図的に分裂させているようには見えなかった。彼女の中には、本当に二人の人間が棲んでいるのだろう。

「でも、どうしてライトがこれを持っていたんでしょう?」

 当然浮かんでくる疑問だったが、来亜は一瞬沈黙した。彼女もまだその答えを得られてはいないのだろうか。

「……怪盗相手にそんなことを行っても仕方がないさ。案外、私たちの知らないところでちゃんと盗みを働いているのかもしれない」

「でも、気になりますよ!」

「それより大事なのは、ライトの目的を掴むことだ」

 来亜はそう言いながら顎に手を当て、考え込み始めた。一緒になって頭を捻ってみるが、特に新しい発見はできそうにない。

「この書類からは、姉さんが過去に何らかのショックを受けたことが分かる。年齢を見るに、その診断書は三年ほど前のもののようだね」

「三年……確か、灰原先生もそう言っていたような……」

 私の言葉を聞いて、来亜は指を鳴らした。静かな事務所に、乾いた小気味良い音が響く。

「その通りだ、よく覚えていたね。もう三年になる……彼女はそう言っていた」

「でも、結局何を指しているのかは分かりませんよね」

「そうだな……姉さんが何らかのショックを受ける出来事だったという推測はできるが、具体的な内容までは分からない」

 しばらく唸った後、来亜は不意に深く息をついた。どうやらこれ以上考えても仕方がないと思ったらしい。私も同感だが、だからと言って何もしないのも落ち着かない。

「まあ、これ以上ここで情報整理をすることに意味はなさそうだね。そろそろ明日に備えて寝るとしよう」

「でも……」

「身体を休めることも重要だ。君は特にね」

 そう言って、来亜は私を押し込むようにして寝室に運んだ。仕方なくベッドで横になってみたが、当然寝られるはずもない。しばらく経っても一向に状況が変わりそうもないので、一度ベランダに出てみることにした。夜風に当たりながら周囲を見回して、そこで初めて小さな先客の存在に気がついた。

「先パイ……?」

「やれやれ、身体を休めろと言ったはずだが」

「先パイこそ、人に休めって言っておいて休んでないじゃないですか」

「……まあ、確かにそうだな」

 来亜の言葉を最後に、沈黙が訪れる。しばらく経ってからその沈黙を破ったのもまた、彼女だった。

「……話題がないな」

「そうですね……」

「こういう時は、探せば探すほど見つからないものだからね」

 その時、ふと昔の来亜の話をほとんど聞いていないことを思い出した。私は自分の過去を彼女に語り尽くしてしまっているのに、彼女からは人狼事件のこと以外ほとんど聞いていないのだ。せっかくなので、この機会に聞いてみることにした。

「そういえば、昔の先パイはどんな感じだったんですか?」

「昔話か。また随分唐突だな」

「私はあんなに話したんですから、先パイのことも聞かせてくださいよ」

 来亜は困ったような顔をしながら、顎に手を当てて考える仕草をした。しかし、しばらく経っても彼女は一向に話を始める様子を見せなかった。

「先パイ?」

「……思い出せない」

「え?」

「思い出せないんだ。私にどんな過去があったのか……」

 来亜は小さな声で呟くようにそう言った。嘘をついているようには見えない。もっとも、彼女は嘘をついていたとしても嘘をついているようには見えないのだが。

「それは、記憶喪失……ってことですか?」

「いや、そこまで重大なものじゃないはずだ。本来は繋がっているはずの記憶が、点々と散らばっているような……とにかく、平気だよ」

 来亜の言葉はよく分からなかったが、本人が平気だと言うならばそうなのだろう。彼女は少し疲れたように伸びをして、部屋の窓を開けた。

「残念ながら、昔話はお預けだ。十分涼んだから、先に戻っているよ」

「は、はい……」

 もう三月の半ばだが、まだ夜風には冬の寒さが追いすがるように残っている。これ以上身体を冷やすと良くないので、私も部屋に戻った。来亜と話をして少し気持ちが落ち着いたのか、ベッドに横たわった途端に瞼が重くなった。考えることはたくさんあるが、まずはライトと決着をつけなければならない。そのために今の私ができる唯一にして最善の行動は、やはりさっき来亜が私に言ったことと同じだった。




「……どういうことですか?」

 翌日、目を覚ました私は来亜から聞いた言葉を呑み込めずにいた。その場に立ち尽くしたまま、彼女に聞き返す。

「どういうことも何も、今言った通りだよ」

 来亜は呆れたような表情を浮かべながら、私の問いかけに答えた。今度は右手に握った目覚まし時計をこちらに向けながら。

「だから、今は夕方の四時」

「……夕方の、四時?」

 その意味を受け止めきれないまま、来亜の言葉を繰り返す。ともすれば、言葉を覚える鳥よりもぎこちなかったかもしれない。

「そう。この時間まで君はぐっすり寝ていた。予告の時間まであと四時間だ」

「な……何で起こしてくれなかったんですかーッ!!」

「仮に早く起きたとしても、君はそわそわして落ち着かないだろう」

「ぐ……それは、そうですけど……!」

 情けないが、来亜の言う通りだ。早く起きたとしても、調査を進めて疲れては意味がない。時間を持て余すばかりで、できることは特に何もない。しかし、そうだとしても割り切れないのが人間というものだ。

「はあ……」

「そこまで気に病むなら、早く支度を始めたまえ。まだ時間に余裕はあるが、見物人も多いだろう。学校には早めに着いておいた方が良い」

 来亜に促されて支度を進め、急いで事務所を出た。既に見物人らしき人がそれなりに出歩いており、思うように進めない。その上、調査に関わっていた人たちは私たちがライトを追っていることを知っている。だから、彼らの中にはライトが現れると予想される場所について私たちに尋ねてくる者もいた。

「……さあ。実のところ、私たちも見当がついていないのです」

「そ、そうなのか!?」

「はい。ですから、今からこの辺りをひた走るしかなくて」

「そうかい。全く、若さって凄いよなあ……頑張れよ!」

 来亜が嘘をついていると知ってか知らずか、町の人々は道を空けてくれた。その後も人混みを潜り抜け、どうにか予告の時間が来る前に学校まで辿り着いた。私たちがここに来たことで、学校の周りにも人が集まってきた。勝手に中に入る者は流石にまだ出てきていないが、それも時間の問題かもしれない。

「先パイ、これからどうしましょう……?」

「そうだな……まずは屋上に行ってみよう。単純な考えだが、外の見物人にも様子が見える場所は屋上かグラウンドぐらいのものだからね」

「えっ、でも校舎は閉まってるんじゃ……」

「だから、早速君の出番というわけだ。これから怪盗の相手をするんだ、前もって多少は注目を浴びておかないとね」

 そう言いながら、来亜は私の背中に飛び乗った。彼女の考えているところが何となくわかった。呆れながら溜め息をついて、校舎の外壁めがけて飛びかかる。かつて工場の跡地でしてみせたように、壁を蹴ったり取っ掛かりに掴まったりしながら、外壁を登ってゆく。

「おい、あれ何だ!?」

「すごーい、忍者みたい!」

 二階くらいの高さまで登ったところで、学校の外に集まっている人々が私たちの行動に気付き始めた。歓声に近い声が聞こえると、不意に後ろから来亜が声をかけてきた。顔が見えなくても、その表情は何となく察しがつく。

「良かったな、大人気じゃないか」

「うう、何か……何か嫌な感じがします!」

「まあそう言うな。ほら、もうすぐ屋上だ。そろそろダメ押しの一芸を頼むよ」

 来亜はそんな無茶振りをしながら、私の空いている手にナイフを握らせた。銀製でもない通常のナイフだが、持ち手には小さな穴が空いていて、そこにワイヤーのような細く強い糸が括りつけられている。それを見て、またしても何となく彼女の考えを察した。恐らく、このナイフを屋上の柵に投げかけて上手く引っ掛け、ワイヤーを頼りに屋上まで登らせるつもりなのだろう。

「いやいやいや、無理ですよ!」

「おや、流石の君でも難しいか」

「大体、そんなことしなくて……もっ!」

 そもそも、こんな大道芸は必要ない。そう言う代わりに、四階の窓から屋上まで一息に跳び上がる。直後、学校の外から一層大きな歓声が上がった。私の背中から降りた来亜は、呆れたような表情を浮かべながら軽くコートを叩いた。

「ほら!」

「……それができないと踏んで考えた案だったんだけれどね」

 中庭の時計を見下ろすと、いつの間にか午後八時が目前に迫っていた。まだライトが姿を現すことはないはずだが、既にこの学校の中にいてもおかしくはない。しかし、柵に近寄って辺りを見回してみても、それらしい人影はない。

「先パイ、そっちはどうで――――」

 来亜の方を振り向きかけた時、不意にガコン、と中庭の時計の針が動く音が聞こえた。午後八時。怪盗が言い渡した決戦の時が、ついに訪れた。そして、私が振り向いた先には、来亜の他に先刻まではいなかった人間の姿もあった。

「ライト!!」

 驚きのあまり、来亜に言いかけていた言葉を打ち切ってその名を叫んだ。至近距離にもかかわらず、やはり表情は仮面に隠されてほとんど見えない。しかし、その身体の動きから伝わってきた情報は一つある。どういうわけか、奴も激しく動揺している。

「え……何でここにいる?」

「何でって……学校内で目立つ場所は屋上かグラウンドしかないからって先パイが」

「いやいや、そうじゃないだろう……校舎も開いてないのに、どうやってここまで来た?」

 ライトは困惑した様子で問い直す。私の代わりに、来亜が奴に近づきながら堂々とその問いに答えた。

「簡単なことだよ、外壁を登って来たのさ」

「外壁って、わざわざそんな泥棒みたいなことまでして……」

「お前だけには言われたくないな」

「というか僕のプランでは、グラウンドで待っている君たちのもとに僕が屋上から……え、これどっちがおかしい!?」

 混乱したライトは、手で仮面を押さえながら一度咳払いをした。そして、ひらりと後ろに飛び退いて私たちから距離を取り、学校の周りに集まっている人々にも聞こえるように声を上げた。

「……さて、筋書きとは少し異なってしまったが、これもまた一興。さあ、今宵お集まりいただいた紳士淑女の皆々様! 神土町の闇を照らす怪盗ライトとは、正しく私のことにございます!」

「怪盗の名乗りってこんなのでしたっけ?」

「随分和風……というか、変だな」

 私たちの呟きがライトにも聞こえてしまったらしく、奴は焦った様子を見せながら私たちだけに聞こえるような声で返事をした。

「仕方ないだろう、僕だって怪盗のセオリーなんか知らないんだから」

 それを聞いた来亜は、ふっと不敵な笑みを浮かべた。そして、今度は彼女の方が地上の人々に聞こえるような大声を発した。

「それなら下手な芝居はやめるんだな、怪盗ライト――――いや、姉さん」

 来亜の言葉を聞いた瞬間、その場にいた全員が沈黙した。私たちを応援していた人も、ライトに向けて野次を飛ばしていた人も、皆等しく口を噤んだ。恐らく、ほとんどの人間が呆気に取られて言葉を失ったのだろう。私もその中の一人だ。しかし、来亜を除いてただ一人、怪盗ライトだけは明らかに他の人間とは違っていた。奴はさっきまでの焦りが嘘のように、冷静な様子で沈黙を貫いていた。

「……え?」

 状況を呑み込めないままの私には、間の抜けた疑問の言葉を発することしかできなかった。そんな私に構わず、ライトは無言のまま自らの外套に手をかけた。そして、奴がそれを引き剥がすように勢いよく引っ張ると、次の瞬間にはアリア先生の姿があった。

「先生……!?」

 ライトが素顔を見せた瞬間、静まり返っていた周囲の人々が再びざわつき始めた。カメラのシャッターを切る音も明らかに増えている。神土町の人々にとって、怪盗ライトは単なる迷惑な小悪党にすぎない。しかし、アリア先生こと空言愛良は町を代表する有名人だ。彼らの反応はいたって自然なものと言えるだろう。

「全く、情趣も何もあったものじゃないな」

「それはお互い様さ」

「……いつから気付いていた?」

「おや、あれだけ大暴れしておきながら、まさか正体を隠し通すつもりだったなんて言う気かい?」

 気付かないわけがないだろう、と来亜は威勢よく指を鳴らした。パチンと乾いた音が響いて、はっと我に返る。

「自信満々だな。では、推理を披露してもらうとしよう」

「それは構わないが、見物人のほとんどは今までの怪盗ライトの動向を知らない。だから、それほど時間をかけるつもりはないよ」

「結構だ。私もそのために来たわけではないからな」

 先生の言葉に小さく頷いて、来亜は話を始めた。

「根拠を挙げればキリがないが……特にあからさまだったのは三つだ。一つ目は、最初に出会った時。後から奈緒に聞いて知ったが、ライトは去り際に私の名前を呟いていたそうだ。だとすれば、ライトの正体は私の名前を知っている人物に絞られる」

 先生は、無言で来亜の推理を聞いていた。しかし、そこには焦りも諦念もない。彼女の様子から感じ取れるのは、まるでどのチームにも肩入れしていないスポーツの試合をただ眺めているかのような無関心の平静のみだった。

「ただ、もちろんこれだけでは不十分だ。ライトは”白雪姫事件”の実行犯が抱えていた事情を把握していた。私たちが聞き込み調査をした時点で、そこから情報が漏れていた可能性だってある」

「そうだな。あの時点で、お前は既に”人狼事件”を解決した名探偵だ。お前を狙うと決めていれば、簡単に調べはつくだろう」

 目の前で正体を明かしたにもかかわらず、先生は怪盗とは別人であるかのような口ぶりで話している。既に答えが分かっていると、多くの人はついその答えを前提にして話を聞いてしまいそうになるが、彼女はあくまでそうしないつもりなのだろう。

「そこで、二つ目。次は雪女の事件を追っていた時だ。ライトは奈緒の気を引くために、姉さんの幻の作品『無題』を渡した。つまり、ライトは彼女が姉さんのファンだと知っていて、かつ『無題』を入手できるような人物だったとわかる」

 一度は口を開いた先生だったが、来亜が二つ目の根拠を示すと再び沈黙した。相手に反論の意思がないことを確かめてから、来亜はそのまま話を続けた。

「極めつけは、特殊な能力の一致だ。怪盗ライトは、言葉を現実にする力を持っている。これまで起こってきた事件が全て物語を元にしていたのも、それが理由だろう」

 来亜の言葉を聞いて、先生は微かに眉を動かした。そして、何かを確かめるようにゆっくりと頷いた。

「……ほう。まあ、そうだと仮定しよう。それで?」

「姉さんが”おいてけぼり”の調査に同行した時、”おいてけぼり”に襲いかかられた瞬間に姉さんは”止まれ”と呟いた。すると、おいてけぼりの身体が動かなくなった……まるで金縛りのような、随分不自然な動きの止まり方だったね」

「ああ、そんなこともあったな」

「つまり、姉さんは怪盗ライトと同じ能力を持っている。それも、絶大な影響力のある力を……違うかい?」

 探偵の眼光が、怪盗を鋭く突き刺した。これまで幾度となく罪悪を見抜いてきたその眼が、ついにその根源を捉える。しかし、追い込まれているにもかかわらず、怪盗は依然平静を保っている。彼女は来亜の推理がこれ以上続かないことを確かめてから、つまらない劇を見た後のようにゆっくりと気怠そうな拍手をした。

「その通りだ。前哨戦はお前の勝ちだな」

「……負けた割には悔しくなさそうだな」

「さっきも言ったが、私はこのために来たわけじゃないからな。お前も同じだろう」

 まあね、と頷きながら、来亜は一歩前に出た。彼女はゆっくりと息を吸って、目の前の宿敵にいつも通りの問いを投げかけた。

「では――――どうして、こんなことを?」

 夜風が吹き抜け、屋上の空気が途端に冷たくなる。風の音が止むのを待ってから、先生は一言だけ返答した。

「もちろん、神土町の闇を照らすためだ」

「その神土町の闇というのは、何なんだ?」

「おや、気付いてなかったのか」

 先生は意外そうな表情を浮かべてから、得意げに指を鳴らした。来亜のそれよりも少し細く、しなやかな音が辺りに響く。

「それならちょうど良い。ついでに私の目的も果たせるというものだ」

 沈黙したまま顎を引く来亜を見据えながら、先生はその場にいる全員に聞こえるように一層声を張って言葉を続けた。

「神土町の闇、それは――――この学校そのものだよ」

 先生の声は、冷えた空気にも強い風にも遮られることなく、周囲にいた全ての人に届いた。しかし、下にいる見物人たちはもちろん、隣で聞いている私ですら、その言葉の真意を読み取ることが全くできなかった。一方、来亜だけは納得したような表情をして、息をつきながらコートのポケットに手を入れた。

「なるほど。やけにこの学校に執着していたのはそれが理由か」

「ああ。お前も疑問に思わなかったわけではないだろう?」

「ちょ、ちょ、ちょっと!」

 二人が他の人々を全員置き去りにしたまま話を進めそうな雰囲気を感じたので、慌てて割って入った。

「どうした、奈緒?」

「どうしたも何も……そもそもこの学校が神土町の闇って、どういうことなんですか!?」

「それを今から聞こうとしていたんじゃないか……」

「あっはっは、奈緒ちゃんは相変わらずだな」

 先生はいつもと変わらない様子で笑っていた。それが、私にとってはとても悲しかった。私たちがずっと追い続けてきた怪盗ライトの姿はもう既にここにはない。彼女は紛れもなく、空言愛良という人間として私たちと対峙しているのだ。

「だが、奈緒ちゃんの言う通りだ。もう少し順を追って説明した方が良いだろう。来亜もそれで構わないか?」

 先生の問いかけに、来亜は渋々頷く。彼女にとっては自力で解けた問題の解説を改めて聞かされるようなものだから、退屈なのだろう。そんな来亜の様子を見た先生は、わざとらしくゆっくり話を続けた。

「さて、説明……と言っても、ほんの初歩的なことだ。もしかしたら、君たちも疑問に思ったことがあるかもしれない」

「初歩的なこと……」

「この一年……”人狼事件”も含めれば二年近くになるが、この学校では凶悪な事件が立て続けに起こった。それなのに――――なぜ、警察の手が入らないのか?」

 先生の提示した疑問は、本当に単純なものだった。これまで私たちが追いかけてきた事件は、ほとんどが間違いなく警察沙汰になるようなものだ。しかし、私たちは一度もそれらしい人物に出会ったことはない。

「もちろん、この街に警察がいないわけではない。交番だってある。”白雪姫事件”の犯人を車で送っていった時、あの近くを通ったね」

「じゃあ、一体どうして……!?」

「その前に、ちょうど話に出た犯人の話をしておこう。彼、もしくは彼女をはじめとする一連の事件に関わった人物たちがその後どうなったか、わかるかい?」

「え……」

 不意な問いかけに戸惑ったが、冷静になって考えれば答えは分かる。彼女たちは、今も学校に来ている。ついこの前、汐音を救うために協力した霧江だって、”おいてけぼり”の騒動を引き起こした張本人だ。言われてみれば、何の咎めもなく学校に来られるのは不自然だ。

「そう。学校に来ているんだ」

 先生は私の様子から答えに気付いたと察したのか、私が問いの答えを口に出す前に話を進めた。

「これまでの事件の犯人を知っているのは、君たちだけだ。君たちがそれを外に出さなければ、知れ渡ることはない……とはいえ、それを学校すら把握していないのもまたおかしな話だろう?」

 そう言いながら、先生は来亜のコートのポケットを指さした。来亜はそれを見て、気怠そうにコートのポケットから手を出した。その手には、折り畳まれた紙切れが握られている。

「ご協力どうも。来亜が今持っているその紙は、私が『無題』に挟んでおいたものだ。ボツになった学級新聞だね」

「学級新聞……それって!」

 この前来亜と見た、”白雪姫事件”についてまとめられた学級新聞。何らかの理由で結局日の目を見ることはなかったものと見られるが、今この話を聞いた上で改めてそれを見ると、その理由にも何となく見当がつく。

「まあ、内容が内容だから、確実な証拠とは言えないけれどね。単純に残酷な事件だったから特集を取りやめたのかもしれない。だが、こんな私の邪推を裏付けるような学校側の姿勢……君たちも目の当たりにしたはずだ」

 先生の話には、心当たりがある。恐らく、瓜谷先生のことだ。”爆弾王子”の事件が起こった時、彼女は無理な役割を押し付けられ、危うく責任を取るために職を追われるところだった。批判の矛先が学校に向かないように、彼女を囮にしようとしていたのだ。問題に対してこのような対応を取る学校であれば、学内の報道くらい握り潰すことは容易に想像できる。先生は、きっとそう言いたいのだろう。

「……先パイ」

 先生の話は、恐らく正しい。彼女の目的がこの学校の暗部を町の人々に知らしめることだとしたら、その動機はきっと否定できるものではない。しかし、彼女が引き起こした事件が多くの人々の運命を狂わせてきたこともまた事実だ。私はどうしていいのか分からなくなって、来亜に視線を向けた。

「迷う必要はない。動機がいかに正当なものであれ、姉さんがしたことは許されない」

「……はい」

「それより……姉さん、肝心な部分をはぐらかすのはやめたまえ」

 私の疑念に対してはっきりと答えを示した後、来亜はもう飽き飽きしたと言わんばかりに歩き出して、先生に詰め寄った。先生は相変わらず平気な様子で、その場から一歩も引き下がらない。

「名探偵が聞いて呆れるな。今の話は私の動機そのものだぞ? この話をするために、これまでの事件を引き起こしてきたと言ってもいいぐらいだ」

「そうじゃない。今の話はあくまでお前の目的だ。お前の本当の動機は、そこにはない」

 来亜の言葉はよく分からなかった。しかし、確かに先生の話には違和感がある。すぐにその正体に気付くことはできなかったが、きっと来亜もこの違和感を覚えたからこそ先生に詰め寄ったのだろう。

「そうやって人のことを決めつけるのは感心しないな」

「その話が本当の動機だということはありえない。お説教をするなら、先にこの矛盾を説明してからだ」

 普段から自信に溢れた姿勢を取りがちな来亜だが、今日はより一層強気だ。先生も流石に少し気圧されたのか、一度口を止めて溜め息をついた。

「いいだろう。それなら、その矛盾とやらを言ってみろ」

「簡単なことだ、順番が逆なのさ。お前は学校の暗部を暴くために事件を起こしたと言っていたが、そもそも事前にその確信がなければこんな行動を起こすわけがない」

「……あ!」

 来亜の指摘でようやく違和感の正体が分かり、思わず声を上げてしまった。確かに、学校が事件を包み隠そうとするということを前もって知っていなければ、こんな事件を起こしても意味がない。彼女が本当の動機と言っているのは、先生がその確信を持つに至った出来事のことだったのだ。

「……そうだな。確かに、これでは辻褄が合わない」

「では、質問を変えよう」

 先生が矛盾を認めると、すぐさま来亜は得意げな笑みを浮かべ、先生に向かってもう一歩詰め寄った。探偵が口を開くと、満月の光に照らされた歯がぎらりと姿を覗かせる。風に靡くコートの影がすらりと伸びて、その身体は普段よりも大きく見えた。

「――――どうして、こんなことに?」

 ほんの一文字の、微細な変化。それだけなのに、新たな問いを投げかけられた先生は閂をかけたように口を閉ざした。直後、沈黙の中に激しい足音が響く。音がした方を振り返ると、突如白い人影が現れて先生を攫った。見物人たちの方から悲鳴にも似た驚愕の叫びが起こる。そんなものに構うはずもなく、人影は彼女を抱きかかえたまま屋上からグラウンドの方向へ飛び降りて、何事もなかったかのように着地した。

「なっ……!?」

「甘いな、あくまで私たちは決着をつけに来たんだ。忘れたのか?」

 先生は人影の腕を離れ、屋上に取り残された私たちに向かって声をかけた。その様子からして、先生を運んだ人物は彼女の協力者なのだろう。

「そういうわけで、その問いに答えるのは彼を倒してからだ!」

「くっ……奈緒、さっきのあれ君にもできるか!?」

「でき……ません!」

 動きとしてはできないこともない。しかし、もちろん無事では済まないし、来亜を運びながらでは尚更だ。どこか一箇所でも中継地点を作らなければ、安全に下に降りることはできない。どうしたものかと頭を捻っていると、珍しく打開策を思いつくことができた。

「……そうだ、先パイ!」

「どうした?」

「降りる方法、思いつきました!」

 そう言いながら、来亜を片手で抱き上げて脇に抱えた。来亜が嫌がって離れる前に、空いているもう片方の手でさっき彼女から受け取ったナイフを思い切り投げた。ナイフが向かった先は、校庭近くに生えている高い木だ。勢いのついたナイフは、枝と幹を何周も回ってしっかりとワイヤーを巻きつけた。そうして、一瞬のうちに先ほど来亜が思い描いていたであろう構図が完成した。ただし、向かう方向が真逆の状態で。

「おい、まさか……!」

「最初に言い出したのは先パイですからね!」

 来亜がこれ以上口を挟む前に、屋上の柵を一息に飛び越える。一見すれば、単なる自殺行為だ。しかし、高度がワイヤーの結び目を下回り、ワイヤーがたわんだ瞬間に引き寄せれば、力の向きが変わって落下の勢いを低減させることができる。それが、私の考えうる限り最善の方法だった。

「く……!」

 その瞬間を見計らい、手に力を込めてワイヤーを引き寄せた。そのまま掴んだワイヤーを支えにしながら、私たちは周囲の歓声が全て掻き消えるほどの轟音とともに風を切り、思い切り地を滑った。

「うおおおおおおおッッ!?」

「先パイ、今喋ったら舌をくぁ……んーっ!!」

 靴越しに足まで熱が伝わってくるほどの激しい摩擦を起こしてから数秒後、ようやく止まることができた。ワイヤーから手を離すと同時に、隣から今にも消えそうな弱々しい声が聞こえてくる。

「……い、生きてるのか?」

「は、はい。どうにか……」

 来亜は私の腕の中でぐったりしたまま、ここから離れようともしない。それどころか、怒る気力もないようだ。

「……君たち、さっきから随分派手に色々やっているな……」

 既に満身創痍の私たちの前に、先生が近づいてきた。彼女の隣に控えている人影に目を向ける。月光に照り映える真っ白な兜と鎧を着て、腰には銀色の剣を差している。物語に登場する騎士像をそのまま切り出したような外見だ。そして、その物語には心当たりがある。

「『無題』……!」

「おや、ちゃんと読んでくれたのか。ありがたいね」

 見立て通り、目の前の騎士は『無題』の主人公らしい。物語の主人公が眼前に姿を現していることに、今更驚きはない。しかし、彼が『無題』の騎士なのだとすれば、かなり厄介だ。

「先パイ、いい加減立ってください!」

「ぐ……誰のせいでこうなったと思ってるんだ……!」

 抱えられたままぼやいている来亜を降ろしながら、先生たちに聞こえないように一歩下がって一言だけ耳打ちした。

「……あの騎士には、弱点がありません」

『無題』の騎士には、これまで戦ってきた相手が持っていたような特殊な能力がない。その分、戦い方によって生じる弱点も存在しない。もちろん、作品の中に決定的な弱点が描写されているわけでもなかった。つまり、実力でこちらが上回っていなければ勝ち目は限りなく薄い。

「……そうか」

 来亜は静かにそう呟いてから、私の方を向いた。さっきまでの弱った雰囲気はいつの間にか消え、普段通りの彼女がそこに立っている。

「それで……君はあれに勝てるか?」

「……分かりません」

 私の答えを予想していたかのように、来亜はすぐさま不敵な笑みを浮かべて指を鳴らした。

「問題ない。それなら、私が君を勝たせよう!」

「はい!」

 来亜が退がると同時に、騎士は剣を抜いて私めがけて斬りかかる。敵の力量を測るため、斬撃を躱しながらナイフの先端を剣に当てた。金属同士が激しく擦れる嫌な音を立てながら、ナイフの先端が叩き斬られる。

「ッ……!」

 騎士は剣を持ち上げながら、私を振り払うように真横に振るった。しかし、ここで後ろに避けてはならない。相手は剣を持っているから、一度距離を取られると再び近付くのが難しい。できる限り今の間合いを維持しなければ、まともに攻撃を当てることすら叶わないかもしれないのだ。

「はあッ!!」

 咄嗟に屈んで斬撃を避け、立ち上がると同時に右足で鎧を思い切り蹴りつけた。騎士はよろめいて後ろに数歩下がった。どうやら鎧の中まで衝撃が伝わったらしい。そのまま畳み掛けるように連続で拳を当て、ついに騎士の手から剣が滑り落ちた。

「貰った!」

 すかさず剣を遠くに蹴飛ばした。これで、相手は恐らく丸腰だ。これ以上無理に深追いする必要はないので、一度退がって呼吸を整える。

「ふむ……前に会った時とは全く違うな。まるで、バラバラだった力が一つにまとまっているかのような……」

 騎士は相当追い詰められているように見えたが、先生は顎に手を当てて冷静にこちらを観察している。何か奥の手を隠しているのかもしれない。一方で、来亜は自信に満ちた様子で声をかけてきた。

「奈緒、どうやら君の杞憂だったようだね」

「……でも、何か変です」

 騎士と戦う前、私は彼が自分より強い可能性ばかり気にしていた。だから、来亜の指揮に頼るつもりだったのだ。しかし、現状は全く逆だ。もちろん普通の人間とは比べ物にならない力を持っているのだが、これまでの敵に比べると弱すぎる。しかも、その弱さはどこか本物でないような気もしている。この勝利の先にあるもの――――それに向けて誘導されているような独特の感覚。まさしく先刻の怪盗ライトが来亜の推理に対する反論に頓着しなかったのと同じような、奇妙な違和感。この違和感は、恐らく実際に戦っているからこそはっきりとわかるものだ。今度は私が気を付けていなければ、きっと肝心なことを見落としてしまう。

「奈緒……?」

「先パイ、多分しばらくは指示がなくても平気ですから、あの騎士の観察に集中してください」

「わ……わかった」

 来亜は戸惑いながらも、私の言葉に頷いてくれた。見たところ、二人が隠しているはずの奥の手を使うまでは、今の調子が続くのだろう。すぐにこちらの優勢が揺らぐことはない。だからこそ、来亜には今のうちに彼の動きをよく見て、弱さを演出していても隠せない癖や特徴を見抜いてもらう必要がある。

「いや、十分だ。このまま戦っても、負けるのはこちらだろう」

 こちらが構え直した途端、唐突に先生が手を叩き、停戦の合図を出した。騎士はそれに従い、構えを解いて片膝をつく。

「え……?」

「ひとまず降参だ。約束通り、さっきの問いに答えてやろう」

「おや、随分諦めが良いんだな。いつもこれぐらい潔ければ助かるんだけれどね」

 退がっていた来亜も、先生の前まで戻ってくる。さっきの一瞬の攻防で、本当に戦いが終わってしまったようだ。味気ないが、お互いに底力を簡単に見せたくはないのだろう。

「さて、私の本当の動機……言い換えれば、私がこの学校の暗部に気付いたきっかけだったな」

 来亜の軽口を無視して、先生は話を始めた。その語り口はやけに淡々としていて、ほとんど感情が挟まっていない。

「きっかけといっても、些細なことだ。些細な……どこにでもある、交通事故だった」

「交通事故……」

「そうだ。ただ、他の交通事故とは違う点が二つあった。一つは、自分の身に起こったこと。私はこの事故で家族を失った」

 先生の言葉に、見物人たちがどよめいた。三年近く前、文壇に突如現れた新星。その名声の陰に潜む過去が明らかになったのだ。本来なら、こんな場でするような話ではないのかもしれない。しかし、先生は話を止めなかった。

「そして、もう一つは事故を起こした車の運転手が神土高校の教員だったこと……灰原千里こそが、あの事故を起こした張本人だった」

「そんな……!」

 灰原はついこの前、”爆弾王子”の事件を起こした犯人として職を追われるまで、教員を続けていた。人の命を奪う事故を起こしておきながら、何の咎も受けなかったのだという。

「もちろん、故意でやったことじゃない。それに、彼女自身から謝罪の言葉は聞いている。だが……そんなものに意味があるはずもない」

 先生はそう言いながら、強く拳を握った。きっと、今でも灰原のことを許せないのだろう。ともすれば、怪盗として彼女に接触し、事件の犯人に仕立て上げたことも、先生なりの復讐だったのかもしれない。

「……なるほどな。彼女が言っていた三年前の出来事というのは、それのことか」

 自分の身にも関わる話のはずなのに、来亜は妙に冷静だった。しかし、今はそれを指摘している場合ではない。アリア先生の一人のファンとしても、彼女と生活を共にした友人としても、話を続ける彼女から目を離すことができなかった。

「かつて、私は自分の能力を隠しながら生きてきた。こんな力は外に向けて使うべきものじゃない……幼いながらも、それは何となく分かっていた」

「……」

「だが、あの事故が全てを変えた。部活が長引いて、帰るのが遅くなった日のことだ。帰り道の半ば、私は血塗れになって倒れている家族を見た」

 先生は、私と同じ傷を抱えていた。ある日突然、大切な存在を失うこと。その痛みは私も知っている。知っているからこそ、安易に頷くことができなかった。全身が凍りついたように固まったまま、私は彼女の話を聞き続けていた。

「まず初めに皆を治そうとした。私には言葉を現実にする力があると思っていたからだ」

 先生は自嘲するように笑っていた。しかし、その声は微かに震えている。嘲りに怒りや悲しみが混じったような、妙な声色だ。

「ぴくりとも動かない家族の肩を揺すりながら、必死に何度も”治れ”と叫んだよ。だが、何ともならなかった。喉が痛んでも、声が枯れても、私の中に眠っているはずの力は応えてくれなかった……」

「え……?」

 先生の話は、何だか変だった。先生には、確かに言葉を現実にする力がある。今まで戦ってきた魔物は、彼女の力から生み出されたもののはずだ。それなのに、彼女はまるで自分にはそんな力がなかったとでも言いたげな口ぶりだ。

「私の力は、自分が思っていたものと少しだけ違っていた。私の力は、物語を現実にする力……全ての言葉を現実にできるわけじゃなかった」

 先生が改めて口にした力もまた、桁外れの異能だ。しかし、彼女は自分の力を理解しようとせず、ただ恐れてしまい込んだ。ちょうど以前の私が長物を持たないようにしていたのと同じように。だから、いざという時に使えなかった。救えるはずの存在を、救えなかったのだ。

「普段からもっと力を使っていれば、気付いたのかもしれない。紛い物だとしても、医術の神でも喚び出せば話が変わったのかもしれない。だが……今更何を言っても後の祭りだ。私の家族は、助からなかった……!」

 先生は苦しそうに話を続けながら、膝をついている騎士の肩に優しく手を置いた。それは慈愛を注いでいるようにも、縋って助けを乞うているようにも見える。

「その後のことは、何となく察しがついているだろう。事故を起こした灰原千里は学校に庇われ、事故は”なかったこと”にされた。そこにどんな権力が働いていたのか、そんなことはどうでもいい。ただ、全てが手遅れに終わった。それだけが事実だ」

 先生はそう言って、音を立てて歯を食いしばった。事故から三年経った今も、彼女の怒りと後悔は消えていないのだろう。当然だ。たった三年で消えるはずもない。

「そして、気を病んだ私……愛良は、自分の中に新たな自我を創り出した。それから、その器に自らの持つ負の感情を全て押し付けることでどうにか元の形を保った。それが、今の私だ」

 彼女は自らの中に押しとどめていた感情をまとめて吐き出すように、力強く叫んだ。

「ひたすら悔いたよ。これほど万能に近い力を持ちながら、家族さえ救えなかったんだからな!」

「……先生」

 救えたはずの存在を救えなかった。ついこの前、私もそんな体験をしかけたところだ。理不尽な暴力に圧し潰された幼い頃の記憶とはまた違う苦しみが、身体中を突き刺すように襲いかかってきたのを鮮明に覚えている。しかし、私がその苦しみに苛まれたのは女神と対峙したほんの一時だけだ。先生は、三年間ずっとそれに耐え続けてきたのだろう。

「だから、力を使って初めに『無題』を書いた。私の願いを詰め込んだ物語――――その結晶として、彼を生み出した」

 そこまで話したところで、先生は騎士の肩から手を離し、指を鳴らした。膝をついたまま動かなかった騎士が、おもむろに立ち上がる。

「名をローランと言う。作中にはあえて出さなかったがね」

「ローラン……シャルルマーニュの勇士か?」

 先生はゆっくりと首を横に振って、来亜の言葉を否定した。

「同じ名前の騎士について綴られた物語は既に存在するが、彼はそれとは全く異なる存在……正真正銘、私だけの騎士だ」

 先生は、ローランと呼ばれた騎士の方を向きながらぽつりと呟くように続ける。

「私はただ――――救いが欲しかった」

「……!」

「『無題』を読んだ君なら分かるだろう。この物語は、途中までしか書いていない」

 先生の言葉に、無言で頷く。私がこの作品に抱いていた、最も大きな疑問。ここまで話を聞いて、その答えをようやく得ることができた。彼女は、初めから彼の物語を終わらせるつもりがなかったのだ。

「私の救いは、終わらない。これまで幾度となく物語を終わらせてきた君たちが相手だとしても……私の騎士は倒れない!」

「……奈緒、そろそろ来るぞ」

 来亜に声をかけられ、そっと引き下がって構える。立ち上がった騎士は兜と鎧を外して、素顔を露わにした。その眼は、月光を吸い込むような紅と黒に彩られている。

「先パイ……!」

「……紅い眼、か」

 来亜は何かを思い出すように、彼の瞳をじっと見つめていた。

「さて、話はここまでだ。第二ラウンドと行こうじゃないか」

 先生がそう言うと、ローランは拳を構えた。彼の剣は、遠くに落ちたままだ。しかし、拾おうとする様子はない。それどころか、気にしてすらいないように見える。その姿を見て、ふと得体の知れない不安に襲われた。

「奈緒、どうかしたか?」

「……いえ、何も」

 もしかしたら、またしても私の杞憂なのかもしれない。しかし、眼前の騎士は明らかにさっきとは雰囲気が違う。今度はその力の真髄を惜しみなく披露する心算でいるようだ。そうだとすれば、私の中に現れた不安が突如として形を持ち、牙を剥いてきてもおかしくはない。

「先パイ、気をつけてください!」

「もちろんだ。あれがさっきまでとは別物であることぐらい、私にも分かる」

「言の葉の騎士、私だけの救い……もう遠慮はいらない。今こそ、その力を示せ!」

 先生の叫びに応えるように、ローランがこちらに迫ってくる。さっきと違い、その手には何も握られていない。それなのに、桁違いの威圧感がある。その迫力に、思わず一瞬身を竦めてしまった。

「奈緒、すぐに応戦するのは危険だ!」

「……はい!」

 話を挟んだことで冷えてしまった身体を何とか動かし、急いで右手に回り込む。直後、それまで私がいた場所にローランの拳が届いた。瞬間、自分の残像が目の前で粉々に砕けるような光景が脳裏をよぎる。

「……ッ!!」

 畏れている。私はあの騎士が恐いのだと、その時初めて気が付いた。紅と黒の不気味な眼が、私の全てを見透かしているような気がする。単に急所や動きの癖だけではない。過去や心さえも見通されているように感じるのだ。それは、きっと錯覚に過ぎないのだろう。しかし、その錯覚が戦いに多大な影響をもたらすことは既に源兄さんから嫌というほど学んでいる。このまま戦えば、私はなす術もなく敗れる。まずはこの恐怖を何とかして振り払わなければならない。

「奈緒、大丈夫か!?」

「……平気です!」

 ローランが踵を返してこちらを向くと同時に二撃目が飛んでくる。何の特異な力もない、単純な攻撃。速さも威力も、統一郎のそれに勝るようなものではない。受け止めることも難しくないはずだ。それなのに、身体が自然と回避を選ぶ。反撃に転じようとしたが、上手く拳を握れない。

「どうして……!」

「機を逃すな、畳み掛けろ!」

 先生の指示を聞いて、ローランはさらに前進する。剣を手放したままであるにもかかわらず、彼の殺気は時間が経つにつれて鋭く研ぎ澄まされてゆく。その様子からは、かつての私と真逆の性質を感じる。私にとっては力を解き放つ手段であった長物が、彼にとっては何らかの枷になっていたのかもしれない。

「奈緒、もう少しだけ凌いでくれ!」

 来亜の言葉に頷き、構え直す。仮に全てを見通されているようなこの感覚が恐怖の原因なのだとしたら、彼女の策が頼みの綱だ。

「"手に取るは、白銀の剣"」

 先生はそう呟きながら一枚の紙切れを取り出し、それをローランに向かって投げかける。紙切れは一瞬間のうちに大きな両手剣へと姿を変え、吸い込まれるように彼の手に収まった。

「なっ……!?」

 私の目論見は、全くもって的外れだった。剣は騎士の枷などではない。彼が手元を離れた剣に頓着していなかったのは、単にいつでも代わりを用意できるからだったのだ。先生が傍についている以上、当然想定される可能性。微細な違和感を逃さないように執着するあまり、私は極めて初歩的な点を見落としていた。

「まずいな……!」

 来亜は苦い顔をして、逃げるように駆け出した。先生はその動きを見逃さず、来亜に指を向けてローランに追跡を命じる。受け取ったばかりの剣を惜しげもなく私に投げつけ、彼は来亜を追って走り出した。

「く……先パイ!!」

 剣の回避を強いられた分、少し出遅れてしまった。いくら来亜の足が速いとはいえ、いつまでも逃げ続けられるわけではない。それに、よりによって彼女が走った方向は行き止まりだ。この先には武道場があるばかりで、今はその鍵さえ閉まっている。早く助けなければ危険だ。

「手を誤ったな、来亜」

 固く閉ざされた武道場の扉を背にした実の妹に冷たい言葉をかけながら、先生が歩み寄る。

「な、奈緒!」

「先パイ!」

「助けてくれ……頼む!」

 死を目前に控えた者の、情けない命乞い。その場にいたほとんどの人間にとって、来亜の言葉はそう聞こえていただろう。しかし、私はそれが逆転の布石であることを知っている。だから、私は彼女に背を向けて走り出した。数秒の沈黙の後、背後から再び彼女の声が聞こえてくる。

「……おや、気付いたか。ただの操り人形かと思いきや、存外頭が回るんだな」

 ローランが動いた気配はない。動くに動けないのだろう。来亜が追い詰められたことで動けなくなったのは、むしろ彼の方だったのだ。

「そうだ。せっかく手にした剣を再び捨てた今、お前は私を殺せない」

「……!」

「扉を背にした私をこの機会で仕留めるには、全力の拳か蹴りを真っ直ぐに当てるしかない。薙ぎ払うような攻撃では、流石に威力が足りないからね。だが、そんな勢いをつけた攻撃を外せばたちまちこの扉と激突だ。いくらお前でも安くない代償だろう」

 走りながら来亜の方へ振り返ると、彼女は騎士を睨むように見上げていた。余裕と自信に溢れた普段通りの口ぶりとは裏腹に、その表情には緊張が垣間見える。

「……だが、それはお前が騎士の攻撃を躱すことを前提としている。薄氷の上を歩むような、危険な策だ」

 先生は来亜の緊張の理由を即座に見抜き、彼女に改めて突きつけた。来亜は隙を見せないように小さく息を吸って、先生の言葉にはっきりと答える。

「躱せるさ。指揮役だからと甘く見られがちだが、私も一人で人狼を倒しているからね。この程度の窮地はとっくに経験済みだ」

 彼女のその言葉の真偽を知るのは、彼女自身だけだ。誰も知らぬところで行われた、人狼との攻防。その経験が今この場で通用するものなのか否か、先生でさえそれは分からないはずだ。

「さあ、そろそろ頃合いだろう。来たまえ!」

 来亜が叫んだ直後、先生はローランに合図を出した。実の妹を手にかけようとしているにもかかわらず、そこに一切の迷いはない。話を聞く限り、来亜は先生にとって唯一生き残った家族であるはずなのに、彼女からは不思議なほど来亜に対する情を感じない。

「やれ!」

 先生の合図で、ローランの身体が動き出す。だが、先に指示があったのはこちらの方だ。その拳が来亜の心臓を捉える寸前に背後から剣を振るい、肩ごと胴体から切り離す。彼は不測の事態に突如動きを止め、先生の傍まで退がって膝をついた。その身体を支える先生は、かなり戸惑っている様子だった。

「な、何が起きた……!?」

「何も不思議なことはないさ。ただ、来いといった相手が来た。それだけだ」

 来亜はその場から微動だにしていない。私が彼女に背を向けて走り出した時点で、こうなることを確信していたのだろう。

「だが、分かっていないようならタネ明かしをしておこう。そもそも私が追い詰められるように逃げたのは、二つの目的を同時に果たすためだ」

「二つの目的……」

 先生が繰り返した言葉に来亜は頷く。

「一つは私に注目を集めることだ。あのままでは、奈緒が追い詰められるばかりだったからね。何にせよ、一度彼女を戦いから離す必要があった」

「……では、もう一つは?」

「奈緒に剣を持たせることだ。騎士が剣を投げ捨てなかったとしても、最初に蹴飛ばした剣を拾えばいい。そのための時間を稼いでいたというわけさ」

 来亜の答えを聞いて、先生は何かに気付いたように眉を動かした。

「……あえて危険な策を取ったのも、お前がローランの攻撃を躱せるかどうかの話に持ち込むためだったのか」

「その通りだ。助けさえ間に合えば、躱すどころか動く必要すらない。もちろん、本当に躱す自信はあったけれどね」

 来亜の考えを聞いても、まだ私には彼女の真意が分からなかった。もちろん武器があった方が良いのは間違いないが、自分が危険な目に遭ってまで剣を持たせる必要はないはずだ。

「で、でも何でわざわざそこまでして……」

 私が問うと、来亜は私にだけ聞こえるように小声で答えた。

「……ずっと考えていた。なぜ、長物だったのか」

「え?」

「佐香源の戦いを実際に見た時、長物の扱いだけが特別秀でているようには見えなかった。その仲間の得意なものを扱うことが仲間の力を引き出す条件ならば、別に長物である必要はなかったはずだ」

 言われてみれば、確かにそうかもしれない。だが、それが今の私に剣を渡した理由と言われても腑に落ちない。

「でも、私がそうやって戦ってたのは以前の話で……」

「そうだな。だが、君の身体が長物を彼の力の引き金にしたことは事実だ。だから、そこには何か意味があると思った」

 来亜の話を遮るように、騎士が再び立ち上がった。片腕を失っても、その闘気が弱まることはない。

「先パイ!」

「全く、ゆっくり話す暇もないな……まあいいさ、この話の続きは戦えばわかる」

 来亜はローランの方に向き直りながら、そう言って話を打ち切った。それと同時に先生は再び騎士に紙を投げかける。

「"物語は、終わらない"……!」

「まさか……!」

 先刻の出来事から考えれば、その行動が招く結果は火を見るより明らかだ。

「奈緒、あの紙を斬れるか?」

「やってみます!」

 来亜の指示を受け、先生が投げた紙めがけて一気に距離を詰め、剣を振った。しかし、すんでのところでローランの残った片腕に斬撃を阻まれた。両腕を斬り落とされたにもかかわらず、騎士の傷は紙が触れた瞬間に癒えた。それどころか、治った右手には剣が握られている。

「く……!」

「これで分かっただろう。私の騎士は敗れない」

 先生の言葉に耳を傾けず、来亜は私の方を向いた。

「奈緒、構うな​────君なら勝てる!」

 嘘じゃない。その言葉は、紛れもなく彼女の本心から出たものだ。

 私の方でも、ずっと考えていたことがある。なぜ、私はあの騎士を畏れているのか。彼より強い存在を知っているのに、なぜ恐怖が拭えないのか。来亜の言葉を聞いて、その答えをようやく見つけた。

 私は、あの騎士を畏れていたわけじゃない。何の目的も意志もなく、あの騎士を倒せてしまう自分の力を畏れていたのだ。先生が全てを託して生み出した自らの救いを、粉々に打ち砕くのが怖かったのだ。さっき来亜を助ける時に身体が動いたのも、きっとその時だけは明確な目的があったからだ。

「……はい!」

 返事をして、構え直す。今はもう怖くない。私も彼と同じように、他の誰かの望みを背負って戦っている。"天狼"との戦いに決着がついても、それは変わらないのだ。

「先生」

 真っ直ぐ見据えて、声をかける。優しく目を細める表情とは裏腹に、彼女の雰囲気はどこか仄暗い。

「私は、あなたを止めます。あなたが理不尽にもがきながら、必死の思いで生み出した救いを……この手で、壊します」

「わざわざ宣言することじゃないさ。初めから、これはエゴの押しつけ合いだ。物語を続けようとする者と、終わらせようとする者……作者と読者の鍔迫り合いだ!」

 先生の叫びを合図に、ローランが駆け出す。先刻よりもさらに速く、赤黒い二つの点が夜闇を奔って曲線を描く。

「はッ!!」

 騎士の行く先を捉え、剣を振り下ろす。彼はすぐさま剣を構えて受け止め、正面から力で私を押し返した。吹っ飛ばされる前に、相手の胸に蹴りを入れながら引き退がる。

「ローラン​──​──勝て!」

 それは、指示でも能力の使用でもない。単なる一人の人間の祈りにすぎなかった。しかし、目の前の相手はその願いを背負って戦っている。何の益ももたらさないその言葉こそが、最も大きく戦局を変える力を持っているのは明白だった。

 慟哭にも似た叫びで彼女の言葉に応えながら、ローランが斬りかかって来た。吹雪の如く、命を狙う斬撃が絶え間なく襲いかかる。

「く……!」

 ローランの斬撃が何度私の残像を捉え、私の太刀筋が何度彼に遮られたか分からない。目で文字を追い、ページをめくるだけで場面が切り替わる物語のように、戦況はいとも容易く変わってゆく。もはや瞬きさえままならない。

「奈緒……!」

 歯を食いしばりながら、来亜が私の名前を呼ぶ。この場に立っているのが苦しいのは、戦っている私たちだけじゃない。私たちに全幅の信頼を置きながらも、ただその様子を見ていることしかできない二人もまた、苦しいのだ。

 戦場の熱気が、とうとう言葉を呑み込んだ。二本の剣が空を斬る音だけが、虚しく響き合っている。それが数秒続いた後、来亜が重い沈黙を破って叫んだ。

「奈緒……"気"だ!」

「……!」

 なぜ、私は長物を源兄さんの力の鍵としたのか。先刻の来亜が投げかけた疑問は、他でもない彼女自身の言葉によって氷解した。

 "気"​──​──身も蓋もない言い方をすれば、単なる錯覚。それを、かつての私は自分に対して引き起こしていた。条件を付けることで、私の中にある力を切り分けていたのだ。そして、長物を持つことが源兄さんの力を使う条件だと思っていた。しかし、実際にはそうではなかった。

「そのまま押し切れ!」

 先生が騎士に指示を出す。彼は攻勢をますます強め、一撃の重さはそのままに、剣速が高まってゆく。だが、もうその刃は届かない。躱しざまに振り抜いた剣が、逆にローランの肌を掠める。想定外の反撃に、先生は目を見開いていた。

「速いッ……!」

 長物を持った時、私は源兄さんの力を模倣していたのではなかった。はじめから、私の中に彼ほどの力はなかったのだ。だから、そんな私にできるのは、あらゆる手を尽くして彼に少しでも近づくことだけだった。果てしない空へ向かって必死に手を伸ばすように、過去も未来も顧みず、良心や倫理さえも捨て、自分の中の力を全て解き放つ。そのためには、当然持つ武器も自分が最も得意とするものでなくてはならない。それだけのことだった。

「ローラン、来るぞ!」

 先生の指示を受けて守りを固めた騎士を見据え、剣を構え直した。ふっと一度息をついて、体勢を整える。次の攻防で、決着がつく。この場にいる全員が、きっと認識を同じくしている。ただ一点、どちらがこの後に立っているのかということだけを除いては。

「――――”散華”!」

 吹き荒ぶ嵐の如き斬撃が、願いを背負った言の葉を一つまた一つと散らしてゆく。

 それを受ける者もまた、陽光を受けて静かに輝く月の如く、ぴたりと剣を合わせて斬撃を受け止めた。激しい音を立て、火花を散らしながら、二本の剣が互いに命を削り合う。本のページが風で捲れるように、騎士の命が消えてゆくのを誰も止めることはできない。それを進める張本人として、目の前の物語と一対一で向き合っている私でさえ、その手を止めることはできないのだ。他の誰かにそれができるはずもない。

 不意に、音が止んだ。剣を振るローランの腕が、電池の切れた機械のようにいきなり止まってしまった。本来ならば受け止められた無数の斬撃の一つに数えられていたであろうものが、騎士の胸元に深く入り込む。

「あ……」

 飛ばしたシャボン玉が弾けるのを見た少女のように、先生は小さく声を漏らした。同時に、騎士が膝をつく。息はあるようだが、間違いなく致命傷だ。もはや戦える状態ではないだろう。

「奈緒、油断するな!」

 来亜の言葉を聞いて我に返り、ポケットから銀のナイフを取り出す。理由は分からないが、持っていた剣で止めを刺すことはできないという確信があったのだ。七つの物語を終わらせてきた銀の刃が、騎士の胸に突き刺さる。彼は不思議なほど安らかな表情を浮かべながら、夜の闇に散って消えた。それと同時に、私の手の中にあった剣も姿を消した。

 多くの人々が見物していたが、歓声を上げる者は誰一人としていない。悪を打ち倒した正義を讃えるには、悪の側に立っていた者の事情を知りすぎたのだろう。

「......終わりだな」

 来亜が私のそばまで戻ってきて、そのまま先生の目の前まで詰め寄った。先生は黙ったまま、来亜を鋭く見据えている。それから、観念したようにふっと小さく笑みを浮かべながら天を仰いだ。

「ああ、終わりだ。作者自らが”終わらない”と謳ったにもかかわらず、終わってしまったな」

 そう言ってから、先生は来亜に視線を戻し、彼女に向かって言葉を続けた。

「そして、お前の物語もこれで終わりだ」

「……え?」

 先生の言葉の意味は、全く分からなかった。珍しく、来亜も自分に投げかけられた言葉に対して訝しげな表情を浮かべている。

「……それは、アレか? 馬鹿って言った方が馬鹿、みたいな話か?」

 来亜の言葉を聞いて、先生は顎に手を当てた。どう考えても冗談のはずなのに、彼女は納得したように頷きながら笑った。

「あっはっは、言い得て妙というやつだな!」

「……改めて問おう。この期に及んで、一体何を隠している?」

 来亜が先生を強く睨む。戦いはもう終わったはずなのに、事件は全く解決の兆しを見せない。アクシデントが起こった舞台のように、私や来亜の不安が学校の外の人々にも伝播して、周囲のざわめきは大きくなってゆく。それを収めたのも、やはり先生の言葉だった。

「来亜……これまで不思議に思ったことはないか?」

 突然の問いかけに、来亜は沈黙を貫いた。普段の彼女ならば、心当たりがなくても適当な軽口を返すはずだが、今はその余裕もないようだ。

「お前の推理は、常に事件の核心を捉えていた。十分な証拠が揃っていない状態でも、犯人の居場所や事情を突き止めていた。まさしく、何かに導かれるかのように」

「……」

「そして、お前の嘘はいつも犯人に見抜かれることなく、解決への糸口を作り出していた……そうだろう?」

 来亜は先生の言葉を否定こそしなかったが、彼女に対して頷きもしなかった。ただ意地を張っているようには見えない。来亜自身さえも、先生の言葉の真意を測りかねているのだろう。

「……それで、何が言いたい?」

「おいおい、ここまで言って分からないのか。探偵の名が泣くぞ」

「さっきの反省を活かしているのさ。さっさと答えを言ったら、情趣がどうとか言って文句をつける人もいると学んだからね」

 顔色一つ変えず淡々と言葉を返す来亜に、先生は呆れたように息をつく。

「それなら私もお前に倣って、今度は勿体ぶらずに言ってやろう」

 先生はそう言いながら、来亜に一歩近づいた。そして、例えば今日の夕飯は何だとか、部屋に忘れ物があったとか、そんな何でもないことを伝えるような口ぶりで、彼女は隠し持っていた真実を告げた。

「空言来亜​────お前は、私の創った物語だ」

 瞬間、その場にいた全員が沈黙した。数秒の後、最初に口を開いたのは、やはり来亜だった。

「……は?」

 当然の反応だ。私も、そしてきっと他の人たちも、全く同じ言葉を吐こうとしていた。

「言葉の通りだよ、お前は私の妹ではない」

 もし先生の話が事実なのであれば、来亜に対する容赦のない振る舞いにも、事故で家族を失った話を来亜が冷静に聞いていたことにも説明がつく。しかし、それを差し置いてもなお彼女の話は突飛で、受け入れ難いものだった。

「さっきも言ったように、お前の旅路は実に順調だった。破竹の勢いで事件を解決し、瞬く間に探偵としての名声を大きく高めた」

「……それが、お前の仕組んだ筋書きだと言いたいのか?」

 来亜の問いかけに、先生はゆっくりと頷く。肯定を示すはずのその動作は、これまでの来亜の努力や苦心を一度に否定した。

「そうだ。だが、当然イレギュラーも度々あった。まあ、物語とはそんなものさ」

「イレギュラー……」

「例えば、"天狼"……存在は知っていたが、彼らが魔物狩りに乗り出すことは想定していなかった」

 そう話した後で、それよりも、と付け足しながら先生はこちらに目を向けた。

「最大のイレギュラーは、奈緒ちゃんだな。お前が一度も死なずにここまで来られたのは、彼女の協力あってのことだ。もっと感謝した方が良いぞ」

 先生の言い方は、妙に引っかかった。まるで来亜の命がいくつもあるかのような口ぶりだ。今までの相手を見る限り、彼女が物語だったとしても命の数が増えるようなことはないだろう。来亜も同じ違和感を覚えたらしく、先生に向かって問いただした。

「おいおい、いくら何でもテレビゲームとは訳が違うだろう。死んでも蘇るわけじゃない」

「同じだよ。本来、お前は何度も死にながら戦い続けるはずだった」

 先生は顔色一つ変えずにそう言った。来亜の真っ当な反論が、めちゃくちゃな筋書きにことごとく圧し潰されてゆく。もしかしたら、正常なのは先生の方なのかもしれない。二人の会話を聴いている周囲の人々の間では、そのような空気さえ醸成されつつあった。

「お前は物語だと言ったが……他の物語とは少し異なる存在だ」

「そういうのは先に言ってくれると助かるんだけれどね」

 むっとした表情を浮かべて詰め寄る来亜を、先生は両手で制止した。

「分かった分かった、悪かったよ」

「それで、何がどう違うんだ?」

「……本当に、聞きたいか?」

 先生はぴたりと動きを止めて、来亜に確認するように尋ねた。来亜がここで二の足を踏むような性分ではないと分かってはいるはずだ。しかし、それでも確認しないわけには行かなかったのだろう。それほどの事実が、彼女の喉元に控えているのだ。

「……分かった」

 先生は一度深く息をついて、話を続けた。

「単刀直入に言おう。お前は、私の妹を元にした物語だ。お前……いや、来亜も、三年前の事故に巻き込まれた被害者の一人だった。私は意識不明の重体の妹に物語を重ねるようにして、お前を生み出したわけだ」

「……そうだとして、それは私の命がいくつもあることとどう関係しているんだ?」

「そうだな……例えるなら、お前は映写機に映し出された映像のようなものだ。何かに遮られて消えたとしても、元の機械が壊れない限りは再び映る」

 先生の話を聞いて、来亜は目を見開く。先生がこれから語ろうとしている内容を、彼女は一足先に理解したのかもしれない。

「それと同じように、お前は死んでも再び蘇る。元の機械……本物の来亜は、今も病室で眠ったままだからな。ただし、それはスクリーンが用意されている場合……つまり、私の筋書きの上にいる時に限っての話だが」

「……なるほど。奈緒を助けに行く時に言っていた"本当の危険"というのはそのことか」

「そうだ。あれは私の筋書きには存在しないイレギュラー……いわば、幕間だった。だからこそ無茶もできたわけだがな」

 先生が話しているのは、きっと来亜があの時持っていたお守りのことだ。筋書きがなかったからこそ、本来あるべき状態を保つ必要もなかった。だから、彼女の身体能力を大幅に高めることができたのだろう。

「……さっきから、どうも仮定にすぎないものを事実かのように話しているな。そもそも、私が物語だとどうやって証明するつもりだ?」

「……あっはっは!!」

 来亜の疑問に、先生は高らかな笑い声で返した。誤魔化すような笑い方ではない。彼女にとって、それは疑いようもなく愚問だったのだろう。

「何だ、そんなことが気になっていたのか。悪かった」

「……今ここで、証明できるというのか?」

「できるさ。実に初歩的なことだからね」

 そう言いながら先生は一歩前に出て、短く呟いた。そのたった一言は、槍のように静かな夜の空気を突き破る。

「"空言"という苗字は現実にはない」

「……!」

 先生の言葉は、まさしく初歩的な事実だけを語った。確かに、それは来亜の存在を致命的なまでに否定しうる。だが一方で、実際にはそうなるはずがなかった。目の前に、まさしくその存在しないはずの苗字を持った人間がもう一人いるからだ。

「で……でも、おかしいですよ!」

「ふむ、何がおかしい?」

「だって、先生の苗字も……!」

「それは今回の筋書きのために合わせただけだ。適当な理由をつけて、名乗りを変えた。そもそも、世の大半の人にはアリアで通っているからね。それほど困りはしなかったよ」

 先生は私の指摘を難なく退けた。その話を聞いて、ふと以前の記憶が脳裏をよぎる。瓜谷先生が初めて事務所に来た時、普段は生徒を苗字で呼ぶ彼女がアリア先生のことを下の名前で呼んでいた。その時はその場に来亜もいたから呼び方を変えたのだと思っていたが、知り合った後で苗字が変わったことが理由だったと言われても納得できる。

「それなら……あの時、流を殺す必要なんて......!」

 来亜は最後まで言い切ることなく膝をついた。先生は俯いたまま動かない彼女のもとに歩み寄りながら話を続ける。来亜が聞いていようがいまいが構わないといった様子だ。これ以上、彼女の言葉を聞くつもりもないのだろう。

「これで分かっただろう、来亜。お前の全ては絵空事……喰われても、焼かれても、眠らされても、凍えても、溺れても、潰れても、狂っても、お前という存在自体には何の影響もない」

 これまでの旅路で来亜が辿ったかもしれない最悪の結末は、きっと無数にある。そしてそれを避けるために、彼女は嘘や策略を活かして何度も窮地を切り抜けてきた。嘘こそが、空言来亜を空言来亜たらしめる最大の要素であることは疑いようもない。しかし、先生はそれさえも無意味だったと遠回しに言っているのだ。

「だが、これで物語は終わる……私が誂えた全ての罪を裁き、私の救いをも打ち砕いて、役目を果たしたお前は消える」

 先生はそう言いながら、メモ帳のような紙束を取り出した。びっしりと書き込みのある表面の中には、来亜の名前が確かに書かれていた。恐らく、彼女を物語として生み出すために用いたものなのだろう。その紙に、先生が手をかける。

「————さよならだ、探偵少女。これが、お前の結末だ」

「やめ————」

 紙束を破る先生の手に、私の言葉は追いつかない。その手元の紙が破れると同時に、来亜は眠るようにその場に倒れて動かなくなった。

 空言来亜の物語は、ここで終わった。この前の事件で起こりかけたような突然の死ではない。彼女を生み出した張本人が直々にその終わりを宣言したのだ。私や他の人間がいくら抗ったところで、その結末は変えようがない。口を開けて餌を貰う雛鳥のように、私たちはこの結末を受け入れるしかないのだ。それが、物語の受け手である私たちに課せられた宿命なのだから————

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