エピローグ
◇
全ての物語が終わった後、その場には抜け殻のような来亜の身体が残るばかりだった。目を覚まさない彼女を見下ろしながら、愛良はぽつりと呟く。
「……本当に、病室で眠ったままの本物と瓜二つだな」
黙ったまま視線を送る奈緒に気付き、愛良は気まずそうに微笑した。
「そんな顔をしないでくれ……というのも、無理な話か」
そう言って溜め息をつくように乾いた笑いを浮かべる愛良に、奈緒は一つ問いかける。その声は震えていたが、彼女自身はそれに対して無自覚だった。
「……どうして、こんなことを?」
「前に言ったはずだ。この学校の暗部を街の人々に知らしめる……それが私の目的だ」
「違います……私が聞きたいのは、そのためにこんな方法を選んだ理由です」
奈緒は愛良を真っ直ぐ見据えながら問い直す。その眼差しに先刻喪った騎士の面影を感じた彼女は、溜め息をつきながら改めて答えた。
「……そんな目をされたら、誤魔化せないな」
「……」
「私の物語を全て終わらせること……それが、私のもう一つの目的だった」
事故で家族を亡くした時、愛良は自身の救いとなる物語────騎士ローランと、実の妹を土台にした空言来亜を生み出すことで仮初の安息を得た。その一方で、彼女はその行為の虚しさを自覚していたのだ。
「物語を生み出して、その幻想に縋る……そんなことをしても、何も変わらない。むしろ来亜の意識を抜き出しているのだから、彼女の回復に関しては自ら進歩を止めていると言えるだろうな」
「……それで、全て終わらせようとした」
「そうだ。そのために、空言来亜の物語に筋書きを与えた。私が生み出した罪の象徴を全て打ち破り、最後には私の原初の罪…….ローランを倒すように」
愛良にとって、ローランは間違いなく救いだった。その一方で、彼を生み出したことで愛良はまやかしの救済に身を委ね、前に進むことをやめた。それは、堕落に他ならない。彼女はそう考えたのである。
「これが、私の本当の目的だ。自分が抱える秘密も、いつまでも手放せなかった”救われたい”という気持ちも、元に戻す踏ん切りがつかない妹のことも……全て、終わりにしようと思った」
愛良が作り上げたこの物語は、自身に対する制裁だった。前に進むことを恐れ、幻想に縋ったことに対する罰として、彼女は心の拠り所も、作家としての名声も失った。他でもない彼女自身が、そうあるべきだと定めたのだ。
「あとがきの代わりとしては、こんなところで十分だろう。今度こそ、この物語は幕引きだ。それでは、ごきげんよう」
そう言って、愛良は外から自分を見ている人々に対して軽やかに一礼した。その後、どこへともなく歩き去ろうと一歩を踏み出したところで、奈緒の呟くような小さい声を耳にした。
「……受け入れられません」
その小さな声を、愛良は決して無視できなかった。それは、彼女の筋書きを真っ向から否定する言葉だったから。
「……何?」
「こんな結末、私は受け入れられない!」
奈緒は自分の傍で倒れたままの来亜のもとへ駆け寄り、彼女の身体を抱き起こした。
「足掻いてどうにかなるものじゃない。君たちに物語を生み出す能力がない以上、この結末が覆ることはない」
冷たく制止する愛良に構わず、奈緒は来亜に声をかけた。
「先パイ……私、先パイのおかげで今も生きているんです。先パイがいたから、生きていたいと思ったんです」
怨嗟に溺れ、手も心も汚し続けた日々。彼女をそこから救い出したのは、紛れもなく来亜だった。
「それなのに、自分だけいなくなるなんて……前の私と同じです」
奈緒は黙祷するように目を伏せた。同時に、来亜の肩を掴んでいる腕に一層力が込もる。
「私だけじゃない……先パイに救われた人、先パイを助けたい人は、たくさんいるはずです!」
奈緒の言葉に応えるように、一つの人影が雑踏を掻き分けるようにしながら姿を現した。来亜と奈緒が初めて救った命────小野七奈が、声を上げる。
「空言さん……君がいなければ、私は殺されていた。何かの間違いで助かったとしても、友達を殺した犯人を一生恨み続けたと思う」
憎しみを噛み締めるようにしながら、七奈は内なる思いを口にした。外見には何の跡も残っていないが、先の事件が彼女に残した傷はあまりにも深い。かつて犯人が彼女自身に対して抱いていたのと同じ感情を、今度は七奈の方が抱えている。
「でも……君が真相を暴いてくれたおかげで、犯人にも事情があるって分かった。だからって許すことはできないけれど……君のおかげで、前に進もうと思えたんだ」
そう言って、七奈は両手を合わせて強く握り締める。今の彼女にできるのは、それだけだった。
「だから、空言さん……君がこのままいなくなるのは嫌だ。私と一緒に、君も前に進んでくれ!」
無力感を振り払うように、七奈は両目を瞑って祈る。彼女に続いて声を上げたのは、次なる事件の犯人にして被害者────姫野紡だった。
「……私、生きるのが苦しかった。全部諦めたら楽になれるかもって、ずっと考えてた。その思いが、多くの人を巻き込むことになると知らずに……」
競争の重圧と、そこからの逃避という欲求。紡の悩みは、誰にでもあって然るべきものだった。ありふれた出来事や感情を拾い上げ、増幅するのもまた物語の力だ。彼女は、その力に翻弄されたにすぎない。しかし、罪の意識はそう簡単に割り切れるものではなかった。
「でも、あなたは私が巻き込んだ人たちを救ってくれた。取り返しがつかなくなる前に、私を止めてくれた」
紡は、閉じたままの来亜の目を真っ直ぐ見据えながら話を続けた。雨が降ろうと、風が吹こうと、誰に言われようと、もう彼女がそこから逃げ出すことはない。
「今度こそ、私は諦めない……いつまでだって、あなたを待つわ!」
祈りの連鎖は、なおも続いてゆく。次に姿を現したのは、斧山浩一だ。彼は奈緒たちの近くまで歩み寄ってから、優しく声をかける。
「空言さん……君がいなければ、僕はきっと幸せなままだった。君が美雪のことを僕に言わなければ、こんなに苦しむこともなかった」
そう言った後、浩一は自嘲するように、あるいは自身の中に未だ残り続けている痛みを誤魔化すように、ぎこちない微笑を浮かべた。
「……でも、これは僕に必要な苦しみだ。君は、それを僕に伝える選択をしてくれた。辛くても、苦しくても、向き合わなければならないこと……それに、ちゃんと向き合わせてくれた」
静かに、しかし力強く、浩一は両手を合わせて握った。涼やかな夜の空気にあてられて冷えていた手が、微かに熱を帯びる。
「君の物語が終わったとしても、君を必要とする人はたくさんいるはずだ。だから……君は、消えたら駄目だ!」
”物語の終わり”がもたらすものを、浩一は誰よりもよく知っている。だからこそ、彼は必死に訴えるように叫んだ。
「……君たちの気持ちを否定するつもりはないが、その祈りに意味はない。空言来亜の物語は、既に終わっているのだから」
ひたむきに祈る四人の少年少女を前に、愛良は冷たく言い放った。彼女が来亜の造り手である以上、その言葉は事実にして絶対だ。しかし、それはあくまでも物語に関することに限られる。だから、来亜のために祈る者が続々と現れるのを止めることはできなかった。
「生みの親でありながら、彼女を随分甘く見ているんだな」
唐突に、低く凛とした声が愛良の耳に届く。堀川霧江が、既に愛良の前に立っていた。かつては言葉一つで止められた相手であるはずなのに、今の愛良は霧江が来亜のもとに歩み寄るのを止められない。
「来亜……君の言った通り、あの日から私はずっと自分の選択について考えている。本当に大変な使命を与えてくれたな」
霧江は自らの手で、かけがえのない親友を殺した。愛良の定めた筋書きがある以上、その選択は否応なしに取らなければならなかった。しかし、それは果たして正しいものだったのか。来亜と同じ苦しみを抱える者として、彼女はここに立っている。
「だが、君は同時に救いも与えてくれた。翼ある言葉……全てが終わった後、君が教えてくれた話だ。君のおかげで、私は今も自分の為すべきことに向き合えている」
他の人々と同じように、霧江も両手を合わせて祈る。何の望みも抱かなかった以前の彼女に比べれば、それはあまりにも強欲な姿勢だった。しかし、当然ながらそれを咎める者は誰一人としていない。
「今、君の意識がどこにあるのかは分からない。だが……きっと皆の言葉が、そして祈りが、君のもとまで届いてくれると信じている!」
霧江の声が夜空に消えるとともに、一人の少女がおずおずと顔を出した。奈緒は彼女がかつて来亜を愚弄し、殺そうとした相手であることを知りながらも、沈黙を貫いた。少なからず、奈緒の方も彼女に対して負い目があったのだ。その少女————紅井世良の祈りは、懺悔から始まった。
「……私はあなたに許されないことをしたわ。自分のために事件を起こして、あなたの過去を弄んだ……」
彼女は“特別な存在”と言われた来亜に嫉妬し、その座を奪おうとした。しかし、その言葉が示す意味を理解した今、彼女の中からそのような感情は跡形もなく消え去っていた。
「でも、あなたはそんな私さえ見捨てなかった。私が殺されるのをただ見ていることもできたのに、危険を冒して助けてくれた」
世良が来亜に対して抱いていた感情は、嫉妬だけではなかった。今も彼女の中に残っているその気持ちを表すように、彼女は両手を合わせた。
「やっぱりあなたは特別よ。だから、この逆境も覆してくれる。勝手かもしれないけれど……そう願っているわ」
世良に続いて、またしても一人の少女が遠慮しながら姿を見せた。しかし、世良とは違って彼女の挙動は自分自身の性分に由来している。
「汐音、こっちだ」
「は、はい……」
声をかけた霧江の近くに寄ってから、境田汐音は話し始めた。
「この間の事件の後、家族と話をしました。堀川さんも協力してくれて、どうにか和解できました。ちょっと強引だった気もしますけど……」
汐音の第一声を聞いて、傍にいた霧江は気恥ずかしそうに顔を背ける。その拍子に彼女の背負っていた細長い袋が揺れ、持ち主の代わりに説得の手段を物語っていた。
「生きていれば、やり直せる……当たり前のことかもしれないけれど、空言さんのおかげで気付けたんです」
汐音は両手を握った。そして、かつて来亜から受けた言葉を彼女に返しながら、強く祈る。
「私も、あなたがいなくなったら悲しいです。奇跡でも未知の力でも何でもいいから……帰ってきてください!」
来亜がこれまでに終わらせてきた七つの物語。それは、決して愛良の考えていたような単なる踏み台ではなかった。物語を終わらせるということ、その一つ一つに向き合うということ。愛良は、この瞬間に初めてその重さを目の当たりにしたのである。
「……全く、作家冥利に尽きるな」
愛良は皮肉混じりにそう呟いた。自身の生み出した物語が、これほど多くの人々に愛され、その存続を期待されている。彼女は作家として最も喜ばしい状況にありながら、その期待が報われることはないと確信していた。
「だが……空言来亜はあくまで私の目的を果たすための装置に過ぎない。そこまでするほど重大な存在ではない」
「それは違うわ!」
愛良の言葉を強く否定しながら駆けつけてきた相手を見て、彼女は瞠目した。目の前に立っていたのは、瓜谷舞————両親を亡くした愛良の身を最も案じている大人だ。彼女は、常に愛良の味方だった。だからこそ、愛良はこの状況に驚きを隠せなかったのだ。
「瓜谷先生、どうしてここに……!」
「生徒の安全を守るためにって、見回りを任されたのよ。でも……ちょうど良かったわ」
瓜谷は愛良の方へ歩み寄りながら、彼女に向かって語りかけた。
「この状況を見ても分かる通り、空言さんは多くの人を救ってきた。筋書きの上のことだったとしても、それは紛れもない事実よ」
穏やかに諭すような口調とは裏腹に、その声は確かな力強さを持っている。瓜谷に気圧され、愛良は僅かにたじろいだ。
「空言さんだけじゃない。私も、あなたも……意味のない人間なんて、一人もいないのよ!」
瓜谷は来亜の方に目を向け、両手を合わせた。そして、祈りながら一層声を張り上げる。
「筋書きも、物語も関係ない……何も特別じゃなくて良い。一人の教員として、あなたが帰ってくるのを待っているわ!」
初めは数人に留まっていた祈りは、声を上げる者が現れるにつれて増えていった。輪が広がってゆくように、一人また一人と手を合わせて目を閉じる。来亜に直接救われた者たちだけではない。事件のあおりを受けた学校の教員たちや、喫茶店で彼女の噂話をしていた婦人、彼女から聞き込みを受けた街の住人、果てはどこか遠いところから彼女を見守っている人々————空言来亜の物語に触れた全ての人が、彼女のために祈った。
「……先パイ、見えてますか?」
未だ目を覚まさない来亜に、奈緒が優しく声をかける。
「嘘ついてばかりの先パイのこと、こんなに多くの人が信じているんです。だから……!」
言葉の終端を涙声で濁しながら、奈緒は来亜の身体を横たえながら膝をついて、両手を合わせた。
その時、
◆
「う……!」
ずっと閉じていた来亜の目が、おもむろに開いた。それに気付くと同時に、彼女の輪郭やその周囲が淡く滲む。
「先、パイ……!」
「心配をかけたな。だが、もう大丈夫だ」
そう言って、彼女は私のもとを離れて立ち上がった。
「……ありえない」
目の前で起こった出来事が信じられない様子で、先生は呟く。来亜は微笑を浮かべながら、彼女のもとに歩み寄った。
「ごきげん……良くはないだろうね。二年もかけた計画が、全部崩れ去ったのだから」
「……どうやって目を覚ました?」
「おいおい、全部見ていただろう。皆の祈りの力が奇跡を起こしたんだよ」
平然としている来亜に、先生は凄まじい剣幕で反駁した。
「くだらない嘘をつくな!」
「……急に大きい声を出さないでくれないか」
「そんな都合の良い展開、認めるものか!」
過去に類を見ないほど憔悴を露わにする彼女を見て、来亜は呆れたように首を振った。
「自分に都合の良い展開を作り続けてきた張本人が、今更何を言っているんだ?」
「……言葉が悪かったな。何の理屈もない、空言来亜の復活……その事象が、納得できるものではないと言っている」
そう言う先生に、来亜はからかうような微笑を浮かべながら返答した。
「それなら、理屈があれば納得するかい?」
「お前もさっき奇跡と言っていただろう。理屈などあるものか」
「あるさ。初めから、姉さんは決定的なミスを犯しているんだよ」
あまりにも堂々とした来亜の物言いに、先生はたじろいだ。来亜のことだから、こんな時にも嘘をついている可能性がある。そう疑う余裕さえ、彼女には与えられなかった。
「単刀直入に言おう、姉さんは題材選びを間違えた。私を探偵として創り出したこと……それ自体が、この筋書きにおいて致命的な過ちだった」
「どこが単刀直入だ。なぜそれが致命的な過ちになる?」
「……初歩的なことだよ、姉さん」
来亜の言葉を聞いた途端、先生は色を失った。私には何のことだかさっぱり分からなかったが、その言葉が彼女に何らかの確信を与えたようだ。
「探偵と聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるであろう存在────シャーロック・ホームズ。彼こそが、この筋書きを瓦解させる劇薬だったわけだ。そして姉さんも例に漏れず、彼を思い浮かべて私を創り出した……」
「……!」
「ホームズの物語は、一度作家によって絶たれている。宿敵を道連れに、ホームズはその生涯を閉じた……はずだった」
来亜はそう言いながら、不意に私たちの方を向いた。
「だが、それを許さなかった人々がいた。彼の物語に触れて、その終幕を受け入れなかった者たち……彼らの絶大な力は、一度終わった物語を再び動かした」
「ホームズの物語が持つ性質を、お前は引き継いでいた……というわけか」
先生の言葉に、来亜は頷いた。まさしく犯人を追い詰める探偵らしく、彼女の表情は自信に満ちている。
「"探偵の生か、作家の死か"……作家である姉さんなら、きっと知っていたはずなのにな」
来亜に返す言葉を、先生はもう持ち合わせていないようだった。彼女の計画は、ここに崩壊した。しかし、何故か彼女の目からは未だ闘志に近い気迫が感じられる。
「く……はは、あっはっは!!」
「衆人環視の中だぞ、お手本のような高笑いはやめてくれ」
来亜の注意を無視して、先生は懐から一冊の本を取り出した。そこには確かに『無題』と書かれているが、私がもらったのとは明らかに装丁が異なっている。
「来亜……お前が物語の続きを見せるというのなら、私にも考えがある。ここで今、最後の罪を犯すとしよう!」
「……その本は、何だ?」
「私が創った、もう一つの物語────もう一つの『無題』だ」
先生の言葉は、先刻までの彼女の話と真っ向から矛盾している。全ての物語を終わらせることが目的の彼女が、今になってまだ新たな物語を持っているのは変だ。
「これは、お前が倒すことを想定したものではない。本来ならお前の物語が終わった後、解き放つはずだった存在だ」
「……そこには何が入っている?」
さっきまでの勝ち誇った表情から一転、来亜は訝しむように目つきを鋭くして先生に問いかけた。
「さっきの『無題』と同じさ。事故の直後、私の中に生まれた欲求が入っている」
「……その欲求とは?」
先生は来亜の問いに沈黙している。ガコン、と不意に中庭の大時計が動く音が聞こえた。静寂が破られると同時に、先生は口を開く。
「────"全部、めちゃくちゃにしたい"」
先生が問いに答えた瞬間、彼女の持っていた本が光り、その中から巨大な白い影が飛び出した。影はやがて輪郭を持ち、一頭の怪物となって姿を現した。
「あれは……!?」
「……なるほどな。実在の是非が定かでない神とは違う、完全なる幻想……」
先生が喚び出したのは、紛れもなく竜だった。全身を白い鱗が覆い、背中の大きな翼をはためかせて上空を舞っている。
「そうだ。物語が行き着く果て……その先に待ち受ける相手として、これほどふさわしいものはないだろう!」
竜が猛々しく咆哮すると、空気が歪むような威圧感が辺りを支配した。これまで戦ってきた相手とは比べ物にならない、圧倒的な暴威。顕現してからものの数秒で、目の前の怪物はそれを有していることを見せつけた。
「こいつは少々特殊でね。強すぎる力を持つあまり、一度解き放てばすぐに肉体が自壊する」
「……」
「もって五分だ、健闘を祈る」
先生が笑いながらそう言った瞬間、竜が大口を開けて急速に彼女のもとへ迫る。
「先生ッ!!」
叫びも虚しく、竜は先生を一呑みにして再び空へ翔び上がった。
「そんな……!」
「……奈緒、準備はいいか?」
来亜は眼前の惨劇に対しては何も言わず、私に声をかける。
「でも、先生が……!」
「いま目を向けるべきはさっきの出来事ではなく、これから起こりうる災厄だ……違うかい?」
来亜の言葉は正しい。このまま私たちが動かなければ、先生の言葉が現実になってしまう。しかし、ほんの数秒前に起こった惨劇は、目を逸らして通り抜けるにはあまりにも大きかった。
「奈緒、受け取れ!」
不意に、背後から耳が震えるほど大きな声が聞こえてくる。驚いて振り返ると、即座に木刀が風を切りながら飛んできた。
「わあっ!」
慌てて受け止め、それを投げ渡した張本人を見る。
「霧江さん!」
「皆の避難は私たちで何とかする。君たちはあの竜を止めてくれ!」
霧江がそう言う間に、他の皆は街の人々の誘導に動き出していた。
「そんなものが、どこまで役に立つか分からないが……君に託す!」
私が霧江の言葉に頷くと、来亜は不敵な笑みを浮かべた。
「よし────全員助けるぞ!」
来亜はもはや叶わぬ願いを口にして、真っ向から竜と向き合った。彼女に続いて、木刀を構えながら竜を睨む。相手は私たちのことを歯牙にもかけない様子で、好き勝手に空を飛び回っていた。
「先パイ、まずは地上戦に持ち込まないと……!」
「……ふむ。あれほどの巨体となると、ワイヤーで引きずり下ろすのは無理だろうな」
「じゃあ、どうすれば……?」
「簡単だ。向こうから来てもらう」
来亜はコートのポケットから小型の懐中電灯を取り出し、電源を入れて思い切り上に放り投げた。
「ちょっと!?」
上空で勢いを失って急速に落下する電灯を走って追いかけ、手を伸ばしてどうにか受け止めた。
「おお、落とさずに済んだか。ありがたいね」
「急に何やってるんですか!」
「今に分かるさ、ほら」
来亜が指をさした先を見ると、竜がこちらに向かって急降下しながら迫っていた。
「ッ!!」
急いで飛び退こうとしたが、竜が起こした突風で思うように身体が動かない。衝突する寸前、いよいよ観念して身構える。突如、横から何かが凄まじい速さで近づいてきて、私を吹っ飛ばして竜の進路から外した。
「な……!」
身体を起こして目を開けると、横から近づいてきたものの正体は来亜だった。あの小さな身体の中に、私を吹っ飛ばすほどの力があるとは思えない。統一郎と戦った時のような不可思議な現象が、今再び目の前で起こっている。
「危ないだろう、しっかりしたまえ!」
「先パイ、どこにそんな力が……!?」
「……ああ、私を縛る筋書きはもう無いからね」
自信に満ちた表情を浮かべながら、来亜は右の拳で左の掌を叩いてみせた。ぱし、と乾いた音が響く。
「正真正銘、フルパワーだ」
縦長の瞳孔で私たちを真っ直ぐに捉えながら、竜は再び吼えた。先刻の、示威のための咆哮とは違う。今度のそれは、明確にこちらに敵意を向けた宣戦布告だった。
「よし、こっちを向いたな。あとは人を巻き込まないように食い止めるだけだ」
そう言いながら、来亜は後ろに視線を送る。もう学校の周りに残っている人はほとんどいなかったが、竜の速さを目の当たりにした今、安心できる状況とはとても思えない。それに、気になることは他にもある。竜の突進を避けながら、来亜に質問した。
「でも、竜って私たちが攻撃して食い止められるものなんですか?」
彼女は首を捻りながら、呟くように自信なさげに答える。
「……さあ」
「さあ、って……!」
私の反応を事前に予測していたかのように、来亜は手のひらを私の前に突き出した。
「まあ待ちたまえ、もちろん考えはあるよ」
その真偽は疑わしかったが、今は来亜の言葉を信じるしかない。竜の視点を学校側に誘導しつつ機を窺うために、来亜の後ろについて移動した。
「先パイ、あとどれぐらいですか!?」
「一分……は経ったはずだ!」
来亜はきちんと時間を気にしていると思っていたが、その答えは存外曖昧だった。だが、そこに不安を感じることはなかった。
「……分かりました!」
彼女の目は竜が消える時間に向けられてはいない。だとすれば、先刻の彼女の言葉は真実だ。彼女は、竜を倒すつもりでいる。そして、その手段も確かに持っているのだ。
「奈緒、待て。竜の様子が……!」
「え……?」
次の攻撃に備えていたところを来亜に呼びかけられ、眼前の竜を見上げた。いつの間にか、竜の目線は避難する住民たちの方に向けられている。その白い身体の節々が薄ら赤く光り、こちらまで伝わってくるほどの熱気を帯びていた。
「あれは……!?」
「……少なくとも、良い兆しではないだろうな」
見たところ、大きな攻撃の予備動作のようだ。もしかしたら、こちらが一向に反撃しないことに気付いたのかもしれない。攻撃が通用するかどうかも分からないが、とにかく止めなければならないのは明らかだ。
「はあッ!!」
隙だらけの巨体に向かって、木刀で一撃を叩き込む。瞬間、平手で岩を思い切り打ったような反動が伝わり、手から木刀が滑り落ちた。何とか持ち直し、一度引き退がる。
「全く効いてない……!」
「闇雲に攻撃しても駄目だ、竜の急所————逆鱗を狙うんだ!」
来亜が指を差した先に目を向けると、一つだけ鱗が他と逆向きに生えている箇所があった。ただ飛び跳ねるだけでは届かない高さだったが、周囲に足場はいくらでもある。竜の腕を足がかりにして跳び、逆鱗めがけて狙い通りに一太刀を入れた。瞬間、竜が首を振りながら唸り、辺りの空気が激しく揺れる。その気迫は一向に衰えを見せないが、間違いなく今の一撃は効いている。その証拠に、竜は住民たちからこちらに視線を戻した。一度は無害と断じた私たちを、再び脅威と認めたのだ。
「奈緒、気をつけろ!」
私が着地すると同時に、来亜が叫んだ。その直後、竜は大口を開けて、自らの身体の中に溜め込んでいたであろう熱気を一息に吐き出した。竜の口から放たれた熱気は大きな火の玉となって、校舎の屋上辺りに勢いよくぶつかった。
「あっ……!」
直前まで見えていた火の玉の何倍も大きな爆発が、轟音とともに校舎の上部を包み込んだ。数秒経って爆発が収まると、炎に包まれて見えなくなっていた部分は跡形もなく消し飛んでいた。その光景は、目の前の怪物が有する桁違いの破壊力を十分すぎるほどに物語っている。
「……先パイ」
「......まあ、少なくとも私たちが卒業するぐらいまでは青空教室だろうな」
来亜は半ば呆れたように、小さくなった校舎を見ている。未だ周囲の熱気は消えていないはずだが、不思議と私の背筋は凍りつかんばかりに冷えていた。一歩間違えば、あの爆風が街の人々を包んでいたかもしれない。思考が一度その可能性に及んでしまうと、恐怖せずにはいられなかった。私たちが呆気に取られている間に、竜は再び身体から熱気を発し始めた。
「おい、まさか……!」
今度は明らかに私たちを狙っている。さっきは不意打ちのような形で首元を打ったおかげで狙いが逸れたが、次も同じ手が通用するような相手ではないだろう。見れば、首の太さがさっきとは少し異なっている。力がそこに集まっている証拠だ。試しに首を打ってみたが、やはり効いている様子はない。
「く……!」
「奈緒、これ以上は危険だ。犠牲は大きいが、一度退くしかない」
「でも……止めなきゃ!」
校舎の半分を丸ごと包み込むような大爆発を起こす火の玉だ。もし地上の私たちに向けて放たれれば、巻き込まれる人が出てくるかもしれない。今度は決定的な強打を加え、火球の発生すら止めなければならない。再び前に出ようとする私の袖を、来亜は強く引っ張った。
「駄目だ、いくら意気込んでもできないことはある!」
「……できます」
一本の傘で百の巨人の首を斬り、不死の神を殺し続けた。その時の力は、今も間違いなく私の中に眠っている。私の全てを捨てて、私の中の全てを引き出す。それができれば、きっと竜は止められる。
「……そうだな。君ならできるだろう」
「だったら……!」
「だが、それができるのは奈緒じゃない。江寺奈緒には……それはできない」
来亜は私の考えを見抜いていた。その上で私を止めたのだ。自己を失って解き放つ力は、自分のものとは言えない。来亜はそう言いたいのだろう。そんなことは私も分かっている。他でもない彼女に対して一度過ちを犯し、止められた身なのだから。しかし、それでも退くことはできない。彼女が私を失いたくないのと同じように、私も彼女を危険に晒したくない。そのために使える力があるのなら、何でも使うと決めたのだ。
「————“餓狼”ッ!!」
叫んだ瞬間、全身に渦を巻くように力が湧き上がってくる。その勢いは、以前よりも遥かに強かった。技の形に落とし込んでみたものの、ほとんど制御することができない。
「奈緒……!」
意識が途切れそうになるのを何とか堪え、正面から竜を睨む。目が血走っているのか、視界の端がほのかに紅くぼやけている。その一方で聴覚は研ぎ澄まされ、自分の鼓動の音さえ針が耳に突き刺さるかのように鋭く聞こえる。木刀を握る右手に力が入り、血管が浮き上がって稲妻が走るような線が現れた。全身が熱に浮かされたように熱く、痛い。突如襲いかかってきた苦痛を誤魔化すように、吼えながら斬りかかる。
「があああああああッッ!!」
急所でも何でもない、鱗に覆われた胴への一撃。しかし、その一撃を受けた竜の身体は大きく揺らいだ。硬い鱗が割れるとともに、身体の周囲に漂う熱気が弱まる。竜は大規模な攻撃の準備よりも、目の前にいる脅威の排除を優先することに決めたらしい。どうやら、狙いは成功したようだ。
「……ぐっ、うう……!」
脱力と同時に痛みが増し、思わずふらついた。意識はさらにぼやけてゆくが、まだ終わりではない。こちらを向いた竜は、全力をもって私を叩き潰そうとするだろう。それを弾き返し、来亜の策が成功するその時まで、倒れるわけにはいかない。
「そうだ……来い......!」
「無茶だ、もう戦える状態じゃないだろう!」
来亜の言葉に返事をする間も与えず、竜がこちらに突進してくる。底力まで出しているとはいえ、これを正面から受け止めるのは得策ではない。一度横に避けてから竜を追い、着地際に翼めがけて一撃を入れた。鈍い音がした直後、翼の一部が千切れて地面に落ちた。
「斬った……!?」
来亜の驚く声を背後に聞きながら、再び構える。この程度の傷で勢いを落とすような相手ではない。私の見立てを肯定するかのように、耳をつんざく竜の咆哮が響く。寝起きの眼に強い光を浴びせられるように、その咆哮は今の私の聴覚にとっては凶器に等しかった。しかし、もはやそんなことはどうでも良い。それほどまでに、力が私の身体を蝕んでいる。来亜の前で強がってみせたが、残された時間が少ないのは事実だ。彼女だって、とっくにそれは気付いているのだろう。
「次で、決めないと……!」
呟いて、両腕で木刀を強く握る。竜が特別変わった行動を取ってくる様子はない。他のあらゆる種を凌駕する膂力と、大規模な爆発を引き起こす火球。五分足らずで街一つを破壊する程度であれば、それだけで十分だったのだろう。だから、きっとそれ以外に与えられている力はないのだ。
視界にかかる紅い靄が濃くなり、竜の姿がさらにぼやける。辛うじて、次の突進に備えて距離を取っているのが微かに見えるくらいだ。このままでは、最初の突進を回避することさえ難しいかもしれない。
「奈緒、危ない!」
来亜の声が聞こえると同時に身構えた。回避に備えたのではない。さっきと同じように着地際を狙っても、竜が今度も隙を晒してくれるとは限らない。仮に竜がこちらの狙いに気付いて対処してきた場合、新たに相手の行動を読んで動く必要が生まれてしまう。今の私にそんなことをしている余裕はない。回避されることを前提にしている突進に正面から向き合い、反撃を叩き込んで頭部を破壊する。残された力で取れる策は、それだけだった。
「来い……!」
姿より先に、欠けた翼が風を切る音で竜の攻撃を捉えた。死を告げる白羽の矢の如く、竜の身体は一直線にこちらへ迫っている。ぎぃ、と強く歯を食いしばりながら、一気に木刀を振り下ろした。その刀身から、眼前まで迫っていたものを叩き落とした感覚が手に伝わってくる。
「ぐ……ぎ……!」
しかし、竜は攻勢を崩していなかった。正面から頭部に一太刀を受け、地に落ちたにもかかわらず、次の瞬間には足で地面を踏みしめていた。頭にかけられた力を弾き返さんと、巨躯の内に秘めた力を惜しみなく解き放っている。純粋な力の押し合いでは分が悪い。一度木刀を引いて下からの力を逸らし、その勢いのまま、もう一度竜の首元めがけて斬り下ろした。
「は……あああああッ!!」
木刀が命中した瞬間、逆鱗が二つに割れた。竜の急所、その絶大な力の核が、ついに砕けた。竜は小さく唸りながら、その場に力なく伏した。
「やっ、た……」
力を使い果たしたのは、こちらも同じだ。竜が動きを止めると同時に、私も地面に身体を投げ出すように倒れた。しかし、ふと竜の方に目を向けたその時、嫌な幻覚を見ているのではないかと疑った。動けなくなっていたはずの竜が、翼をはためかせて上空に飛び立とうとしている。
「え……」
目の前で起こっていることに、脳の処理が追いついていない。視界が歪んで、耳鳴りがする。鼓動だけが、いたずらに速くなっている。全身のどこにも力が入らない。当然、立ち上がることもできなかった。
「追わ、なきゃ……」
「その必要はないよ」
半ばうわごとのように発した私の言葉に、返事をする声があった。その声は、何故か竜の方から聞こえてきた。声の主が誰かと考えようとするより先に、竜が空高く飛び上がってしまった。だが、その背から現れた人影を一目見ただけで、その疑問は立ちどころに解消した。
「せん、ぱ……!」
「全く……私が言えたことではないが、君はもっと自分を顧みたまえ!」
「……」
「だが、おかげで活路が見えた。後は任せてくれ」
来亜がそう言ったと同時に、竜は激しく暴れながら飛び去った。背中の違和感に気付いたのだろう。当然私には追いかける余力もないので、ただその場に倒れたまま、竜の背に乗った来亜の様子を見守ることしかできない。
「うおおおおおおおっ!?」
早速振り回された来亜は、声を上げながら竜の背中にしがみついた。身体能力が大きく強化されているらしいとはいえ、ここで手が離れれば無事では済まないだろう。
「く……こいつ、やりたい放題だな!」
激しい揺れの中、来亜は背中を少しずつよじ登って首元まで辿り着いた。そして、不意に懐へ手を伸ばす。そこから取り出されたものを見て、ようやく彼女の考えを悟った。脅威があまりにも大きすぎて見失っていたが、あの竜も物語であることに変わりはない。それならば、今までと同じ手段が通用するはずだ。逆鱗は折れ、竜は十分に弱っている。急所にナイフを突き立てれば、きっと物語を終わらせられる。しかし、そこまで準備を整えておきながら、来亜が動く気配はなかった。
「先パイ……?」
来亜は沈黙したまま、竜に振り回され続けている。攻撃する隙は確かにあったはずなのだが、何故か彼女はその好機を平然と逃した。何かを待っているようにも見えたが、その真意は全く読めない。
「――――よし、最後の勝負といこう!」
数秒後、来亜はようやく竜の首元にナイフを突き刺した。どんな攻撃も通さないような硬い鱗も、物語を終わらせる刃に対しては無力だ。竜は耳が痛むほどの断末魔を上げながら落下し、その重量で真下にあったプールの屋根を破壊しながら消滅した。それと同時に、竜の身体の中から、呑み込まれたはずの先生が姿を現した。
「え……!?」
「届け……!」
空中に放り出された来亜は、落下しながら先生に向けて必死に手を伸ばした。その手が先生の手を掴むと来亜は身体を翻し、水面に背中を向けた。
水飛沫が激しく音を立て、時計の針が動く音を掻き消した。水面に落ちることで落下の衝撃を和らげたとはいえ、それでも無事かどうかは疑わしい。まだ動けないと言い張る身体に鞭打って、プールの近くまで駆けつける。
「先パイ!!」
呼びかけても、返事がない。瓦礫をどかしながら、夢中で二人を探す。しかし、どこを探しても人影らしきものさえ見つからない。
「君、何をやってるんだ?」
不意に背後から声をかけられた。振り向くと、そこにはびっしょりと濡れた来亜の姿があった。前髪が目の近くまで下りて、顔は半分くらいしか見えなかったが、間違いなく彼女だ。
「良かった……!」
「良くはないだろう、全身がとにかく気持ち悪くて仕方ない……」
ぼやきながら手で前髪を軽く上げた後、来亜は不意に目線を移した。その先には、先生が横たわっている。どうやら本当に生きているらしく、一見して呼吸にも問題はない。
「……来亜」
先生は、掠れたような声で小さく来亜を呼んだ。命に別条はなさそうだが、ひどく衰弱しているようだ。
「どうして生きていると分かったのか……そうだろう?」
来亜の言葉に、先生は頷く。竜が出てきた直後、間違いなく先生は一口に呑み込まれた。それを見ていた者は、来亜を除いて皆彼女の死を疑わなかったはずだ。
「それこそ初歩的なことだ。”全部めちゃくちゃにしたい”なんて願望を持った人間が、その様を見届けないまま命を落とすような計画を立てるはずがない。むしろ、誰にも邪魔されない特等席で崩壊の様子を楽しもうとするはずだ」
「……そうだな、その通りだ」
「全く、この上ないろくでなしだな」
自分の推理を肯定する先生に対し、来亜は容赦ない言葉をかけた。先生はからかうようにわざとらしく、直前の自分の言葉を繰り返してその言葉も肯定した。
「……そして、時間が来たら竜の身体の自壊に巻き込まれて自分も死ぬ……それが、姉さんの狙いだった。だから、それを崩すためには時間が来る前に竜を倒す必要があった」
「それは奈緒ちゃんの力で成功したわけだが……お前自身に当てはあったのか?」
「さあ、どうかな。奈緒が前に出ると決めた時点で、この方法を取ることにしたからね。そのまま考えていれば思いついたかもしれないし、間に合わなかったかもしれない」
来亜の答えに対して、先生は呆れたように溜め息をついて薄く笑みを浮かべた。
「……分からないな。なぜ、そこまでして私を助けたのか……」
「……」
「忘れたわけではないだろう、私はこれまでの事件を引き起こした張本人だ。死者も出たし、人生を大きく狂わされた人間も少なくない」
今度は来亜の方が、先生の言葉を笑い飛ばした。すっかり静かになった学校に、笑い声が虚しく響く。
「だからだよ」
「何……?」
「姉さんは多くの人の運命を狂わせた……逆に、なぜそんな人間が自分の計画通りに死ねると思ったんだ?」
先生は、沈黙した。来亜の言葉はどこまでも正しかったのだ。これまでの事件の犯人や、統一郎だってそうだ。彼女は、いつも”そんな人間”が思い通りに事を運ぶのを許さなかった。そのために、彼女は嘘を選んだのかもしれない。嘘に騙された人間は、決して思い通りに物事を進めることができないから。
「さよならは言わせないよ————それは、今世で罪を償ってからだ」
「……それなら、一つ問おう。私はどうすれば罪を償える?」
先生の問いもまた、正当だった。きっと、彼女は死こそが自分にできる最大の償いだと考えていたのだろう。自身の死で筋書きを締めたことからも、それが窺える。しかし、それは来亜の手によって否定された。ならば、自分はこれからどこを向いて進んでいけば良いのか。その疑問が出てくるのは必然だった。
「さあ。解決後の考察は、探偵の管轄外だからね」
しかし、来亜は躊躇うことなく回答を放棄した。その反応を目の当たりにして、先生は怒るでもなく呆れるでもなく、ただ納得したように息をついた。
「......ああ、そうだったな」
先生はそう呟いてから、学校の外を指さした。それから、ゆっくりと身体を起こして立ち上がる。
「向こうの病院……その三階の病室に、来亜が眠っている」
「……!」
「遅い時間だが、私の頼みで来たと言えばどうにかなるだろう……その間に、私は荷物をまとめて出て行くよ。こんなことになった手前、流石に一緒には暮らせないからな」
そう言い残して歩き去る先生を、止めることはできなかった。きっと、私たちが出会うことはもうない。事件が解決して、日常が戻ってきたとしても、戻らないものはある。それに向き合い続けることが、彼女の選んだ償いなのかもしれない。
「……行こう」
来亜に従い、すっかり人のいなくなった道を歩いて病院へ向かった。ほどなくして本物の来亜が眠るという病室に着いたが、来亜は中に入ろうとせず、扉の前で一度立ち止まった。
「……一応、言っておこうか」
「え?」
「恐らくだが……病室に入った時、私は消える」
突然の宣告に、全身が固まった。今にも扉を引こうとしていた手を勢いよく離す。結論だけを聞いて取り乱すのは良くないと分かっていたが、とても冷静に話を聞き続けられるような内容ではなかった。
「落ち着きたまえ……」
「落ち着けるわけないでしょう!」
焦っているとはいえ、夜の病室で大声を上げてはならないという当然の常識はどうにか破らずに済んだ。一度深く息をついてから、来亜に問いかける。
「……どうして、そう思うんですか?」
「さっき言った通り、私の基盤になった物語はシャーロック・ホームズだ」
「……はい」
「だが、それなら私が”空言来亜”としてここに立っているのは変じゃないか?」
確かに来亜の言う通りだ。今まで対面してきた物語は、どれもその原型を失うことはなかった。神や悪魔でさえ、物語そのままの姿で顕現していた。いかに名探偵と言えど、ホームズはあくまで人間だ。それなのに、彼だけ特別に本人として出てこないというのは不自然だ。
「最初に考えたのは、雪女の時のようなケースだ。霊が乗り移るように私の中に探偵が入り込んで、空言来亜を生み出した……」
「それは、違ったんですか?」
「ああ。そうだとすれば、姉さんの言っていたように私が何度倒れても蘇るというのはおかしい。実際に検証していないから、それが彼女のハッタリである可能性も残っているが……わざわざあの場でそんな嘘をつく理由もないだろう」
それならば、今の来亜を空言来亜たらしめているものの正体は何なのか。当然、いくら私が考えたところで答えに辿り着けるはずもない。来亜は私の考察を待たず、さっさと話を次に進めた。
「探偵を元の私そっくりの姿で生み出し、かつ本物の私を犠牲にしないような方法……それを可能にする物語が、一つ存在する」
「……それは?」
仮説にすぎないが、と前置きをしながら、来亜は息をついた。それから、彼女は私の目を真っ直ぐ見据えて答えた。前置きした言葉とは裏腹に、きっと彼女の中ではその答えが真実だと確信しているのだろう。
「ドッペルゲンガー————それが、私のもう一つの正体だ」
「……!」
「相手の姿形を模倣して化ける怪異だ。もし私が本物の来亜に化けて、そこに探偵の物語を重ねたとしたら……説明がつくと思わないか?」
来亜の言葉はあまりにも現実離れしていたが、何故かそこには異様な説得力があった。今起こっている現象を引き起こす方法が、この他にあるとは到底思えなかったからだ。彼女の問いかけにも、当然頷かざるを得ない。
「そして、本物と出会ったらどちらかが消える……それが、ドッペルゲンガーの物語だ」
「それって……本物が消えるかもしれないってことですか!?」
「その可能性が無いとは言えないが……恐らく消えるとしたら私の方だろうね。どちらにしても私は消えるから、わざわざそこで本物が消えるようにする理由はないだろう」
言われてみれば、その通りだ。雪女の時と同じように、来亜の中の物語が終わりを迎えれば、目の前にいる彼女はそこで消える。それに、本物の来亜を救うことを目的とした先生の行動が、その消滅を招くとは考えにくい。
「私が消えたら、物語から解き放たれた本物の私が目を覚ますだろう。それで万事解決というわけだ」
「でも、そうなったら先パイは……」
「……どうなるだろうね。記憶が残っていればいいが……そこは完全に賭けだな」
「そんな……」
「危険な賭けだが……避けるという選択肢はない。何せ、あそこで眠ったままの私こそが本当の自分なんだからね」
あくまで他人である私でさえまだ受け止めきれていないのに、来亜は既に覚悟を決めているようだった。
本当の自分に向き合うのは、とても勇気が要ることだ。私だって、仲間たちの死を受け入れるのが怖かった。しかし、自分が消えてしまうというのは一般に言われるそれとは桁違いの恐怖だろう。それなのに、彼女の眼差しが病室の外に向くことは一切ない。
「……そろそろ行くとしよう。その扉を開けてくれ」
「……はい」
一度離した手を再び扉にかけて、恐る恐る引いた。一人用にしては、随分広い病室────その開けた空間は、さながら霊安室のような静寂と荘厳を纏っている。部屋の中央にぽつりと置かれているベッドは、全体を覆うように布団が掛けられていた。
「……さて、いよいよご対面だ」
「……」
来亜は躊躇わずに布団を勢いよく捲った。その中にあったものが、私たちの予想を裏切ることはなかった。
「……不思議な感覚だな。自分の寝顔を自分で見るというのは」
そう呟く来亜の方を見ると、彼女の身体は指先から少しずつ透け始めていた。
「先パイ、身体が……!」
「おや、じっくり見ている時間はないようだね」
来亜はそっと私の手を取った。その手がひどく冷たかったのは、きっとずぶ濡れになったばかりだからではないのだろう。
「────さよならだ、相棒。そして……どうか、これからもよろしく」
来亜が淡い光とともに消えてゆく。まだ、受け入れる覚悟ができたわけじゃない。それなのに、なぜだかこれで良かったのだという確信を抱かずにはいられなかった。ともすれば、それは一種の自己防衛なのかもしれない。それでも、私はこの直感を信じたいと思う。
草花の種が風に揺られて散ってゆくような、柔らかく穏やかな喪失。その光の粒が全て消えてなくなるまで見届けてから、目を覚ました来亜に視線を移した。
「先パイ……」
来亜は神妙な面持ちで私の方を見て、数秒の間沈黙した。その後、今までと変わらない耳慣れた声で、彼女は私に話しかけた。
「……あなたは?」
「あ……」
こうなるかもしれないと分かっていた。他ならぬ来亜自身が、これは賭けだと言っていたのだ。しかし、目の前で現実として突きつけられると、その言葉はあまりにも痛かった。彼女を混乱させないように、俯いて顔を隠す。
その途端、笑いを堪えるような声が耳に入ってきた。まさかと思いながら顔を上げると、来亜は普段通りのいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「……なんてね。驚いたかい?」
この一瞬の間に私の中で起こった動揺など一切お構いなしといった様子で、彼女は平然と喜びを露わにした。
「いやあ、こんな大胆な嘘を堂々とつける機会が来るとは思ってもみなかった。ラッキーだよ」
「せ……!」
怒りが湧かなかったと言えば嘘になる。いくら来亜でも、こんな時まで嘘をつくのは無神経にも程がある。きっと彼女は今後もずっと変わらないのだろうと思うと、もはや呆れてしまうぐらいだ。
しかし────────
「先パーイッッ!!」
「うおっ!」
来亜が驚くのも構わず、半ばベッドに倒れ込むようにして彼女を抱きしめた。その冷たい身体に、少しずつ熱が戻ってゆくのを感じる。
「ぐ……仮にも怪我人なんだから、少しは遠慮したまえ!」
来亜の小さな手が頻りに肩の辺りを叩くが、そんなものは何の妨げにもならない。力尽くの抵抗を諦めた彼女は、ベッドの周りを手で探り始めた。
「ナースコールだ、ナースコール……くっ、勝手が分からん!」
戸惑いながら来亜がボタンを押した直後、下の階からバタバタと急ぐような足音が一斉に聞こえてきた。
「……もしかして、まずいことをしてしまったか?」
彼女にとっても想定外の数だったらしく、額に汗が光っている。思えば、来亜は数年間昏睡していた患者だ。その病室からコールが鳴ったのだから、大騒ぎになるのは想像に難くない。彼女はベッドから飛ぶように降りて、私の手を引きながら走り出した。
「に……逃げるぞ!」
「ええ!?」
「何だか分からないが、凄く厄介なことになる気がする!」
慌てた様子でそれだけ言い残し、来亜は私を置いて走り去った。以前ほどではないものの、足の速さは元から抜群だったらしい。長期入院による衰えを全く見せることなく、彼女の影はどんどん小さくなっていった。
「ま、待ってくださーい!!」
これで、この物語は終わりだ。”本当の自分”を取り戻し、物語上の存在ではなくなった彼女を私が語ることは、もうないのかもしれない。
それでも、私たちの物語は続いてゆく。
ライアー ゆうとと @youtoto238
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