8. 罪深い恩返し

「あ、あぁ……」


 吐いていた黒子も表情を引きつらせ、肩を抱くようにして震えて俯いている。

 俺が初めて黒子の前に現れた時とは比較にならない怖がり方。


 あの時の俺が肉食獣に見えていたなら、きっと今の綾香はおぞましい化け物のようにでも見えているに違いない。


 当然だ。現に俺にもそう見えて、今かつてないほどの身の危険を感じているのだから! 


「アンタ! こんなところでいったい何を……ッ!」


 激昂した綾香が迫ってくる。本当に殺されかねない勢い。恐ろしすぎて距離と一緒に寿命までゴリゴリ縮まりそうだ。


「うおおっ! 悪霊退散!」


 それでもなんとか土俵際で踏ん張って、俺は両手を組み合わせた。

 瞬間、目の前の景色が大きく歪んだ。空間が洗濯機で洗われるような不快感に耐えて目を開けると、


「おええぇっ!」


 目の前に嘔吐している黒子の姿があった。削り戻りに成功したらしい。 


「た、助かった……」


 もうちょっと前に戻ってやれればよかったが、咄嗟だったから正確に過去の光景がイメージできなかった。一番印象に残った場面に飛んじまった。


 だけど今はそんな罪悪感を覚えてる余裕はない。一刻も早く邪神の災いから避難せねば。


「く、黒子ッ! 体調悪いところ申し訳ないけどもうすぐ綾香がやって来るから、今すぐ隠れていてくれ!」

「……!」


 黒子には意味がわからなかっただろうが、その渾身の叫びに気圧されたのか、慌てよろめいた様子で脇の塔屋の陰に隠れてくれた。


 よし、そして俺も限界だ……!

 スクールバッグのポケットを開けて予備のエチケット袋を取り出す。

 そしてその袋と同時に扉は開かれた。


「…………………………!」


 絶句。という言葉がふさわしい。

 まあ屋上の扉を開いたら、なぜか俺が嘔吐してるんだからそりゃ驚くだろうさ。

 これで平然として「なんだ。吐いてたの」とスンと真顔で言われる方が怖い。


 さっきの綾香はもうそれこそ、本当に怒気と殺意を剥き出しにしていたが、今は真逆。ただドン引きした眼差しを向けていた。


 そして、そのままこちらに来ることもなくバタンと扉が閉まった。


「……もしもし警察ですか? ちょっと学校の屋上に変質者が……」

「ちょーいッ!」


 慌てて扉を開けて綾香を止める。

 スマホは片手に持っていたが、流石に通報するフリだったようだ。


 ほっとしたのも束の間、理解できない狂人を見る眼差しが俺に刺さる。見るな。そんな目で俺を見るな……!


「……こんなところでなにしてんのよアンタ」

「いやちょっと嘔吐を」

「それはわかるわよ……私が言いたいのはどうしてこんなとこで吐いてるのかってことよ」


 お前の顔が怖いから吐きました。なんて説明したら殺されるよな……


「いやちょっと今日気分悪くてな。人前で吐きたくなかったし、開放的な屋上なら気分よくなるんじゃないかって思ったんだよ。まあ結局ダメだったんだけど」

「それなら保健室かトイレに行きなさいよ。この前といい最近アンタよく調子崩すわね。そんなに身体弱かったっけ?」


 本当に心配そうに顔をのぞき込まれて、なんだか申し訳なくなった。幸い削り戻りの時間が短かったから今はそこまで気分も悪くない。普通に話せそうだ。


「たまたまだって。で、お前の方こそどうして屋上に来たんだ?」

「え? うーん。自分探しってとこかしら」

「嘘こけ近場すぎるわ」


 せめて遠くに旅に出ろよ。まあ我の強いこいつには関係ないだろうけど。


「過度な追求はセクハラで死刑よ。幸い今は二人きりで目撃者もいないしね」

「お前ここで俺を殺る気か……」


 一人で判決から死刑まで完遂しようとするのは恐れ入った。もっとも実際には二人きりじゃないから、綾香の蛮行はすぐに黒子によって白日のもとに晒されるだろうが。


「まあ私も空手やめてからブランクあるし、案外アンタに返り討ちにされるかもよ?」

「んなわけあるか……」


 中一で握力60越えとか出す化け物に敵うわけがない。測定器の故障としか思えないが、実際には壊れてるのはこいつの方なんだろう。


「……そういやお前、なんで六年の時に空手をやめたんだ?」


 小学四年五年と全国大会を連覇してたのに、小六の時には既に綾香は空手を辞めていた。

 小学校から中学に上がる際にやめる話はよく聞くが、その半端な時期にやめる理由が特に思いつかない。


 まさかそれも俺が寝たきりになったショックとかじゃないだろうな……と邪推したが、流石にそれは思い上がりだったらしい。ばつの悪い顔で綾香は答えた。


「……なんか力が強くなる内に、ちょっと押しただけで相手が死んじゃうように見えて来てね。怖くなってやめたの」

「それは……うん」


 なんとも言えない。

 実際空手の大会では綾香の独壇場だった。あまりに一方的すぎて会場が白けてたことなんてしょっちゅうあったし、身体能力向上系の悲願者じゃないかと疑われたことすらある。


 まあ悲願者用の特別な検査でそうではないと認められたけど、逆を言えばそれほど人間離れしてる証明だ。やめたいならやめさせた方が世のため人のためかもしれない。


「実際それで一人殺しちゃったしね……」

「エッ!」

「冗談よ。驚きすぎよ」


 あまりにも自然に言うから冗談に聞こえないんだよ。


「そういやこっちの方はどうなってるのかしら」


 そう軽く笑って綾香が俺の前を通り過ぎたのを見て、背筋が凍った。


 まずい、そっちの塔屋の陰の方には黒子が……


「なんだ、特に変わったものもないじゃない」

「え」


 俺も覗いて見たが確かにそこに黒子の姿はなかった。

 まさか慌てて飛び降りたんじゃ……と一瞬ビビったが、流石にそんなわけもなく塔屋の壁にはタラップがあった。それをよじ登って上に隠れたのか。


 いや目立ちたくないって言ってる割にはやってることアグレッシブすぎだろあいつ。


 だが、そこまでして遭遇を回避しようとした努力を無駄にするわけにはいかない。

 綾香がタラップの方に注意が向かないように、俺は欄干の向こうを指さした。


「あー、ほら見ろよ。辻桐山が見えるぜ」


 今までは方角的に見えなかったが、塔屋を回り込むと立ち並ぶ住宅街の先に緑の山々が見えるようになった。


 思わず「やっほー」と叫びたくなるような雄大さ。両親が亡くなって間もない頃にこっちに来たから、当時は自殺しようとした時ぐらいしか興味を示さなかったが、改めて見ると圧巻と呼べる景色だ。この大自然の景色には綾香も思わず感銘を……


「……それが何?」


 受けるわけなかった。

 そもそも綾香はその山の近場に住んでるし、流石に見慣れてるか。


 すると綾香はひどくつまらなそうな顔をしてため息を吐いた。


「まったく吐いたくせに無駄に元気ね。でも念のため後で保険室へ行っておくのよ」


 水を差されたせいで屋上に興味を削いだらしい。綾香は屋上の扉に手をかけていた。


「あ、俺も一緒に降りるよ」


 降りるならできる限り綾香が屋上から離れるよう誘導しようと思ったが、


「……そんな汚い袋持った奴と降りたくないわよ。変な噂を立てられたくないし」

「……」


 校門で吐いた時は親身に付き添ってくれたけど、流石に二度目は嫌なんだろうか。そういや静香にも似たようなこと言われたな…… 


「か、勘違いしないでよね。別にアンタと階段を降りるのが嫌なわけじゃないんだから!」

「なら一緒に降りろ」


 俺の言葉を最後まで聞く前に、綾香は逃げるように屋上から退出して行った。

 ……言葉に行動がまるで伴ってねえ。



 

「お見苦しいところをお見せしました……」


 綾香が屋上を後にしてから、黒子が塔屋の上からぐったりとした様子でタラップを伝って降りてきた。顔はまだ青ざめていたが、俺が綾香と会話してる間に落ち着いてくれたらしい。話せるレベルまで調子を取り戻したようだ。


「いやお前は悪くねえよ。多分俺が……悪かった……んだよな?」


 笑いのツボがわからない奴はたまに見かけるが、泣いたり吐いたりするツボでも彼女にあったんだろうか。俺の昔話がそれを刺激したなら悪いことをした。


「すみません。啓太さんのポケットから勝手に拝借しちゃって……」


 黒子が汚袋を一瞬だけ掲げて、すぐに脇において恥ずかしそうに自分の身体で隠した。


 拝借ってまさかそれを俺に返す気なのか、とツッコみたくなったが揚げ足取りは流石に酷いからしない。


 ……またそれで「うえええぇ」って吐かれても困るしな。


「緊急事態だったし別に構わねえよ。しかし、俺の制服のポケットの中にエチケット袋があるってよくわかったな」

「え? あー、例の啓太さんの動画で袋を取り出してる場面が映ってたので、それで……」


 一番嫌な把握のされ方だな……


「本当にすみません。急に気持ち悪くなっちゃって……みっともない所をお見せしたのが恥ずかしくて泣いてしまいました。死にたいです……」 


「別に謝る必要ないって。そんなことで死んでたら吐いたところを動画で拡散された俺なんてもう毎日死んでるぜ」

「それもそうですね」


 おい、けろりとした顔で納得するな。

 しかし、黒子も初めて会った時に比べてずいぶんと悠長に話すようになったな。もうほとんどどもってないし、内弁慶のタイプなんだろうか。


「でも啓太さんの場合『狂気の時間遡行クレイジーリレット』の能力が原因でしょう?」

「……へ?」

「あ」


 黒子が慌てて口元を抑える。きっとそれは吐きそうなんじゃなく失言の仕草なんだろう。


 一方で俺はマヌケに空けた口を隠す余裕もなく……唖然としていた。

 な、なんで……こいつが俺の能力を知ってるんだ? それも小学校の時の旧名を。


「す、すみません。私ちょっと用事を思い出しました」


 嘘つけ。流石に無理あるだろ。


「お、おい待て! 今のどういう……」


 黒子が慌てて立ち去ろうとしてたのを見て慌てて呼び止めようとしたが、


「啓太さん。私のことをあまり詮索すると不幸なことが起こりますよ」


 振り返った黒子のかつてないほど冷たい眼差しに思わず怯んだ。


 今までの会話が嘘だったような厳かな表情。その突き放すような視線は、これ以上足を踏み入れるなという明確な拒絶……いや脅迫のように感じた。


「忠告はしました。心配してくれるのは嬉しいですけど私のことは放っておいてください」

「ま、待てよ」

「待ちません。一人で屋上を出て行かせてください。それとも約束を破る気ですか?」

「でも……」

「……すみません」


 俺の制止もやむなく、あっさりと黒子は屋上から出て行った。

 瞬間、得体のしれない緊張感から解放されて、全身の力が抜けていく。


「な、なんだったんだ……?」 


 削り戻りの旧名を知ってる以上、小学校時代に接点があったか誰かから聞いたんだろう。


 けど俺は能力のことを誰にも話した覚えが……いや。

 階段で頭を打ってから俺は事故以前の記憶がところどころ抜けている。大部分は覚えてるから問題ないと思っていたけど、もしかすると俺はその記憶にない時期に誰かに明かしてたんだろうか。


 けど、なんのために……?


 どうして急に吐き出したのか。なぜ彼女が俺の能力の旧名を知っているのか。

 謎が謎を呼ぶというか、色々と置き去りにされてる気分だ。けど、今一番の問題は……


「いや、流石にこれは置き去りにするなよ……」


 ため息をつく。タイルの上には黒子が吐いたエチケット袋が置き去りにされていた。


 なにも知らなきゃバーガーショップの紙袋が捨てられてるようにも見えるが、実際はもっと酷い。開けたら玉手箱よりもたまげる。


 彼女の事情は気になるが、今はこのとんでもない置き土産の処理の方が先。

 後で取りに来るならいいが、あの様子だともう忘れてる気がする。


 まあ仮に思い出したとしても、あんなシリアスな雰囲気漂わせて強引に立ち去った癖にどの面下げて戻るのか。って話になるし、宝ならまだしもゴミを惜しんで戻っては来ないだろう。


「……俺が捨てるしかないか」


 ノロウィルスが蔓延するかもしれないし、流石に放置はまずい。それに他の奴が屋上に来て騒ぎにでもなったら、本当に黒子が飛び降りかねん。


 いちおうちょっと待っても来なかったので、結局渋々俺が処理しに行った。

 しかし、拝借といっていたが、まさかこんな形で本当に返されるとは。


 言葉を濁すわ現場を濁すわ。立つ鳥跡を濁さずというけどこれは濁しすぎだろ……鶴でも恩返しにもっとまともな物返すぞ。 

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