03 黒き猫

 何しろ五日しかない。

 大観は絵の具の準備を終えると、すぐに例の焼き芋屋に行って、攫う同然に黒猫を抱きかかえ、連れて来た。

 その性急さが、大観の顔のひっかき傷から知れた。


「この野郎、名作のモデルにしてやるというのに」


冥王プルートー、すまないね」


 大観にはと威嚇した黒猫だが、春草が笑いかけると、とすり寄って来た。

 大観が業腹な顔をしているのをしり目に、春草は窓際に黒猫を座らせる。


「頼むよ、冥王プルートー


 黒猫は心得たとばかりにポーズを取って、そのまま固まる。

 そして春草が目を凝らすと、それに倣うように、黒猫も目を凝らした。


「よし、いいぞ」


 あまり見えなくとも、雰囲気が伝わってくる。

 春草は画筆えふでを取った。



 大観が気づくと、彼の頭の上に黒猫が乗って、寝ていた。

 何だこの野郎、と思うが、そもそも大観自身が床に寝そべっており、その髪の毛を気に入ったのか、黒猫は鎮座して、すやすやと寝ていた。

 立ち上がろうとする大観だが、ふと春草と――椅子の上で眠っている春草と、その前にある絵絹を見た。


「できたのか」


 柏の木。

 落ち葉。

 それらの中心に、猫。

 黒き、猫。


「凄い……」


 大観は不自然な態勢のまま、涙を流した。

 見ているだけで、感動する。迫力がある。

 それだけの、名画だった。


「これを、五日で……」


 やり切ったんだな、と大観は言おうとして口を押えた。

 黒猫がまだ寝ているし、何より、春草が起きてしまったら、生真面目な彼のこと、今度は審査を、と言いかねない。

 今はまだ寝かしておいてやろう、と大観は微笑んだ。



 こうして「黒き猫」は出展され、今日では――永青文庫に蔵されており、そのホームページに、「黒き猫」の画像を見ることができる。

 畢生の大作であり、この画を描くことがまるで使命であったかのように、この翌年の明治四十四年(1911年)、三十六歳の若さで菱田春草は逝った。

 一方で横山大観は長生きし、戦後、昭和三十三年(1958年)に八十九歳で亡くなる。

 大観は、春草と死に別れたあと、画の才を他人に褒められると、決まってそんなことはないと答えたという。

 そしてこう語った。


「春草こそ本当の天才だ。もしも春草あいつが生きていたら、おれなんかより――ずっとうまい」


 ――と。



【了】

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黒き猫 四谷軒 @gyro

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