友だちってなんでしょう

 友だちだから言うけどさ、なんて言ってくるやつが友だちだった試しはありません。


「友だちだから言うけどさ」


 みなみは深いため息をつきました。


 高校二年生。四月です。


 みなみはこのクラスの学級委員。高校生にもなって学級委員を自主的にやりたがるこの女はよほど正義感に溢れとるらしく、わたしの些細な怠惰を見逃してはくれません。さすがは学費免除の特待生。口のうるささも特待生級。

 友だちだから言うけどさ、という前口上のあと、みなみはわたしがいかにふしだらでたるんでいるかを述べました。

 要約すると委員会の仕事をちゃんとやれ、ということです。ちゃんとなにも、生活委員なんてやることなどなく、先生に頼まれたプリントを配ったり配らなかったりするのが仕事みたいなもんで委員と呼べるかどうかも怪しいレベルです。それにわたしがどうこうする前に、隣の席のとしきがいつも先にやってくれるもんでわたしは自分が生活委員だということ自体をすっかり忘れとりました。しかしみなみは覚えとったようです。まったく生きづらい世の中です。


「野村さんさ、みんなともっと話しなよ。コミュニケーション大事だよ。そんなんだからクラスで浮くんだよ」


 みなみはきつく括ったポニーテールを揺らすようにかぶりを振りました。

 コミュニケーション。

 最低限の会話はしとるつもりです。が、みなみにとっては不十分で、わたしがクラスメイトを小ばかにしとるようにみえとるようです。確かに、小ばかにしていないと言えば嘘になります。


 わたしはクラスメイトの大半を侮っとります。だってみんな幸せそうです。


 まりが死んだというのに。


「海外に行っちゃったんだってね」

「超寂しい」

「言ってくれればよかったのに」


 まりのおばあちゃんが巧妙に流したガセネタを素直に信じとるバカ、ボケ、カス。

 まりと仲が良かった子がいちばん酷い。


「まりってそういうところあったよね。わたしたちに本心を見せないっていうか」

「なんで教えてくれなかったんだろ。ほんと悲しい」

「泣ける。なんか辛すぎて震えてきたわ」


 勝手に泣いてろ。震えてろ。


 泣ける、と言った女子たちは手鏡でメイクを直しながら被害者ヅラをしとります。そのツラにマスカラがばっちり乗せられとるところをわたしは見逃してはやりませんでした。マスカラというのは真の被害者とは無用の長物です。マスカラを塗るには目を乾かさなければならず、彼女たちがまりの嘘に、不在に、突然の失踪に泣いたのならば、マスカラなど塗れるはずもないのです。


 その点、みなみはまりの陰口を言いません。目の前にいない人間の悪口を言うのはフェアじゃないとでも思っとるんでしょうか。その代わりに目の前にいるからというだけの理由でわたしを貶してくるのはどうかと思います。

 みなみはため息を吐き、ここぞとばかりに言いました。


「こんなこともまで言いたくないけど、弟くん、家に引きこもってるんでしょう? お姉ちゃんがしっかりしないとますますダメになるよ」


 言いたくないなら言わなきゃいいのに。みなみはまたため息をついとります。ため息が好きみたいです。


「友だちだから言うんだからね」


 わたしは喉元まで出かかった言葉を飲み込みました。以前のわたしならぶちぎれていたかもしれません。が、まりが死んでからというもの、どうにも調子が上がりません。


 友だち。


 友だちってなんでしょう。まりが死んでからときどき、考えとるんです。

 わたしに友だちなんていはしません。

 みなみも友だちなんかじゃありません。彼女は自分のクレームを正当化するために友だちという免罪符を使っとるだけで、わたしもみなみもお互いを友だちだなんて微塵も思っちゃおらんのです。

 

 でもまりは?

 どうだったんでしょう。

 まりはわたしを友だちだと思っとったんでしょうか。

 あいつが死んだ今となっては確かめようもない疑問です。

 

 その日の帰り道。一人、アスファルトに散った小石を蹴りながらわたしはまりの葬式を思い出しとりました。





 まりが死んだ次の日の朝。

 わたしはフレンチトーストを食べました。卵を溶いて牛乳と混ぜて、食パンをひたひたにしてフライパンで焼いたやつです。まりが死んだというのにわたしはフレンチトーストの味に物足りなさを覚え、メープルシロップをかけたのです。

 夜にはまりの葬儀をするそうです。まりのおばあちゃんから連絡がありました。わたしはワンピース型の喪服を引っ張り出し、カビが生えとらんかを確認しました。この服を着るのは母の葬式以来で、あの頃よりわたしの身長は伸びました。入るかどうか、試しに着てみたところ、背中のチャックがどうにも閉まらんくて悪戦苦闘しとったところ、江都がやってきました。碌にパジャマも着替えんと、眠気眼をこする弟に恥を忍んでチャックを閉めてもらいます。姉ちゃん今日夜おらんでな、というと昨日もおらんかった、と小さい文句を言われました。


「誰か死んだん?」


 江都が聞きにくそうに尋ねます。わたしはうん、と言っただけで誰が死んだ、とは言いませんでした。まり、と言っても江都には分からんですし、まりとわたしの関係をどう説明したらいいのかなんてもっと分からんことでした。江都はそれ以上は追及せず「俺もフレンチトースト食べたい」と言うのでわたしは着たばかりの喪服を脱いで私服に着替え、卵を割って牛乳を混ぜ、江都のために食パンを浸してやりました。面倒臭いことでもわたしは江都のためなら多少のことはやってやります。ぐちゃぐちゃになった食パンを焼いている間、わたしはお焼香のあげ方を思い出そうとしましたが、どうにもうまくいきません。


 家事をしてぼけっとしとるうち、あっという間に夜がきました。生憎の雨でわたしは黒い傘をさし、歩いて葬儀場まで行きました。三十分以上かかったもんで、着いた頃には足が痛くなっとりました。

 まりのおばあちゃんはわたしを見るなり、恰好を崩して頭を下げました。何度もありがとう、ありがとうというおばあちゃんにわたしは何を言ったらいいのか分からんくて、ありがとうと言われるたびに黙って頷いとりました。

 祭壇は小さく派手でなく、最低限のお花と供物、それからまりの遺影が飾られとります。遺影の中でまりはイエーイとピースをしとります。葬式にはこの写真を使ってくれ、ときかんかったそうです。遺影でイエーイ。まったくくだらん冗談です。

 わたしは結局思い出し切らんかったお焼香のあげ方を、おばあちゃんの見よう見まねで終えました。そうしてまりの棺桶を覗き込んだのです。


 棺桶の中は空っぽでした。


 空の棺桶に焼香をあげるのはこれが二度目です。一度目は母。二度目はまり。わたしがじっと棺桶を見つめとると、おばあちゃんがああ、と口を開きました。


「お花でも供えればよかったんだけどねえ」


 供える気にはならんかったんでしょう。まりはこれから宝石として研磨され、様々な金持ちが身に着けるジュエリーとなって蘇るのですから。彼女の体から生まれた宝石は遺族の手にはひとつも残らず、業者に言い値で売りさばかれ、骨の髄まで買われます。生きとった頃には一円にもならんかった髪の毛に一万円の値打ちがつき、汚れといえる体液さえも硬く硬く硬化するので立派なダイヤモンドの原石になる。まりの脂肪が、臓器が、血液が、ダイヤモンドという宝石になった途端、お宝に変わってしまうんです。宝石病で死んだ人間には出棺がありません。あるのはただの出品です。せっかくのダイヤの原石を燃やしてしまっては勿体ない。人身売買もいいとこです。そういうわけですからまりのおばあちゃんだって、原石として旅立っていく孫に向かって花を手向ける気にはとてもじゃないがならんかったんでしょう。わたしも同じだったもんで、気持ちは痛いほどわかります。


「あの子、最後に変なこと頼んできてね。この絵を買ってって。百万円で」


 これ、とまりのおばあちゃんは手に持っていた風呂敷の包みを開きました。そこにはネットオークションで出品していた江都の絵がありました。


「大した絵には見えないし、どうしてだろうって不思議に思っていたの。でもどうしても百万円で落札しないといけないってきかなくて。野村さん、あなた何か知らない?」


 知ってるもなにも。


 わたしはおばあちゃんが手にした江都のアルコールインクアートを見つめます。

 ほかならぬこのわたしこそが、まりがその綺麗ながらも下手くそと言わざるを得ない絵に百万円を支払うことになった元凶です。友だちになる代わりにまりから百万円を貰う。それがわたしとまりが交わした唯一の約束です。

 

 けれど。


「知りません」


 あの子が死んでから時々、考えとるんです。

 わたしとまりはなんだったんでしょう。知り合いというには知りすぎて、友だちというには不躾で、わたしはまりとの関係をうまく言葉にできません。

 わたしたちは友だちだったんでしょうか。でも百万円で繋がる友情なんて聞いたことがありません。友情っていうのはもっと無償で温かく、なにものにも代え難いものなんじゃないんでしょうか。


 もしわたしとまりが友だちではないのだとして。


 まりが死んでこんなにも落ち込んどるわたしはなんなのでしょうか。でも落ち込んどるといってもたかが知れとります。

 夜は眠れます。

 ご飯も食べます。美味しいです。

 でもふっと気を抜くとまりのことを考えます。そうしてずしん、とお腹の底が重くなり自分が眠ったこと、食べたことに罪の意識が芽生えます。目まぐるしい毎日をこなすために芽生えた罪悪感に無理やり目を瞑り、また眠っては食べ、思い出し、落ち込んでは忘れてを繰り返しとるのです。こんなやつがまりの友だちといえるのでしょうか。甚だ疑問に思います。


 まり。


 あんたはわたしに百万円を振り込むと決めたとき、何を考えとったんでしょうか。

 これで友だちになれるとでも思ったのでしょうか。

 そんなもので友だちになったとしてなんの意味があるのでしょうか。

 

 結局、あんたとわたしはなんだったのでしょうか。

 

 血の繋がりのない関係は曖昧で不誠実で無愛想で、どれだけ考えてもわたしとまりを繋げる言葉にはなりません。





 休日。

 ジュエリーショップをめぐります。

 わたしの数少ない趣味のひとつです。

 母が死んだ頃からはじめた趣味です。あの指輪についている宝石が、あのネックレスにぶら下がっているチャームが、わたしの母から削り取られた石かもしれない、と思ってよく見に行くんです。あまりにわたしが熱心に見るもんで、ショップの綺麗な店員さんがジュエリーの基本的なつくりについていろいろと教えてくれました。おかげでわたしは高校生にしてはちょっとばかし、ジュエリーというものに詳しいです。

 綺麗なものを売っている人は内面も綺麗で穢れがないのでしょう。ガラスケースに鎮座した宝石をじっと見つめていると必ずといっていいほど綺麗な店員さんに「お母さんへのプレゼント?」と聞かれます。そういうとき、私は決まってにこっと笑みを浮かべ、胸の中で中指をたてながらその場を去るのです。

 一見、輝くダイヤモンドにみえても人口石、つまりはキュービックジルコニアが嵌められているジュエリーは多いのです。わたしの母は天然石なのでジュエリーショップにいくときは、必ずはめられた宝石が天然石かどうか、確かめることにしとります。人口石と天然石とでは値段が倍と半分以上違うもんで、価格を見ればわかるじゃないかと言われそうです。が、実はそうでもないんです。天然石が使われておっても土台がシルバーだと安値になりますし、人口石が使われとっえも土台がプラチナっちゅうだけでゆうに十万円は超えてきます。なのでわたしは必ず値札ではなく、値札の裏に書かれている素材をみるようにしています。


 SV900、キュービックジルコニア。

 人口石、これは違う。

 Pt800、ダイヤモンド。

 天然石、母の可能性あり。


 そんなわけでわたしはその日も買い物ついでにジュエリーショップへ立ち寄りました。といっても、店舗を構えたショップにはなかなか足が向かんもんで、デパートに入っとるテナントです。そのなかでもハイブランドはかなり気合をいれんと入れんもんで、今日は買い物袋を下げとることもあるし、と大学生に人気のあるお手頃ブランドへと足を運びました。


 自前の買い物袋から長ネギを一本、突き出させたまま、じっとガラスケースを見つめます。色とりどりの宝石がケースのなかに鎮座して、眠りながらも輝いとります。このなかに母がいるかもしれない。なんと美しく残酷な光景でしょう。ショップのお姉さんは長ネギを持ったまま来店した不躾な高校生にもいらっしゃいませ、と声をかけてくれました。ご試着もできますのでお声がけくださいね、と言われたのでご試着する気が微塵も見えない渾身の愛想笑いをキメた後、ぼうっとガラスケースを眺めます。


 今まで宝石を見るとき、わたしは母のことだけを一心不乱に考えとりました。

 でも今はまりのことも考えます。

 この中のどれかにまりがおるかもしれない。もしおるなら見つけてやりたい。どっかのいけすかない金持ちの道楽として消費されるくらいなら、母が遺した六千万を使ってまりを回収してやりたい。でも、とそこまで考えて、買い物袋から突き出た長ネギの匂いで我に帰ります。


 わたしはなんのために母やまりの欠片を集めようとしとるのでしょうか。


 欠片を回収しても、母もまりも生き返りません。ドラゴンボールみたいに七つ集めると願いが叶うというわけでもありません。ただ、美しくも残酷な彼女たちの欠片が手に入るだけで、きっと首や指にそれらをつける気にはならんでしょうし、誰かに自慢する気になんてもっとならんことでしょう。にもかかわらず、わたしはなんのために母やまりの欠片を探しとる。一体なんのために。それこそ一円にもならんのに、どうして。


「どうしてなの⁉」


 思わず両手を口で塞ぎました。なんも考えんと口から心の声が飛び出たんかと思ったら、隣で店員さんとぺちゃくちゃ喋っとった女性が急に怒鳴り声をあげとります。


「カードで払うって言ってるじゃない! さっさと会計しなさいよ!」

「ですが、残高が不足しておりまして他のカードでお支払いいただくか、現金でのお買い求めを……」

「そんなのないって言ってるでしょ!」


 まさに修羅場。地獄絵図。


 身綺麗な女性はその美しさに不似合いなほど顔を歪め、今にも店員さんに掴みかからんばかりに詰め寄っとります。もう一人の店員さんがどこかに電話をかけました。すぐさまとんできた警備員に取り押さえられた女性は、訳の分からんことを喚き散らし、めいっぱいに暴れまわります。近くにおったわたしの目の前を女性の長い爪がかすめたので、慌てて避けようとしたところ、誰かにぶつかられて尻餅をつきました。せっかくの長ネギが無残な姿で折れとります。


「やめてよ、お母さん!」


 暴れまわる女性にタックルをするように、抱きついた眼鏡の少女には見覚えがありました。きつく括ったポニーテール。聡明というより、神経質そうな細い眉。

 半狂乱の女を抱きしめて、必死の形相でお母さん、と呼んだのは学級委員のみなみでした。





 みなみのお母さんは警備員に取り押さえられ、別室へ連れていかれました。わたしもそのまま、折れた長ネギを抱えて帰ろうとしましたが、鬼の形相をしたみなみに「待ちなさいよ」と止められます。

 フードコートへ連行されました。こうしている間にも、先ほど買ったばかりの死にかけのあさりがますます死にかけてしまうというのに、みなみはそんなことはお構いなしにわたしを高級アイス店へと連れていきました。


「ほしいものなんでも言って。買うから」


 口止め料ということでしょうか。そんなことせんでもクラスメイトと碌にコミュニケーションもとらんわたしには言う相手もおらんのに、みなみは警戒しとります。


 みなみの家は貧乏です。彼女の靴下にはいつも穴を塞いだ糸が見え隠れしとるし、長い髪を一本に括っているゴムだってよく見るとほつれてぐにゃぐにゃです。新しいのを買えばいいのに、買うお金がないのだとクラスの女子が陰口を叩いとるのを何度か耳にしたことがありました。


 みなみの経済状況を知ったうえで、わたしは一番値のはる三段アイスを注文しました。長ネギを折られたことにちょっとかちんときとったんです。みなみは舌打ちをしながら財布を開けました。彼女の財布は角がすれとってぼろぼろで、見るも無惨な有様です。みなみは自分の分は注文せず、席に座るとアイスを頬張るわたしを警官のように監視しました。居心地悪いったらありゃしない。せっかくの高級アイスが台無しです。


「うち、貧乏なの」


 みなみは分かりきったことを言いました。

 恥じ入るようにまつげを伏せます。


「お母さんが買い物依存で、すぐなんでもほしくなっちゃうからお金がなくて。おかげでわたしの学費も払えない。特待生じゃなかったらと思うとぞっとする」


 わたしね、とみなみは夢見るように呟きました。


「宝石病になりたいの」


 アイスを口に運んでいた手が止まります。スプーンから零れべしゃん、とテーブルの上に広がるバニラ。唖然とするわたしに対し、みなみはいたく真剣な顔をしとりました。


「色々考えたの。どうしたらリスクなく、楽にお金が手に入るか。わたしが宝石病になれば、うちは一気に楽になる。お母さんがどれだけ買いたいものを買っても大丈夫だし、愛想を尽かしたお父さんも戻ってきてくれるかもしれない。だからわたしは宝石病になりたい」

「宝石病になったらあんたは死ぬのに?」

「死んでもいいの。だってお母さんのためだもん。わたしが生きてるより、お金があったほうがお母さんは嬉しいと思う。なんなら今より愛してくれるかもね」


 みなみは頬をゆるませました。いつも気難しそうな顔をしている彼女の笑顔を見たのはこれが初めてで、嬉しそうな顔をする彼女にむくむくと怒りがこみ上げます。


 ばかじゃないの。あんたが死んで喜ぶようなくそ親のために病気になって死にたいとか。そんなくそ親、今すぐ殺してしまえ。


 言ってやろうと思いました。でも言葉がうまく出てこんかった。


 まりのことを思い出したからです。


 まりもみなみと同じように、宝石病になったら自分を捨てた両親が自分に会いに来てくれるかもしれない、愛してくれるかもしれない、と期待しとりました。でも結局、まりは両親には会わんかった。自分が宝石病になったことすら告げず。あんなに会いたがっていたのに。まりはどうして両親に会わないと決めたんでしょう。テーブルに落ちたバニラを紙ナプキンで拭きながらわたしは記憶を辿ります。

 確か、百万円を渡す代わりに友だちになってやるとわたしが言って、あんたを捨てたくそ親に会ったら見損なうぞと脅しをかけて、まりは江都の絵を買って。


 全部きっかり覚えとります。

 覚えとるのに、やっぱりわたしにはよく分からんのです。


 まりはどうして、あんなに会いたがっていた両親に会わんかったんでしょう。わたしが見損なう、と言ったからでしょうか。わたしに見損なわれたからってなんなんでしょう。わたしなんて口が悪くて意地悪で、あの子に優しい言葉のひとつもかけんかった普通のクズです。まりが死んだときだって葬式に行ったときだって涙の一筋も流さんと、翌日には平然とフレンチトーストを食べとるような女です。そんな女に見損なわれたところで損などひとつもありません。


「もしさ」


 気づいたら口が勝手に動いとりました。


「あんたが本当に宝石病になったとしてさ。お金が手に入るわけじゃん」

「うん」


 みなみは身を乗り出しました。なんせ、憧れの宝石病の話です。何を聞かれるんだろう、とわくわくしとるんでしょう。みなみが興味津々に耳を傾けてくればくるほど、わたしは居心地が悪くなり声がどんどん萎んでいきます。

 こんなこと、本当はみなみに尋ねるべきことではありません。でも、みなみがわたしへクレームを言うために友だち、という都合のいい免罪符を使ったように、わたしも都合よくみなみを使うことにします。だって。


「そのときあんたにはたまたま友だちになりたい人がおったとしてさ。その人が百万くれたら友だちになってもいいよって言ったとする。あんたならどうする?」


 みなみはぱちぱちと瞬きをします。

 わたしは今更、みなみに尋ねたことを後悔しました。


 本当はまりに聞きたかった。


 あんたはわたしに百万払ってどう思った?

 友だちになれたと思って嬉しかった?

 それとも、少し後悔した? なんでこんなことせなかんの、って死ぬ間際にわたしを恨んだ?


 でも本当に聞きたかったあんたは、もう死んじゃっとる。何度呼んでも叫んでも、言葉の一つ、あんたにはもう届きはせん。それでもわたしはあんたのことを考えとる。考えてしまう。


 みなみは不思議そうに首を傾げました。


「友だちってそういうもんじゃなくない? 百万円あげたからってその人と友だちにはなれないよ」


 まり。


 あんたとわたしはなんなんでしょう。





 みなみと別れた後、自転車を漕いどるとスマホが鳴りました。胸ポケットでヴーヴー騒ぐうるさいそれを見ると、まりのおばあちゃんでした。路肩に自転車を停め、電話に出ると渡したいものがあるから都合がいいときに来てほしい、と言われます。気楽な学生身分だもんで、いつだって都合がいいといえばいいし悪いといえば悪いわたしはそのまま、まりのおばあちゃんの家に行きました。夏の気配とともにかすかな湿気を含んだ風を、籠に入れた折れた長ネギと共に切り、何度か坂道をのぼったりおりたりしてまりの家に到着します。

 まりのおばあちゃんはよく来たわね、とエプロンの裾で手を拭きながらわたしを玄関口で迎えてくれました。それから不意にはい、とわたしに小袋を差し出します。サテン地の、よく指輪とか宝石とかが入っとるような小袋です。きゅっと絞られた袋の口を開け、中身を手のひらに出した途端、心臓が止まるかと思いました。


 そこには黒い欠片が入っとりました。小指の爪くらいの硬い石。


「貰って。葬儀の時にね、業者さんが二つくれたのよ。わたしの分と、娘……まりの母親の分ってね。でもあの子は自分の親に知られるのは嫌だって言ってたからあなたにと思って」


 あんなに会いたがってたのにね、とまりのおばあちゃんは綺麗な目じりに皺を寄せました。


 手のひらが震えます。震えるわたしの手のひらには黒い欠片がのっとります。


 宝石病で死んだ人の遺体は一つ残らず業者に引き取られるため、基本的には残りません。でも、遺族が希望すれば研磨前の欠片をほんの少し、形見のかわりに貰うことができます。もちろん、その分引き取り金額は減りますんで遺族の手元に残る金は減ります。それでも欠片を形見として貰いたい、という人は多いそうです。わたしも母が死んだとき、自分の分と江都の分、二つの欠片を貰いました。ちょうどこのくらいの黒い小さな欠片です。


「もらえません。こんなもの」


 みっともなくも、わたしは手だけではなく声まで震えとりました。これがまりのおばあちゃんにとってどれだけ大切なものか、わたしはちゃんと知っとります。だからこそもらえんと思いました。だってわたしはまりにもまりのおばあちゃんにも嘘を吐いとるからです。

 まりは約束通り、わたしに百万円を払ってくれました。なのにわたしはまりの友だちにはなれませんでした。まりのおばあちゃんには江都の絵のことを聞かれたとき、責められたくないというつまらない理由で咄嗟に知らない、と言ってしまいました。

 わたしはくそです。

 まりの友だちにすらなれないくそでした。

 あの子の一部を貰うに値しない。マスカラの塗りながら泣ける、とほざいていたあいつらのほうがよほどわたしより価値がある。


 おばあちゃんは頬をゆるめ、もらって、と静かに繰り返しました。


「まりはね、毎日あなたのことを話してたのよ。だから、あなたに貰ってほしいの」

「わたしは……」


 唇を噛みました。

 わたしはまりに好きになってもらえるような人間ではありません。

 こんな卑劣な人間を、あの子が好きになるわけない。

 手のひらの欠片を握りしめます。欠片はわたしの皮膚に突き刺さり、確かな痛みを伝えてきてわたしがひた隠しにしていたずるい真相を、喉の奥から引きずりだします。


「謝らないといけないことがあります」


 まりのおばあちゃんは澄んだ瞳でわたしを見返しました。おばあちゃんの瞳に映るわたしは醜く暗く陰険で、今すぐにでも消えてしまいたくなりました。


「あの絵はわたしの弟が描いた絵で、あの絵をまりに買わせたのはわたしです」


 痛みと共に、わたしはすべてをおばあちゃんに打ち明けました。


 きっかけはまりが書いた小説だったこと。あの子の小説にわたしは酷いことを言ったのに、まりはわたしと友だちになりたいと言ってきかなかったこと。わたしはあの子を鬱陶しいと思っていたこと。面倒くさかったもんで友だちになる代わりに百万円を寄こせ、とむちゃくちゃなことを言ったこと。宝石病で死んだ後、まりがその約束を果たしてしまったこと。


 ごめんなさい、とわたしは頭を下げました。謝って許されるようなことではありません。まりのおばあちゃんからしてみれば、わたしは大事な孫に詐欺まがいのことをした不届き者です。友だち、なんて曖昧で無責任でどうでもいいようなものであの子の孤独につけこんで、金を巻き上げたくそ女です。


 でも、わたしには謝ることしかできません。

 謝ることさえ傲慢だと言えるこの状況で、わたしは自分勝手な罪悪感をまりのおばあちゃんに押しつけとります。一体どこまで卑怯者。なにをどうしたらこんな卑劣な人間ができあがるのか、皆目見当もつきません。


 まりのおばあちゃんはしばらく黙っとりました。それから口を開いて言うのです。


「やっとわかったわ」


 恐る恐る顔を上げます。おばあちゃんは笑っとります。


「ずっと不思議だったの。あの子は本当に両親に会いたがっていたのに、どうして会わなくてもいいなんて言い出したんだろうって。あなたと友だちになったからかしら、と思っていたけど、あの子、別に友だちに困るタイプではなかったのよ。でもあなたの話をするとき、まりは決まって言っていたの。『のんちゃんはね、わたしの特別なのよ』って」


 入院する前もしているときもその後も、まりはわたしを特別、と言っていたそうです。特別、と呟くとおばあちゃんは頷きます。


「きっとまりはあなたと会って、はじめて思えたのよ。両親なんかいなくても、わたしにはのんちゃんがいるから大丈夫って。親に愛されなくても、あなたが大切にしてくれたからそれでいいやって」


 だからお金のことは気にしないで、とおばあちゃんはわたしの手をそっと握りました。まりの欠片を持って震える手は、おばあちゃんの大きく温かい手に包まれてもまだみっともなく震えとります。震えは凍りついていた心臓まで伝わって、わたしの胸のなかでどくん、と音を立てました。


 母が死んでから、わたしは決めていたことがあります。


 もう二度と、江都以外の人のことを大切にしない。

 他の誰をも自分の心の中心には置かない、と。


 空っぽのまま出棺された母の棺桶を見送りながらわたしはそう決めたのです。あのときは江都を守るために必要なことだ、と自分に言い聞かせとりました。でも今なら違うと分かります。


 わたしは怖かったんです。


 誰かを大切に思ってずっと一緒にいたいと願ったとき、その人が母のように死んでしまうことがわたしは怖かったんです。

 大切な誰かに置き去りにされるくらいなら、誰も大切にせず息絶えたい。触れるものみな傷つけて、周りの人全員をぞんざいに扱って死んでみたい。誰にも情をかけず、かけられず、誰の記憶にも残らずに墓に入って埋もれたい。

 失う痛みに耐えられなくなったわたしは、誰かを大切にすることをやめました。それなのに。


 まりと過ごした日々のことを思い出します。


 まりにせがまれて、わたしは行きたくもない弘法山に行きました。

 まりが倒れたとき、パニックになりながら必死に救急車を呼びました。

 言いふらしたってよかったのに、まりが宝石病であることを誰にも打ち明けませんでした。

 まりが面会謝絶になるまで、毎日病院に通ってあの子が寝ていようが起きていようが、構わず病室に居座りました。

 会えなくなってあの子が死んで、わたしはまりのことを考えとります。


 わたしは確かに、まりのことを大切にしていたんです。大切にしていたから、あの子がいなくなったいま、こんなに悲しい思いをしとるんだ、とわたしはようやく知りました。





 帰り道。

 運悪く雨に降られたわたしは長ネギと一緒に濡れながら、自転車を漕いで帰りました。途中、何度もぬかるみにハンドルをとられて転びそうになりましたが、どうにかこらえて家につきます。まりの欠片だけは絶対に濡れないように、ポケットの奥深くへと入れこんで、ただいまと玄関の戸を開けました。

 おかえり、と江都の声がしました。ちょうど、二階の自室から降りてくる途中だったようです。パジャマ姿で腹をかきながら降りてきた江都は、ずぶ濡れのわたしを見るなりぎょっとしました。慌てて風呂場へと走り、バスタオルを持ってきます。おずおずとタオルを差し出してくる弟に礼を言い、髪を拭いていると江都がぼそりと言いました。


「姉ちゃん、泣いとる?」


 目ざといわたしの弟は、雨粒に紛れたわたしの涙をみわけたようです。嘘をつくのも面倒で、というか、今まで嘘を吐きすぎたもんでそのときのわたしにはもう嘘をつく気力が残っておらず、素直にうん、と頷きます。

 わたしは初めて、まりのことを江都に話しました。江都の絵を百万円で買ったマリが彼女であることも。

 江都は相槌も打たず話を聞き終えると、そうか、と呟きました。


「その人のお墓、ある?」

「一応。場所は知っとる」

「そんなら行こか。墓参り」

「え? そんなん、」

「姉ちゃんの大事な友だちなんだから、行かなかんよ」


 大事な友だち。


 わたしは江都の言葉に頷きました。





 翌日。快晴。墓参り日和です。

 わたしと江都はお花を持って、まりのお墓参りに行きました。

 江都は引きこもり生活が長く、外に出るのは実に二年ぶりのことでした。家から一歩出た途端、慣れない外気にやられたためか、江都は玄関先で盛大にげええっと吐きました。無理せんでいいと言ったのですが、江都はなにやら妙に頑固で首を振り、一緒に行くと言ってききません。


 電車に乗る前も乗った後も、江都は何度か吐きながら、どうにかわたしと共にまりの墓へとたどり着きました。いくら百万を貰ったからといってそうまでして墓参りに行く意味が分かりません。弟の奇行に疑問を抱きつつ、わたしたちきょうだいは「星野まり」と彫り込まれた墓石の前で立ち止まりました。


 わたしたちの母には墓がありません。子どもの身分では勝手が分からず、遺体もないのに墓など作る必要はないという葬儀屋の言うことにまんまと騙され作らなかったのです。今となっては作っておけばよかったと思います。だって墓とは本来、死者のためのものではありません。遺された生者のためのものなのです。今更気がついたところですべてあとの祭りですが。その点、まりのおばあちゃんはしっかりしとります。


 わたしたちはお花を供えて手を合わせました。合わせたものの、なにを祈ったらいいのかいいのか分からず、わたしは江都を盗み見ました。


 江都は小さな声でぶつぶつと呟いとりました。わたしには聞こえとらんと思っとるようですが、静かな墓地では耳慣れた弟の声はどんなに小さくとも不思議とよく聞こえます。


「姉ちゃんと一緒におってくれてありがとうございます」


 目を瞑り、江都は真剣に祈ります。


「俺が情けないもんで姉ちゃんは全然気が休まらんで、母さんが死んだときも泣けんかった。でもまりさんがおってくれたから、やっと泣けたみたいです。百万のことは知らんくてごめんなさい。絵具買うのにちょっと使っちゃったもんで、いつになるか分からんけど働いてちゃんと返します。だからお願いします。これからも姉ちゃんのこと、見守ってやっといてください」


 弟の切実な祈りにわたしは笑いそうになりました。

 あんたなんかに心配されんでもわたしはちゃんとやっとるし、まりなんかに見守られんくてもわたしはきっちり生きてきます。余計なお世話も甚だしい、と思いながらわたしは目を閉じました。息を吸い込み、少し吐きます。


 まり。


 あんたが死んでもわたしのお腹は空いとるし、夜は快適快眠だし、昼はぱきっと動けます。あんたがおろうとおらまいとわたしの人生、きっとさして変わりません。でも、あんた以上の人間はこの先きっとできんでしょう。これから先、どんな美人に、どんな金持ちに、どんな偉人に友だちになりたいと頼まれても、わたしは腰に手をあてふんぞり返り、ハンッ! と鼻を鳴らして言うのです。


 もうその席は埋まっとる。

 いくらのなにを貰おうとその席だけは空けてやらん、と。

 だからあんたは好きなだけ、その席に座っとるといい。あんたの席にもずっと、わたしが座っといてやる。


 だってまり。


 あんたはわたしの友だちで、わたしはあんたの友だちなのですから。


 それが友情ってもんでしょう。

 それが特別ってやつでしょう。


 そしてこの先一生涯、その特別があんたとわたしを繋いでく。それをきっと世間では、愛情なんて呼ぶんでしょう。

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ダイヤモンドより無価値なわたしは 岩月すみか @iwatsuki_kisaragi

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