ダイヤモンドより無価値なわたしは
岩月すみか
あんたなんかきらいです
『ブスやデブが病気になっても、あんたら見向きもせんでしょう。だから、わけのわからん難病にかかるのは、綺麗な女の子だけってだいたい相場は決まっとるんです。難病にかかっていい女の子には条件があります。
ひとつ、肌の白い華奢な美人であること。ふたつ、ご両親の理解がよく比較的裕福な家庭で育っていること。みっつ、難病にかかっている癖に吐いたりよだれを垂らしたり、汚いふるまいをしないこと。
そして、難病にかかった女の子のそばには、必ず献身的な男の子がおるんです。なんでかわからんけどその男の子は厭世的で、いっつも死にたい、死にたい言うとって、本当に死にかかっとる女の子と出会って恋に落ちるんです。死にたいなら恋になんて落ちんでさっさと死ねよ、と思います。でも、死を前にして気丈に振舞う難病ガールに男の子はぽっくり、やられちゃうんです。そうして大概、女の子が死ぬ前にキスとかセックスするんです。その男の子は女の子が死んだ後、一通り泣いて綺麗な思い出の箱にその女の子を押し込めて、「僕はあの子の分まで自分の命を大切にして生きていく」とか言うんです。
白々しくって吐き気がします。その子がもしブスだったら、男の子は恋に落ちたでしょうか? 女の子のほうもたいがいです。自分が病気じゃなかったら、元気満点フルパワーだったら、ただ一途なだけの、凡庸な死にたがりなんかにキスやセックスを許すでしょうか? 結局、死ぬ前に大人の階段のぼっときたかっただけなんじゃないか、と思います。こういうことをいうと、難病ものの小説を読んでうっかり涙なんて流しちゃった人は、顔を真っ赤にしてわたしのことを「無粋だ」「下劣だ」「想像力がない」って貶すんでしょうね。
そういう奴らは知らんのです。エンドロールのその先を知らんから、そういうことが言えるんです。
女の子が死んだ後、男の子は違う女の子と恋に落ちてキスやセックスをするでしょう。違う女の子とセックスしてる時、男の子は病気で死んだあの子のことを思い出すでしょうか。気持ちがよくって眩暈を起こすくらいの多幸感に襲われながら欲を吐き出し、汗ばんだ腕でなんの病気も持っていない、柔らかくって胸の大きい女の子を抱きしめるとき、棺桶に横たわったがりがりにやつれたあの子のことをはたして思い出すでしょうか。
だからわたしはこの小説が嫌いです。綺麗なだけの、上澄みだけすくってはいどうぞなんてしてくる、こんな小説を書いた作者の気が知れん。こんなものを書いた奴も、評価する奴もまるっとそのまま嫌いです。死んでしまえ』
先生は匿名の講評を読み終わると、はあーっとでっかいため息をつきました。教室の空気が北極みたいになっとります。
ことの発端は国語の時間、先生が「みんなで小説を書いてみよう」と言ったことです。公立高校の教師にしては珍しく熱心、小説を読む楽しさだけでなく、書く楽しさをみんなに知ってもらいたいとか言っとりました。そこまではよかった。いかんかったのは、書いた小説をみんなで読み合おう、と言い出したことです。作者がわからない状態で小説を読み、匿名でその小説への評価を記入する。五段階で点数をつけて、一番点数の高かった小説だけ作者を公表し、寄せられた評価コメントと共に授業でみんなに紹介する。そしたら、あんなコメントがとび出してきたもんで、先生は頭を抱えとりました。苦い笑みを浮かべてうなじをぽりぽり掻いた後、
「こういうの、アンチ難病ものっていうのかな。今風にいうと解釈違いってやつ?」
とおどけて肩をすくめとります。みんな、ふふっと笑っとった。凍りついてた気配はたゆんで、生ぬるい、いつもの空気に戻ります。じゃあそれぞれへのコメントも返すぞー、と先生が言い出すころには、さっきの鮮烈な酷評など、きれいさっぱりなかったことになりました。
先生の気の利いたコメントに、笑わんかったのはわたしだけです。
名前を呼ばれ、ぶすっとした顔で教卓の前まで歩いていくと先生が何か言いたげに顎をもぞっと動かしました。わたしは自分が書いた小説へのコメントシートをぶんどって、先生の言葉なんか聞きもせず、さっさと席へ戻ります。みんなはコメントシートを読んで、「恥ずかしい」だの、「褒められたあ」だの、「これ書いたのだれえ?」だの、一円にもならない高揚に胸を躍らせとります。特に、今回最も点数の高かった小説を書いたまりの周辺には人だかりができとって、彼女は賞賛のシャワーを頭の先からつま先まで浴びとりました。
『星を見ること』
まりが書いた小説のタイトルです。難病にかかった女の子が死にたがりの男の子と出会ってくんずほぐれつした後、自分の死をもってその子に命の尊さを教える難病ものです。終盤、男の子は星を見上げて死んだ女の子を思い出し、星の輝きと生命の輝きを重ね合わせ、感傷に浸って涙を流します。
彼女の小説には、『感動した』『こんなに美しい小説に出会えて幸せ』『明日から一日一日を大切に生きようと思った』など、絶賛の嵐が寄せられとりました。先生に大きなため息をつかせるような、無粋なコメントはあれだけです。
授業終了のチャイムが鳴ります。終礼の間、わたしは机に肘をつき、自分が書いた小説へ寄せられたクラスメイトからのコメントを眺めとりました。
『空を砕く』
高所恐怖症の男の子が、鳥人間コンテストに参加するも恐怖のあまり尻込みし途中退場、再起不能なまでに追い詰められてひきこもりになる話です。評価はぱっくり、割れとります。『退廃的な雰囲気がよかった』『ちょっとひどすぎると思った』『誰も報われないところがリアル』『こういう暗い話は嫌い』
わたしはコメントシートを折り畳みました。何度も何度も折り曲げて、小指の爪くらいの大きさになった時、「のんちゃん」と声をかけられました。いつの間にか、終礼は終わっとったらしく、みんなは雑談しながら帰り支度を始めとります。
顔をあげると、まりがピンクのほっぺを綻ばせ笑っとりました。女の子らしい大きな目、薄い唇、綺麗な曲線を描いた小鼻。みんなとお揃いの制服も、まりが着ると
「『空を砕く』書いたの、のんちゃんでしょ? わたし、分かっちゃった」
まりは後ろで手を組んで、あのね、ともじもじしとりました。わたしが死にたがりの献身的な男の子だったら、彼女のいじらしい姿にぽっくりやられちゃったでしょう。でも残念、まりはわけのわからん難病をかかえた女の子ではありません。わたしだって、死にたがりの男の子でもない。まりの豊かな胸のふくらみをみたって勃つもんもない、腹が立つだけ。
「わたし、あの小説大好き。のんちゃん、あんなの書けるんだね。すごいね。わたし、前からのんちゃんとお話ししてみたいなと思ってたの。よかったら、友だちになれたらいいなとか、思っちゃったりして……」
まりは心底恥ずかしそうに、耳まで真っ赤にしとりました。可愛らしいこと。周りにいる男子がわたしを羨ましそうに見つめとります。
「あのコメント、書いたのわたしだよ」
まりは瞬きをしました。すうっと顔の赤みが引いてきます。
「アンチ難病もののコメント。あれ、書いたのわたし。あんた、あんなの書いたやつと友だちになりたいの?」
わたしはスクールバックを肩にしょって立ち上がりました。
「わたしだったらなりたくない」
机をひと蹴りしてから、教室を出て、わたしはまりを置き去りにしました。
坂道を下ります。自転車の車輪がしゃらしゃらしゃらしゃら、音を立てて滑っていくのに任せスピードをあげ、最高速度を保ったまま自宅へ到着します。キキッと年季の入ったブレーキに悲鳴をあげさせてから、自転車を降りました。野村、と書かれた表札が下がる、木造家屋の一軒家。
ただいまあ、と玄関の戸を開けるとおかえり、と返事があったのでおや? と思いました。適当に靴を脱いで土間を上がると、案の定、居間にはガスマスクをつけ、インクを散らした用紙に向かってドライヤーをふかす弟がいました。部屋には人工的なツンとした匂いが漂い、窓を開け放していてもどうにもならんくらい、淀んだ空気が流れとります。
「
ガスマスクをつけた弟、江都が顔をあげました。わたしを見上げる目に、申し訳なさと邪魔をされた苛立ちが混じっとりましたが、間抜けなガスマスクが彼の複雑さを台無しにしとります。江都は小さく頷くと、ドライヤーの電源を切り、卓上テーブルに散らばったインクを片付け始めました。
江都は、母が死んでから、アルコールインクアートに凝っとります。よく分らんのですが、アルコールインクにはエタノールっちゅう、毒性の強い物質が含まれとるそうで、作業をする時、いつも江都はガスマスクをつけとります。
「晩御飯作るから。待っとって」
江都はなんも言わんで頷きました。居間から弟が出ていくのを視界の端に入れながら、わたしは冷蔵庫からひき肉と野菜を出します。今日はカレーです。面倒くさい時、わたしはいつもカレーを作るんです。
うちには両親がおりません。
父親は小さいころに離婚しました。母親は二年前、宝石病っちゅう、わけのわからん難病にかかって死にました。
知らんかったのですが、人間の骨には炭素が含まれとって、その炭素を加工して、遺骨や遺灰をダイヤモンドにするならわしが昔からあるらしいです。手前供養っちゅうそうです。その加工の過程をすっ飛ばして、体んなかで勝手に骨身がダイヤモンドになっていく病気が、宝石病っちゅうんです。難病っちゅうのは、治すのが難しい病気や症例が少ない病気のことをいうそうで、難病に侵された母は余命二年と言われたところを半年であっちゅう間に死にました。
母はうら若き乙女でも、華奢な美人でもありゃしません。色白ではありましたが、どっちかっちゅうとふくよかで、揚げ物を作るのが得意な、どこにでもおる母ちゃんでした。それが、難病で死にました。治療方法なんてもんもなく、発病してからみるみるうちに体の節が硬くなり、内臓がどんどん弱くなって緩和ケアへ移され、ある日すこーんと死にました。わたしは母が死んだ時間、学校へ行っとったので死に目には会えんかったんです。わたしが病室へ行ったときにはもう、母は六十キロのダイヤモンドに変わっとりました。ダイヤモンドっちゅうと、きらきらした輝石を思い浮かべるかもしれんけど、あれは研磨した後のダイヤモンドで母がなったのは研磨前の原石です。病室のベッドにどんっと黒っぽい、ところどころ艶が混じったでっかい石の塊が載せられとって、上から布団がかけられとりました。眼球まで黒ずんでもうどこが顔かもわからなんのに、頭部だったらしいとこに白い布がかけられとって、なんだか岩が弔われとるみたいで、ギャグなのかマジなのかわからんくて、わたしは全然泣けませんでした。
宝石病で死んだ人間は火葬されず、専門の業者に引き取られます。宝石業者です。遺体は棺桶に入れられることなく、そのまま金に変わるんです。六十キロのダイヤモンドに変わった母は莫大な金になりました。相場にもよると思いますが、ダイヤモンドの原石は一グラムあたり一万五千円くらいっちゅう話です。それが、六十キロ。わたしが母の死と引き換えに、巨万の富を手にしたことは言うまでもありません。
母は生前、手取り二十八万円の保険会社で働く普通の女でした。それが死んだ途端に、この値段。
おかげで子二人きりになってもお金には困らんかったです。ただ、どこからか、母が宝石病で死んだっちゅう噂を聞きつけて、父親を名乗る人が十五人現れました。一年前には、江都が身代金目的で誘拐されかけました。車に押し込まれて泣き叫んでいたところ、通りかかりの中学生が通報してくれて、警察に保護されました。ショックのために、弟は引きこもりになりました。
江都がつくるアルコールインクアートは綺麗です。ユプ紙という特殊な紙にインクを吹きつけ、風を流すと、大理石みたいな模様ができます。紙ぺらだってことも忘れて綺麗な見た目に騙されて、ただの紙に分厚さや硬さを勝手に感じ、つやつやの硬度を期待して指でちょいっと触れるとぺらんぺらんでがっくり、なんてことがよくあります。江都は時折、作品がたまるとネットでそれらを売りさばきます。大した額にはならんくて、大体ひとつ千円くらいで売れとります。六十キロのダイヤモンドに比べたらはした金ですが、江都は作品制作と、それらの売買をやめません。
わたしはまな板の上ににんじんを出して、すこーんと頭を切りました。オレンジ色の断面に星型の、緑色した芯がはっとります。星、と思ったら自然、まりが書いた『星を見ること』を思い出しました。
わたしのそばには勿論のこと、難病で死んだ母のそばにも、誘拐されかけた江都のそばにも、死にたがりの献身的な男の子なんておりませんでした。母の死後、わたしも江都も命について考える暇はなく、生きているのか、死んでいるのかよくわからない、退屈な毎日が母の死の延長線上に続いとります。
命の大切さ? 生きることの尊さ? 誰か知っとるなら教えてほしい。
母は普通の人でした。
なのに、死んだ途端、一等の宝くじになってしまった。誰もが喉から手が出るほどの価値ある存在に変わってしまった。命ってそんなもんです。生きとる母はダイヤモンドより安かった。快活に笑う母よりも、ハンバーグを作ってくれる母よりも、何も言わん石になった母のほうが値が高いんです。母だけじゃない、わたしの命も、江都の命もおんなじです。ダイヤモンドより、等しく無価値です。そんなことを思うわたしは薄情でしょうか。死にたがりの男の子みたいに、母の死から命の尊さを学ばんと、母の死を悼んだことにはならんのでしょうか。
なんで母は普通に死んでくれんかったんでしょう。病気なんて、ぜんぶ難しいじゃないですか。風邪でもがんでもうつでも、ぜんぶぜんぶ難しい。なのに、なんで難病だけ、綺麗なフィクションの中に閉じ込められてしまうんでしょう。宝石病で死んだ母のことも、綺麗な思い出の中にいれてやらんといかんのでしょうか。
こんなことを思うわたしは、きっとどっか壊れとるんです。壊れとるから、まりの小説をめちゃくちゃに言いたくなったんです。
翌日、まりは懲りずに話しかけてきました。学校にいる間中、友だちになってほしいと何度も何度も言われました。しつこい、と怒鳴ってもつきまとってきて、下校時刻になって自転車にまたがってもまだついてくるもんだから、わたしはブレーキを引きました。わたしのブレーキからは悲鳴があがりましたが、まりのブレーキは静かなもんでした。
「なんでわたしと仲良くなりたいの?」
「のんちゃんの小説に感動したから」
「あんな小説のどこがいいの? あんたのほうがみんなから褒められとったじゃん」
「現実的なところ」
まりは全然、笑っとりませんでした。いつも愛想よく、にこにこしとるのに。細い指で自転車のハンドルを握りしめて、まりは言いました。
「救われないところが好き。現実的なところが好き。のんちゃんのそういう、なんにも美化せんで現実ばっかり見つめてるとこが好き」
「でもみんなは救われる小説が好きじゃん。綺麗な話が好きじゃん。美しい教訓が好きじゃん」
「でものんちゃんは好きじゃないでしょ? 実はわたしもあんまり好きじゃない。でも、みんな向き合うのが怖いの。汚いものがあるってことを、知らないふりして生きたいの。苦しい思いをした後は報われるって勘違いして生きたいの。みんな、のんちゃんほど真摯に生きてないから」
「わたしは真摯に生きてるわけじゃない」
「でも、真摯だよ。だから友だちになって」
「嫌だ」
「どうしたら友だちになってくれるの?」
わたしはちょっと考えました。空が暗くなっとります。そろそろ帰って、晩御飯の支度をせんといけません。江都が腹を空かせて待っとりますから。
「百万円くれたらいいよ」
まりはぽかんと唇を開けて、ちょっと間抜けな顔をしました。
「百万円くれたら友だちになってあげる」
これで引き下がるだろうと思いました。しかし、まりはぱあっと目を輝かせたのです。
「百万でいいの? やったあ! あげるよ。でも、後払いになっちゃうけどいい?」
今度はわたしが間抜けな顔になる番でした。
「後払いってあんた、百万だよ? 払えるの?」
「うん。わたしね、あと一年で死ぬんだ。宝石病って知ってる? 全身がダイヤモンドになって死んじゃうんだって。すごいお金が入ってくるから、わたしが死んだらのんちゃんに百万あげる」
わたしは絶句しました。まりはにっこり、嬉しそうでした。
母親と同じ病気になった女のことを見捨てられるほど、わたしは人間ができとりませんでした。
まりは来週から入院するそうで、その前にわたしとゆっくり話をしたかったんだそうです。誰もいないところに行きたい、というのでわたしたちは夜の
夜の山はあんまりにも静かで暗くて、今にもひゅーどろどろと出てきそうで、わたしは内心怯えとりました。まりは当然、わたしよりも顕著に怯え、腕にすがりついてきたので歩きにくくてしゃあなかった。でも、まりの体温を感じるとなんだか安心して、わたしたちは互いによっかかりながら山道を歩き、展望台へ行きました。
二人とも制服のまんま、ベンチに腰を下ろしました。そこでようやく、山に街灯がない理由に気がついた。
星が夜空を埋め尽くしとりました。星の輝きだけで、彫刻みたいなまりの横顔があかるく見えたんです。
「街灯、いらんな」
まりの横顔を見ながら言いました。まりは空を見上げたままうん、と頷きました。
「膝のところにぐりぐりがあるの」
まりは急にスカートをたくし上げました。これ、とわたしに向けて右足を投げ出してきます。まりは桃色の爪で膝の尖ったでっぱりをさしました。触って、というので嫌々触ってやります。骨とは違う、鉱物みたいな硬い感触。
「そこ、もうダイヤモンドになってるんだって。そこから少しずつ、宝石になってくんだって」
まりは膝に触れるわたしの指へ、視線を落として言いました。知っとります。母の時は人差し指でした。最初は爪の黒ずみがとれんくて皮膚科に行きました。異常はない、どっかでぶったんでしょうと言われて、放っといたら指の腹まで黒く硬くなってきたからこりゃおかしいって、でっかい病院へ行きました。宝石病だってわかるまで、色んな科をたらい回しにされてわかった時には余命二年。実際には半年でしたが。
「なんで、あんな小説書いたの?」
わたしはまりの膝をぐりぐり、いじりながら聞きました。まりはくすぐったい、って笑っとります。
「ブームだもん。難病もの。それにほら、後でさ、あの小説書いた子、難病で死んじゃったんだってってなったら、なんかそれってすごくない? 病気抱えながらあの小説書いたんだって言われちゃったりなんかしてさ。勝手に小説のヒロインみたいに、恋人みたいな男の子がいると思われて、みんなのなかで美化されまくってそれってすごく、すごく、」
「反吐が出る」
まりは口を閉じました。わたしはまりの膝から手を離して、星じゃなく、その下に広がる真っ暗なテニスコートを見ました。
「のんちゃん、あの小説、嫌い?」
「嫌い」
「わたしのことは?」
「……きらい」
「あははっ」
なにがおかしいのか、まりは腹を抱えて笑っとりました。そうして目じりに浮かんだ涙を指先で拭うと、
「わたしも嫌い。全然好きじゃない」
と言いました。まりが嫌いだと言ったのが、小説のことなのか、まり自身のことなのか、わたしにはわかりません。まりはひとしきり笑い終えると、たくしあげたスカートを戻してわたしの肩に寄っかかりました。わたしより背ぇ高いくせに、預けられた体重は軽くてうんざりします。
「病気になってよかった」
「なんで?」
「病気にならんかったらのんちゃんと友だちになれんかったもん」
「一緒に山きただけで友だちヅラせんで」
「あはは、なにそれ。彼女ヅラせんで、みたいな言い方」
「わたしじゃなくてかっこいい男の子でも連れてこりゃよかったじゃん。あんたなら選び放題でしょ」
「うーん、そういうのはいいかなあ」
「なんで? もしかして、全部経験済みだから男なんていらんとか?」
「経験済みって?」
「キスとか、セックスとか。あんたの小説んなかで書いてあったじゃん。生々しくて気持ち悪かった」
「あははっ。あれはね、官能小説からパクったの。キスもセックスもせんでわたしは死ぬよ。ああでも、のんちゃんがしてくれる?」
「できるか、ばか。気色悪い」
「いまどき、キスくらい友だち同士でもするよ」
「あんたとは友だちじゃないから」
まりは残念、と言って目を閉じました。まりが喋るのをやめたら、沈黙が続いてわたしは気まずくなりました。
「あんた、死ぬ前にやりたいこととか、ないの?」
「やりたいこと……。やってほしいことはあるよ。のんちゃんに友だちになってほしい、のんちゃんにわたしのことを覚えててほしい、のんちゃんに新しい小説を書いてほしい」
「うざ」
「ふふふ。あとはねえ、お父さんとお母さんに……」
うっと呻き声がしました。肩によっかかってたまりが体を起こし、口元に手を当てて震えとります。瞬間、まりの口からごぼっと汚れた液体が飛び出しました。胃液と、よだれと、お昼に食べたサンドイッチの破片、消化しきらんかったきゅうりの粒。
内臓の機能が弱っとるんです。母がそうだったから、わかるんです。体が石になるっちゅうことは、生命を維持するありとあらゆる機能が低下するっちゅうことです。だから、みんなが思っとるような、綺麗な結末は迎えられません。
まりはベンチから転がって、地面に倒れました。わたしは駆け寄ります。
「まり、まり!」
まりは気絶しました。白い腿が剥き出しになって、筋の浮いた首元が苦しそうに上下しとります。まりの姿と母の姿が重なりました。華奢なまりとふくよかな母とじゃあ、どっこも似とらんのに、わたしは心んなかでお母さん、と叫んどりました。
スマートフォンで救急車を呼んで、待っている間中、わたしはずっとまり、まり、って呼んどりました。でも一回も返事はなくて、駆けつけた救急車のヘッドライトに照らされるまで、わたしはずっとそうしとったのです。
まりはそのまま入院になりました。
夜の病院の待合所は弘法山とおんなじくらい真っ暗で、一人で待つには怖かったです。ついでに母が死んだときのことなんか、思い出しちゃったりしたもんでわたしの気分はどん底でした。
そのうち、まりの家族がやってきました。初老の女性です。彼女は何度もわたしに頭を下げて、ごめんね、ごめんねと繰り返しとりました。まりのおばあちゃんだそうです。
「あの子、こんな時間に出かけるなんて今までなかったから。十九時以降は出歩いちゃダメって言ってあったのに」
憔悴しきったように、ハンカチで額を拭いました。まりはおばあちゃんから大事にされとるようでした。おばあちゃんは皺はあるけど、まりと同じく綺麗な顔をしとりました。服も清潔でお洒落です。きっと、まりには裕福で理解のある両親がいるのだろうと勝手に思いました。だから、つい
「ご両親は、いついらっしゃるんですか?」
と聞きました。
まりのおばあちゃんは一瞬、息を詰めました。わたしから目を逸らし、床を見つめます。
「まりの両親はあの子が小さいころ、出ていったきりでね。わたしがずっと面倒を見てるのよ。連絡はつくから、あの子が入院したら病気のこと、話さないといけないって思うんだけど」
まりのおばあちゃんは唇を噛みました。病気のこと、と濁したのは、まりが宝石病であることをわたしに知られたくなかったからでしょう。気持ちはわかります。わたしも散々、ハイエナに群がられて大変な思いをしましたんで。
「どうしてご両親は出て行ったんですか?」
まりのおばあちゃんは話そうか、どうしようか、迷っとるみたいでした。でも、ふうっと息をつくと言いました。
「子どもを育てるのが、億劫になったんだってさ。解放されたいって。わが娘ながら情けない話よ。でも、病気になったって知ったら帰ってきてくれるかも、ってあの子が言うから」
まりのおばあちゃんはそこで言葉を区切りました。お医者さんに呼ばれたのです。わたしはもう帰っていい、と言われたのですが、まりと話したいと言って無理をとおして病室へ案内してもらいました。
まりはぴんぴんしとりました。個室のベッドで膝を伸ばして、壁にもたれて読書なんかしとります。まりは入ってきたのがわたしと分かると、開いていた本を閉じました。
「のんちゃん。ごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げられます。わたしはまりのベッド脇に置いてある、背もたれのない丸椅子へ腰かけました。
「入院、早くなったな」
「うん、早くなった」
「さっきの、なに?」
「さっきの?」
「やってほしいこと。お父さんとお母さんに、って言いかけてぶっ倒れたやつ」
「ああ。あれ。聞いてたの? 恥ずかしい」
「人前で吐くほうが恥ずかしいわ」
「それはそうかも」
まりはシーツを軽く握って言いました。
「お父さんとお母さんに、わたしに会いに来てほしいの」
「なんで? あんたを捨てた親なのに?」
「おばあちゃんから聞いたの?」
わたしは返事をしませんでした。まりは仕方がなさそうに笑います。
「捨てられたから最後くらい、拾いにきてほしいの。宝石病だっていえば、拾いに来てくれるでしょ」
「来んかもしれんよ」
「もう、意地悪言わないで」
「そういう奴らはあんたが生きとるうちは来んよ。あんたが死んでから来るんよ。あんたが宝石になったら来るの。うちの父親がそうだった」
まりは茶色い瞳でじっとわたしを見つめました。わたしはなんでかわからんけど、みっともない気持ちになりました。
「小っちゃいころに離婚して、入学式も卒業式も、一回も来んかったのに、お母さんが宝石病で死んだって伝えたらすぐに飛んできやがった。わたしたちを引き取るって言い出した。知らん女も連れとった。わたしも弟も小さいころに別れたっきり、一回も会ったことなかったから、その人が本当の父親かどうかも分からんのに、ずっと心配してたって抱きしめられた。ベッドの上で石になっとるお母さんに、キスまでしてみせた。お前が死んで悲しいって言い出して、俺も死にたいとか言って。女もかわいそうにかわいそうに、って弟の頭を撫でだして」
「……のんちゃんはどうしたの?」
「いらんくなったお母さんの点滴で、そいつの頭、殴ってやった。お母さんの腕、点滴、ささらんようになっとったし、そいつがケガするくらい、なんてことなかったから。治療費なんていくらでも払える。お母さんの体から生まれた金で、いくらでもそいつのけがは治る。でも、お母さんは……」
もう、二度と治りはしないのです。動くことも、唐揚げを作ってくれることもない。二度とわたしに向けて、母が笑いかけてくれることはないのです。
目に浮かんだ涙が膨れて落ちました。まりの膝を包むシーツが濡れとります。まりは嫌な顔ひとつせんで、わたしが泣くのを黙って見とりました。
点滴を振りかざし、父を名乗る男の頭を殴ったわたしを、江都と看護師さんが必死に止めたことを、いまでもよっく覚えとります。その時、わたしはめちゃくちゃに叫んで言ったのです。
腰抜けが。お母さんが一番辛かったときにそばにもおらんかった薄らボケ。死にたいなら今すぐわたしがお前を殺してやる。今更になってお母さんに会いに来たことを後悔するまで、何度だって殺してやる。今すぐ帰れ、帰れ、帰れ。
父を名乗る男は怯えた顔をして、流血した頭をかばいながら知らない女と出て行きました。後に残ったのは、石になった母の亡骸だけ。わたしの叫び声を聞いても、泣くのは江都ばかりで母はぴくりとも返事をせんかった。
わたしは両親が離婚した原因を知らんです。でも、父が母を愛していなかったことは、知らん女を連れてきたのを見た瞬間、分かりました。父は母が死んで悲しいと言ったあの口で、あの女とキスをするでしょう。セックスもして、次の日になったらなんもなかったみたいになる。
その後、偽物の父が十四人、わたしたちのもとへやってきました。同じように全員怒鳴りつけて追い返すと、怯えた顔して逃げてきました。一番最初に来たあの男が父親だったのか、あるいはその後やってきた十四人の中に本当の父親がいたのか、はたまた、父親なんてわたしの前には現れていないのか、もう見当もつかんです。
わたしは涙が止まらんくなりました。母が死んだときですら、流れなかった薄情な涙が、今更になって頬をぼたぼた伝って落ちます。まりはなんも言わんで、わたしを眺めとりました。
「あんたのお父さんもお母さんもクズよ。そいつらが来たってあんたのことを思ってじゃない。死んだあんたの体が欲しいだけ、体目当て、お金目当て。あんたの心なんてどうでもいい。金さえ手に入ればどうでもいいの。だから、自分を捨てた親に会いたいなんて、もう二度と言わないで。言ったら嫌いになる。前より今より、もっとあんたのこと、見損なって嫌いになるから」
わたしはいつの間にか、しゃくりあげとりました。すると、まりは静かに言ったのです。一筋だけ、頬に涙を零して。
「それでもわたしは会いたいの。会って、捨てられるばっかじゃなく、少しはわたしも愛される価値のある人間だったって思いたいのよ」
わたしはたまらなくなってまりのベッドを両の拳でどん、と叩きました。わからずや、と叫んで席を立ちます。
病室を出て走ります。病院スタッフは誰もいなくて、冷えた廊下を走るわたしを止める人は誰もおりません。
わたしはその時ようやく、まりがどうしてあんな小説を書いたか、わかりました。難病を抱えた女の子のそばに、どうして死にたがりの献身的な男の子が必要なのかも。
同じものを見つめる人でなければ、死に向かう人間のそばにはいられないのです。難病をかかえる女の子は、いつもじっと死の淵を見つめているのです。隣に立つのは、同じように死の淵を見つめる人間でないとならないのです。
わたしは違います。死を見つめることは、反対側から生を見つめることです。わたしには生命なんて大それたもんを見つめる勇気はありません。だって、命が金に変わる瞬間を見てしまったのです。もうこれ以上ないほど、命ってものに裏切られてきたんです。だから、まりのそばにいるのが嫌になって、こうしていま、わたしは深夜の病棟を駆け抜けとるんです。
ねえ、まり。だから言ったでしょう。山に行くなら、わたしじゃなくて男の子を連れていくべきだった。女同士のあんたとわたしじゃセックスはおろか、キスのひとつもできやしない。
わたしはまりが死ぬまで、お見舞いへ何度か通いました。まりは少しずつ、歩くような速さで弱っていきました。最初はゼリーが食べたいだの、タピオカが飲みたいだの、わがまま言っとりましたが、半年経つとそれもなくなり、起きている時間が短くなりました。
まりの両足はもう、滑らかな白い肌をしとりません。膝頭から始まった石化は順調に彼女を侵食し、腰の下にまで及んでいます。排泄機能もやられとるため、まりの股には管が通され、排泄物は透明な容器に流し込まれるようになりました。
あと少しで年度がかわる。わたしはその日も、まりのお見舞いに行きました。クラスの人たちは来ません。まりの病気のことを知らんのです。まりが宝石病になったなんて言ったら、野次馬がわっと押し寄せてまりの足の指を砕いて持って行ってしまうかもしれません。その点、わたしは安全でした。なんせ、金には困っとらんのです。うちには四十三キロのまりより重たい、六十キロの富があるのですから。まりのおばあちゃんにも、わたしの事情は伝えとります。おばあちゃんはほうっと安心した顔をして、
「あの子が一人ぼっちじゃなくてよかった」
と言って泣きました。
わたしはまりが眠っている間、まりの寝顔を見つめとりました。痩せてがりがりになりましたが、それでもまりは難病にかかるための条件のひとつを見事に満たしとります。それでも、まりの両親はまりに会いにきません。死にたがりの献身的な男の子も、まりのそばには現れません。いるのはただ口が悪い、アンチ難病的な思想をもったわたしだけ。
まりが薄く目を開けた時、わたしはうつらうつら、舟を漕いどりました。
「……のんちゃん」
はっとして我に返ると、首だけ動かしたまりがこっちを見とりました。わたしは慌てて目をこすり、不貞腐れたみたいに何、と言いました。
「もう、こんでも、いいよ」
ゆっくり、ゆっくり、まりは言います。頭に血がかあっとのぼりました。今更、何を言っとるんだと叫びたい気持ちになりました。ぐっとこらえて咳ばらいをし、なんてことなさそうに膝に広げたまま一文字も読んでいない教科書を、さもずっと読んでいたかのように捲ります。
「あんたの言うことなんかきかんよ」
「……おとうとの面倒、見んと、いかんのでしょう?」
「別に。ちょっとくらい放っといても死んだりせんよ。でもあんたは放っといたら死ぬでしょ」
「……あはは」
まりはくったりしながら笑いました。
「おとうと、江都くん、だっけ? いまはどんなの、作ってるの?」
前に、江都がアルコールインクアートにハマっていることを教えてやったのです。
わたしはスマートフォンで、江都がネット通販で販売している作品をいくつかまりに見せてやりました。まりは小さくきれい、と言った後、
「これ、おばあちゃんに送って。URL」
と呟きました。
「いいけど、なんで?」
「おばあちゃん、こういうの好きそうだから」
そういうとまりは目を閉じました。すうすうっと、少しつっかかった寝息が聞こえとります。今日はもう起きんかもしれません。
それから少し経って、まりは面会謝絶になりました。学校からの帰り道、まりのおばあちゃんから電話がありました。おばあちゃんは泣いとりました。
まりは死んだそうです。見なくても、あの子が真っ黒なダイヤモンドの原石に変わったことは容易に想像がつきました。まりの両親には宝石病で死んだことは言わないことにしたそうです。それが、まりの遺言だからと。
電話ごしに伝わるわけもないのに、わたしはまりのおばあちゃんに頭を下げました。お葬式には行かせてほしいと伝えて、電話を切ります。すると、今度は弟からかかってきました。なんだか興奮しとります。弟のアルコールインクアートが、百万円で落札されたそうです。落札者の名前はマリ。わたしは一瞬息をつめて、よかったね、今日は遅くなるから、といって通話を切りました。
家にまっすぐ帰ることはせず、わたしは弘法山へ行きました。
冬の空は陽落ちが早く、まだ夕方だというのに暗く、一人で歩く山道は心細くてたまりません。それでもなんとか、展望台までたどり着き、わたしはベンチに腰掛けました。
次第に、外は真っ暗になりました。
眠っていた星が瞳を開き、夜空に瞬き始めます。
まり。
あんたが死んでも、わたしには結局、わからんかった。
命の大切さ、生きることの尊さ。
あんたの小説に出てきた男の子は、なんで好きな女の子が死んでそんなことを感じられたの? キスをしたから? セックスをしたから? わたしもあんたとあの山でヤッちまえばよかったんでしょうか。やっぱり、気が狂っとるようにしか思えんのです。大事な人が死んで、悲しいよりもずっと大きな感情で、命の大切さだの、生きることの尊さだのを感じるやつなんて、正気じゃないに決まってます。だって命って重たいです。すごく重たい分、なくなると急に手のなかが空っぽになったみたいに軽くって、なぜだか酷く落ち込みます。地球の裏側まで落ち込んで、二度と帰ってこれんような気がするから、やっぱり命なんて大切に扱わんほうがいいんじゃないでしょうか。
生きることだって複雑です。あんたが死んだくらいで、わたしはこんなに落ち込んどるのに、きっと一晩寝て起きたらお腹が空いとります。あんたはもう、空かんのに。あんたのことなんて好かんのに。ほら、韻だって踏んじゃえます。あんたもわたしもそんなもんです。母が死んだ時もそうでした。「お金があるから幸いね」っていろんな人に言われました。何が幸いなんですか? お金があったら幸せですか? お母さんが死んでも、あんたが死んでも、わたしはお金があるからずっと幸いでいなきゃならんのですか? そうだとしたら最悪です。
夜の風は冷たいです。見上げるとほら、あんたが書いた『星を見ること』みたいなのが暗いところに輝いとる。確か、小説の中では死にたがりの男の子は星を見て、難病で死んだ女の子との綺麗な記憶を思い出して、泣いて、生きようって思うんでしたね。でもね、あんたが死んだ今となっては輝いとる星なんて、わたしには一個もないようにみえる。あんたがおらんのに、なんで星の輝きなんかに気がつけるのよ? あの男の子はやっぱり異常よ。星と一緒に砕いてやりたい。それかやっぱりわたしたちの間には、キスとセックスが足らんかったのかもしれん。
あんたが死んでも悲しいだけです。命の大切さなんてわかりません。やっぱりあんたの小説は気持ち悪い。書いたやつも評価したやつもみんなまるっと嫌いです。なのに、あんただけが死ぬなんて不公平です。あんたの小説を評価したやつは酷評したわたしと同じく、こうして星を見上げて、明日もお腹を空かせるというのに。
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