終章 帰郷

「ったくあんたは。人のことだけ無事に逃そうなんてそうは行きませんよ」

 閉じかけた瞼の裏に光を感じたと同時に、聞き慣れた声が降ってくる。握りしめた剣を支えに顔を上げようとすると、目前に人影が現れた。

「ロス……? まだ、鐘楼は」

 鳴っていない——そう言いかけたカエルムの耳に、清らかな鐘の音が届いた。

 鈴のように軽く、清水を思わせるほど澄んだシューザリーンの時計台の調べ。古来よりずれも止まりもせず、唯一この一瞬にしかない時を民へ伝えるシレアの宝。シレア国内ならば場所を問わず、この音は届く。それが地下深くであろうと。

 清澄なは体の髄まで沁み入り、全身を癒していくようだ。それが三回。訪れた時をしらせ終え、響きが止まる。

「随分と……せっかちだな」

「誤差の範囲です」

 時報の前に来た理由をあっさり片付け、ロスは膝を折る。

「臣下助けて危険人物倒して夭逝した次期為政者とか、大臣じーさんが感涙して銅像造りかねないからやめてくださいよ」

「それは……私も、御免だな」

 俯き加減のまま、カエルムは微笑する。そして差し出された手を取ろうとし、そのまま意識を失った。



 * 



 涼やかな微風が窓の日除けをはためかせる。顔を向けると布の間から濃い青空が見えた。シレアらしい清秋の日だ。

 訓練場から剣の音と威勢のいい掛け声が届き、応えるように城の塔から鳩が飛翔した。しかしどれもが遠くに聞こえ、それが部屋の静けさを強調する。カエルムは本に挟んだ指を抜いて頁を開きかけ、ふと廊下から高い声がするのに気づく。

「だってお母様、とれたての林檎よ。新鮮なうちにお兄様に差し上げないと!」

「気持ちも分かるけれどねアウロラ。カエルムは寝ているかもしれないし、食事ももうすぐなのだから後にしてあげなさいな」

 納得しきっていない妹と宥める母の声が遠のいていく。元気だな、とおのずから口元がほころんだ。王城はいつも通り和やかだ。

 本を枕元に置き、カエルムは脇の台に重ねてあった書類を数枚手に取った。目を通していると今度は遠慮なく戸が叩かれる。

「静養中の人間は真面目に静養したらどうです」

「おかげで読書が捗るよ」

 文字を追いながら言われ、ロスは寝台まで近づき書類を取り上げた。

「完治せずに王都に戻るから長引いてるんでしょうが」

 あの日、ロスに続いてすぐ役人が屋敷へ到着し、カエルムには直ちに応急処置が施された。そのおかげで意識が戻ると、現場をプラエフェット卿に任せ、報告とさらなる事件を防ぐため二人は王都へ急行したのだった。毒の濃度が高かったカエルムの体は、その後数日、療養を余儀なくされている。

「それについては私も毒を甘く見るなと叱られた。反省している」

 誰から叱られたのか知らないが、笑い混じりに答えるあたり本当に反省しているのか疑わしい。ロスは主人を睨んだ。

「服毒した従者を退避させて本人は捨て身とは。まずは自分の身を守って下さい」

「次から耐毒薬ではなく解毒剤を持ち歩くか」

「殿下」

 声音に本気の怒りが表れる。カエルムは書類から目を離し素直に謝った。そうされてはロスも小言を続けられず、傍の椅子に雑に腰掛け話を変える。

「しかし今回、鋼については謎が残りますね」

「ああ。不法薬物製造の罪状は出たが、武具の鋳造も無しではな」

 捕えた一団は鋼の収集に関し、罪に当たる明確な目的も誰かの指示があったとも述べていない。上質な鋼による利が狙いとされては、せいぜい偽名売買の罪で終わる。

「シレアを強国にというのも、思想があっただけで実行動を伴わなければ罰するのは不可能だ。裏がある可能性は高いが」

「陰で隣国テハイザの指示か、それとは別に?」

「それはまだ何とも言えない。ただ確かなのは、母上の執政を国中に納得させる必要があるということか」

 次の治世はカエルムと妹王女の共同統治になる。女性が上に立つことが本件を導く一因だったとすれば、妹が即位した際に似たことが起こらないとも限らない。現在、王妃がカエルムを表に出さず玉座にいるのは、将来のアウロラの地位を安定させるためもあるのだ。

 父が、そして母が身を捧げて実現しようとしている未来だ。二人の共同統治が始まる時には、隣国との緊張状態は解消していたい。諍いは害こそあれ利は皆無だ。

「何にせよ、どこかの時点でテハイザには友好交渉に赴くつもりだ」

 恐らく予想しえない危険もあろう。しかし自分は王族だ。命を賭してもシレアを守るという誓いが、この胸にある。

 カエルムの蘇芳の双眸が強く光り、壁際に立てかけた剣を見つめた。

「残念ながら、そう簡単にいくとは思わないが」

 もし一人なら不可能だろう。だが——

 数秒の沈黙が流れる。

 しかしそれは、苦笑混じりの言葉で破られた。

「分かってますよ」

 民を想い、国を想った時、どんな危険があってもこのあるじを止められる者はいないだろう。逐一溜息もつきたくなるが。

 そういう主人だからこそ、ついていくと決めたのだ。

「どうせまた無茶するんでしょう。どこまででも、お供しますよ」

 カエルムの目が意表を突かれたように見開く。しかしすぐ、嘘の無い柔らかな笑みが浮かんだ。

「それは、他の何よりも心強いな」


 王子王女の新政はまだ遠く、真の平穏はいつ訪れるのか。

 だが何があろうと、今日のような穏やかな日が続くように。


 どちらからともなく、窓の外に悠然と立つ時計台を見やる。

 秋の澄んだ空気の中、美しい鐘のが響き渡った。



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双璧の誓盟 佐倉奈津(蜜柑桜) @Mican-Sakura

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